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「小説 名娼明月」 第13話:鍛えし腕と腕

 監物は才之進が金吾のために門前で殺されたとは露知らず、裏より遁れ出で、羽崎村の浜伝いに西河内を過ぎた。そうして窪屋家の門前を通りながら思った。
 ここに我が恋うるお秋が眠っている。みすみす金吾に取られねばならぬ美しいお秋が寝ているのである。そうして我をして今の落人の身とせしも、元を正せばお秋からのことである。しかも半年以来睨(ねら)いし金吾は、みごと討ち漏らしてしまった。憎っくき彼なお生きてこの世にあり、必ずお秋と添うて、いい夫婦じゃと謳われよう。
 そうして自分は如何? 一人淋しく九州三界までも落ちゆかねばならぬと、思えば腸(はらわた)が煮えくり返るように無念である。討ち漏らしたる金吾は今となっては仕様もないが、せめて今日の首途(かどで)に、お秋の細首が敲(たた)き切りたい!
 と、じっと外から一秋の家内(うち)を窺(のぞ)いてみたが、東雲(しののめ)の空は明くるに間もない。愚図ついているうちに金吾から追っかけられでもしては一大事と、監物は憾(うら)みを残して海辺を急ぎ、漁師の家(うち)を敲(たた)き起こした。

 「金はおまえの望みに任せるから、備後の鞆の津(とものつ)まで大急ぎで渡してくれ」

 と云えば、漁師は喜んですぐに合船の小手(かこ)を呼んできて、舟艤(ふなよそおい)にかかった。夜はようやく明け放たれた。
 監物の屋敷で若徒の三郎と別れし金吾は、ただ一人浜辺に沿うて西河内まで来た。監物がここらの漁師を雇うて備後に渡るであろうと推定したからである。金吾は海辺一帯をくまなく探し歩いた。
 ふと向こうをみると、はるか彼方に二三の人影の動くのが見える。不審に思って近づいてみれば、漁師二人と一人の武士(さむらい)である。もしやと胸騒ぎし、眸(ひとみ)を据えて見れば、武士(さむらい)は紛(まが)う方なき矢倉監物である!

 「おのれ監物! 推定違わずここで会ったは天の冥加! そこを動くな、親の敵(かたき)!」

 と呼んで、腰の物抜く手も見せず、電光のごとく飛びかかれば、監物は不意を襲われて胆を潰し、覚えずヒラッと飛び退いた。監物もさる者である。

 「汝を討ち漏らし行くは畢生(ひっせい)の憾み、ここまで追って来しは願ってもなき機会!」

 と刀の鞘を払って金吾に立て向かう。
 驚いたのは二人の漁夫(りょうし)。腰を抜かして逃げ去った。
 両士が切り結ぶ電光石火、かねて鍛えし腕と腕の負けず劣らず、水も漏らさぬとみる間に、さすがの監物、敵わずと見て取りしか、金吾の気合を計って逃げ出した。この機を外してはと、金吾は追う。逃ぐるも追うも一生懸命である。擦るか擦らずに駆けること十町余り、金吾の足後るると見る間に、監物の姿は木陰に隠れてしまった。
 監物の足、いかに早きとて、空翔(かけ)らんはずはなし。もし今少し後れたりとて、追い及ばでおくべきか! と、金吾が焦慮(あせ)れば焦慮るほと、足の運ばぬを不審と思いしも道理(ことわり)、笠岡の町外れまで駆けて来ると、にわかに眩暈(げんうん)を感じて、金吾は路端(みちばた)に倒れてしまった。
 折よく通りかかりし旅人が助け起こして、手近の宿屋に連れ込み手当を加えたが、金吾はなお脳重く、胸苦しくて頭が上がらぬ。
 監物はもう遠くへ逃げ延びたかと思えば、なおさら胸の痛みが増す。

 「ええッ! 残念!」

 と叫んで飛び出そうとすれば、よろよろと倒れる。頭が少し鎮まるを待って思えば、今朝は窪屋の舅(しゅうと)が大阪へ出陣されるのであった。自分も未明に西河内に行かんと約束しておいたものを、見送りもせぬ不届者と、さぞかしご立腹のことであろう。それのみならず、昨夜は前後を思うの暇もなく、家人へは何とも告げずに三郎と出ている。さだめて心配しているであろう。ことに自分はまだ亡父の忌みさえ果たさぬ身の上である。このまま数定めぬ旅へも出られぬ。監物を九州に逃がせしは、この上なき憾みながら、今から一旦帰宅し、窪屋の人々へもこの理(わけ)を語り、かつ忌明けまでに万事片付けて、それから出発して監物を追おうと、その夜はその宿に一泊して療養し、翌日輿(かご)に載って我が家へ帰った。

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