田州へ帰ろう 王江涇の戦いは明軍の勝利に終わる。 この戦いは、局地戦を除けば、第二次倭寇での明朝による初めての勝利である。それまで常に劣勢だった明軍は、この…
櫓の上で 花蓮は敵兵をなぎ倒しながら駆ける。 櫓(やぐら)の上に武者が立っているのがみえた。 武者は扇を空にかざし、ひらひらと動かしている。 (えっ、杉庄?) …
秋茂橋の決戦 四月二十九日。 秋茂橋の南側に陣を敷く花蓮は、遥か三十年前のことを思い出している。 猛を帰順州へ逃がすため、右江にかかる橋のたもとに陣取り、迫…
懐かしく癖の強い文字 花蓮は秋茂橋にいる。 その目の前には、北方に遥かに続く水田が広がっている。 花蓮の意識はそのさらに向こうへ向けられている。 田植えを…
倭寇軍の戦術 川の北側には、上陸した敵を王江涇へと誘い込む任を負う胡宗憲がいる。 胡宗憲は策を好む。この日、胡宗憲がどう動いたかについては、このときから七年…
双渓橋 翌朝、花蓮は胡宗憲とともに嘉興城を出て東へ向かった。胡宗憲は保靖兵千人を率いている。 途中で胡宗憲の軍と分かれ、金山衛から北上してきた田州兵と合流し…
倭寇を止める策 嘉興に着くとすぐに軍議が開かれた。 敵に関する情報が続々と届いており、兵数は柘林(しゃりん)から出た徐海の兵八千に周辺から兵が加わり、一万を超…
徐海西進 花蓮は白泫軍の将兵を金山衛まで護送したあと、すぐには衛にはいらず、そのまま騎馬隊を率いて周囲の哨戒をおこなった。 衛の周りを一周したが敵の姿はなか…
総兵官救出 そのままどのくらい考え続けただろうか。 「花蓮さま」 と呼び掛ける女の声があった。 まぶたを開くと、莫蘭(ばくらん)が戸口で片膝をついていた。 「物…
雨の恵みを受けた田畑を想う その四月二十一日の午前中、花蓮は営舎の窓枠に肘をつき、昨夜から降り続く雨をみつめながら暗うつに沈んでいた。 岑匡、鐘富(しょうふ)…
王江涇の戦い天差平海大将軍 柘林(しゃりん)にいる倭寇軍の首領は徐海(じょかい)である。 三年前に浙江巡視王忬(おうよ)が王直の本拠瀝港(れきこう)を攻めたとき、徐…
罠かもしれない 倭寇の多くは、嘉靖三十四(一五五五)年の正月を日本の五島列島や平戸などで越し、春の訪れとともに海を渡ってきた。 上陸地点は、杭州湾岸の柘林(しゃ…
海神を祀る この時代の最悪の奸臣といえば内閣首輔(しゅほ)(首相に相当)の厳嵩(げんすう)だが、厳嵩に巧みに取り入り出世し、工部(こうぶ)尚書(しょうしょ)(建設大臣…
騎馬対鉄砲 四月八日。 金山衛に向かって兵糧を運搬していた輜重(しちょう)隊が倭寇に襲撃された。輜重隊の兵百人が犠牲となり、兵糧は全て奪われた。輜重隊が倒した…
岑匡の諫言 金山衛に戻ってすぐに、岑匡が普陀山夜襲での全軍の戦闘状況をまとめ、花蓮に報告しにきた。 兪大猷の率いた海上攻撃隊は思いのほかに苦戦をしていた。 「…
転戦普陀山夜襲 金山衛は杭州湾北岸の中央に位置するまさに対倭寇の最前線で、経済都市蘇州や副首都南京の玄関口を守る極めて重要な衛所である。 田州軍四千のうちの…
大薗治夫
2022年1月29日 23:30
田州へ帰ろう 王江涇の戦いは明軍の勝利に終わる。 この戦いは、局地戦を除けば、第二次倭寇での明朝による初めての勝利である。それまで常に劣勢だった明軍は、この勝利を境に巻き返す。王江涇の戦いは、倭寇との長い戦いにおける分水嶺となる重要な一戦であった。 田州狼兵軍が加わるまでの明軍は、軍紀は弛緩し、怯懦で弱腰だった。髷を頭に載せ、日本刀を振りかざして奇声を上げる倭寇の姿をみれば、とても歯が立た
2022年1月28日 11:30
