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倭寇軍の戦術【瓦氏夫人第78回】

倭寇軍の戦術

 川の北側には、上陸した敵を王江涇へと誘い込む任を負う胡宗憲がいる。
 胡宗憲は策を好む。この日、胡宗憲がどう動いたかについては、このときから七年後の嘉靖四十一(一五六二)年に記された『籌海図編(ちゅうかいずへん)』に詳しく書かれている。籌海図編の著者鄭若曽(ていじゃくそう)は胡宗憲の幕僚のひとりなので、胡宗憲の業績についての記述は多少割り引いて読む必要があるのだが、それによれば、胡宗憲は毒を投入した酒甕百余を船二艘に載せ、官軍の陣中慰労の酒と偽装し倭寇兵に奪わせた。また周辺の村の酒屋や飲食店、食材店に事後に補償することを約束し、酒や食料に毒を入れさせた。倭寇兵が村々を略奪すれば、その口に毒がはいる。
 この策が当たり、胡宗憲は倭寇兵の戦力を大きく削ぐことに成功した。
 胡宗憲は文官ながらも用兵もうまく、翌日は、倭寇軍を巧みに北方へと誘導していった。

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 自軍の兵を敵の正面にわざとみせて敵を引き込み、敵が襲い掛かってきたところで左右に伏せた兵で攻撃を加え、敵が動揺しているあいだに敵の正面の自軍の兵を退却させる。これを二度繰り返した。倭寇軍は胡宗憲の意図するとおりに北へ北へと誘い込まれていった。
 しかし、同じ策は三度は通用しなかった。北に進む倭寇軍は、官軍の伏兵が左右から出てきたときに、方向を左に転換し、西方向からの伏兵に対して集中的に攻撃を加えた。倭寇軍はこの西側の伏兵を粉砕して、そのまま西方向に直進した。
 *
 花蓮は、双渓橋での戦いのあといったん嘉興に戻り、その翌日、再び城外へ出て、北へ向かった。嘉興(かこう)の官軍が、王江涇(おうこうけい)の南端に位置する秋茂(しゅうも)橋付近に布陣しており、それに合流するのだ。
 官軍の策は、胡宗憲軍を追って北へ進んだ倭寇軍はいずれ反転して、当初の攻撃目標である嘉興に向かって南下するであろうから、南下してきた倭寇軍の進攻をこの秋茂橋で食い止め、蘇州から来る永順兵とで挟撃する、というものである。ちなみに永順兵は、嘉興での軍議のあとすぐに蘇州へまわった兪大猷が率いて南下中である。
 四月二十五日の昼過ぎ、胡宗憲軍を追って北に向かって動いていた倭寇軍が突如西に向きを変え、ふたつの湖沼の間を抜けて秋茂橋の北方十五里ほどのところで休息しているとの報がはいった。
 おそらく倭寇軍は、休息ののちに南下を開始する。とすると、明日か、遅くとも明後日に、官軍の策どおりに秋茂橋付近で決戦となるはずだ。
 翌朝、花蓮は趙文華に呼ばれた。総司令官である張經は嘉興城内に残っているので、秋茂橋に陣取る明軍の責任者は趙文華である。
「賊は休息のあと北上を開始した」
「なんですって。南ではなく北?」
 と、花蓮は思わず訊き返した。予想外の動きである。
「そうだ。北に寄り道したら、嘉興よりずっと豊かな蘇州が近くにみえて気が変わったということだろう。賊は当初の攻撃目標を変更したのだ。倭寇は所詮烏合の衆。戦略もなにもない」
「動きに不自然なものを感じるわ。油断しないほうがいい」
「心配は無用だ。嘉興に進めば官軍とぶつかるが、蘇州への道のりには官軍がいないと思い、進路を変えたのかもしれんな。賊は平望(へいぼう)あたりで永順兵三千をみて驚くことだろうよ」
「そんなことはないと思うわよ」
 花蓮には、敵が明軍の動きを把握していないとは思えなかった。蘇州から兪大猷軍が南下しつつあるのを知ったうえで北上しているような気がした。
「何を根拠に言っている」
「カンね」
「カン?そんなものに耳を貸せるわけがなかろう」と、趙文華は鼻で笑った。「賊が目標を蘇州に変更したことにより決戦の場はずっと北になる。盧鏜(ろどう)将軍とともにすぐに北に向かうんだ」
「嘉興の全軍を北上させるつもりなの?嘉興城の守備は?」
「全軍で北へいく。保靖土兵も準備が整い次第北上させる」
「敵の計略かもしれないわ。嘉興城が空になった隙に攻めとるつもりかもしれないわよ。もし金山衛を包囲している葉明の軍が包囲を解いて南から嘉興を襲ったらどうするの」
「心配には及ばないと言っているだろう。おまえは黙って北へ向かえばいい」
 敵の計略の可能性を否定できるはずはないのだが、趙文華は意固地になっている。
 しかし花蓮は、ここは安易に動くべきではないと感じている。そして、自分の意思に反して動いて田州将兵が傷つくようなことは、もうこれ以上あってはならない、という気持ちがある。
 花蓮は落ち着いた声で、言った。
「私はいかないわよ」
「なんだと」
「いかないと言ったけど、なにか」
「私の命に従えないというのか」
「張經総督の命ならまだしも、そもそも私はあなたの部下となった覚えがない」
 と、花蓮はきっぱりと言った。
 趙文華はみるみる顔を赤らめ、
「もうよい。好きにしろ。あとで厳罰を受けることを覚悟しておけ」
 と、吐き捨てた。
 趙文華は盧鏜を将として兵三千とともに北に向かった。
 倭寇軍との戦いで損傷が大きかった胡宗憲の軍はまだ帰還しておらず、嘉興周辺に残ったのは田州兵七百人だけとなった。
 *
 北上する倭寇軍の動きは速く、四月二十五日のうちに平望の北方の唐家(とうか)湖に達し、翌二十六日は太湖に出て、湖岸に沿って北上した。その進む先には中華随一の経済都市、蘇州があり、さらにその先には副首都南京がある。明国の南半分を奪取せんとしているかのような動きである。
 正午、蘇州から南下してきた兪大猷が率いる官軍と倭寇軍とがぶつかった。

