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総兵官救出【瓦氏夫人第74回】

総兵官救出

 そのままどのくらい考え続けただろうか。
「花蓮さま」
 と呼び掛ける女の声があった。
 まぶたを開くと、莫蘭(ばくらん)が戸口で片膝をついていた。
「物見台にいる雪嬌が海上に倭寇の船団を発見しました。倭寇軍が東方六里の地点に上陸しようとしています」
「白泫将軍はいまどこに?」
「北東五里の地点で葉明の軍と交戦中です」
「それじゃあ敵船団の狙いは」
「はい。白泫軍を背後から襲うことかと」
 白泫軍と葉明軍の兵力は拮抗している。そこに後方から襲われれば白泫が窮地に陥るのは間違いない。
「兪大猷将軍はまだ戻らないの」
「まだ海塩に出撃されたままです」
 そう言って莫蘭は膝をついたままで横にずれ、戸口の前を空けた。花蓮が走って部屋を出ると思ったのだ。ところが花蓮は、
「兪将軍に知らせて」
 とだけ言って、動かなかった。
「それでは間にあいませんが。白泫軍は潰滅してしまいます——」
 と、莫蘭が珍しく自分の意見を言ったとき、花蓮は岑栄がいないことに気づいた。
「あれ、栄は?栄はどこ」
 莫蘭が驚いたような目で花蓮をみた。
「さっきまで栄がいたのに」
「岑栄さまはここにはおられません」
「いえ。たったいま、ここで話をしたわ」
 莫蘭は驚いた表情のままで花蓮をみつめている。
「近くにいるでしょ。呼んできて」
「いえ、岑栄さまはおられません」
「どういうことよ」
「田州より報せがありました。先ほどそれをお伝えに参りましたが、お休みになっておられるようだったので声を掛けませんでした」
 莫蘭はそう言って、一封の信書を手渡した。
 そこには、岑栄が一ヶ月ほど前に病で死んだことが記されていた。
 花蓮は一筋の涙を流し、つぶやいた。
「そうか。わざわざ来てくれたのね」
 莫蘭が、
「夢のなかでお会いになったのですね。不思議なことがあるものですね」
「いいえ、そうじゃないわ。さっきまで確かにここにいたのよ。いろいろ相談に乗ってくれた」
「そんな、まさか——」
 と、莫蘭は怯えるような顔をした。亡霊をみたと思っている。
 しかし花蓮は確かに岑栄に会ったのだ。
 ひとは死ねばいなくなる。そう考えるのが普通であり、山であれ、花であれ、虫であれ、網膜に映ったものが存在するものである。しかし心で周囲をみる花蓮にとっては心に映るということが存在であり、死者であっても心が感応したのだから、それは確かに存在しているのだった。
 花蓮は雨の降り続く窓のそとへ視線を向け、岑栄と交わしたことばをひとつずつ思い出した。
 猛がなんと言うか訊いてみたいと思ったとき、岑栄はそれがいいと言った。
 花蓮は振り返り、莫蘭に言った。
「ちょっと慈溪(じけい)までいってきてくれないかしら」
 慈溪は金山衛から杭州湾をはさんでちょうど対岸に位置する県である。
「慈溪ですか?」
 花蓮の命令であればいつでもなにも言わずに従う莫蘭だが、いまの戦場からかなり離れた場所への使いの理由に思い当たるところがなく、思わず訊き返した。
「岑濬(しんしゅん)の乱のとき、猛哥(もうにい)は一時桂林の宣成(せんせい)書院(しょいん)に留学していたの。そのときの学友に姚淶(ようらい)というひとがいた。のちの状元(じょうげん)で、田州が明朝に攻められたときには猛哥(もうにい)に罪がないことを両広総督のお父さんに訴えてくれたひと。猛哥(もうにい)の親友と言えるひとなの。ずいぶん前に亡くなっているのだけれど、そのひとの故郷が慈溪県なのよ。本当は自分でいきたいのだけどね。白泫将軍を助けにいかないわけにもいかないから」
 *
