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双渓橋【瓦氏夫人第77回】

双渓橋

 翌朝、花蓮は胡宗憲とともに嘉興城を出て東へ向かった。胡宗憲は保靖兵千人を率いている。
 途中で胡宗憲の軍と分かれ、金山衛から北上してきた田州兵と合流し、双渓橋に布陣した。

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 嘉興城から東に流れる川は、双渓橋をくぐるといったん川幅を広げ、そのあとすぐに、南東へ流れる平湖塘(へいことう)と北東へ流れる嘉善塘(かぜんとう)の二本の河川に枝分かれする。いま平湖塘を船で遡りつつある敵軍は、嘉善塘と合流し川幅が広くなったところで横に広がって、川幅が再び狭くなる双渓橋のところでつかえて、進みが遅くなるはずだ。
 そこを狙う。
 双渓橋の上と川の両岸に、はこがまえの形に踏み台をずらりと並べた。弓兵五百を前後二列に並べ、後列の者は台に乗り前列の者の頭上で射撃する。そうして、双渓橋の前で停滞している敵を一気に叩くのだ。
 
 花蓮は双渓橋の中央で、西陽を背中に受けて立っている。
 音がなく、耳に聞こえるのは風の音だけである。これから戦闘が始まるというのが嘘のような静けさだ。
 右岸の一里(約四百㍍)向こうに立つ兵が白い旗をあげた。右岸には二里ごとに計四人の兵を配しており、旗の色で敵の距離を知らせる。白い旗は敵が八里先に来たことを意味しており、青、黄、赤はそれぞれ六里、四里、二里だ。
 旗の色が白から青に変わった。
 花蓮は指先を濡らし、風向きをみた。強くはないが、味方に有利な西からの風が吹いている。
 黄色い旗が振られた。
 花蓮は腕を高く挙げ、左右にゆっくり振った。河岸から少し離れて身を隠していた弓兵たちが出てきて、それぞれの配置についた。
 赤の旗が振られた。
 敵船団の姿を目視できた。徐々に近づいてくる。
 嘉善塘と合わさり川幅が広くなった場所に敵船団がさしかかった。
 敵船を操作するのは兵ではなく、周辺で挑発した漁民や住民だ。軍隊として組織的な隊列を組まず、各々がただ嘉興を目指して進んでいるので、敵は横に広がり、川面が船で秩序なく混み合っている。
 敵はまだこちらに気づいていない。西陽のために敵からこちらはみえにくいはずだ。兵たちはみな身をかがめて花蓮の合図を待っている。花蓮もかがみ、欄干の陰に身を隠した。
 東端にいる田州兵の前に敵船がさしかかる。敵は未だこちらに気づいている気配がない。油断しきっている。しかし花蓮は動かない。さらに引きつけるのだ。
 敵船はさらに進み、船上の者の顔がみえるほどに近づいてきた。敵兵たちの話し声が聞こえる。ときおり笑い声も混じる。
 花蓮はやおら立ち上がった。
 先頭の船の舳先に立つ敵兵が花蓮に気づいたが、それとほぼ同時に花蓮が矢を放った。
 矢は敵兵の眉間に突き立った。
 五百の弓兵が一斉に立ち上がり、矢を放つ。
 五百本の矢が船団の上に降り注ぐ。
 先頭の数艘は、双渓橋からの集中攻撃を受け、乗員はみなハリネズミとなった。漕ぎ手を失った船はその場で漂った。
 弓兵たちが矢を連射する。
 不意を衝かれた敵からの反撃はまだない。あとから来る船が前に漂う船にぶつかり、次々と動けなくなっていく。
 矢の嵐のなかをかいくぐり、操作不能に陥った船のあいだを抜けてくる船がある。
 しかし双渓橋の真下で動けなくなった。あらかじめ川底に等間隔に竹を突き刺してあり、それに引っ掛かったのだ。
 立ち往生している船の真上から矢の雨が降りそそぐ。
 川面は漂流する船で埋め尽くされた。倒した兵は全体の十分の一にも満たないだろうが、後続の船は死傷者を乗せて浮かぶ船が邪魔になり、もはや川を使って嘉興城に達することは不可能となった。
 敵の進行を阻むという目的は果たしたのだ。次は、後続する敵兵を川の北岸に上陸させなければならない。
 花蓮は右腕を伸ばし南を指さした。
 南側には近隣の住民を待機させてある。住民たちは一斉に声をあげ、爆竹を鳴らし、鍋を叩き、ありとあらゆる音を出した。
 そして騎馬隊に、敵の上陸を待ち侘びているかのように川の南岸を駆けさせた。
 加えて、弓兵は川の北岸より南岸により厚く配してある。敵には川の南側に官軍の陣があるかのようにみえているだろう。南岸に上陸を試みれば川に追い落とされると恐れるはずだ。
 後続する無傷の敵船が北方向に向きを変え始めた。北東方向へ流れる嘉善塘にはいっていく。
 弓兵は敵船団の背に向かって弓を射続けた。
 敵船団の最後尾が矢の射程のそとに出て、嘉善塘をくだっていった。
 
 完璧な勝利である。
 花蓮は双渓橋の欄干にひょいと飛び乗り、両腕を高く上げ、
「やった。うまくいったわ」
 と叫んだ。
 川岸の弓兵たちがそれに応え、花蓮に向かって勝鬨を上げた。
 兵たちが花蓮を思慕と畏敬とを織り混ぜた笑顔でみつめている。
 花蓮の真うしろに太陽が沈もうとしている。
 兵たちからは、欄干の上でくるりと舞った小さな体が、神々しく輝いているようにみえている。

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