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 事前の想定よりずっと早く倭寇軍と衝突した兪大猷は、苦しい戦いを強いられた。
 官軍は永順兵三千人。対する倭寇軍は一万。永順兵は勇猛に戦ったが数の差が大きく、明らかな劣勢に立たされた。このままでは日没までもたずに突破されるのは間違いがなかった。嘉興を出た盧鏜率いる三千が北上中であり、それがこの戦場に到着すれば形勢が逆転することもあり得るが、果たしてそれまで持ち堪えることができるかどうか。
 陽が傾き西の空が紅く染まり始めたころ、もはや勝利目前とみられた倭寇軍の押す力が突如弱まった。
 盧鏜軍が到着したのだ。
 崩壊寸前だった兪大猷軍は窮地を脱したのである。
 が、兪大猷は、「なにかおかしい」と感じた。
 倭寇軍の圧力が極端に弱まっているのだ。目前の敵兵数が明らかに減っている。
 倭寇軍は、兪大猷軍の前には一部の兵のみを残し、残りはみな反転して盧鏜軍に対したのである。後方からの攻撃を受けることを待っていたかのように整然と陣形を変え、南側の盧鏜軍の方を向いて横に広がり、およそ三千の盧鏜軍を二倍以上の兵力で包み込んでいった。
 盧鏜軍の後方には川と湖があり、水を背負う形となった官兵は恐慌に陥った。
 しかし盧鏜軍の正面も横も敵であり、逃げる方向は後方しかない。
 多数の官兵が水に逃れようとし、溺死した。
 盧鏜軍を撃破した倭寇軍は、そのまま南下を開始した。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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