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「観光のための文化」から「文化のための観光」へ(2) 京都の「稚拙化」

▼アレックス・カー氏は『観光亡国論』で、日本の観光が「ゾンビ化」したり、「フランケンシュタイン化」したりしている、と指摘している。

「ゾンビ化」とは、「昔の様式をそのまま守っていくやり方」で、「フランケンシュタイン化」とは、たとえば観光名所の観光名所たる勘所(かんどころ)を見失ってしまい、お化けみたいな代物に変わり果ててしまうことを言う。

ということを前回、紹介した。

▼アレックス・カー氏は、この「フランケンシュタイン化」について、日本の実例を挙げて、「稚拙化」(dumbling down)という別の術語(ターム)を使って説明してくれている。

『観光亡国論』は、同氏の『犬と鬼』とあわせて、「日本の観光」について考える際の基本文献としてオススメしておく。

▼「稚拙化」の実例は、とりあえず2つあって、両方とも京都。

1つは二条城。もう1つは錦(にしき)市場だ。筆者は錦市場に複数回行ったことがあって、たしかにカー氏の指摘するとおり、見るも無残な変わりようである。

京都の街中では、見るからに安っぽい着物をレンタルして、だらしない着付けで歩く観光客が激増しており、プラプラと散歩するだけで、日本人がいかに着物を着なくなったか、そしていかに着物を大切にしなくなったかが、とてもよくわかる。

▼二条城と錦市場に触れる前に、稚拙化のわかりやすい目印として、いわゆる「ゆるキャラ」の使い方についても触れている。適宜改行。

〈「ゆるキャラ」は駅前や商店街、遊園地といった繁華街で出会えれば、にぎやかで楽しいし、効果もあると思います。

しかし歴史的寺院の山門や神聖な神社の鳥居の前、境内、美術品の横にまで「ゆるキャラ」を持ってくるとなれば、稚拙化に歯止めがきかなくなります。〉(147頁)

▼さて、京都の二条城は、昔の襖絵(ふすまえ)が劣化するから、複製を展示しているのだが、複製にして本物を守ること自体は必要だ。しかし、その複製が、外国人観光客に「ここは大きな土産物屋さんのようですね」(148頁)と言われてしまうような、本物とは似ても似つかぬ〈金色のラッピングペーパーのような質感〉(149頁)のチープさ満載の代物に成り果ててしまっている。

〈「ここは将軍と大名が謁見した格式高い場所である」という認識が管理者側にしっかり根付いていれば、このような複製のクオリティにはならなかったのではないでしょうか。〉〈観光には教育的な側面も含まれます。分からない人たちに合わせて稚拙化を行うのではなく、最高のものを親切な形で提供してこそ、文化のレベルアップは果たされるのです。〉(同頁)

おっしゃるとおりである。たしかに二条城の襖絵は、百聞は一見に如(し)かず、文化の「核心」を見失うと、こうなる、という格好の実例だ。本物の襖絵の特徴については、本文を参照してください。

▼もう一つの「稚拙化」現象は、はるかに深く京都市民の生活とリンクしている。町の一角そのものが稚拙化している深刻な例だ。

京都の錦市場は〈インバウンドの増加につれ、通りの雰囲気はガラリと変わってしまいました。かつての魚屋さんが、どこにでもあるような土産物屋やドラッグストア、食べ歩きスイーツや軽食の店に入れ替わったのです。観光客は食べ歩き用の串刺しとなった肉料理や魚料理、またはソフトクリームを片手に市場を練り歩きます。

このまま錦市場で売られるソフトクリームが定着したら、商店街はまるで「道の駅」になってしまいそうです。いえ、道の駅なら地元の名産を積極的に扱っているでしょうが、今の錦小路(にしきこうじ)には、その感覚すら薄れています。〉(150頁)

錦の今昔(こんじゃく)を知っている人は、現状について「目も当てられない惨状を呈している」という表現を使っても、言い過ぎとは感じないだろう。

そういう場所は、京都が象徴的だが、京都に限らず、日本全国津々浦々(つつうらうら)、思い当たる節(ふし)のある地域があると思う。

▼もう1500字を超えてしまったので、今号はここまで。次回は海外の稚拙化の例や、日本でも稚拙化を食い止めた例に触れる。(つづく)

(2019年7月14日)

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