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徐海西進【瓦氏夫人第75回】

徐海西進

 花蓮は白泫軍の将兵を金山衛まで護送したあと、すぐには衛にはいらず、そのまま騎馬隊を率いて周囲の哨戒をおこなった。
 衛の周りを一周したが敵の姿はなかった。敵は追ってきてはいないようだ。
 闇のなかを、城門に掲げられた松明の明かりを目印にして衛所に近づいていくと、城門の上で突如大歓声が沸いた。
 馬を並べた阮袞(げんこん)が驚いた顔で言った。
「われらを迎えているようです。われらが救った白泫将軍配下の兵だけではないですね。兪大猷将軍の兵もみないます」
 花蓮は城門の上をみあげた。兵たちが両手を高く上げ、満面の笑みで花蓮に向かってなにかを叫んでいる。
 花蓮が無表情に前方に視線を戻すと、阮袞が、
「手を振ってやってはいかがですか」
 と笑った。
「よしてよ。大会戦で勝利したわけでもあるまいし。敵から逃げてきただけじゃない。それに白将軍の兵はいっぱい死んでいるのよ。笑う気にはなれないわ」
 阮袞は、
「おや?お腹に大きな虫が——」
 と言いながら、槊(さく)(騎兵用の長槍)の根元で花蓮の右脇腹を小突いた。
 花蓮は虫が苦手である。「ひゃっ」と声を出して右腕を跳ね上げた。
 城門の兵たちがどっと沸いた。
 花蓮は上げた腕を下ろせなくなり、城門の上に向かって作り笑いをしたあと、腕を上げたままで阮袞を睨みつけた。
 阮袞は
「あれ、すいません。勘違いでした」
 と、しらっと言った。
 
 花蓮はその足で兪大猷の営舎にいった。
 兪大猷は笑って言った。
「白将軍の救出、みごとだったようだな。よくやった」
 花蓮は軽く顎を引いてうなずいた。
「丘の上で君の顔をみたとき、喜びのあまりに涙が出そうになったと言っていた」
「白将軍がそう言ったの」
「ああ。それほどに嬉しかったのだな。出陣の直前に口論となって、白将軍は君に向かって『あてにしない』と言い放ったそうじゃないか。だから、果たして救援に来るかどうか不安だったのだろう。白将軍は衛所のそとで君を出迎えると言っておられたのだが、深手を負われているので今日は休んでいただいた」
 花蓮は苦笑しつつ、自分の醜態を晒して感情を素直に表す白泫に多少の好感をいだいた。
「それから白将軍は、君に『借りができた。借りは必ず返す』と伝えてほしいと言っておられた」
「へえ、じゃあ、なにか買ってもらおうかしらね」
「張經総督も喜ばれるだろう」
「どうかしらね。まあ白泫軍があのまま全滅していたら、張総督は辺境への左遷では済まなかったでしょうから、ほっとはしたかもしれないけど」
「いや、そうではない。君のために喜ぶだろうと言っているのだ」
「私の?」
「君の夫は乱を起こした。どのような理由があったにせよ、岑猛の名は叛乱を起こしたものとして歴史に刻まれ後世に語り継がれることになる。総督はその不名誉を帳消しにする功を立てる機会を君に与えたいと考えておられた。それゆえ今回のことを大いに喜ばれるだろうと思うのだ」
 胡宗憲(こそうけん)が田州に張經の使者として来たとき、この遠征は名誉を回復する機会だと言ってはいた。胡宗憲は田州のためを思って言ったのではなく、田州軍を誘い出すためにそう言っただけだと思っていたが、張經は、真に田州のことを思い、田州軍を呼んだということなのか。
「とはいえ、今回のことで田州の不名誉が消えたというのは早計だ。軍功は大きいが、三百年、四百年ののちの人々の田州岑氏に対する印象を変えるほどとは言えない。遅かれ早かれ倭寇との大きな戦がある。そこでさらに大きな功を立てることを張総督も私も願っている」
 花蓮は黙ってうなずいた。
 兪大猷の側近が部屋にはいってきて、伝えた。
「柘林(しゃりん)の倭寇が動き始めました。その数八千。西に向かって進軍中」
「なに?主将は誰だ」
「徐海です」
「むむ。敵本隊が動き始めたということか。葉明軍への援軍か」
 兪大猷の顔が強ばった。白泫軍を破った葉明軍は田州騎馬隊の急襲によりいったんは体制を乱したが、すぐにも立て直し、再び金山衛に向かって進み始めるだろう。白泫軍の後方を襲った新五郎軍と合わせれば二千超。それに八千が加われば金山衛を守り切ることは困難だ。
 側近はすばやく首を横に振り、
「いえ、西といってもやや北寄りに進んでいます。目標はここ金山衛ではないと思われます」
「では、やつらの狙いはなんだ。嘉興(かこう)か。まさか蘇州ではあるまいな」
「そのいずれかだと思われます。敵の進行方向にはまず嘉善(かぜん)があります。嘉善のあとに北に向かうか、西に向かうかではっきりします」

