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倭寇を止める策【瓦氏夫人第76回】

倭寇を止める策

 嘉興に着くとすぐに軍議が開かれた。
 敵に関する情報が続々と届いており、兵数は柘林(しゃりん)から出た徐海の兵八千に周辺から兵が加わり、一万を超えるに至っている。膨らんだ倭寇軍は西に進み続けているが、多数の船に分乗して、嘉善の南を大きく迂回する川を遡っていることから、嘉善は攻めずに通過すると思われた。そのまま川を遡れば嘉善の西方の嘉興に達するので、敵の目標は、経済都市の蘇州ではなく、明軍の本営がある嘉興と予想された。
 明軍との決戦に挑もうとしているのだ。
「兵が足りません」
 と訴えたのは盧鏜(ろどう)である。盧鏜は七年前の朱紈(しゅがん)による双嶼攻撃にも参加した、江浙の海で倭寇と戦い続けている猛将だ。
 盧鏜直属の兵が千人。到着したばかりの保靖(ほせい)の土兵が三千人。金山衛から北上してくる花蓮と兪大猷の兵千余を合わせても五千が官側の総兵力である。向かってくる敵の半数以下だ。
 趙文華(ちょうぶんか)が口惜しげに、
「金山衛からもっと兵を連れてくればよかったではないか」
 と言った。
「金山衛の防衛があり、これ以上は無理です」
 と、兪大猷が反論した。
「では、たったの五千ばかりの兵で一万以上の兵を相手にどう戦うというのだ。言ってみろ」趙文華はねちっこく言った。「ただし籠城はだめだぞ。籠城は」
 嘉興城のそとにも多数の住民が居住している。官軍が倭寇の好き勝手を許して城壁の内側に閉じ籠ってなにもしないというわけにはいかないのだ。だが武官である盧鏜は負けることがわかっている戦いをすることはできず、
「五千対一万では野戦はできません。半日ともたずに屠られてしまうでしょう」
 と言わざるを得ない。
「上海方面に展開している軍を呼ぶしかないのではないですか」
 と、胡宗憲(こそうけん)が末席から言った。のちに浙江巡撫を経て総督に就く胡宗憲だが、この時点ではまだ巡按監察御史(じゅんあんかんさつぎょし)であり、席次は低い。
 兪大猷が言った。
「上海も交戦中であり、兵を回す余裕などないはずだ」
 上海近郊では湯克寛(とうこくかん)が率いる官軍千五百が林碧川(りんへきせん)軍二千に対している。
 胡宗憲は方卓の上に広げられた地図で太湖の右側を指さし、
「では蘇州の兵を呼びましょう」
 蘇州には、先ごろ到着した永順(えいじゅん)の土兵三千が配されている。
 盧鏜が首を横に強く振り、
「蘇州からでは間に合わない。敵は明日にでも嘉興の東に現れるだろう。蘇州からの援軍が着くのはわれわれがいいように打ちのめされたあとになる」
「では、どうすればいいというのです」
 と胡宗憲が言うと、趙文華はふたたび、
「だから金山衛からもっと兵を連れてくればよかったのだ」
 と、兪大猷に向かってじめじめと言った。
 反論を繰り返すのも愚かしいと思った兪大猷が黙ったので、室内が一瞬静かになった。
 張經が「ううむ」とうなりながら花蓮の顔をみた。
「瓦将軍はどう思われるか。このなかで倭寇相手に三度も勝利を収めているのは君だけだ。意見を聞かせてくれないか」
 卓上の地図をみながら花蓮が口を開いた。
「北からの援軍がここまで来るのに時間がかかるのだったら、敵にもう少し北へいってもらったらいいんじゃない?そうすれば嘉興の兵と蘇州からの兵で挟撃できる」
 盧鏜が言った。
「なにを言っている。敵がわれらの意図どおりに北に進路を変えるわけがないではないか」
「そうかしら」と言って、花蓮は地図の一点を指さした。指の先には〝双渓橋(そうけいきょう)〟と書いてある。「敵は川を使って西に進む限り必ずここを通る。そしてここでならば少ない兵力で川を遡ろうとする敵を食い止めることができるわ」
 嘉興城から東に向かって流れる川は双渓橋をくぐってから二股に分かれて一方は北東へ、一方は南東へ流れていき、さらに枝分かれしてから海にそそぐ。すなわち嘉興の東方から水路を使って来た者は、必ず双渓橋の下を通るのだ。花蓮は、双渓橋の上と川の両岸に兵を配置し、細く伸びきった敵に対して弓や弩、鉄砲などで攻撃を加えればいいと考えた。
 花蓮が続け、
「船でここを通れないとなれば敵はおそらく船を降りる。そのまま攻撃目標を蘇州に変更するかもしれないし、嘉興を攻めるにしても大きく迂回する道を選ぶわ。そう仕向けることはできると思う」
 盧鏜がすぐさま反論した。
「机上の空論だ。いや、夢想というべきか。うまくいくはずがなかろう。双渓橋に部隊を割くにしても千人がいいところだ。敵は一万だぞ。橋の上から攻撃すれば敵の損害は大きくなるだろうが、それを厭わず突き進まれたらとても防ぎ切れるものではない。もし敵がわれわれの策に気づき、橋に差し掛かる前に兵の半数を陸に上げ襲い掛かってきたらどうする。橋の上の兵は全滅するぞ。死ににいくようなものだ。そのようなところに私は兵を出すことはできない」
