天差平海大将軍【瓦氏夫人第72回】
王江涇の戦い
天差平海大将軍
柘林(しゃりん)にいる倭寇軍の首領は徐海(じょかい)である。
三年前に浙江巡視王忬(おうよ)が王直の本拠瀝港(れきこう)を攻めたとき、徐海はその直前に王直と仲違いして瀝港を出ていたので難を免れた。
そのとき、徐海は日本にいた。
徐海は、四年前に初めて南九州の大隅にいって以来、大隅、薩摩等との関係が深い。毎年冬を南九州で越し、南九州各地の藩主や豪族、富商から多額の活動資金の投資を受けている。徐海集団内の日本人も薩摩、大隅、日向、種子島など南九州出身の者が中心である。
ちなみに王直は五島や平戸の藩主の庇護を受け活動したので、徐海は南九州、王直は北九州と、両者のあいだには棲み分けがあり、海商としては両者は競業関係にはなかったようだ。
徐海は一年前(嘉靖三十三(一五五四)年)にも春先に日本から浙江沿海に戻り、柘林を拠点にして海賊行為をおこなった。とはいえこの年の徐海の動きについて記す文献は少ないので、他の倭寇の活動に紛れるような、規模の小さな活動しかしなかったのだろう。
秋から初冬にかけてを日本で越したあと、嘉靖三十四(一五五五)年初に徐海は浙江沿海に戻ってきた。
一年前とは規模が大きく違う。南九州から連れてきた日本人も多いが、それ以上に明人が増えている。瀝港が閉鎖され王直が日本に引きこもってしまったため、拠点も支柱も失い四方に散った倭寇が徐海のもとに集結したのだ。
徐海直下の者がおよそ一万以上。同盟関係にあって共同作戦を採ることを約束している別集団の人数を合わせれば数万にのぼる。大軍である。
これだけの人数を集めるには、明確かつ他者の心を掴む大望がなければならない。徐海は自らを「天差平海大将軍」と呼んだ。海を平定する使命を帯びて天に差遣された大将軍、というような意味か。
なお、王直は自らを「徽王」とか「浄海王」と呼んだという。徽王の「徽」は彼の出身地の安徽省からとったもので、浄海王というのは海を浄(きよ)める王という意味だろう。「王」を自称した王直は、「将軍」を名乗った徐海よりもひと回り大きな大望をいだいていたとみてもいい。おそらく王直は海の王者として君臨せんと考えていた。他方、徐海は、明の副首都の南京まで攻めのぼることを考えていたとしても、明朝を転覆し、もしくは明の一部を切り取るというような明確なビジョンは持っておらず、単に権勢を誇りたいと思っていたのではないか。明の悪政を正すとか、民により良い生活を提供するとか、そのような理想のために戦ったのではなく、財を成し、周囲から畏れ敬われ、いい女を手に入れたい。そういう気持ちが彼を動かしていたのではなかろうか。
そんな徐海がこの年、柘林に拠点を構えたあとに最初にしたことは、崇徳(すうとく)への侵攻だった。崇徳には羅含章(らかんしょう)が居を構えていることを徐海は知っていた。羅含章は徐海がまだ普浄(ふじょう)という名で杭州にいたときにみそめた妓女、王翠翹(すいぎょう)を、徐海が思うに、掠め取り、身請けした人物である。崇徳へ攻め込んだ徐海は羅含章の家から王翠翹と王緑妹の義姉妹を強奪した。
花蓮は杭州で徐海に、「翠翹を確かに幸せにでき、彼女の気持ちが変わるほどにあなたが大きな人物になればいいのよ。大きな人物になって出直しなさい」と言った。徐海は八年越しで「大きな人物」となり、王翠翹の気持ちが変わったかどうかはわからないが、好きな女を手に入れたのだった。崇徳はやや内陸に位置し、徐海の拠点の柘林からは約百㎞も離れている。そこへいくには明軍の総司令部がある嘉興のすぐそばを通らなくてはならない。それにも関わらずわざわざ攻めたのだから、徐海の王翠翹に対する執着は相当に強かったと想像される。