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 葉明率いる軍が金山衛に向かい柘林を出たころ、揚子江岸の川沙(せんさ)からも林碧川(りんへきせん)が率いる倭寇軍二千が北東の上海方向に向かって出撃し、現在湯克寛(とうこくかん)率いる官軍千五百と交戦中である。葉明軍、林碧川軍はほぼ同時に動き、その直後に徐海軍が動き始めたことから倭寇の三軍は互いに連携しているものと思われる。兵数は合計一万を大きく超える。これほどの大規模な作戦であれば、その狙いは張經がおり対倭寇軍の本営が置かれている嘉興で、明朝に対して決戦を挑もうとしているのか。もしくは、明国最大の経済都市蘇州や、その先の副首都南京を目指そうというのかもしれない。
 これまでの倭寇の戦いは、村々を襲い、そこにある財貨を掠めとるというものだった。しかし今回は、明という国そのものを奪い取ろうとしているかのようにみえる。
 青くなる兪大猷に対し花蓮は言った。
「すぐに北に向かうわ」
「うむ」と、兪大猷はうなずいたが、「田州軍全てが北上しては金山衛が手薄となる」と、躊躇した。
「金山衛への攻撃は敵の本隊が後方から挟み撃ちされるのを防ぐためのものよ。葉明軍はもともと金山衛を落とす気などなく、包囲して金山衛からの援軍がそとに出られないようにしようとしているのよ。われら田州兵は包囲される前に衛を出る」
「そうかもしれん。しかしもし葉明軍が本気で金山衛に攻めかかってきたならば、田州兵なしでは守り切ることはできん」
「そんなこと言って衛に閉じ籠っていたら、まさに敵の思うつぼよ」
 と、花蓮は迫るように言った。
 金山衛守備の任を帯びた兪大猷は、もし金山衛を落とされれば大きな罪を問われることになる。保身を考えれば躊躇するのが当然だ。しかし兪大猷は花蓮の目をみたままで考えてから、
「よし、わかった。田州兵の火にも飛び込む勇猛さは、守るよりも攻めるほうに使ったほうが有効だろうしな。すぐに衛を出て北に向かってくれ。いや、私もいくことにしよう」
「だいじょうぶなの?それこそもし葉明軍が本気で攻めかかってきたならば、守将でありながらも敵の攻撃直前に衛を出た兪将軍は敵前で逃亡したとみなされ重く罰せられることになるわよ」
「構わん。私がここにいても、いなくても、金山衛が落ちるときは落ちる。しかし北では、将も兵もひとりでも多く必要だ」
 軍人らしい潔いさぎよさをみて、花蓮は頬を緩めた。
「『遅かれ早かれ』ではなかったな。数日以内に大会戦となる。この機会を掴んで田州の名を中華に轟かす大功を立てよ」
 と、兪大猷も笑って言った。
 
 花蓮と兪大猷は少数の従者とともに深夜に金山衛を出て、本営のある嘉興に向かった。田州兵七百と兪大猷の兵五百も、夜が明ける前に衛を出て北に向かう。
 闇のなか、花蓮は馬上で考えた。
 誰に言われずとも大功を立てなければならない。功を立て叛乱者という不名誉を払拭すること、それがこの遠征のひとつの目的なのだから。
 ただ、岑栄がわざわざ会いに来たのはなぜなのだろう。
 岑栄は、ほかにも為すべきことがあると、わざわざ教えに来てくれたのかもしれない。
 多くの将と兵を失いながらもここで戦い続けることは果たして正しいことなのだろうか。
 花蓮は、花兎の背中で揺れながら、思いを巡らせた。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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