東日本大震災の記憶④

そこからまた記憶はほぼない。旦那は唯一の交通手段だった、県内から出ている高速バスで仙台に行ったが、私は赤ちゃんである長男のことを考えて被災地入りは見送った。

その後何度も余震がきて震えたり、津波注意報が出て私は過呼吸を起こした。
不安定な私を心配して、母が毎日一緒の部屋で寝てくれ、慰めてくれた。

「来ない方がいい。」「酷い状況だ」ずっと旦那にそう言われ、私は宮城入りを反対されていた。

そして4月頭。震災から1ヶ月が経とうかというその日、私は父母に連れられ、高速道路と下道を使ってなんとか宮城県に入った。長男生後3ヶ月。車内では全く泣かず、私たちを困らせず、6時間ただじっとチャイルドシートに座っていた。

そこで待っていたのは、旦那と義父、そして家をなくしたたくさんの親戚たちだった。着いた途端、泣き出す父。「なんと言葉をかけていいか…」それを聞いて泣き出す、義父。後にも先にも義父の涙を見たのはこのときだけだ。

その地域は復旧が早かったそうで、ライフラインは確保されていた。当時はまだスーパーも開いておらず、食料は備蓄品のみ。そんな状態で私と子供まで受け入れてもらったことには感謝している。

旦那の会社が気を利かせてくれ、そのまま宮城の営業所に転勤になった。栃木の荷物は、全て倉庫に運び込まれた。なんと宇都宮のアパートは1泊しかしていない。あんなに通ってたくさん悩んで決めた、お気に入りの新築アパート。住みたかった。

度重なる引越しと今回の交通費により、私たちの貯金はどんどん減っていく。

義母や義姪、義祖母から遅れること1ヶ月。やっと義姉の遺体があがったが、時間が経っているため確認がとれず難航していた。DNA検査をお願いしている最中のある日の昼間。
毎日遺体安置所の遺体に会いに行っていた義父が、帰ってきて呆然と言った。
「A子、骨になってた」
え?
どういうこと?

「DNA鑑定中は身元不明者だから。市の管轄だから、市の判断で勝手に火葬されて今朝行ったら骨になってた。」
そんなことがあるのか。ガーンと頭を殴られたようなショックだった。そりゃあ、何千体もある遺体をどんどん火葬しないといけない。火葬場はもうてんやわんやで、外で焼かれた遺体もあったそうだ。その間もどんどん遺体は腐っていくのだから、順番がどうとか言ってられないのだ。

頭ではわかっていても、一言連絡がほしかった。遺族からしたら、ただそれだけだった。

数日後、突然子供を預けて付いてこいと義父に言われる。The昭和のお父さんな義父。いつも多くは語らない。
どこに行くかもわからず、車に乗り込んだ。沿岸部に車が進む。

車がひっくり返り、壁に刺さっている。電柱は倒れ、だいぶ内陸の方まで船が乗り上げていた。こんなところまで船がある。
突然視界が開ける。建物がなにもない。大量の瓦礫しかない。1ヶ月たっても、きっとそこら中にまだ遺体がある。
「な、なにもない…」泣き出した私を見て義父が、「泣くな」「泣きにきたんじゃねぇ」と言った。

家があった場所はもう基礎を残して何も無かった。
手を合わせて、次に連れていかれたのは遺体安置所だった。

遺体安置所は入るとツンとするような、独特なにおいがする。このにおいを私は一生、忘れないだろう。鼻にこびり付いて離れない。

黒板に被災者の名前が書かれていたような気がする。入って正面に、ご遺体が数体あった。そこは元ボウリング場で、ボウリング場に棺があるのは異様な雰囲気だった。ボウリングのレーンにちょうど跨るように、大人の棺がぴったりとはまるのだ。知らなくてもいい事実だったよなぁと今でも思う。

入って左手には、同じように身元がわからずもうお骨になった人々がずらっと何列にもなって置かれていた。何十体も。
お義姉ちゃん。左端の真ん中程に、お義姉ちゃんのお骨があった。花を手向け、手を合わせた。
「遺品をみてくれないか」そう言われ、遺品を確認した。身につけていた服。「これ、お義姉ちゃんが前に着てたやつ…」「そうか。俺は全然服なんか見てなくて、すぐに気づいてやれなかったよ。」

涙が溢れるのを必死に抑えた。義父はどんな思いで、毎日遺体安置所に通っていたのだろうか。自分の妻と娘と孫と、義母の遺体に会いに行き、何を語っていたのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?