徐海と王翠翹を巡ってはこの先もドラマがあり、『金雲翹』(清代の中国の小説をもとにつくられたベトナムの小説)等複数の小説の題材にもされるのだが、その時期はこの物語の範囲内にはないので、さらに述べるのは別の機会としたい。
嘉靖三十四(一五五五)年四月。
徐海は、いままでにない大規模な作戦を始めようとしている。
これまでの倭寇は村や船舶を散発的に襲撃するばかりだったが、徐海は杭州湾と揚子江に挟まれる広範な地域を攻めようと考えている。「江浙熟すれば天下足る」とか、「蘇湖熟すれば天下足る」と言われるが、これは江浙地方もしくは蘇州と湖州周辺の穀物が実れば中国の全ての人々の食料は足りるという意味で、この地域が天下一の大穀倉地域であることを表すことばである。この地域には蘇州、杭州といった大経済都市もある。その全域を占領するという野望を徐海はいだいた。
まさに天下を揺るがす大作戦であり、明朝の側からみれば、これまでの倭寇の被害は時間が経てば完治し得る表面的な外傷だったが、この作戦による傷は内臓にまで届き、死をもたらしかねない深く大きな刺し傷となる。
徐海は、四月の中旬、新暦でいえば五月上旬を待って柘林周辺の冬作の麦の借り入れを配下に命じた。
むろん自分たちで植えた麦ではない。農民から奪い取るのだ。これにより兵たちの食料を確保し、船で他地域へ運び販売して利益も得る。明軍の兵糧を枯渇させることにもなる。
その動きを知った張經は、対抗して麦を刈り入れるために農夫二百名を金山衛に送り込んだ。が、農夫が金山衛に着いた四月十七日には、周辺の麦のほとんどが既に刈り取られたあとだった。
そして徐海は、明軍の主力が駐屯する嘉興攻撃を決める。
明軍は衛所などに閉じ籠ってばかりで積極的な攻勢に出ようとしない。援軍の到着を待っているものと思われ、ならば兵力が増強される前に叩いておくべきと徐海は考えた。
徐海軍には作戦担当の軍師がおり、官軍の金山衛に向かう輜重隊を襲撃したのはその軍師の策であった。補給を断った上で周辺の麦を刈り入れてしまえば官軍が完全に干上がるという考えである。金山衛のそばの漕涇(そうけい)で田州兵を罠にはめたのも軍師の策で、普陀山での田州兵の強さをみて、それを叩き、戦力を削っておくことがのちの戦いを有利にすると考えた。策は当たり、鐘富(しょうふ)、黄維(こうい)といった花蓮の腹心を含む将兵を倒し、また、田州兵の強さに萎縮していた兵の士気を上げることに成功した。
その軍師が立案した嘉興攻撃の作戦はこうである。
まず別働隊が金山衛を攻める。消極姿勢の官軍はおそらく衛所から出てこないので、無理には攻めずに衛所を包囲する。そして主力部隊が金山衛の北を通り抜けて明軍の総司令部がある嘉興を攻撃する。注意すべきは金山衛からの援軍に後方を襲われることだが、別働隊が金山衛を包囲し援軍の出撃を阻むので、主力部隊は背中を気にすることなく嘉興を叩くことができる。
なお、この作戦の想定には一部間違いがある。『明世宗実録』によれば、張經が待ち続けた永順と保靖の土兵各三千が四月二十日に松江に到着しており、これにより明軍の兵力は増強され、張經は消極姿勢を捨てる。
そうとは知らない徐海軍は、永順、保靖土兵到着の翌日の四月二十一日、雨のなかを葉明(ようめい)を将とする別働隊兵三千が金山衛攻略に出発した。
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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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