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雨の恵みを受けた田畑を想う【瓦氏夫人第73回】

雨の恵みを受けた田畑を想う

 その四月二十一日の午前中、花蓮は営舎の窓枠に肘をつき、昨夜から降り続く雨をみつめながら暗うつに沈んでいた。
 岑匡、鐘富(しょうふ)、黄維(こうい)ら股肱の臣を立て続けに失った。
 輜重隊を襲撃した倭寇軍への攻撃では、岑匡は騎馬隊で敵の不意を衝いて突撃することを進言した。しかし花蓮はその進言を容れずに弓隊での攻撃を先行させた。その結果騎馬隊が敵鉄砲の餌食となり、岑匡も死んだ。自分の失策である。鐘富、黄維を失ったときは、敵の罠に概ね気づいていながら出撃を命じてしまった。これも自分の失敗だ。
 一方でその間、明朝は兵をほとんど動かしておらず損害がない。なぜ田州ばかりが、と思う気持ちもあるのだが、明朝の要請を受けて江浙に兵を出すと決めたのは自分であり、そもそもここに来ていなければこういうことにはなっていなかった。
 多数の田州の将兵を死なせたのは全て自分の判断の結果なのだ。
 考えれば考えるほどに慙愧の想いが大きくなり、胸が苦しくなる。
 花蓮は単調な雨音を聞きながら、雨の恵みを受けて豊かに実る田州の田畑を思い浮かべた。
 金山衛に来てからまだ一ヶ月しか経っていない。郷愁に駆られるには早すぎるが、心は田州を思慕している。
 背後に気配があり、振り返ると莫蘭(ばくらん)が片膝をつき控えていた。
「なに?どうしたの?」
 と、花蓮はぽそりと言った。
「倭寇軍に動きがあるようなので、それをお伝えに」
「なにがあったの?」
「今朝、西方の海塩(かいえん)に賊が現れ、兪大猷将軍が向かいました」
「賊の数は?」
「百程度と小規模のようです」
「ならば兪将軍の兵だけで十分ね」
「はい。そう思いまして、なにか考えごとをしておられるようなので、すぐにはお伝えしませんでした。ところがたったいま、柘林を見張らせている者から情報がはいり、柘林の賊軍の一部が西に向かって動き始めたようです。こちらは規模が大きくおよそ二千、賊首の葉明(ようめい)が率いています。同時に倭人の新五郎という者が率いるおよそ千が海に出ました。両軍の目標や両軍が連携して動いているのかなどはまだわかりません」
 花蓮はしばらく黙って考えたのち、
「白将軍はそのことを知っているのね」
 二週間前に金山衛にはいった遊撃の白泫(はくげん)は、まだそのまま金山衛にいる。
「まだご存知ではないかもしれません」
「そう。では伝えておいて」
 と、花蓮はそっけのない言いかたをして、再び窓のそとに視線を向けた。
 
 正午を過ぎ、雨はさらに強くなった。
 白泫より至急の呼び出しがあり、花蓮は重い腰を上げた。
 白泫は、
「賊二千がこちらの方向へ移動中だ。すぐに迎撃に出てくれ」
 と、早口で言った。
「張総督が永順と保靖の兵が来るまで積極的に攻撃してはならないって言ってるんじゃなかったの」
 花蓮は前日に永順、保靖の土兵が到着したことを知っているが、これまでに出撃を提案しても、ことごとく否定されたことに対するあてつけで、そう言った。
「その命令は解除された」
「そうなの?でもここは、いままでのように衛所内にとどまったほうがいいんじゃないかしら」
「敵は二千。衛外で迎え撃ち、叩きつぶせばよかろう」
「敵の目的がみえないわ。二千では四千以上が守るこの衛所に歯も立たない。そのことは敵もわかっているはず。それにも関わらず向かってくる理由はなんなのかしら」
「慎重なことを言うのだな。似合わぬ」
 と、白泫はいらつきの色を隠さず言った。
「柘林から敵兵およそ千人が海上に消えたという情報もあるわ。それに海塩に賊が出たそうだけど、それらはみんな一連の動きなのかもしれない。だから——」
 という花蓮のことばに被せて白泫は、
「ごちゃごちゃ言うな。いいからここを出て賊を屠ってこい」
 と、威圧するように言った。
「承服できないわね」
 と花蓮が言ったのは、敵の狙いがまだみえないということもあるが、明朝のいいように使われ、田州兵ばかりが損傷を受け続けているという思いも関係している。
「なんだと、命にそむくのか」
「もう敵の罠かもしれないところに飛び込んでいく気はないわ。どうしても出撃すべきと思うのなら、自分でいけばいいじゃない」
 と、花蓮は毅然と言った。
 白泫は顔を赤らめて、
「もういい。おまえたちなどあてにしない。下がれ、下がれ。罰を受けること、覚悟しておけよ」
 と、激怒した。
 白泫は兵二千を率いて東に向かった。
 