櫓の上で 花蓮は敵兵をなぎ倒しながら駆ける。 櫓(やぐら)の上に武者が立っているのがみえた。 武者は扇を空にかざし、ひらひらと動かしている。(えっ、杉庄?) この舞うような動きは杉沢庄次郎に違いない。 杉沢は舞い続ける。 敵兵が向かってこなくなった。騎馬隊の進路を空け、距離をとった。 花蓮は櫓の下に到達した。 櫓の下の花蓮たちを、敵兵が距離を空けて取り囲んだ。 反対側から敵陣
2022年1月27日 11:30
秋茂橋の決戦 四月二十九日。 秋茂橋の南側に陣を敷く花蓮は、遥か三十年前のことを思い出している。 猛を帰順州へ逃がすため、右江にかかる橋のたもとに陣取り、迫り来る張經率いる明朝軍に弓矢の嵐を浴びせ撃退した、あの日である。 布陣の確認のために陣内を巡ってきた阮袞(げんこん)が、決戦の直前とは思えぬような穏やかな表情の花蓮をみて「どうされました」と声を掛けた。「昔のことををちょっと思いだし
2022年1月26日 11:30
懐かしく癖の強い文字 花蓮は秋茂橋にいる。 その目の前には、北方に遥かに続く水田が広がっている。 花蓮の意識はそのさらに向こうへ向けられている。 田植えを待つ水田のなかを、倭寇の大軍がこちらに向かって進みつつあるはずだ。 南下する倭寇軍をこの場所で迎え撃つというのはもともとの想定どおりだが、想定と大きく異なるのは味方の兵数だ。 本来は嘉興駐留の約五千の兵がここにいるはずだった。しかし
2022年1月25日 06:30
倭寇軍の戦術 川の北側には、上陸した敵を王江涇へと誘い込む任を負う胡宗憲がいる。 胡宗憲は策を好む。この日、胡宗憲がどう動いたかについては、このときから七年後の嘉靖四十一(一五六二)年に記された『籌海図編(ちゅうかいずへん)』に詳しく書かれている。籌海図編の著者鄭若曽(ていじゃくそう)は胡宗憲の幕僚のひとりなので、胡宗憲の業績についての記述は多少割り引いて読む必要があるのだが、それによれば、
2022年1月24日 06:30
双渓橋 翌朝、花蓮は胡宗憲とともに嘉興城を出て東へ向かった。胡宗憲は保靖兵千人を率いている。 途中で胡宗憲の軍と分かれ、金山衛から北上してきた田州兵と合流し、双渓橋に布陣した。 嘉興城から東に流れる川は、双渓橋をくぐるといったん川幅を広げ、そのあとすぐに、南東へ流れる平湖塘(へいことう)と北東へ流れる嘉善塘(かぜんとう)の二本の河川に枝分かれする。いま平湖塘を船で遡りつつある敵軍は、嘉善
2022年1月23日 06:30
倭寇を止める策 嘉興に着くとすぐに軍議が開かれた。 敵に関する情報が続々と届いており、兵数は柘林(しゃりん)から出た徐海の兵八千に周辺から兵が加わり、一万を超えるに至っている。膨らんだ倭寇軍は西に進み続けているが、多数の船に分乗して、嘉善の南を大きく迂回する川を遡っていることから、嘉善は攻めずに通過すると思われた。そのまま川を遡れば嘉善の西方の嘉興に達するので、敵の目標は、経済都市の蘇州では
2022年1月22日 04:30
徐海西進 花蓮は白泫軍の将兵を金山衛まで護送したあと、すぐには衛にはいらず、そのまま騎馬隊を率いて周囲の哨戒をおこなった。 衛の周りを一周したが敵の姿はなかった。敵は追ってきてはいないようだ。 闇のなかを、城門に掲げられた松明の明かりを目印にして衛所に近づいていくと、城門の上で突如大歓声が沸いた。 馬を並べた阮袞(げんこん)が驚いた顔で言った。「われらを迎えているようです。われらが救っ
2022年1月21日 04:30
総兵官救出 そのままどのくらい考え続けただろうか。「花蓮さま」 と呼び掛ける女の声があった。 まぶたを開くと、莫蘭(ばくらん)が戸口で片膝をついていた。「物見台にいる雪嬌が海上に倭寇の船団を発見しました。倭寇軍が東方六里の地点に上陸しようとしています」「白泫将軍はいまどこに?」「北東五里の地点で葉明の軍と交戦中です」「それじゃあ敵船団の狙いは」「はい。白泫軍を背後から襲うことか
