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海神を祀る【瓦氏夫人第70回】

海神を祀る

 この時代の最悪の奸臣といえば内閣首輔(しゅほ)(首相に相当)の厳嵩(げんすう)だが、厳嵩に巧みに取り入り出世し、工部(こうぶ)尚書(しょうしょ)(建設大臣に相当)等を歴任、しかし最後には失脚して厳嵩とともに『明史』の奸臣の項に伝を収められることになる人物に趙文華(ちょうぶんか)がいる。
 趙文華は嘉靖八(一五二九)年の進士で、嘉靖二十四(一五五五)年、工部(建設省に相当)の侍郎(じろう)(次官)であったときに倭寇平定の任を受け「巡視東南防倭事宜」という官職を授けられ江浙地方に派遣された。
 倭寇対策のためには既に張經が派遣されている。張經は総督であり趙文華の巡視より格が上で、また張經の前職は兵部尚書であり、これも趙文華の工部侍郎よりも上である。しかし趙文華は中央で権勢をほしいままにする厳嵩に極めて近く、一方の張經は清廉なひとで厳嵩に疎まれていた。職位の高い張經と実権を有する趙文華が並び立つかたちとなり、軍務の経験が長く兵部尚書をも務めた張經に、軍務のしろうとの趙文華が張り合って、なにかと口を出そうとするため、対倭寇政策は混乱することになる。
 趙文華が着任し、倭寇対策として最初におこなったことは、海神を祀ることだった。
 実は趙文華は、海神を祀って味方につければ倭寇の害はおのずと鎮まる、と嘉靖帝に建議して、それが聴許されて巡視に任じられた。それゆえ、この祭事に対する意気込みは並々ならぬものだった。
 ——神頼みで倭寇を倒せるのなら、なんの苦労もない。
 張經以下の諸官、諸将はみなそう思い、なんともばかばかしかったのだが、趙文華のちからを畏れて参列しないわけにもいかなかった。
 花蓮は、元来祭事などひとの集まることが嫌いではないのだが、このときは岑匡を失い気分がひどくふさいでいたため、適当な理由をつけて欠席しようと考えていた。しかし張經はわざわざ金山衛にまでひとを寄越し、趙文華は皇帝に代わり祭事をおこなうのだから、欠席すればどんないいがかりで罪を着せられるかわからない、と説得した。花蓮はしぶしぶ出席に応じた。
 祭事は松江(そんこう)でとりおこなわれた。
 そのあと宴が開かれ、そこで花蓮は趙文華につかまった。
 酔いのまわった趙文華は自分の席を立って花蓮の横に座り、朝廷で自分の力がいかに強いかということを自慢げに話した。
 花蓮は愛想の笑顔もなく、趙文華の目をみることもなく、ただ話を聞き流していた。
 口を動かし続ける趙文華が花蓮の肩に手を回してきた。
 花蓮はなにもいわずにその腕を掴み、持ち上げながらくるりと回転させ、そのまま後ろ手にねじ上げた。
「う、ぎゃ、ぎゃぁ」
 と、趙文華がカラスの鳴き声のような悲鳴を上げた。
 ねじ上げた腕を押すと、趙文華は椅子から落ちて床に転がった。
 諸官、諸将がみな青ざめた。ある者は慌てて花蓮を叱責し、ある者は床に屈み込む趙文華のところに駆け寄り抱き起こそうとし、ある者は目を背けて関わるまいとした。
 趙文華が肩をさすりながら立ち上がり、口を開いた。諸官、諸将はその口からどんなことばが出るかと緊張したが、趙文華は意外にも声を出して笑って、言った。
「さすがは『舞戟如飛倭寇畏之(飛ぶように戟を振るい舞う、倭寇これを畏れる)』と言われるだけのことはある。うむ。実に頼もしい」
 これは昨今浙江沿海の住民が花蓮の勇を讃えて口々に言っていることばである。普陀山の夜襲でも、輜重隊を襲撃した賊徒との戦いでも、少なくない兵が倒されたものの、いずれの戦いにおいても田州軍は確かに倭寇軍を撃破した。連敗続きだった明軍のなかにあって、着陣早々短期間において二連勝したのだから沿海の民は驚きかつ歓喜した。その田州軍を率いる花蓮を英雄とみなし、彼女が戦場を飛ぶように駆け巡り、舞うように武器を振るう姿を想像して「舞戟如飛倭寇畏之」と絶賛したのだ。
 花蓮は「フン」と鼻を鳴らし、自分の前の料理に箸を伸ばしながら、
(この男は生理的に合わない)
 と思った。態度も、口にすることばも、薄く陰湿な顔立ちも、しまりのない体型も、じめじめしてこもった声も。どれをとっても胸が悪くなる。
 しかし、趙文華は再び花蓮の横に腰を落ち着けた。
「朱紈(しゅがん)もだめだった。王忬(おうよ)もだめだった。そして張經もいつまでたっても成果をあげられない」
 と、趙文華は嘲笑を浮かべて言った。朱紈は倭寇が巣くう双嶼(そうしょ)港を攻撃したが、そのあと倭寇の害は一層広がった。朱紈のあとに倭寇討伐の任に就いた王忬は、王直の密貿易の拠点瀝港(れきこう)を攻め落としたが、拠点をつぶされた恨みを晴らそうとするかのように、瀝港閉鎖の直後から倭寇が大暴れをし始めた。王忬のあとの張經が着任してから一年が経ったが、めだった成果は出ておらず、倭寇の害は悪化の一途にある。
「しかし私は違う。私がここに来たからには早々に倭寇を平らげる」
 趙文華の声はくぐもっており、宴の喧騒にまぎれて聞きとりづらい。それゆえ花蓮は全く話を聞いていないのだが、趙文華は、
「ということで、君には大いに期待しているのだよ。よろしく頼むよ」
 と言いながら、再び花蓮の肩の上に手を置いた。
 花蓮は、顔には笑みを浮かべつつも、汚れたものを持つように趙文華の袖をつまんでどかしながら、
「なに?いまなんて言ったの」
 と、おざなりに訊き返した。
 趙文華は、宴の喧騒にかき消されないようにと声を張って、
「私はなんとしてもすぐに成果を出したいのだ。そのために君には大いに働いてもらいたい」
 早急な成果がほしいというのは心から思っていることなのだろう。前任者たちが成し得なかった倭寇討伐を軽々と実現してみせれば朝廷内でさらに高いところに手が届く。他方で、自ら建議した祭事をおこなったにも関わらず討伐に失敗すれば、これまでに積み重ねてきたものがみな崩れかねないのだ。
(あなたのために戦うわけじゃないんだけどね)
 と思いつつも、花蓮は笑って、
「よく聞こえないのよ。ごめんなさいね」
 とぞんざいに言い、厠所へいくふりをして立ち上がった。

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『倭寇の海英傑列伝 瓦氏夫人』は、16世紀の広西壮族の女性で、一軍を率いて倭寇に勝利したスーパーヒロイン、瓦氏夫人をモデルとして描く大河小説です。こちらではその全文を連載で掲載しています。
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