東日本大震災の記憶⑤義父

当時家にいたのは義父、義母、義姉、5歳の義姪、要介護の義祖母、飼っていた犬、そしてお隣の夫婦が津波が来るからと二階建ての家に避難してきていた。

渋滞と義祖母の車椅子移動を考慮して、避難は諦めたそうだ。二階にいれば大丈夫だろう。一階はダメかもしれないな。そう思ったとあとで聞いた。


同じ家にいて、義父はどれ様子を見ようとベランダに出た瞬間に津波に襲われ、ベランダと家が切り離された。家は瞬く間に津波に飲まれ、もう無事では済まないことがひとめでわかったそうだ。

義父はベランダだけが浮いて、そこに掴まり、津波の中を流されながら一晩を胸から下は水の中で過ごした。作業着の胸ポケットに入れていた携帯電話、財布、運転免許証などが無事だったのはせめてもの救いだ。

流されている間、物は容赦なくぶつかってくる。1番怖かったのはプロパンガスのタンクだと言っていた。渦に飲まれながら、あちらこちらで、タンクから火の手が上がるのがみえる。そのタンクが何度も自分の隣を横切っていく。

目の前で同じ町内の人が流されていく。なにもできずにただ流されたまま、一晩。


明るくなり、自衛隊に助けられ、近くの学校を回って歩いた。誰か、1人でも無事でいてほしい。そう、祈りながら。

辿り着いた学校で、避難していた1年生の義姪(孫)と再会し、そこからなんと2人で徒歩で内陸の叔母の家に来たそうだ。叔母の家に着いたときは、ボロボロになった作業着の下に、学校にあったのだろう、サンタクロースの赤いズボンを履いていた。

義姪も、1年生で目の前でたくさんの人が流されていくのを見ている。その傷は計り知れない。
国からやその他団体による、被災した子供に対する手当はかなり厚かった。

嫌な話になるが、遺産は亡くなると子供に渡る。子供が亡くなればさらにその子供(孫)。義母が残したとてつもない額の貯金は、長女である義姉が亡くなったため全て義姪に渡された。夫である義父や長男である旦那にはこなかった。

あの頃1年生だった義姪ももう高校を卒業したが、心の傷のせいなのかすっかりグレてしまい、今や手当と貯金だけで大学も行かず仕事もせずに暮らしている。

旦那の実家は当時建て替えてまだ数年。ローンも残っていた。地震保険に入ってはいたが、津波は対象外だったため保険は下りなかった。残ったのはローンのみ。それでも義父は残債をすぐに完済し、自営業のため家を買ったのだった。

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