2022年1月20日 04:30
雨の恵みを受けた田畑を想う その四月二十一日の午前中、花蓮は営舎の窓枠に肘をつき、昨夜から降り続く雨をみつめながら暗うつに沈んでいた。 岑匡、鐘富(しょうふ)、黄維(こうい)ら股肱の臣を立て続けに失った。 輜重隊を襲撃した倭寇軍への攻撃では、岑匡は騎馬隊で敵の不意を衝いて突撃することを進言した。しかし花蓮はその進言を容れずに弓隊での攻撃を先行させた。その結果騎馬隊が敵鉄砲の餌食となり、岑匡
2022年1月19日 04:30
王江涇の戦い天差平海大将軍 柘林(しゃりん)にいる倭寇軍の首領は徐海(じょかい)である。 三年前に浙江巡視王忬(おうよ)が王直の本拠瀝港(れきこう)を攻めたとき、徐海はその直前に王直と仲違いして瀝港を出ていたので難を免れた。 そのとき、徐海は日本にいた。 徐海は、四年前に初めて南九州の大隅にいって以来、大隅、薩摩等との関係が深い。毎年冬を南九州で越し、南九州各地の藩主や豪族、富商から多額
2022年1月18日 18:30
罠かもしれない倭寇の多くは、嘉靖三十四(一五五五)年の正月を日本の五島列島や平戸などで越し、春の訪れとともに海を渡ってきた。 上陸地点は、杭州湾岸の柘林(しゃりん)。 金山衛は七つの千戸所から構成され、そのうちの三つの千戸所は衛の管轄地域内に散らばって配置されている。三つとは、海から三十五㎞ほど内陸にはいった松江(そんこう)、揚子江に近い南匯(なんわい)、杭州湾岸で金山から東へ約三十㎞の青
2022年1月17日 18:30
海神を祀る この時代の最悪の奸臣といえば内閣首輔(しゅほ)(首相に相当)の厳嵩(げんすう)だが、厳嵩に巧みに取り入り出世し、工部(こうぶ)尚書(しょうしょ)(建設大臣に相当)等を歴任、しかし最後には失脚して厳嵩とともに『明史』の奸臣の項に伝を収められることになる人物に趙文華(ちょうぶんか)がいる。 趙文華は嘉靖八(一五二九)年の進士で、嘉靖二十四(一五五五)年、工部(建設省に相当)の侍郎(じ
2022年1月16日 18:30
騎馬対鉄砲 四月八日。 金山衛に向かって兵糧を運搬していた輜重(しちょう)隊が倭寇に襲撃された。輜重隊の兵百人が犠牲となり、兵糧は全て奪われた。輜重隊が倒した賊の数はわずかに九人だった。 その夜に開かれた軍議で花蓮は、即座に兵を出して賊を倒し、兵糧を奪い返すべきと主張した。 貴州総兵(地方の軍事長官)の白泫(はくげん)が不満げな顔をした。白泫は張經軍の遊撃を担っており、一時的に金山衛に来
2022年1月15日 20:30
岑匡の諫言 金山衛に戻ってすぐに、岑匡が普陀山夜襲での全軍の戦闘状況をまとめ、花蓮に報告しにきた。 兪大猷の率いた海上攻撃隊は思いのほかに苦戦をしていた。「湾口の砲台からの攻撃により、敵船と接触するより前に小さくない打撃を被ってしまったようです」「すごい兵器ね。大砲の攻撃をもっと近くでみてみたかったわ」 田州軍は砲を持たず、花蓮は扱ったことがない最新兵器に興味をいだき、おもちゃを欲する
2022年1月14日 20:30
転戦普陀山夜襲 金山衛は杭州湾北岸の中央に位置するまさに対倭寇の最前線で、経済都市蘇州や副首都南京の玄関口を守る極めて重要な衛所である。 田州軍四千のうちの二千が兪大猷(ゆたいゆう)が守備する金山衛に配されることになった。花蓮は参将に任じられて、三月十二日に金山衛にはいった。田州の残りの二千は阮袞(げんこん)が率い、帰順州の兵とともに参将の湯克寛(とうこくかん)の隷下に配された。 ちなみに