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「小説 名娼明月」 第16話:石山城の激戦

 窪屋与二郎一秋は、鈴木孫市とともに、備中神辺川より船出して、五日目に、摂津の国に着し、その日の黄昏に乗じて、ひそかに石山に入城すると、すぐに顕如上人の膝下(しっか)近く両人は呼ばれた。
 上人はまず、孫市の労を謝し、窪屋一秋の入城を非常に喜び、かつ、この石山の雑兵が伊勢越前の急に赴いて、大将たるべき人の尠(すくな)くなりしに乗じ、織田信長が精鋭三千を勝(すぐ)って滝川左近将監に授け、来春大阪へ攻め寄せるにつき、軍師飛騨守がが非常に心痛していたこと、及び今一秋の入城によって、どれだけ飛騨守が喜ぶか判らぬということを述べ、それに附け加えて、側(かたわら)に控えたる勇将を一秋に紹介してくれた。
 これは七里三河守法橋順宗という筑前の勇士で、永禄以来数度の合戦に抜群の手柄を現した人である。この人は、博多萬行寺の開基から第五代目の住職である。明徳の高い評判の人で、身長(みのたけ)六尺三寸に余り、仏教儒教を兼ね修め、智弁あり、かつ武略に達していた。
 一秋孫市の両人は、とにもかくにも、軍師飛騨守に対面して万事の評議をというので、七里三河守を同席して大江期しなる飛騨守の陣屋に赴き、更闌(こうたけ)るまで軍議を凝らして退いた。
 これより一秋は、雑賀(さいが)の陣所をもって自分の家と定め、配下五百人を率いる仏敵織田勢御参と待ち受けた。

 備中西河内の窪屋邸では、阿津満とお秋とが、夢安らかな日とてはない。明けては東方、大阪の空を眺めて一秋の無事を祈り、くれては西の方、九州の雲を望んで、金吾の息災を祈念するうちに、約束の半年も空しく過ぎ、頼りなき母娘の身に月日は矢のように流れた。
 かくて天正元年もついに暮れて、金吾が出発してからもう一年となって、天正二年の正月が来た。今日は、去年今月、金吾が出発せし当日である。早くて三月、遅くて半年を経てば立派に本望を遂げて帰ってくると言って、金吾が出て行ってからもう満一年となる。けれども、帰って来ぬばかりか、死んだとも生きたとも音信(たより)がない。敵監物は聞こえし手鍛錬(てだれ)と聞く。もしや、監物の返り討ちに逢って殺されたまいしにあらざるか? 但しは、結納交わせしこの身を嫌いて九州辺に仕えをを求められしにはあらざるか? と、さすがか弱き女の身のお秋は、朝からさまざまの事に思い悩んで、われとわが心を慰めかねた。

 案のごとく、織田勢は、精鋭の意気込み凄まじく石山本願寺を攻めたが、石山城兵は、それにも増してよく防ぎ戦うた。
 ことに窪屋一秋の働きぶりは、見上げたものであった。
 天王寺、木津、長柄、江口の合戦に、散々織田勢を破ってから、一秋の名は城内に響き渡って、今は七里三河守と肩を並べるまでになっていた。
 それにひきかえて織田勢は、幾十度戦ってみても、一度の勝利もない。ことに天王寺出陣の砌(みぎり)、織田信長は鈴木飛騨守の計略に陥り、火攻めに逢って万死の中に一生を拾い、命からがら若江堤まで逃げたところを、再び飛騨守に狙撃され太股(ふともも)を弾丸(たま)で射貫かれてからというものは、さすがの信長も、この上に石山を攻むる元気はなかった。

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