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罠かもしれない【瓦氏夫人第71回】

罠かもしれない

倭寇の多くは、嘉靖三十四(一五五五)年の正月を日本の五島列島や平戸などで越し、春の訪れとともに海を渡ってきた。
 上陸地点は、杭州湾岸の柘林(しゃりん)。
 金山衛は七つの千戸所から構成され、そのうちの三つの千戸所は衛の管轄地域内に散らばって配置されている。三つとは、海から三十五㎞ほど内陸にはいった松江(そんこう)、揚子江に近い南匯(なんわい)、杭州湾岸で金山から東へ約三十㎞の青村(せいそん)の千戸所だが、柘林は金山の衛所と青村の千戸所のほぼ中間で、倭寇はそこの防備が比較的弱いことを知っていて上陸場所に選んだのだ。
 その数は万を超える大軍である。
 ただ、上陸後倭寇はそのまま柘林に居座っており、いまのところ万単位の大規模な動きはみせていない。
 海神を祀った成果がすぐに欲しい趙文華は張經に対して柘林攻撃を要求した。
 しかし張經は、
「もうまもなく永順、保靖の土兵が到着する。それを待ちましょう」
 と、頑なに応じようとしなかった。
 趙文華は、総司令部のある嘉興にいても張經がいるのでなにもできず、無益にときが過ぎるだけと考えた。そこで視察と称して嘉興を離れ、対倭寇の最前線である金山衛に移った。
 
 趙文華が金山衛に来てすぐに、金山衛の東十㎞ほどの漕涇(そうけい)に賊が現れ民家を襲撃しているという報がはいった。
 趙文華は金山衛の守将である兪大猷に対しすぐに兵を出すよう迫った。
 兪大猷は、
「張総督は、永順、保靖の土兵が到着するまで、防戦を除き兵を動かしてはならないと言っておられます」
 と、張經の命令を持ち出してそれを拒んだ。
「村が襲撃されているのだぞ。それを見過ごすのか」
「まずは嘉興におられる張総督と話していただけませぬか」
「嘉興と連絡をとっている時間などあるものか。つい先日狼兵を使って輜重隊を襲撃した賊を攻撃したではないか。なぜそのときは兵を動かせて、いまはできないというのだ。私の命令には従えないということか」
 と、趙文華は兪大猷を睨みつける。
「定時の衛周辺の哨戒中に賊に遭遇したため戦闘となったのです」
「知らないと思っているのか。そのときは兵数を絞って哨戒と称し出撃させ、総督の命に明確に反することを回避したのだろう。どうしても総督の命に逆らえないと言うのなら、今回も哨戒と称して兵を出せばいい」
 兪大猷の口から、あれは田州の兵が勝手にしたこと、ということばが出かかったが、言いわけがましいと思って飲み込んだ。
 趙文華は声を荒らげ、
「もういい。あの狼兵の女参将を呼べ。瓦氏と言ったか。私が指示を出す」
 兪大猷はやむなく花蓮を呼んだ。
 
 まもなく現れた花蓮に趙文華は直接言った。
「漕涇で賊が暴れている。すぐに向かうのだ」
 花蓮は、趙文華から指示を受けることに不審をいだきつつも、漕涇に賊が出たことについては独自に放っている斥候より情報を得ており、
「わかったわ」
 と短く応え、すぐに部屋を出ようとした。
「いや、ちょっと待て」と、兪大猷が呼び止めた。「これは哨戒だ。漕涇方面の哨戒をおこなうのだ」
「哨戒?なにいってんの。賊の討伐よ」
「哨戒だ。哨戒に向かうのだ」と兪大猷は繰り返し、「輜重隊を襲撃した賊を倒したときと同じだ」と付け加えた。
 花蓮は状況を理解した。海神を祀った成果がすぐに欲しい趙文華は、張經の目の届かない金山衛に来てさっそく賊討伐をしようとしている。一方の兪大猷は普陀山夜襲と輜重隊を攻撃した賊討伐の二度にわたって命令違反を犯しており、これ以上張經の命にあからさまに背くことはできないと思っている。
「兵の数を絞れといいたいの?」
「そうだ。兵数は二百五十を限度とせよ。それからもう一点。哨戒が目的なのだから兵は配下の者に率いさせるのだ。君は衛に残れ」
 嘉靖帝や内閣首輔厳嵩の顔色ばかりをみて、わかりやすい功績を挙げることのみを考える趙文華には嫌悪を感じるが、形にこだわる兪大猷も見苦しい、と花蓮は思った。
「討伐であれ哨戒であれ、兵を出す名目なんかなんでもいいわ。でも二百五十では足りないわよ」
 趙文華が言った。
「賊の数は五百ほどのようだ。輜重隊を襲った賊を攻撃したときも二百五十で出撃し、それに倍する賊を倒したと聞いている。それと同じではないか」
「私たちは勝ったけれどもかなり苦戦したわ。兵が何人も倒された。それに私の放った斥候によれば、五百程度の賊が暴れていて、それとは別に周囲に少なくない賊が潜んでいる模様とのことだったわ。もしそれらが連携しているのであれば二百五十の兵ではとても足りない」
 兪大猷は首を振って、
「私のところには賊の数は五百という情報しかはいっていない」
「敵の罠なのかもしれない。敵は、輜重隊を襲ったのと同数の兵を官軍にみせて官軍が以前と変わらない兵力で出てきたところを伏兵で叩く、と計画しているのかもしれない」
 趙文華が笑って言った。
「考え過ぎだ。倭寇は所詮烏合の衆。策を恐れる必要などない」
「これまで戦ってきて倭寇の強さがわかってきたわ。山賊と野戦をするのなら田州兵は三倍の相手にも負けない。でも、倭寇を侮れば大きな損害を受ける」
「存外に臆病なのだな。火にも飛び込むほどの勇を有しているからこそ狼兵と呼ばれているのかと思っていたが」
 と、趙文華は花蓮の癇にさわるようなことを言った。反論させないために敢えてそう言ったのだろうが、花蓮は乗らずに落ち着いた声で言った。
「われらの勇は匹夫のそれではないわ」
 趙文華はかっとして、
「とやかくいうな。これは命令だ。口答えせずに従えばよい」
 花蓮は一瞬間を空けてから、
「わかったわ。二百五十の兵を漕涇に送る」
 とにかくいま重要なのは賊に襲われている村を救出することだ。目の前の男たちとの不毛な会話でこれ以上無駄なときを費やしたくない。
 花蓮はくるりと背中を向けた。
 兪大猷が花蓮の背中に、
「君は衛所を離れるな。わかったな」
 と念を押すと、花蓮は振り返らずに、
「わかってるわよ」
 と、煩げに言った。
 
