見出し画像

懐かしく癖の強い文字【瓦氏夫人第79回】

懐かしく癖の強い文字

 花蓮は秋茂橋にいる。
 その目の前には、北方に遥かに続く水田が広がっている。
 花蓮の意識はそのさらに向こうへ向けられている。
 田植えを待つ水田のなかを、倭寇の大軍がこちらに向かって進みつつあるはずだ。
 南下する倭寇軍をこの場所で迎え撃つというのはもともとの想定どおりだが、想定と大きく異なるのは味方の兵数だ。
 本来は嘉興駐留の約五千の兵がここにいるはずだった。しかしいまここにいるのは田州兵七百と保靖兵の一部のみだ。胡宗憲は保靖兵千人を率いて倭寇軍を北に誘い込む作戦をおこない、作戦は成功したものの兵に小さくない損傷を受けた。戦闘可能な兵が集まってきているが、その数は五、六百というところだろう。つまり秋茂橋の兵は田州兵と保靖兵を合わせて千五百に満たない。
 倭寇軍を北側から挟撃するはずだった兪大猷率いる永順兵も、もとは三千人だったが平望の北方での戦いで数をかなり減らしているはずだ。
 倭寇軍は目標をひとつに定めずに北へ南へとさまよっているようにもみえるが、そのあいだに官軍は体制を崩され兵力を大きく削られてしまっている。
 ——敵の術中に嵌っている。
 という気がしてならない。
 花蓮は、これまでに何度も味方に数倍する敵を倒してきたという自信があり、今回も、かなり不利な状況とはいえ、勝機は必ずあると思っている。
 が、なかなかいい方策を思いつかない。
 花蓮は、目の前に広がる青い水田をみながら考え続けた。
 なぜいい考えが出てこないのか。花蓮はその理由を知っている。
 江浙にやってきたことが正しいことだったのか。果たしてここで戦い続けていてもいいのだろうか。そういう疑念が頭を離れない。田州の将兵をもうこれ以上ひとりも傷つけたくないという気持ちが摩擦となって、迫りくる倭寇軍を倒す最適な方法にたどりつくことを邪魔しているのだ。
 背中で遠くから呼ぶ声がした。
 莫蘭(ばくらん)の声だ。
 花蓮は素早く振り返った。莫蘭が畦道を駆けてくる。
「さすがは莫蘭ね。戻るのはまだ数日先だと思っていたわ」
 と労うと、いつもは表情に乏しい莫蘭が、息を切らしながら嬉しそうに笑った。それほどまでに無理に急いだ行程だったのだろう。
「それで、どうだった?慈溪は」
「姚淶(ようらい)さまの家にいってまいりました」
「どうだったの?」
 と、花蓮は急かした。
「姚淶さまのご兄弟がおられました。花蓮さまの使いで来たというと、『ようやく来られましたか』と喜ばれました」
「どういうこと?来るのを待っていたということ?」
「はい。もう何年も。姚淶さまが亡くなられてからなので、十八年間待ち続けたのだそうです」
「わからないわ」
「生前姚淶さまは、岑猛さまが亡くなられたのは自分のせいだとひどく悔やんでおられたそうです」
 岑猛討伐をおこなったのは姚淶の父姚鏌(ようばく)であり、姚淶は姚鏌を諫めたが姚鏌は聞き入れなかった。
 莫蘭が続け、
「そのためでしょう、岑猛さまが亡くなられたあとの田州のことをずっと気に掛けておられたようで、花蓮さまが岑猛さまの遺志を継いで田州を再建するところをよくみておられたとのことです。そして、『田州一国を背負うのだから困難にぶつかることもあるに違いない。そのときには友のことばをお伝えしなければならない』と、よく言っておられたそうです」
「ことばを伝える?わたしに?」
「はい」
 莫蘭は文箱を差し出した。
「これは?」
「姚淶さまが桂林におられたときに岑猛さまと将来の夢を語り、その夢を天に向かって誓い、書き留めたものだそうです。姚淶さまが、亡くなられる直前に、いつの日か訪ねてくる花蓮さまに渡してほしいとおっしゃられたそうです」
 文箱の蓋を開けると、甘く濃厚な香りがした。姚淶の家で焚かれていた香(こう)の香りだろうか。幼女のころに、猛の背中におぶられて歌墟(かきょ)の山からくだった日を思い出した。あのときにどこからともなく漂ってきた夜来香の香りが蘇った。
 きれいに畳まれた紙をていねいに開く。
(猛哥(もうにい)の字だ)
 癖が強く、力強い文字が並んでいる。
 そこには治水、灌漑、教育の充実など、猛が田州奪還後にやりたい諸施策が箇条書きされており、兵を強化して確固たる防衛体制を構築したあとには、軍事、外交の両面を駆使して周辺諸国へ影響力を拡大し、広西右江流域に覇を唱える、とある。
 そして改行し、それら全ては田州と右江流域の民をあらゆる苦しみから解放し、安寧を与え、豊かにし、幸せにするためであり、それを妨げるものはなんであっても、敵であれば無論のこと、自分の野心であっても、権勢や名誉、富を求める欲であっても、全て排除しなくてはならず、いかなるものにもその邪魔はさせない、と力のこもった筆で記されている。
 続けて、異なる筆跡で姚淶の夢が語られて、末尾には、これらを天に対する誓いとし、ふたりのうちのどちらかが道に迷うことがあれば、他のひとりは必ずこの誓いを思い出させ道を示す、とあって、ふたりの署名が並んでいる。
 読み終わり、花蓮は紙を胸に抱いて目をつむった。
 まぶたの裏に姚淶と酒を酌み交わしながら夢を語る猛の姿が浮かぶ。
 花蓮は、吹いてきたそよ風に乗せるような声で、
「全ては田州の民を幸せにするため……野心も、権勢や名誉、富を求める欲もみんな排除して……」
 と、つぶやいた。
 莫蘭が穏やかな声で、
「いかがですか?」
 と訊いた。
「うん。ありがとう。おかげで道がみえたわ」
「道、ですか?」
「うん。決めた。帰るわよ」
「えっ?帰るって、どこへ」
「もちろん田州よ。ほかにどこに帰るところがあるのよ」
「よろしいのですか?」
「よろしいもなにもないわ。猛哥(もうにい)が帰れって言ってるから帰る」花蓮はそう無邪気に言って、「まあ本当はいますぐ帰りたいところだけれどね。さすがにそうもいかないから、この戦いを片付けたら帰りましょう」
「はい。そうですね」
 と、莫蘭は朗らかに言った。
「となると、この戦いね——」
 花蓮は再び紙をしっかりと抱いて、空を見上げて目をつむり、
「さて、どう戦おう——」
 と、天に問いかけるようにつぶやいた。
 花蓮の心の中の迷いは消えた。すると自然に脳内に戦場の俯瞰が映り、敵の動きが明瞭に浮かび、味方のあるべき配置がありありとみえた。
 花蓮は天に向かって、
「うん。そうね。それしかないわね。そうしよう」
 と言って、莫蘭の顔に視線を戻した。
「もう一回お使いにいってくれる?疲れているところ悪いけど」
「もちろんです。次はどこへ?」
「今度は東」
「東ですか?」
「上海方面の湯克寛(とうこくかん)将軍の援軍にいっている白泫(はくげん)将軍のところにいって、『貸しを返してちょうだい』って言ってきて」

◇◆◇◆◇◆◇

『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
アマゾンの購入ページはこちらです 書籍紹介サイトはこちらです

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?