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「小説 名娼明月」 第14話:母子の心痛

 かくては、この近所にて船便求めんも危ない。今少し急ぎて備後路に赴き、尾道辺から船に乗ろうと、急場より遁(のが)れし監物は、怯えし心のなおさらに急いで、その日のうちに備後国深津郡八風呂(びんごのくにふかつのこおりやつぶろ)の駅(しゅく)まで来た。
 草臥(くたびれ)に思いのほか寝過ごし、翌朝十時ごろ立ち出で、正午過ぐるころ津野口の駅(しゅく)に着いた。

 「もう大丈夫。ここまで追ってくる気遣いはない」

 と安心ができれば、自然と道足も捗(はかど)らなくなる。
 今津の町を過ぎて高須へ向かう途中、ある小丘の麓に、小ざっぱりとした六七軒の休息所があった。いずれ尾道に一泊する身である。何で急ぐ必要があろうと、監物は出外れの店に腰掛けて酒を命じた。
 寒い道を歩いて来た空腹(すきばら)である。独酌の酒は腹(はらわた)の底まで滲(し)みわたって陶然となる。
 女に訊けば、これから尾道までわずか三里だという。三里ぐらいなら急ぐほどのことはない、といい加減に呑んで勘定を済ましたのが午後四時過ぎ。
 微酔(ほろよい)顔を冷たい夕風に撫ぶらして機嫌よく立ち出づると、さっきから一室にあって始終の様子を窺(うかが)いたる一人の男は、急ぎ払いを済まして、見え隠れに監物の跡を踉(つ)けて行った。
 何となく背後(うしろ)の方に当たって人の気配するを、疵(きず)持つ足の監物、びっくりして見返れば、こは意外にも、金吾の若徒三郎である!
 三郎がすぐさま、

 「監物待てッ!」

 と呼んで飛びかかってくるを、監物は右手に外して一刀引抜き横ざまに払えば、刃先は三郎の左股(ひだりもも)を三寸ばかり斬り下げる。
 斬られし痛手に覚えず後によろめくを踏み応えて、なおも一刀切り込む三郎の刃を軽く潜って、監物は一散に逃げ出した。
 おのれ逃さじ! と追いは追ったが、足の痛手に三郎は走りもならぬ。このまま逃して金吾様に何と申しわけができようやと、口惜(くや)し涙に暮れたが、監物の姿はもう見えぬ。

 一秋が出陣した後に心細くとり残されし阿津満とお秋の心痛は一通りではない。金吾の身の上に何か不詳なことが起こったのではないかと、母娘は、いても立ってもおられぬ。母娘、移り変わり門口に出てみるけれど、金吾らしい者の姿も見えぬ。火鉢を囲んで力なくうなだれていると、ややあって再び、金吾の家の下僕が、喘(あえ)ぎ喘ぎ走って来た。金吾が今病気で、笠岡から輿(かご)で帰って来たとの知らせである。
 二人は飛び立って喜んだ。これを聞いてやっと安心はしたものの、金吾の病気と聞いては、また心にかかる。ことには主人一秋の申し置き、および金吾への残し書きのこともあるから、今すぐに見舞かたがた訪ねてみようと、阿津満はお秋に留守居させて、使いの下僕を伴って出ていった。

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