 花蓮は自分の営舎に戻るとすぐに鐘富(しょうふ)と黄維(こうい)を呼び、言った。
「兵二百五十で漕涇の賊を倒してきて」
 鐘富は
「えっ、花蓮さまはいかれないのですか?」
 と訊いた。
「ええ。私はいったらだめだって。あなたたちで片付けてきて」
「そんなことを言っているのは兪将軍ですか?」と鐘富はやれやれと首を横に振り、「しかし敵は五百人です。兵二百五十とは少ないですが、人数を指定されたのですか」
「そうよ。兵二百五十で哨戒をおこない、その隊がたまたま敵に出会えば攻撃していいそうよ」
「しかし、伏兵がいるかもしれません」
 伏兵がいる可能性を考えれば二百五十ではいかにも少ない。やはり命令に反しても十分な兵を出すべきかと思いつつ、傍らに立っている男をちらりとみた。軍監として送り込まれた兪大猷の側近である。兪大猷は花蓮がそう考えることを見越し、花蓮が命令違反を犯すことがないようこの男に見張らせている。
 鐘富は花蓮の視線をみてから、
「わかりました。兵二百五十で参ります。まあ伏兵がいたとしても百や二百の伏兵は蹴散らしてやります。な、黄維」
 と言って、黄維の背中を叩いた。
 黄維は黙ってうなずいた。
 
 すぐに漕涇攻撃隊が編成された。鐘富が率い、黄維が副隊長である。
 正午前に出撃し、花蓮はそれを衛のそとまで見送った。
 鐘富が言った。
「軍監が睨んでいます。そろそろお戻りになったほうが」
「なんだか胸騒ぎを感じるのよね」
「敵の罠があるからでしょう。しかしわれわれは罠があることを知っています。裏をかいて叩きのめしてやります。ご心配には及びません」
「そうよね。そうなんだけどね」
 と、花蓮には似合わない弱々しい言いかたをしたとき、軍監が寄ってきて、
「そろそろ衛所にお戻りください」
 と、鋭く言った。
 花蓮は路の脇に寄った。
 その前を、攻撃隊二百五十人ひとりひとりが花蓮に笑顔を向け、通り過ぎていった。
 
 胸騒ぎは凶事の予感だったことを知ったのは、その日の陽が暮れようとしているころだった。
 足をひきずり全身に傷を負った兵によれば、鐘富の隊は漕涇の村にはいるとすぐに新手の敵に四方を囲まれた。
 兵が苦しげに、ことばを搾り出して言った。
「私は衛所に援軍を求めに走るよう命じられ、なんとか包囲を抜けてここまで駆けてきましたが、われわれを包囲した敵の数は、おそらく村のなかで暴れていた賊よりも多いと思われます」
 花蓮は目を見開いて、
「じゃあ、伏兵の数は五百以上?」
「いえ、それでは足りません。千人ほどではないかと」
 つまり鐘富たちは四倍の数の伏兵に囲まれたのだ。
 花蓮は花兎に飛び乗った。漕涇に向かって駆け出す。
 花蓮が飛び出していくのをみた田州兵たちがあとを追う。
(はめられた。罠にはめられた)
 闇が迫る野を駆けながら花蓮は思った。敵は、輜重隊が攻撃されたときのように、賊兵五百であれば官軍は二百五十の兵しか出してこないと読んだのではないか。だから五百人で金山衛のそばで派手に暴れて明軍二百五十人を引っ張りだし、予め伏せておいた千人の兵で包囲し粉砕するという策を立てたのだろう。
 それにより、田州軍に倒された者たちの恨みを晴らそうとしているのか。
 鐘富たちが、地形や村の建造物に守られて、いまなお交戦中であってほしい、と強く念じた。敵の策にはまったのだから望みは薄いが、万が一ということもあるのではないか。
 花蓮はそう祈りつつ、花兎を東へ急がせた。
 
 漕涇に着いたとき、そこでみたのは荒廃した村落とおびただしい数の倒れた体だった。
 あちらこちらで痛みに苦しむ声が聞こえている。とはいえ生きている者はごくわずかで、ほとんどが息をしていない。
 頭頂部を剃り上げ日本刀を手に握っている死体は、田州兵の死体より多い。
 だが、田州兵のものだけで二百を超えている。
 全滅といっていい。
 そのなかには鐘富と黄維の体もあった。
 花蓮は、天に向かって慟哭した。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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