 花蓮は表情を変えずに、
「別にあなたの兵はいらない。私がいくわ。それならいいわね。田州兵だけで敵を食い止める」
「無駄死にするだけだ」
 盧鏜が方卓を強く叩き、地図上の敵味方の部隊を表す駒が転がった。
 地図を睨むようにみていた張經が視線を上げ、
「いや、いいではないか。瓦将軍ならば敵を双渓橋で食い止めることができるかもしれん。いや、できる。これは瓦将軍と田州狼兵にしかできないことと言っていい」
 張經の脳裏には、花蓮のみが共有する、他の諸将は誰も知らない光景がある。
 花蓮が二十代、張經が三十代のころだ。ふたりは田州の右江を挟んで対峙した。帰順州へ逃げる岑猛を追う張經軍を、わずか十分の一の兵しか持たない花蓮は、橋と河岸に並べた弓隊で鮮やかに撃退した。またその翌年、岑猛の死後に張經が田州府城を守っていたときに盧蘇・王受の乱が発生し、張經軍は反乱軍の包囲から川を使って脱出しようとしたが、川の両岸に防護柵を設置し攻撃してくる田州弩兵の矢を受け、多大な損害を被った。
 参将として参加した岑猛討伐のときの記憶は鮮烈で、それゆえに花蓮と田州兵ならばこの無理な作戦をも成し得ると思ったのだ。
 花蓮は「任せて」というように、深くうなずいた。
 張經が言った。
「瓦将軍が敵軍をうまく北方にいなせたとしても、そのあとすぐに敵が再び西に向きを変え嘉興に進み始めたならば、敵の進攻を半日か一日遅らせるだけになってしまう。蘇州からの援軍とで敵を挟撃するためには、北に向けた敵軍を、さらに北の王江涇(おうこうけい)あたりへと誘い込む必要があるだろう」
 敵の前で後退しつつ敵を誘い込むのである。この任務は難しい。諸将は躊躇したが、ひとり胡宗憲が手を上げ志願した。胡宗憲は出世意欲が異常と言えるほどに強く、誰もが難しいと思う任だからこそ望んだのだ。
 花蓮は嘉興と蘇州の中間を指さした。そのあたりは湖沼が非常に多い。
「このあたりまで敵を誘い込めればいいわね。そうすれば嘉興と蘇州の兵でちょうど挟撃できるし、広い場所がないから、敵は大きく展開する陣形をとれない」
 花蓮は敵に自在に陣形を組ませたくないと考えている。頭には普陀山での杉沢庄次郎の采配がある。あのとき杉沢は自分の兵をあたかも手足のように自在に動かしていた。もし杉沢が敵軍のなかにいるのなら、広い平地を与えると、軍全体をいきもののように動かして明軍を翻弄するに違いない。
 趙文華が言った。
「相手は賊だ。陣形もなにもないだろう」
 兪大猷が反駁し、
「いや。倭寇の戦う力を軽くみてはいけません。兵ひとりひとりの力も強いが、戦術もある」
「倭寇に勝っている瓦将軍が言うのならまだしも、連敗の兪将軍が言えば言い訳にしか聞こえんな」
「愚弄されるのか」
 と、兪大猷が怒鳴った。
 ふたりに構わずに花蓮が言った。
「私は敵軍の巧みな用兵を懸念している。敵に広い場所を与えれば思いどおりの陣を組まれる。王江涇は敵に理想の陣を組ませないという点でいいわ。ただ、どちらを向いても水があるこの地形では官軍も水を背中にして陣を敷くことになる。敗れれば死ぬと思った兵が死に物狂いで戦ってくれればいいけれども、戦う前からおよび腰となるかもしれない」
 趙文華が嘲笑するかのような笑みを浮かべ、
「狼兵は死を恐れぬと聞いていたが、存外臆病なのだな」
 と言った。漕涇での戦いのとき、敵の罠を警戒する花蓮に対し趙文華は「臆病」と言い、そのあとすぐに花蓮は漕涇へ出撃した。趙文華は花蓮が臆病の二文字を嫌うことを知っていて、敢えていままたそう言ったのだ。
 花蓮は、
「あなたたちの兵のことよ。川を背にした官兵が弱腰になることを心配しているのよ。明の兵と違って田州の兵はいつだって死など恐れないわ」
 と声を荒らげた。
 しかしこのことばは諸将の気に障り、諸将は花蓮に厳しい視線を向けた。
 胡宗憲が自分の顎髭を引っ張りながら、言った。
「この一帯は水が多い。つまり王江涇で戦う策を採る限り、敗れれば必ず多数の兵が死ぬことになりますね。わがほうの大勝を疑うものではありませんが、負ければそれはすなわち大敗となり、ここにいるものはみな厳しい罰を受けることとなりましょう」
 胡宗憲は張經の顔を覗き込むようにみた。敗れて最も重い罰を受けるのは総督である張經なのだ。
 張經が話すより先に趙文華が口を開き、
「罰など恐れてはならん。罰を恐れて策を変えるようなことがあれば、私はそう帝に報告する」
 花蓮は、まともなことも言えるではないか、と一瞬思ったが、張經をみると冷めた顔をしていた。その表情をみて趙文華のことばの意味に気がついた。趙文華は勝てばみずからの手柄とし、負ければ張經の責任として失脚させるつもりなのだ。趙文華は、勝ちであれ負けであれ、大きな結果を欲しているのだろう。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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