 金山衛を出撃し北東に向かった白泫は、衛から約八㎞の地点で西に向かって緩慢な速度で行軍中の葉明(ようめい)軍を発見し、南側から葉明軍の側面を急襲した。側面をつかれた葉明軍は一瞬崩れたが、あたかも敵が到来する場所も時間も知っていたかのようにすぐに体制を立て直す。そしてもみ合った両軍は、そのあと南北に分かれて対峙した。兵数は両者ともに二千で、互角と言っていい。雨のために火器は使えず、戦いはそのまま膠着するかにみえた。

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 そこに、新手の倭寇軍が海から現れた。
 倭寇軍は白泫軍のうしろから襲いかかった。率いるのは新五郎。兵数は千人。葉明軍が柘林から進軍を始めたときに、同時に柘林を出て海に消えた一軍である。
 挟撃された白泫軍は瞬く間に崩れ、兵が次から次へと倒されていった。
 東方に小さな丘があり、白泫は乱戦のなかを馬で駆け、かろうじてそこに逃げ込んだ。
 白泫は頂上に幟旗を立てさせた。それを目印にして官兵が集まるのを待つのである。
 集まってきた兵はおよそ七百、当初の兵数のおよそ三分の二を失ったのだ。
 倭寇軍は丘の周囲に残る官兵を、楽しむかのように殺戮したあと、白泫が籠る丘を包囲した。
 倭寇軍はそこでいったん動きを止めた。兵を集めて体制を整えてから一気に丘を駆け登ろうとしている。
 明軍の兵数は倭寇軍の三分の一に過ぎず、雨で火器も使えず全滅するのは時間の問題だった。倭寇は捕虜をとるということをしないので、全滅は、すなわち全員の死を意味している。
 *
 花蓮は騎兵三百を率いて金山衛を出て北東へ向かった。
 先行させていた斥候の兵が花蓮に報告した。
「この先三里の平原で倭寇軍と白泫軍が衝突。白泫軍はあとから現れた倭寇軍に後方をつかれ潰滅しました。白将軍は少ない兵とともに東方の丘陵にたてこもりましたが、倭寇軍に包囲され現在交戦中です。丘陵地に陣取っているとはいえ、数が少なく数刻ともたないと思われます」
「急ぐわよ」
 花蓮は、あとに続く騎兵に向かって声を張り、北東に駆けた。
 前方に丘がみえてきた。
 花蓮は花兎(かと)を止めて前方を凝視した。
 強い雨が視界を遮り、うっすらとしかみえないが、丘の麓に多数の兵がいて丘を取り囲んでいる。中腹では戦闘がおこなわれているようだ。
 後方から阮袞(げんこん)が駆けてきた。阮袞は江浙に来た当初、田州兵の半数を率いて参将の湯克寛(とうこくかん)の隷下についていたが、金山衛の田州兵が連戦により半減したため兵とともに金山衛に移った。この攻撃隊では副将を務めている。
「まにあったようですね。明軍の兵は敗れれば命がないとわかっている。敗れれば必ず死ぬとなれば腑抜けの明の兵でも力を尽くして戦うということでしょうな」
「でも、あの様子では倭寇軍が頂上まで登り詰めるのも時間の問題よ。急ぐわよ」
 花蓮が先頭を駆け、三百の騎兵が二列縦隊で続く。
 雨のために地面がぬかるみ騎馬の足取りは鈍い。とはいえ、乳濁色の雨の幕が姿を隠し、地を打つ雨音が蹄の音を消してくれている。敵に気づかれるのが遅ければ遅いほど敵に与える打撃は大きくなる。不意を衝かねば兵数では十倍に近い敵に包み込まれ、汁を絞り出すように押しつぶされてしまうだろう。
 花兎に鞭を入れ、速度を上げた。
 藍色で揃えた騎馬兵が縦列に駆ける。その姿は青い龍が飛ぶかのようである。
 敵が奇襲に気づいた。
 花蓮の視線のすぐ先に槍兵隊がいる。
 騎馬は歩兵に対してはめっぽう強いが、馬は尖ったものに突進することを躊躇するので槍兵に弱い。敵は騎馬による奇襲に備えて槍兵隊をそこに配したのではなく、たまたまそこに布陣していただけだろうが、槍めがけて突っ込んでくる花蓮たちをみて容易に防げると思っていることだろう。
