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秋茂橋の決戦【瓦氏夫人第80回】

秋茂橋の決戦

 四月二十九日。
 秋茂橋の南側に陣を敷く花蓮は、遥か三十年前のことを思い出している。
 猛を帰順州へ逃がすため、右江にかかる橋のたもとに陣取り、迫り来る張經率いる明朝軍に弓矢の嵐を浴びせ撃退した、あの日である。
 布陣の確認のために陣内を巡ってきた阮袞(げんこん)が、決戦の直前とは思えぬような穏やかな表情の花蓮をみて「どうされました」と声を掛けた。
「昔のことををちょっと思いだしてね」
 阮袞(げんこん)は花蓮に並んで立ち、
「ああ。右江のあの橋ですね。懐かしいですね」
「うん。あの日も橋のたもとに立って十倍の敵が来るのを待っていた。そのときの緊張を思い出した。なんだか、つい昨日のことのように思えるわ。まあ景色は全然違うけどね。橋の幅は同じくらいだけど川幅は右江の方がずっとあったし、川も空もずっと青かった」
「敵の数も全然違いますよ。同じ十倍でもあのときの敵は千五百。いまは一万の敵を迎えようとしているのですから。勝算は今日の方がずっと低いですね」
 と、阮袞(げんこん)が言うと、花蓮は穏やかま表情のままで、
「三十年かぁ。ずいぶんと長い時間が必要だったわ」
 と、じっくりと味わうように、静かに言った。
 遠くに砂塵が舞い上がるのがみえた。
 来た。
 倭寇の大軍が近づいてくる。
 地を揺らしそうなほどの地響きが、だんだんと大きくなっていく。

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 倭寇軍は川の手前まで来て停止した。
 そして、弓と鉄砲を前に出し、川の北岸にずらりと並べた。
 田州の弓兵と川を挟んで対峙する形となった。
「うん。まずは悪くないですね」
 と、阮袞が言った。敵が無理に渡河を試みれば、田州弓兵ひとりが数人の兵を倒しても、敵は大軍なので半日ももたずに渡河を許すことになる。
 川を挟んでの撃ち合いが始まった。
 敵が鉄砲と弓とで猛然と攻撃してくる。
 しかし、弾や矢を防ぐために竹を束ねた盾を河岸に重厚に並べているので、自軍の損傷はほとんどない。
 こちらからも激しく弓矢を射掛ける。矢は敵から次から次へと撃ち込まれるので尽きることがない。とはいえ、敵も盾を並べて防ぐので、敵も打撃を受けていない。
 花蓮は二階建ての農家の屋根に上がって、倭寇軍の陣容を望んだ。
 立ち並ぶ幟旗のなかに「杉」の文字を探した。が、みあたらない。杉沢庄次郎はいないのか。杉沢の船の帆に描かれていた牡丹の紋章も探してみたが、ここからみえる範囲にはない。兪大猷軍の前で一瞬のうちに一万の軍勢を転回した采配は杉沢庄次郎によるものかと思ったが、そうではなかったのか。
 眼下で動きがあった。
 倭寇軍の歩兵が秋茂橋へ向かって進み始めた。川を挟んでの撃ち合いでは、いつまでたっても突破できないと考えたのだろう。
 花蓮は屋根から降りて秋茂橋へ戻った。
 倭寇軍が秋茂橋に殺到している。
 橋のたもと近くの兵が橋の上に矢を集中する。
 三十年前の右江の橋での戦いと同じだ。
 敵が次々と倒れていく。後続する者が倒れた前の者を乗り越えて前に進む。
 敵は、ゆっくりとだが、着実にこちらに近づいてくる。
 阮袞が、
「やりますか。そろそろ」
 と言った。秋茂橋の橋桁には何本もの綱がかけられている。多人数で綱を引けば橋桁が壊れ、橋が落ちるようにしてあるのだ。
 しかし花蓮は、西の空を見上げてから首を横に振った。陽が地平線に落ちようとしている。
 三十年前、橋を渡ろうとした張經の軍は、思いのほかに頑強な抵抗に遭って攻めあぐね、いったん兵を退いた。あのときと同じように、倭寇軍は一度退却し、戦いかたを考えて明日再び攻めてくるだろうと感じたのだ。
 そのあとすぐ、倭寇軍の側から退却を示す太鼓の音が聞こえた。
 橋の上に充満していた敵兵は退いてゆき、川の北岸に並ぶ弓隊と鉄砲隊の後方にみえなくなった。
 
