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田州へ帰ろう【瓦氏夫人第82回(最終回)】

田州へ帰ろう

 王江涇の戦いは明軍の勝利に終わる。
 この戦いは、局地戦を除けば、第二次倭寇での明朝による初めての勝利である。それまで常に劣勢だった明軍は、この勝利を境に巻き返す。王江涇の戦いは、倭寇との長い戦いにおける分水嶺となる重要な一戦であった。
 田州狼兵軍が加わるまでの明軍は、軍紀は弛緩し、怯懦で弱腰だった。髷を頭に載せ、日本刀を振りかざして奇声を上げる倭寇の姿をみれば、とても歯が立たないと決めつけて逃げ惑った。しかし田州狼兵軍は、複数の文献にも記されているとおり、その軍紀は極めて厳格に守られ、死を恐れず常に勇猛で果敢だった。金山衛着陣から王江涇の戦いまでの一ヶ月半のあいだに、瞬く間に複数の勝利を収め、倭寇といえども無敵ではないということを、はっきりと示した。
 この田州狼兵軍の姿をみて明軍は変わった。田州狼兵軍は、江浙地方にいたのは数ヶ月間に過ぎないのだが、荒れ狂う倭寇の嵐を鎮めるために、「歴史的」というべき大きな役割を確かに果たしたのである。
 
 『倭変事略』によれば、王江涇の戦い直後の五月五日、田州狼兵軍が金山で一五〇人の倭寇を全滅させている。その後も周囲で飛び火のように倭寇が出没し、その火を田州狼兵軍が消してまわるということが続いた。
 そのため花蓮は、田州に帰ると心に決めているにも関わらず、江浙の地をなかなか離れることができなかった。
 そして六月二十四日、事件が発生する。
 趙文華の讒言により張經、李天寵(りてんちょう)、湯克寛(とうこくかん)らが逮捕されたのである。張經は永順、保靖の土兵が到着するまで積極的な攻勢をおこなわないという方針を採ったが、趙文華はそのことをさして、
〈(いつまでたっても攻めずに)兵糧を徴発して人民を苦しめ、討伐の機を失し、倭寇の弊を拡大した〉
 と上奏した。趙文華は嘉靖帝の寵臣、厳嵩(げんすう)に近く、厳嵩の口添えもあって上奏は容れられて、張經らは捕らえられ北京へ連行された。そのうち、湯克寛はのちに許されるが、張經と李天寵はこの年の十月に斬に処されることになる。
 この事件は花蓮の心を大きく揺さぶった。
 田州、永順、保靖の土兵がいなければ王江涇の戦いでの勝利はなく、彼らを呼び寄せたのは張經である。張經に大きな功があることは明らかなのに、罪を問われるのは不合理としか言いようがない。そのような讒言を行った趙文華はもちろんだが、それを聴許した嘉靖帝にも失望せずにはおられなかった。そのような者たちに従い戦うことを、堪え難く思った。
 花蓮は七月三日に江浙地方を離れる。
 その理由は、みずからの体調不良のためとしたが、張經、李天龍、湯克寛らの逮捕のわずか八日後であり、逮捕に不満で抗議の意を示すための帰国ととられるのは必定だった。
 それでも花蓮は、敢えて田州への帰路についた。
 *
 田州に戻った彼女は戦没者たちを弔う日々を過ごし、数年ののちに五十九歳で没した。
 彼女は現田陽県田州鎮に葬られた。当時の墓は毀滅したが、再建された墓の墓碑には、
〈前明嘉靖特封淑人岑門十六世祖妣瓦氏太君之墓〉
 と刻まれた。「明嘉靖帝より淑人を授けられた岑氏第十六代の妻の瓦氏の墓」という意味で、淑人というのは三品官の者の妻に授けられる爵位で、岑氏第十六代はすなわち岑猛である。
 伝承によれば、嘉靖帝は彼女を〝二品夫人〟に封(ほう)じ、また、彼女の好物が檳榔子(びんろうじ)であると知って田州の右江岸に〝檳榔関〟を設置し、産地の雲南から田州を通って搬出される檳榔子(びんろうじ)の一部を税として田州に納めることを義務づけた、といわれている。このうち二品夫人に封じられたというのは、三品官の妻に授与される淑人に封じられたという事実が誤って伝えられたのだろう。そして檳榔関の設置のほうは全くの創作と思われるのだが、張經らの働きは趙文華の讒言により遮られ嘉靖帝の耳には届かなかったのに対し、彼女の功績は広く認知され、大いに評価されたからこそ、これらの伝承が生まれたのではなかろうか。
 彼女に救われた江蘇地方の人々は〝石柱将軍〟とか〝宝鬓将軍〟といった尊称で呼び、その武勇を後世に語り継いだ。
 田州や帰順州など複数の地では彼女を祀る廟が建てられたという。嘉靖帝や江浙の人々は彼女の軍事面しか知らないが、数十年間にわたる執政をみていた広西右江流域の人々は、内政を含めた治績全般を讃え、その人柄を愛し、心から追慕したことが知れる。
 
(瓦氏夫人・終わり)

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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