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小説 名娼明月

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粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

粟盛北光著 「小説 名娼明月」 自序

 博多を中心としたる筑前一帯ほど、趣味多き歴史的伝説的物語の多いところはない。曰く箱崎文庫、曰く石童丸(いしどうまる)、曰く米一丸(よねいちまる)、曰く何、曰く何と、数え上げたらいくらでもある。
 しかし、およそ女郎明月の物語くらい色彩に富み変化に裕(ゆた)かに、かつ優艶なる物語は、おそらく他にあるまい。
 その備中の武家に生まれて博多柳町の女郎に終わるまでの波瀾曲折ある二十余年の生涯は、実に勇気

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「小説 名娼明月」 第1話:不思議の蓮の花

「小説 名娼明月」 第1話:不思議の蓮の花

 むかし、博多柳町薩摩屋に、明月という女郎があった。
 この女郎、一旦世を諸行無常と悟るや、萬行寺に足繁く詣で、時の住職正海師に就き、浄土真宗弥陀本願の尊き教えを聞き、歓喜感謝の念、小さき胸に湧き溢れ、師恩に報ずる微意として、自分がかねて最も秘蔵愛護し、夢寐の間も忘れ得ざりし仏縁深き錦の帯を正海師に送った。
 そうして、廓(くるわ)の勤めの暇の朝な朝な萬行寺に参詣するのを唯一の慰めとし、もし未明の

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「小説 名娼明月」 第12話:長蛇を逸す

「小説 名娼明月」 第12話:長蛇を逸す

 斃れし敵を心地良しと眺め、

 「三郎! 刺留(とど)めよ!」

 と言い捨てて、金吾はすぐに監物の家に駆け込んだが、家のうちは真っ暗がりで、どこへ行ってよいか、ちっとも見当がつかぬ。監物の家来才之進がどこかに潜んでいるはずと、火気残る火鉢で付け木に点(つ)け、手燭に移し、いざ家捜しをと突っ立つところに、敵の生首を提(ひっさ)げて三郎は入ってきた。手燭の光に照らしてみて驚いた。目差す監物の首では

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「小説 名娼明月」 第13話:鍛えし腕と腕

「小説 名娼明月」 第13話:鍛えし腕と腕

 監物は才之進が金吾のために門前で殺されたとは露知らず、裏より遁れ出で、羽崎村の浜伝いに西河内を過ぎた。そうして窪屋家の門前を通りながら思った。
 ここに我が恋うるお秋が眠っている。みすみす金吾に取られねばならぬ美しいお秋が寝ているのである。そうして我をして今の落人の身とせしも、元を正せばお秋からのことである。しかも半年以来睨(ねら)いし金吾は、みごと討ち漏らしてしまった。憎っくき彼なお生きてこの

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「小説 名娼明月」 第14話:母子の心痛

「小説 名娼明月」 第14話:母子の心痛

 かくては、この近所にて船便求めんも危ない。今少し急ぎて備後路に赴き、尾道辺から船に乗ろうと、急場より遁(のが)れし監物は、怯えし心のなおさらに急いで、その日のうちに備後国深津郡八風呂(びんごのくにふかつのこおりやつぶろ)の駅(しゅく)まで来た。
 草臥(くたびれ)に思いのほか寝過ごし、翌朝十時ごろ立ち出で、正午過ぐるころ津野口の駅(しゅく)に着いた。

 「もう大丈夫。ここまで追ってくる気遣いは

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「小説 名娼明月」 第15話:仇討の首途(かどで)

「小説 名娼明月」 第15話:仇討の首途(かどで)

 阿津満は金吾の寝室(ねま)に通り、金吾が病を押して起き上がらんとするを無理に留めて枕辺に坐り、金吾が無念そうに語る一昨夜来の一伍一什(いちぶしじゅう)を聞いて、懇(ねんご)ろに金吾を慰め、夫一秋の残書(のこしがき)を渡した。金吾は寝ながら押しいただいて封を切れば、

 「吾れ今鈴木孫市氏に伴われて大阪石山に向かう。死を期して出でたからには再会も覚束なかろう。さすれば、伏岡窪屋両家において男たらん

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「小説 名娼明月」 第16話:石山城の激戦

「小説 名娼明月」 第16話:石山城の激戦

 窪屋与二郎一秋は、鈴木孫市とともに、備中神辺川より船出して、五日目に、摂津の国に着し、その日の黄昏に乗じて、ひそかに石山に入城すると、すぐに顕如上人の膝下(しっか)近く両人は呼ばれた。
 上人はまず、孫市の労を謝し、窪屋一秋の入城を非常に喜び、かつ、この石山の雑兵が伊勢越前の急に赴いて、大将たるべき人の尠(すくな)くなりしに乗じ、織田信長が精鋭三千を勝(すぐ)って滝川左近将監に授け、来春大阪へ攻

