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「小説 名娼明月」 第22話:悪漢の計略

 その武士の言葉のままに従い、晩景から船出することに心を極(き)めて休んでいると、お秋は自然と眠気を催してきた。それと見て、武士はまず、自ら肱(ひじ)を曲げて横になって見せ、

 「御身も、しばし微睡(まどろ)みたまえ」

 と勧め、かつ、女房から枕まで借りてくれた。やがてお秋は、旅の疲れに、前後も知らず眠ってしまった。
 まもなく、枕元に聞こゆる足音に、お秋が驚いて目醒むれば、曩(さき)の武士が、自分の室(しつ)を偸足(ぬすみあし)して出ていくのであった。しかも、お秋の寝姿を振返っては、音を偸んでゆくのであるから、お秋はすぐに「これは?」と胸を轟かした。
 まもなく勝手元の方から人の話し声が聞こえてくる。耳を澄ませば、まさしく、曩(さき)の武士と、この家(うち)の主人との話である。

 「うまく彼女(あいつ)を騙して、一日だけ足を留めることにした。どうだ、俺の手際は巧いものだろう?!」

 と語るは武士の声。

 「神崎牛窓に送っても悪いことはないが、小串の方がよかろうと思って、今、乾児(こぶん)の奴(やつ)を遣(や)っている」

 と答うるは主人の声。
 
 「さては、かの武士、毛利家の家臣と云いしは詐(いつわ)りにて、実は、当家の主人と共謀(たく)んで、自分を誘拐(かどわか)す悪漢なりしか!」

 と、お秋は、気も転倒せんばかりに驚いたが、もはや敵の重囲(ちょうい)に陥りしも同然の身。逃ぐるに逃げられぬ。どうかして逃れ出づる隙はないものかと、お秋は、やおら身を起こして、四辺(あたり)を見廻した。
 毛利家の臣と云いし男は、実は、庭瀬辺りにその名隠れなき、悪漢 ”管六” という博徒である。昨夜、お秋、要助の二人が、庭瀬の宿を出るのを閃(ちら)と認め、「こは良き餌なり!」と覗(ねら)いをつけ、何とか巧い口車に乗せてくれんものをと、見え隠れに跡を躡(つ)け、小松山の芝生で下僕要助が不義を仕掛けて、お秋の身のすでに危うからんとする間際になって身を現し、要助を投げ飛ばしてお秋に親切を着せ、さも誠しやかに武士を詐り、ここまで偽(あざむ)き来たったのである!
 この家(うち)の主人は「鰐口の藤太」という名で呼ばるる、海賊に等しい船頭の悪漢。管六(くだろく)とは、悪漢同志の、常に悪いことの数々を計り合う仲である。
 お秋はなお眠りを装って、さまざまに思い悩んだ。土地の買っても知らぬ女一人身の、且つは、どこへ行くにも渡しを渡らなければならぬ島である。

 「どうしたら逃(のが)れ出られるであろうか? いっそうのこと、病気を詐(いつわ)って、九日も十日も寝続けてみせて、油断させようか? 
 しかし、それでは父上の船を取り逃がしてしまうわけである。
 もしも、このまま父上に逢われぬことともなれば、なんとしょう? 父上の消息を国に病んで待ちたもう母上に何と申し訳をしようか?
 いや、それよりも、二度とこの身は故郷に帰られぬようにはなりはしまいか?」

 と想えば、気はなおさらに焦り立つ。

 「それかといって、早く逃げようとして捕らわれでもしたら、それこそ身はどこかに売り飛ばされ、わが身は破滅となるのである。このところは、無理に急ぐ場合ではない。焦る心を押さえつけて隙を窺(うかが)う。それが得策である」

 と、お秋は心を定め、今目醒めたばかりの顔を装って縁側に出れば、昨日西河内の家を出たときのことが思い出されて、病み疲れし母の姿が、まざまざと心に浮かんでくる。
 急に悲しくなって覚えず涙ぐんだところへ、主人藤太の女房が手桶に水を汲んで縁先に運んで来た。そうして親切らしく、

 「お顔にても洗いたまえ」

 と云う心根を、お秋は憎しと思って、眉を顰(ひそ)めた。

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