東日本大震災の記憶③

3/21
宇都宮から東京の新幹線に乗るために、朝イチで駅に向かっていた。なんとか宮城に入るルートを確保したかった。
高速道路は分断されている。通常の道路も通れるか分からない、赤ちゃんを連れては危険。宮城に行く前に、東北の別県にある私の実家に身を寄せることにした。

その宇都宮駅に向かう車の中だった。
旦那の電話が鳴った。義父からだった。
「あがっていた遺体が、お義母さんだった。」旦那の実家は自営業を営んでおり、ポケットに入っていた印鑑と、顔のシミの場所から身元が判明した。変わり果てた姿で、顔を見ただけではわからなかったそうだ。
すぐ近くに5歳の義姪の遺体もあった。とても綺麗で、寝ているようだったと。同じ場所で見つかったそうだ。

宇都宮駅から東京駅に向かう新幹線は、事情を察してか広いソファー付きの授乳室を貸してくれた。何ヶ所かあるうちの1ヶ所で、人が来なければずっといていいですよと。優しい心遣いに泣きそうになった。

新幹線を降りて、在来線に乗り換え、大荷物と赤ちゃんを連れて満員電車に乗る。羽田から何とか取れた小さな飛行機に乗る。

飛行機で長男はお利口さんにしていたが、ラスト5分のところで泣き出してしまった。オムツだ。
でも狭い飛行機で、オムツ替えスペースもない。
ギャン泣きする声が機内に響き渡るも、他の乗客は嫌な顔ひとつせずにいてくれた。隣の男性も、一緒に話しかけてあやしてくれた。あのときあやしてくれた方、ありがとう。本当に救われました。

地元の空港に着き、なんとそこで偶然知り合い夫婦と会ってしまう。
震災のことを聞かれ言葉に詰まる。夫妻がその場で泣き出してしまい、大変な空気になる。

私たちはもう泣き尽して涙も出なかった。遺体があがっただけまだマシだね、と言い合えたくらいだった。

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