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「小説 名娼明月」 第17話:毛利軍の応援

「小説 名娼明月」 第17話:毛利軍の応援

 ここにおいて、織田信長の方では、戦略を一変してしまった。すなわち、この上に石山城を攻めても、いたずらに味方の兵力を損するばかりであるから、これから大阪の要所要所に堅牢なる砦を築いて、食料運送の途(みち)を杜絶し、蟻の這い出る隙もないように取り囲んで、石山勢の餓死するのを眺めようというのである。
 矢石(しせき)雨と降る中を、面白しと戦いし石山勢も、この兵糧攻めには、はたと困じて手の出るところを知

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「小説 名娼明月」 第19話:お秋の旅立

「小説 名娼明月」 第19話:お秋の旅立

 熟考すること、やや暫くにして、窪屋一秋は郷里に残し置いたる娘お秋のことを思うて、

 「そうだ! わが娘こそ、川口の難役に当たる適任者であろう!」

 と気づいて手を拍(う)った。
 そうして、すぐにこのことを七里三河守に諮(はか)り、お秋のことの一通りを説明すると、三河守も大喜びである。

 「急がずば石山城兵は飢えるであろう。迎いの者を誰彼と選ばんよりは、貴殿ご自身に、ご苦労を願われますまい

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「小説 名娼明月」 第20話:道中の危難

「小説 名娼明月」 第20話:道中の危難

  下僕要助に勧められて、お秋は月光を浴びながら、庭瀬の宿を出て白石に向かった。この街路は庭瀬より平野を過ぎ、備中の国境を踰(こ)え、半里余りの小松山を踏み越して、備前の白石に到り、それより北長瀬、大鳥居等の諸駅を経て、岡山の城下に達するという、中国随一の往還であるから、昼の間こそ旅客の行き交う者が絶えないけれども、時は群雄割拠の戦国時代である。英雄とか豪傑とかが、互いに領地の奪い合いをした時であ

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「小説 名娼明月」 第21話:怪しき漁家

「小説 名娼明月」 第21話:怪しき漁家

 「家来の身として主人を恋いする不届者め!」

 と、怪しの武士は、要助を刀の下げ緒で縛り上げて、お秋の方に向き直り、

 「女性の身もて、この深夜にどこまで行かれまする? かく申すそれがしは、芸州毛利家の臣。主君の急用を承って、摂津の国まで罷り越す者。さしつかえなくば、これよりご同道いたしまするでござりましょう」

 との優しき言葉に、いままで山賊なりと思い込みおりしお秋は、かつ驚き、かつ安心を

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「小説 名娼明月」 第22話:悪漢の計略

「小説 名娼明月」 第22話:悪漢の計略

 その武士の言葉のままに従い、晩景から船出することに心を極(き)めて休んでいると、お秋は自然と眠気を催してきた。それと見て、武士はまず、自ら肱(ひじ)を曲げて横になって見せ、

 「御身も、しばし微睡(まどろ)みたまえ」

 と勧め、かつ、女房から枕まで借りてくれた。やがてお秋は、旅の疲れに、前後も知らず眠ってしまった。
 まもなく、枕元に聞こゆる足音に、お秋が驚いて目醒むれば、曩(さき)の武士が

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「小説 名娼明月」 第23話:逃走の夜

「小説 名娼明月」 第23話:逃走の夜

 水汲み来たりし女房は、眉顰(ひそ)めたる顔容(かおつき)を見て、もしや、こちらの計略(たくらみ)を悟られたのではないかと思ってハッとしたが、またすぐと何気なき体を装い、

 「お顔色悪きは、ご気分にても勝(すぐ)れたまわぬか?」

 と訊いた。
 お秋は、これを好き機会と思ったから、いっそう眉を顰めて、悩ましげなる顔容(かおつき)を作り、

 「妾(わたし)には脳の持病ありて、一度起これば十日、

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「小説 名娼明月」 第24話:海浜の活劇

「小説 名娼明月」 第24話:海浜の活劇

 今は藤太も眠った。女房も眠った。お秋は独り縁端に出で、仏の加護、なおわが身の上にありけりと喜び、ひそかに蚊帳の外より藤太夫婦の寝息を窺(うかが)ってみると、正体もなく眠り込んでいる様子。

 「いよいよ時が来た!」

 と、お秋は心を決して帯を引締め、昼間よりひそかに用意していた物など、残り無く身につけ、足の音偲んで縁先より脱(ぬ)け出で、衣褄(こづま)掲(から)げて、ことさらに木下闇を辿(たど

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