東日本大震災の記憶⑥

私は育児の合間を縫って、親戚と共に何度も遺品探しに出かけた。小学校の体育館に、大量の遺品が置かれていた。写真やアルバム、バッグ、ランドセル。1度流され海水に浸かった遺品たちと汚れた体育館は、津波の物凄さを物語っていた。全てが泥まみれだ。つまむようにして1つずつ確認していく。

何度も通ってようやく、おばあちゃんのバッグと、アルバム類、旦那の少年野球の写真などを見つけた。
小学校の時計は、あの日の14:46で時を止めたままだ。

母と祖母と妹と曾祖母を一気に失った義姪は、「お母さんのところに行きたい」「妹ばっかりお母さんと一緒でずるい。」と言うようになった。
最初の頃は言えなかったのだろう。徐々に話すようになった。震災当初は1年生だ。無理もない。

その後、義姪には家族を4人失った少女としてテレビなどの取材が幾度か来ていた。
なるべく明るく気丈に過ごす私たちに「もっと可哀想なところを撮らせてください。子供が夜泣いているところとか!」「夜寝室に入れてください!」と言い放った某テレビ局。絶対忘れない。もちろん追い払った。


4月の末頃、やっと全員の遺体が揃ったので葬式が執り行われた。私は長男をおんぶし、途中で泣き出したためほとんどを外で過ごした。

お葬式の日、横浜から来たという義母の弟さんとその奥さんを紹介され挨拶をした。なんだか感じが悪かったのを覚えている。

その数日後、その嫌な感じの答えは出ることになる。
義母の出身は横浜。義母の名義でそちらに土地が残っており、相続は長男である旦那になっていた。
横浜駅前の一等地だったそうだ。
端的に言うとその土地は、宮城にいる私たちには利用できないからいらないよね?弟夫婦に譲ってくれということだった。売れば何千万にもなる。
今考えたらありえないのだが、判子ひとつ押してくれればいいから。と呼び出された。

若いから舐められていたのだろう。人の家の敷地内でぷかぷかタバコを吸う奥さんの態度が忘れられない。

しかし当時、私たち夫婦は色々な手続き等で憔悴しきっておりそこまで頭が回らなかった。ただ疲れていた。
たくさんの年寄りに囲まれて有無を言わさずの空気にのまれた。判子を押してしまい、横浜の土地は譲り受けられた。


家のことは義母に任せっきりだった義父。どこにどれだけ預貯金があるのかなど全く把握しておらず、見つかった遺品の中からカード類1式を手渡され、手続き関係は全て私に一任された。津波にのまれて泥だらけのカード類。

そこからは毎日調べながら、銀行や保険会社、カードを持っていたお店に電話をかける日々。
その度に、「震災で亡くなりまして」と説明する。相手が県内の場合、相手側もまた被災者のため重苦しい空気が流れていた。

義母と義姉の携帯電話の解約もした。
解約したのに、私たちはその電話番号をまだ消せないでいる。現在も。


あの日、みんなで逃げてくれれば。逃げて!と連絡していれば。後悔しない日はない。

祈っても祈っても、ずっとなにかが足りない。

ここまでが、震災からの私の記憶がある部分の記録です。毎年震災の日を迎える度に、複雑な気分がどうしても抜けない。一度覚えている部分を全て整理しようと思い書き記しました。



最後に、読んで下さった方へお願いがあります。被災した人々は、いまだに心に大きな傷を負っています。東北の人に対し「震災とか大丈夫だった?」「どうだった?」と軽々しく聞くのはやめてあげてほしいです。
最近は初対面で聞く人は減りましたが、聞かれると言葉につまります。何も考えないで聞いているのかもしれないけど、「うちは家が流されて4人死にました」って言われたら答えられますか?

旦那は、聞かれる度に「うちは大丈夫でしたよ」と嘘をついていました。相手に悲しい思いをさせてしまうから。「あーよかったですね!」それで会話を終わらせられるから。その度に胸が痛みました。

ほとんどの人が大丈夫じゃないのだから。被災地域の人たち同士では絶対にお互い当時のことは聞きません。うちみたいに4人亡くなったのは多い方だと思うけれど、大なり小なり絶対みんな傷を負っているのがわかっているから。暗黙の了解なんです。
聞いてくるのはいつも被害がなかった地域の人。体験していないから、想像し難いのはわかる。でも配慮して頂けるとありがたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?