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「小説 名娼明月」 第24話:海浜の活劇

 今は藤太も眠った。女房も眠った。お秋は独り縁端に出で、仏の加護、なおわが身の上にありけりと喜び、ひそかに蚊帳の外より藤太夫婦の寝息を窺(うかが)ってみると、正体もなく眠り込んでいる様子。

 「いよいよ時が来た!」

 と、お秋は心を決して帯を引締め、昼間よりひそかに用意していた物など、残り無く身につけ、足の音偲んで縁先より脱(ぬ)け出で、衣褄(こづま)掲(から)げて、ことさらに木下闇を辿(たど)り、そよ吹く風の音にも胸轟かせながら、昼の間に見定めおいたる猪の鼻の岸まで来た。
 しかるに何事ぞ! 昼間に見えし数艘の小舟は一艘もないのである! せっかくここまで逃げ延びて来ておいて、仕損ぜねばならぬのか! 今に夫婦が目覚めて追ってきたら、どうなるであろう?
 と、お秋は焦(せ)き立つ気の狂い乱れんとして、その岸辺を右に左に駆け走り、捜してはみたれど、小舟は皆沖の漁に出てしまって影形も見えぬ。

 「ああ、かくまでに父を思い、仏を念ずる、わが真心は、まだ天に通ぜぬのか!」

 と、さすがに張り詰めし心の紐の一時に緩んで、倒るるがごとく、ぐったりと砂の上に坐れば、惚然(こつぜん)、お秋の耳を劈(つんざ)いて跫音(あしおと)が響いた。光にじっと微(すか)してみれば、紛(たが)う方なき、藤太に管六!

 「さては両人、我が逃げしを知りて、追っかけ来たりしよな!」

 と、お秋が起ち上がるところに、まず飛びかかってきたのは藤太である!
 お秋も今はこれまでである!
 今度両人の手に押えらるれば、自分の運命は、もう極(きま)る!
 
 「弱き女の身ながら、我も武士の娘である。死んでも彼らの手に落つるものか!」

 と、お秋は、この絶体絶命の場合となって、勇気却って百倍し、まず藤太を死物狂いに突き倒し、檻を出た猛獣の勢いで逃げ出したが、一面の砂原は、踏むごとに足首を沈めて、お秋はよちよちとなる。右に倒れ、前に躓(つまづ)きして、一町ほど走ったと思うころ、藤太の荒くれたる左手は、お秋の襟髪捉(と)って押えた。

 「ええッ! 残念!」

 と叫んで、引きずられながらお秋が引抜く懐剣、念力罩(こ)めて後ざまに突き刺せば、刃先は藤太の右脇腹三寸ばかりを、ぶっすり刳(えぐ)って、藤太はばたりと倒れた。
 その拍子に、お秋が躯(からだ)の平均を失い、よろよろと砂地に転び、仰向けざまに倒れると、このとき飛びかかったのが管六である。管六はお秋の懐剣を捻取(もぎと)り、両手を取って後にまげんとするを、いまぞ一生懸命のお秋は、烈火のごとき勢いにて振り払い、懐剣再び取り戻し、空を飛ぶように逃げ出したが、舟もなければ当てもない。ただ走るばかりである。
 籐太の家近いところまで駆けて来たころ、折から海上近く、ききと響くは不思議にも櫓の音である。
 
 「ああ! 天の助けか!?」

 と、お秋は覚えず波打際に走り出で、

 「助け船、助け船! 人殺し、人殺し!」

 と、喉を破るばかりに声振り絞れば、沖より岸をめがけて、船は矢のように漕いで来る!
 管六はと見返れば、もうすぐそばまで追っかけてきた!
 あっと見る間に飛びかかりし管六の姿、

 「この阿魔! 籐太を斬りおったな!」

 と呼んで、枯枝翳(かざ)し撃ちかかる凄まじき勢いに、ヒラッtとまた潜って逃げ出すお秋を、そうはさせじと管六は追いすがり、またも振り上げた枯枝を力に任せて打ち下ろさんとする一瞬時、船より投げし手裏剣は、ヒュウと飛んで管六が足に、はっしと立った。


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