 しかし花兎の勢いは止まらない。花兎はその祖母に比べればおとなしく瞬発力にやや劣るが、ものおじをしないという点では祖母にまさる。槍先が何十本と向けられようとも花蓮の指示に忠実に突き進んでいく。そこには花蓮に対する強い信頼の気持ちがあるのだ。目の前の敵兵は全て花蓮が倒してくれる。そう信じているからこそ花兎は駆ける。
 馬上で花蓮は左手に手綱と弓、右手に矢を四本握る。瞬間的に手綱を離し前を遮る敵兵を倒す。花兎は果敢に敵に飛び込んでいく。他の馬は馬の群れをなす習性で花兎を追う。そうして敵陣を鋭く切り刻み、貫いていく。これが花蓮の騎馬隊の戦いかたであり、これを止められる者はいない。
 敵は、数は多いが丘を包囲しているため陣に厚みががない。花蓮は麓の敵の一部を蹴散らして敵の輪のなかにはいり、丘をのぼり始めた。
 花兎の速度が落ちる。しかし、陣を貫かれた敵は混乱しており、追うことができない。
 花蓮は、血みどろになって戦う白泫軍のなかに飛び込んだ。
 官兵たちが呆然とした顔で馬上の花蓮をみあげる。
 花蓮が矢を握った右手を高く突き上げた。
 われに返った官兵たちが喜びと畏敬の喚声を上げた。
 丘の頂上にいた白泫が駆け下りてきた。
「よくぞ来てくれた。きっと来てくれると信じておったぞ」
 泣き出しかねないようなあわれな顔である。
(アンタ、あてにしないって言わなかったっけ)
 と思ったが、それは口には出さず、
「すぐに脱出すわるわよ」
 と短く言った。
「策は?」
「そんなものはないわよ」
「策もなしでここから出られるわけはないだろう」
「私たちが道をつくる。あなたたちはただついてくればいい」
「死ににいくようなものだ。これまで耐えた意味がなくなる」
 花蓮は白泫のことばにうんざりしつつ、訊いた。
「いま残っている兵数は?」
「おそらく二百か三百だろう」
「さあ、死にたくなければついていらっしゃい」
 花蓮はそう言って、花兎の首を巡らせ、いまのぼってきた方角を見下ろした。
 有利な下り坂だ。そのうえ花蓮たちが駆け上がってきたルートにいた敵兵たちは陣形を乱しており、騎兵だけであれば駆け抜けるのは造作もない。歩兵を連れていくとなると馬を走らせることはできず敵と戦闘になるが、連れて行く歩兵の数が二、三百という少数であれば、なんとか敵の群れを抜けることができるのではないか。
 花兎が駆けた。
 一刻前に騎馬隊に切り刻まれたばかりの敵兵は、再び青い龍が向かって来るのをみて、および腰になっている。
 花蓮が目の前の敵をなぎ倒しながら敵陣のなかに一筋の道を作っていく。
 馬上の花蓮の姿に慄き道を空ける者もおり、まもなく花蓮は敵陣から抜け出た。
 田州騎馬兵に挟まれて白泫の歩兵が敵の群れから一人ずつ駆け出てくる。
 花蓮は弓を太刀に持ち替え、もう一度敵陣に突っ込んでいった。しんがりとなるべく最後尾に回るのだ。
 敵は混乱状態にあり、花蓮が刀を振り上げれば向かってくる者はいなかった。花蓮が近づくだけで敵は数歩下がり、距離をとった。
 
 白泫の兵が敵の包囲を抜けた。
 そのまま西に向かって逃げていく。
 敵兵は追撃しようとしたが、その前で青い騎兵隊が横二列になって待ち構えており、敵兵は足を止めた。
 しばらくそのまま睨みあった。
 敵にはもはや向かってくる気配がない。
 花蓮は
「帰還する」
 と言って、西に向かって駆け出した。
 いつのまにかに雨は上がっていた。
 正面の地平線の上が紅く染まっている。
 その中央に沈もうとしている太陽に向かって花兎は疾走した。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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