 一夜明けると、川向こうの景色が一変していた。
 昨日は川沿いに弓隊と鉄砲隊が並んでいた。しかし今朝は、それが歩兵に変わっている。
 歩兵は甲冑をつけておらず、刀を背中に背負っている。横隊で一斉に川にはいり、渡河しようとしているのだ。
 花蓮は驚かなかった。橋を攻めあぐねた敵は早晩渡河を強行するだろうと予想していたのだ。
 花蓮は農家の屋根に上がり、川向こうを望んだ。
 敵が渡河を始めたときの策は考えてある。
 騎馬で敵陣に斬り込む。
 そして敵の総大将、徐海を倒す。
 それしかない。
 軍隊としての組織が組み上がっている官軍は、将が倒されても代わりの者が指揮を執るので大きく崩れることはない。しかし賊軍であれば、総大将を討たれれば秩序を乱し四散する可能性がある。少なくとも戦意を大いに挫かれるはずだ。
 敵陣のなかから徐海の位置を知るのは容易かった。
 川に沿って重厚な壁のように敵兵が群れており、それからやや離れた後方に、櫓(やぐら)を中心とした陣がある。その陣と、前線や四方の陣とのあいだを単騎の騎馬がゆき交っている。伝令だろう。おそらくあそこが本陣だ。あの櫓の上に徐海がいる。
(届く)
 と花蓮は思った。
 倭寇軍は、弓隊、鉄砲隊のうしろにいた歩兵を渡河のために前面に出したので、前線と中央の本陣のあいだに広い空間がある。騎馬で前線を貫けば、本陣までのあいだにゆく手を阻む者はいない。本陣の兵数は五百程度か。二百の騎馬で突っ込めば勝算はある。
 倭寇軍が一斉に渡河を開始した。同時に秋茂橋にも敵兵が群がってくる。
 秋茂橋の敵兵が弓矢を防ぐ板を前面に押し出しながら進んでくる。
 最前列の者が倒れても、そのうしろが代わって板を持ち、じわじわと近づいてくる。川を泳ぐ兵より先に秋茂橋を渡る兵の方が先にこちら岸にたどり着くかもしれない。
 
 花蓮は花兎の腹を蹴った。
 花兎が駆け、田州騎馬隊が続く。
 弓隊が左右に割れて騎馬隊のための道をつくる。その中央を二百の騎馬が駆け抜ける。
 騎馬隊は秋茂橋に突っ込んでいった。
 二百の騎馬は二列縦隊で敵兵をなぎ倒しながら突き進んでいく。
 秋茂橋の上の敵は騎馬に蹴散らされていく。慌てて川に飛び込み馬に道を空ける者もいる。
 最後尾の騎馬が橋の半ばを過ぎた。
 昨日、橋を落とさなかったのはこのときのためだ。
 河岸の田州兵が橋桁に掛けられた綱を一気に引いた。
 橋の南半分が崩れ落ちる。そこにいた敵兵も川になだれ落ちた。
 秋茂橋はもはや使えない。敵はもう橋を渡れず、花蓮たちも帰る道を失った。
 帰還のことを考えない決死行だった。
 橋を渡り切った騎馬はすばやく二列から四列縦隊に隊形を変え、さらに進む。
 そこにいるのは鉄砲隊。鉄砲は脅威だが懐にはいってしまえば騎馬の敵ではない。岑匡が自分の命にかえて教えてくれたことだ。
 騎馬は、未だに一発も発射していない鉄砲隊を吹き飛ばしていった。
 前線と本陣とのあいだの空間に出た。
 妨げるものはなにもない。騎馬隊は速度を上げた。
 敵本陣に突入。
 速度を落とせば敵兵に囲まれる。速度を落とさず面前の敵を切り刻んで進む。
 前方に櫓がみえる。徐海はそこにいるはずだ。
 櫓の周囲には特に兵が多く、そこを中心にして守りを固めているのがわかる。
 強い。
 ここまでの敵とは違う。騎馬を前にしても逃げない。ぶつかろうとする。
 厚い壁に突き当たったかのような感覚だ。前に進むことができない。
 花蓮はうしろを振り返った。
 ついてきているのは玲玲と数騎のみだった。少し離れて、阮袞と数騎が敵に囲まれ戦っている。
 隊形が完全に崩れてしまっている。騎馬隊は食い止められた。このままでは殲滅される。
 いったん離脱しなくてはならない。
 花蓮は、いま駆けてきた方角へ戻り始めた。
 
