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「小説 名娼明月」 第17話:毛利軍の応援

 ここにおいて、織田信長の方では、戦略を一変してしまった。すなわち、この上に石山城を攻めても、いたずらに味方の兵力を損するばかりであるから、これから大阪の要所要所に堅牢なる砦を築いて、食料運送の途(みち)を杜絶し、蟻の這い出る隙もないように取り囲んで、石山勢の餓死するのを眺めようというのである。
 矢石(しせき)雨と降る中を、面白しと戦いし石山勢も、この兵糧攻めには、はたと困じて手の出るところを知らなかった。

 「織田勢の重囲(かこみ)を衝いて落ち延ぶることは容易(たやす)きことながら、いままで我等が死力を尽くして頑守せし本願寺の霊地が、みすみす織田信長の物となるを、如何すべき? そればかりは断じてできぬ! さればとて、この上なお籠城せんには糧食が足らぬ。かくては、ついに落城するようなものである。どうしたらいいであろう?」

 と顕如上人は、諸将を召して策を講じた。種々の意見も出し中に、ともかくも、中国の毛利家へ急使を立てて援けを乞うが最良策であろうというに、評議が一決した。
 それでは、その使いは誰が適任者であろうとの問題が起こり、再び激議した結果、下間三位がこの使者の役に当たり、七里三河守と窪屋一秋とは、米穀運漕の監察として、これも同じく芸州へ向かうこととなった。
 時は天正四年六月五日:の暁天、朝霧深く立罩(たちこ)めたる中を、一秋三人は商人に身を窶(やす)し、石山城の城砦(とりで)より忍び出て、ひそかに泉州の岸和田に至り、屈強の船師(せんどう)四人を雇い、夜十時ごろの潮を待って解纜(かいらん)した。船師(せんどう)四人は、本願寺より毛利家への使者と聞いて、身に余る冥加と喜んだ。
 順風(おいて)は船を矢のように追うて海上六昼夜、船は早くも芸州の広島に着いた。
 三人は上陸すると、すぐに毛利輝元の本陣に赴き、まず顕如上人の御書を渡して城中の模様残らず陳述に及べば、輝元は席に居合わしたる吉川元春、小早川隆景に相談をして、快く兵糧運漕の事を承諾した。
 毛利家では、飯田越中守義宣に軍勢を授けて、すぐに大阪に籠らせ、それと同時に、木津城や花隈城や淡路の岩屋城に、名ある勇将を遣わして応援をした。
 また兵糧は、七百余艘船に積んで大阪に送ることとなったが、もし織田勢が、かくと聞いたら、途(みち)に要して兵糧を奪い取るであろうとの心配がある。しかしこれに対しては、毛利家から、さらに三百余艘の水軍を差し添えてやることとない、同じ月の二十七日、千艘余りの船は、舳艫(じくろ)相衒(ふく)んで広島の湊を出た。
 船は欵乃(ふなうた)勇ましく、七月四日ごろ播州室の津まで来たが、大阪川口のの織田勢の固めが厳重であると聞いて、船は迂闊(うかつ)には遣れぬこととなった。まず此港(ここ)へ船を留めておいて、物見の斥候を出してみた。斥候には一帯の地理に精(くわ)しい三人がなり、漁師に化けて探ってみたところが、さすがは織田勢だけあって、警戒実に厳重を極めている。すなわち木津川口には佐久間の手兵三百巨艦(おおふね)七隻、安治(あじ)川口には大安宅(おおあたか)の手兵五百船十一艘を連ね、なお洲口には鉄の鎖幾筋となく水面に引渡し、その他大小無数の軍艦(いくさぶね)真っ黒く江(こう)を掩(おお)うて、木の葉一枚も流さぬほどの厳重なる警戒である。

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