見出し画像

岑匡の諫言【瓦氏夫人第68回】

岑匡の諫言

 金山衛に戻ってすぐに、岑匡が普陀山夜襲での全軍の戦闘状況をまとめ、花蓮に報告しにきた。
 兪大猷の率いた海上攻撃隊は思いのほかに苦戦をしていた。
「湾口の砲台からの攻撃により、敵船と接触するより前に小さくない打撃を被ってしまったようです」
「すごい兵器ね。大砲の攻撃をもっと近くでみてみたかったわ」
 田州軍は砲を持たず、花蓮は扱ったことがない最新兵器に興味をいだき、おもちゃを欲する子供のようにそう言ったのだが、岑匡は対照的に魔物と遭遇したかのような真剣な顔で、
「戦いの仕方を根本から変える兵器です。われら田州軍の戦いかたも見直さなければならないと思います」
 子供に教え諭すような言いかたをされ、花蓮は気分を損ない口を尖らせてみたが、岑匡は真顔のままで、
「特に攻城戦での戦いは変わるでしょう。よく研究しなくてはなりません」
「湾内の敵船から火が上がるまでにずいぶんと時間がかかったのは、砲撃を受けたせいだったのね」
「いえ。砲撃で小さくない打撃を被ったといっても、作戦進行を大きく遅らせるほどのものでもありませんでした。一部の船は沈められましたが、兪将軍はすぐに船隊を散開し、各船はばらばらに湾口に向かったそうです」
「じゃあなんで火攻めに時間がかかったの?」
「敵船と接触したあとに予想以上の抵抗を受けたようです。夜間は敵兵のほとんどが上陸していて易々と敵船を制圧できると想定していたのに、中型以上の船には多数の兵が残っており、迎撃の体制をとるのも素早かったそうです」
「なにそれ。夜襲があらかじめ敵に漏れていたみたいじゃないの」
「兪将軍はそう考えておられるようです。ただ対倭寇戦のために狼兵軍が投入されたことは沿海住民のあいだでは広く知られていますから、敵も増強された明軍が早晩攻めてくるとは予想していたでしょうけど」
「わたしたちが出撃したのは金山衛着陣の翌朝よ。予想していたとしても、その予想よりずっと早いように思うけど」
「確かにそうですね」岑匡は顎をさすって考え、「ならば、花蓮さまを知る人物が、花蓮さまなら明軍を急かしてすぐに兵を動かすと読んだのかもしれません」
 岑匡のいう「人物」は、むろん杉沢庄次郎のことを指している。花蓮は戦場でみた杉沢の微笑みを思い出した。あの男ならばそれもあり得る。
 岑匡が続け、
「兪将軍の隊は予想外の抵抗を受け一時は敵が優勢となったのですが、その窮地を黄維(こうい)が救いました。砲撃と敵の思わぬ猛反撃で兵の士気が下がり、兪将軍は作戦中止も考えたようですが、黄維の部隊だけは戦局が不利となれば一層奮起し、敵に斬り込んでいきました。その勇猛さをみて、他の部隊も再び士気を上げ、盛り返したそうです」
 兵五百を率いて兪大猷の麾下にはいった黄維の得意とする武器は拳であり、拳と投げ技で敵を倒していく。動きが鈍くなるという理由で防具すらつけずに戦場を駆ける豪傑である。
「黄維が一番の働きだったということね。それは嬉しいわ」
「海上の兪将軍の本隊が撤退すれば、陸に上がった別働隊は孤立し潰滅することになりますから、田州兵であれば誰であっても死にものぐるいとなるでしょう。それに、船の上では近接戦となり弓も槍も使えず剣も大きく振れませんからね。拳だけが武器の黄維でも戦えたのでしょう」
「なにそれ。仲間のことを悪くいうものじゃないわ。功を立てたのだから素直に喜べばいいじゃない」
 と、花蓮は叱るように言った。岑匡は、「それは失礼しました」と表情乏しく謝ってから、花蓮ら別働隊のことに話題を転じた。
「湾岸の西端に達したときは非常に危険でした。勢いに乗り過ぎて隊形が崩れ、それがために敵に隊を分断されてしまいました」
「わかっているわよ」
 自覚していることを指摘され癇に障った。いつもであれば臆せず諌言をできる岑匡を頼もしく思うのだが、黄維の働きにけちをつけたことへの憤慨が尾を引いている。
「分断された後方の隊救出に向かったわれらを遮断した敵は相当に手強い相手でした。おそろしいほどに指揮官の下で統率がとれており、個々の武のちからも強い。倭寇のうち真倭は二割ほどと聞いていましたが、あれは真倭の部隊だったのではないでしょうか」
「そうね。おそらく杉庄が集めた真倭の部隊だと思う」
「極めて勇猛でもありました。あの隊はあたかも死を全く恐れぬかのようでした」
「勇猛さでは私たちのほうが上よ」
 と、花蓮が根拠なくいうと、岑匡は構わずに、
「杉庄のあの舞をみたのは三度目です。あれで兵に指示を出しているのです」
「そうね。蝶のような舞で動く陣ということで、胡蝶の陣ってところかしらね」
「あの舞でどのくらいの大きさの部隊を動かせるのか不明ですが、もし大規模な一軍を動かせるのだとしたら大いに警戒しなければなりません。個々の兵がいかに強くとも、われらの伍を単位とした戦いで封じることができるので恐れるに足りませんが、もし倭寇の大軍があの舞で動くのだとしたら、それは脅威です。倭寇の組織力を侮るべきではなさそうです」
「大軍を動かすのは無理でしょ。舞がみえる範囲だとすれば、胡蝶の陣は数百人規模がいいところでしょう」
「油断すべきではありません。大砲への対処も考えねばなりませんし。それから、今回の夜襲では鉄砲による攻撃に遭遇しませんでしたが、鉄砲についても考えておかねばなりません。大海に出たのですから井戸のなかとでは戦いかたを変える必要があります。一度われらの戦いを見直すべきです」
「なによそれ。田州が井戸のなかだと言いたいの。見直しをしている時間なんてないわよ。いまこの瞬間にも沿海のどこかの村が襲われているのよ」
「軽挙はなりません」
 と、岑匡が落ちついた声でいうと、虫の居所が悪い花蓮は声を荒らげて、
「そういう訳知り顔をするところがあなたのだめなところなのよ。あの混戦のなかで敵兵の様子をみている暇があったらなぜ敵を倒さないのよ。そのあいだにも仲間が何人も殺されたのよ」
 岑匡は口を噤んだ。
 腹の虫が収まらない花蓮は、やぶ蚊を追うように手の甲を振り岑匡を下がらせた。

◇◆◇◆◇◆◇

『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
アマゾンの購入ページはこちらです 書籍紹介サイトはこちらです

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?