 敵本陣から抜け出て、敵から距離を空けて花兎を止めた。
 騎馬が少しずつ集まってくる。
 味方の数を数えた。
 八十騎だった。半分以下に減っている。
 顔面を返り血で赤く染めた阮袞が、
「さあ、もう一度いきますか」
 と張りのある声で言った。
 花蓮は動かなかった。阮袞が、
「さあ、いきましょう。いまなら敵の体制は崩れています」
 と、もう一度言った。
 それでも花蓮は動こうとしなかった。
「まさか、味方の被害が大きいのをみて、ためらっておられるのですか」
 そのとおりだった。
 秋茂橋で戦い続ければ全滅は間違いがなく、これ以上田州の人々を死なせたくないという思いで騎馬隊で突入して徐海の首を獲るという策を選んだ。ところが百以上の騎馬が減った。百人の犠牲で残りの兵の命を救えたとしても、百人の命は戻らない。
 玲玲が、
「ここにいない者がみな死んだかどうかはわかりませんよ。捕らえられているかもしれない。まだあの本陣のなかで戦っているかもしれないし、それなら早く助けにいかなくちゃ」
 と励ますようにいう。
 確かにそうだ。早くいかねばならない。しかしそうすればまた兵が死ぬ。そう思うと動けなかった。
(私ひとりでいきたい)
 そう思ったとき、それが聞こえたかのように阮袞がすばやく、
「まさかひとりでいこうなどと思っておられないでしょうね」
 と言った。そして大声で、
「花蓮さまらしくもない。しっかりしなされ」
 と一喝した。
 騎馬兵の数が少し増えて九十ほどになっている。百八十の瞳が花蓮をみつめている。
 誰かが歌を歌い始めた。この場におよそ似つかわしくない、田州の田畑で歌われる恋の歌である。
 それが伝播していき、ついには九十人の大合唱となった。
 阮袞が言った。
「いくも逃げるも決めるのは花蓮さまです。ただ、元来田州の兵は死を恐れぬということをお忘れなく。われらが生きるか死ぬかは、一切気にせずご決断ください」
「私はもうこれ以上、田州のみんなを死なせたくない」
 阮袞は、歌う騎馬兵たちをみて、
「兵たちはみな戦いたいのです。花蓮さまがみなを救うためにひとりで敵に突っ込みたいと思ったように、ここにいるみなも仲間を救うために戦いたいのです。田州のためにと思っているのはあなただけではない」
 花蓮は目をつむり、天を見上げた。
 初夏の強い日差しが額を刺す。
 猛の声が聞こえたような気がした。
 花蓮は
「生きるわよ」
 とつぶやいた。
 その声は戦場の喧騒と兵たちの合唱にかき消された。
 阮袞が、
「なんとおっしゃいました。もっと大きな声で」
 と言うと、花蓮は、手振りで兵の合唱を止め、声を張って、
「生きるわよ。生きるために戦う。生きて田州へ帰ろう」
 そして秋茂橋の方をみて、続けて敵本陣の方をみた。どちらも騎馬を警戒し、槍兵を前に出して、こちらが動き出すのを待っている。
「だから。あっちね」
 花蓮は敵本陣を指さした。
「さあ。いくわよ」
 花蓮はにこりと微笑んだ。九十の兵が頬笑みを返した。
 
 花兎が敵本陣に向かって駆ける。
 二列縦隊で騎馬隊が続く。
 敵本陣前面の槍兵は横三列になり、前列は跪き、中列は中腰で、後列は直立している。そして一斉に槍を倒し、槍先をこちらに向けた。
 槍衾(やりぶすま)だ。そこに突っ込めば潰滅する。
 槍衾の直前で花蓮は直角に左に曲がった。同時に、花蓮に並行して走っていた玲玲が右へ折れる。
 後続の騎馬がぴたりとついていく。一連の滑らかな動きは、飛翔する双頭の龍だ。
 二手に分かれた騎馬隊は、敵陣の前面を横に走り、敵槍隊の側面にまわった。
 そして敵本陣中央に向かって突入。
(よし。もろい)
 と花蓮は感じた。敵からの跳ね返しが弱い。
 整然とした槍衾のうしろの敵は、一度目の襲撃を受け陣形を乱したままなのだ。
 中央の櫓が近づいてきた。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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