 花蓮は自分の営舎に戻り、再び窓辺に腰を掛け、目をつむって雨の音に耳を澄ませた。
 ふと、背後に気配を感じた。
 また莫蘭だろうと思いつつ振り返ると、そこには岑栄(しんえい)がいた。床に直接座ってあぐらをかき、微笑んでいる。
「えっ、どうしてあなたがここに」
 と、花蓮は驚き訊いた。岑栄は肺の病を煩い、高齢のためもあって田州に残った。それゆえここに座っているはずがないのだが。
 岑栄は、
「病はすっかり良くなりまして」
 と言ったが、ひどくこけた頬と窪んだ目がそれが嘘であることを示している。
「花蓮さまのことがどうにも心配で」
 その柔らかな口調は昔からずっと変わっていない。花蓮は、岑猛が帰順州に落ち延びて来た日のことや、輿入れの日のことを思い出した。それらの景色には必ず岑栄の笑顔があった。
「あなたには謝らなくてはならない。匡を——」花蓮は顔を伏せ、言った。「死なせてしまった」
 岑栄は穏やかな声で、
「知っております。そのときの状況も概ね聞いています」
「私のせいなのよ。匡が死んだのは」
「息子の最後の様子をお聞かせいただけませんか」
 花蓮は金山衛出撃前夜の岑匡との口論や、倭寇軍への突撃直前に岑匡が言ったことばなどを詳しく語り、そして、
「私は倒れた匡を抱きかかえて『誰にも負けない勇気で私を守ってくれた』と言ったわ。そうしたら匡は私の腕のなかで、『ああ、よかった』と言ったのよ。最後は穏やかな顔だった」
「そうですか。そうですか」
 と、岑栄はこくりこくりと二度首を動かした。
「私に臆病と言われ、勇をみせようとして匡は死んだ」
 花蓮がささやくように言うと、岑栄は静かに首を横に振り、
「匡が『よかった』と言ったのは、臆病ではないことを証明できたからではありますまい」
「どういうこと?」
「花蓮さまが匡から学んだことはありますか」
「もちろんあるわ。この遠征でもいろいろなことを教えてくれた。倭寇が油断できない相手であることを最初に言ったのは匡だった。倭寇の個々の強さだけでなく、組織力も警戒すべきと言ったのも匡よ。彼らの火器を軽視してはならないとも。匡は鉄砲の有効な射程距離や弾籠めにかかる時間などを詳しく調べ、教えてくれた。それから——」
「匡は、それらを花蓮さまにお伝えできたこと、そして、理解いただけたことを喜んだのでしょう。それにより花蓮さまをお守りすることができたこと、匡がいなくなっても匡のことばがこれからも花蓮さまをお守りするであろうこと、そういったことが嬉しくて『よかった』と言ったのです」
「どうかしら。そう考えれば少しは気が楽だけど——」
 とつぶやく花蓮の瞳は濡れている。「匡は私に必死に教えようとしていた。でも私の心には濁りがあって、それを素直に受け止められなかったのよ。だから私は判断を誤り、あなたの息子が死ぬことになった。ほんとうにごめんなさい」
 岑栄は花蓮の顔をみつめている。
 花蓮はぽつりと言った。
「もう、田州に帰るべきかしら」
 岑栄は黙っている。
「私はもう田州に帰りたい」
「花蓮さまらしくないおことばですね」
「私、どうすればいいのか、よくわからないのよ」
「そもそも花蓮さまはなんのために江浙に来られたのでしょうか」
「私たちがここにきた目的……それは、倭寇に苦しめられている江浙の民を救うこと。倭寇に殺された芝の無念を晴らすこと。そして、後世まで伝えられるほどの功績を成し、田州と猛哥(もうにい)の名誉を回復すること。その三つ」
「その目的は果たせましたか」
「いいえ。倭寇を滅ぼすどころか勢いを削ぐことすらできていない。芝を斬った徐海はいまもどこかで笑っているでしょう。杭州湾岸の住民に田州兵の強さは多少は知られたでしょうけれども、後世に語り継がれるほどの功績は残せていない」
「そのようですね」
「つまりあなたは、なにも果たせていないのだから田州に帰りたいなどと言わず、もっとがんばれと言いたいのね」
 と花蓮は、岑栄に対していつもするような、きつい言いかたをした。
「私はもう花蓮さまにどうしろと申すことはありません。なにごともご自身で判断していただかなくてはならない」
「寂しい言いかたをするのね」
 岑栄はうっすらと笑い、
「でも、目的を果たせていないからやめてはいけないということはないでしょう」
「そうかしら」
「目的を定めたあとで状況が変わることもありますし、そもそも目的が間違っている場合もあります」
「それはそうだけど——」花蓮はため息をつき「一度決めたら迷わないというのが私の信条なのに、おかしいでしょう。こんなふうに悩む姿をみると」
「いえ、そんなことはありません。一度決めたら迷わないというのは、正しい道をみつけたならば雑音にもはや耳を貸さないということでしょう。しかし正しい道がみえないときは、悩むのは当然であり、なにも矛盾はありませんよ」
「田州を出るときには、江浙にいくのが正しいことだと確かに思ったわ」
「一度決めたことでもあとから変えなければならないときはあります。天の理も、ときに応じて変わるもの。その変化に応じて正しい道も変わります。正しい道が変われば、固執することなく、おこないも改めねばなりません」
「わかるような気もするけど——」
 花蓮は、ふと
(猛哥(もうにい)ならいまの私をみてなんて言うかしら)
 と思った。猛の遺志を継ごうと思いこれまで生きてきたが、今回の遠征について猛ならどう判断するかとは考えてみたことがなかった。
 いまこそ猛のことばを聞いてみたい。
 岑栄は、花蓮の心のなかの声を聞いていたかのように、
「それがよろしいかと思います」
 と言った。
「よろしいって、なにが?」
「お屋形さまとお話をされるのがよろしいかと」
「えっ、どういう意味。大寿(たいじゅ)と話してみろということ?」
 大寿は海南で死んだ岑芝の子で、まだ七歳だが田州土官であり、形式上はこの派遣軍の総大将である。なお大寿の弟の大禄もこの陣中にいる。
「いえいえ」
「じゃあ、猛哥(もうにい)ならばなんというか、それを想像してみろということ?」
 岑栄は微笑んでいる。
 花蓮は目をつむり、天に向かって話しかけるように、顎を上げた。
 単調な雨音だけが耳にはいってくる。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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