◆読書日記.《J・G・バラード『太陽の帝国』》
<2024年1月27日>
ジェイムズ・グレアム・バラード『太陽の帝国』読了。
イギリスのSF文壇で60年代ニュー・ウェーブの中心人物であったJ・G・バラードが自らの少年時代を自伝的に、フィクションも交えて描いた長編小説である。
本作は「訳者あとがき」によれば「イギリス読書界の圧倒的支持を得た作品」なのだそうだ。それもあってか「一九八四年、純文学畑で最大最高の文学賞といわれるブッカー賞の有力候補として最終選考に残った」とあり、その後1987年にスティーブン・スピルバーグによって映画化もされている。
つまり本作は、バラードの半自伝的小説であると同時に、彼が発表した作品の中でも、一般にも大きな反響を呼んだ代表作の一つでもあると言えるだろう。
という事で、2024年の一発目として読んだバラードの長編『ハイ・ライズ』に続いて、彼の代表作の一つを読む事となった。
幾つかのレビューで、本作がバラードの「原体験」として、本作に出てくる様々な景色が他の作品にも出てくるという指摘があったのが気になっていたので、『ハイ・ライズ』から入ったバラードの「内面世界の謎」の一つの手がかりを探す一助として読み始めたのである。
本作はバラードの他の長編作品と比べて分量が多く、そのために読みごたえもズシリと重い。
そして、いつものバラードの作品と同じく、意表を突かれるような展開もサプライズエンディングもなく、ストーリーそのものはとてもストレートで地味なものだ。
が、これが「実際に起こった事の体験記」をフィクション化した半自伝的小説だからこそ、興味深い当時の様子というのが幾つも伺えて、読んでいて抜群に面白かった。
そして、確かに本作には『ハイ・ライズ』にも見られる風景――例えば「枯れたプール」であったり「誰もいなくなった破壊された住宅」であったり「閉鎖環境内でのギスギスした人間関係」であったり「最も文明的なイギリス人らが原始人のような非文明的な生活に堕ちていく様」であったり――といったものが幾つも散見され、バラードを作り上げた原体験がどの辺にあったのかという事の手がかりを伺わせるという点でも興味深い。
本作はいつものバラードの、どこか捻くれたスタンスは見えなくもないものの、一見して「戦記文学」的な雰囲気もあり、確かに「純文学畑で最大最高の文学賞」と言われるブッカー賞の候補になるのも分かる気がする。
が、読んでいてぼくは幾度も「実際この作品にどれくらい"フィクション"が含まれているのだろうか?」という点が気になった。
それが分からないと、バラードが自分の作品で繰り返し使っているお気に入りの道具立てや設定といった諸々の「原点」というものが、どの程度実際の少年時代の体験に基づいているものなのかが分からない。
というのも本作はあくまで「"半"自伝的小説」であり、実際に著者が経験した事を「踏まえた」フィクションとして書かれているのである。
これは本書の冒頭に掲げられた著者の言葉である。
これからも分かる通り、この小説は実際にバラードが体験したことを下敷きにしているようなのだ。
いちおう、本書の「訳者あとがき」にも、本書に関連のありそうな部分についてのバラードの略歴を紹介しているので引用してみよう。
ここにも書かれてる実際のバラードの経験と、本書の主人公の状況との明らかな相違点とは――実際にバラードが少年時代に捕虜収容所に拘禁されていた際に、彼は両親や妹と一緒であったという事、それに対して本作の主人公であるジム少年は、本作の最初のほうで両親と別れ、以後最後の章に至るまでずっと一人で行動している――という点である。
これ以外にどのような違いがあったのかという事は、残念ながら本書には記載されていない。
しかし、この「捕虜収容所では家族と共にいた」という事実と、それを自伝的小説にした際に、「その当時の体験から家族の存在を除外した」という事の意味は、非常に大きいのではないかと、ぼくは見たのである。
例えば、収容所の生活はもっと楽だったとか、衛生状況や食事などはもっとマトモだったとか、そういう改変があったのであれは、著者は自身の一般人捕虜収容所の体験を書いた事について「わたしが目にした出来事に基づいている」等という言い方はしないであろう。――さすがにそこまでいくとペテンが過ぎる。
問題は、なぜ著者はこの経験に対して、小説化する際「家族と一緒のものではなく"自分一人だけ"の経験」という微妙な改変を行ったのかという点である。
勿論、多くの作家は「半自伝的」な作品を書く場合「自分の気の進まない改変」をするはずもない。何かしら、この体験を小説化する際に「そのほうが都合がいい」と考えるからこそ、改変が入るのである。
改変しなくて良いのならば、事実をそのまま書けば良い事で、わざわざ「"半"自伝的小説」にする必要はないからである。
改変をしなくてはならない、何かしらの動機があったのだ。
つまり、ぼくが思うにおそらくバラードが本作で意図していた重要な点とは、自分の捕虜収容所体験を「一人きり」で再体験する、という事にあったのではないか。
◆◆◆
根拠は幾つかある。
一つは、本書の主人公・ジム少年は、本作に出てくる龍華収容所での体験を、決して苦しいものとしてではなく、「望ましいもの」という形で受け取っているからである。
改めて考えてみると、バラードが日本軍の一般人捕虜収容所に収容されていた期間というのは、12歳から15歳まで――現代日本で言えば中学校の三年間の青春時代の全てを、ずっと収容所の中で過ごしてきたという事になる。
本書で語られている限りでは、彼はもともと上海で生まれ育ち「ヨーロッパ人の大邸宅が並ぶアマースト・アヴェニュー」の一角に住むイギリス系繊維会社の支配人の息子であり、中国人の召使いを何人も抱え、運転手つきのパッカードを所有する上流階級であった。
平たく言えば、エリートのボンボンだったのである。
この辺りのバラードの環境は、本書の主人公・ジムのそれとほぼ同じである。
普段ジムは「ペルシア製のスリッパ、刺繡のついた絹シャツ、青いビロードのズボン(P.15)」を身につけ、中国人運転手に送り迎えをしてもらい、中国人召使いが気に入らない事をしたら一人前に脅しつけるような事さえしていた。
それが、戦争が起こってからというもの、ジムが見下していた召使いの中国人からは殴られ、ヨーロッパ人は疎開してアマースト・アヴェニューは廃墟となり、道端に人間の遺体がゴミのように捨てられ、しばしば上空を戦闘機が行きかう世界に変わってしまった。
そんなジムも、バラードと同じく12~15歳の多感な時期をほぼ捕虜収容所の中で過ごす事となる。
そこで経験した事とは、上海に住んでいた上流階級のイギリス人らが徐々にやせ衰えていき、皮膚は潰瘍で爛れ、夥しい蠅に集られながら、隙があれば配給された食料をちょろまかしあい、他人に施しを与える人間から順に健康を害し、風呂も入れず不衛生な状態で次々に死んでいくという状況である。
まるでこれは、『結晶世界』や『ハイ・ライズ』等バラード作品で何度も見せられる、ゆっくりと世界が滅亡していく課程をそのまま見せられているかのようだ。
しかし、ここで注意しておきたいのは、このような捕虜収容所での体験を、ジム少年は決してネガティブなものとは捉えていないという点である。
上に書いたように、彼はこの体験を作品内では一貫して「望ましいもの」であるかのように受け取っているのである。
彼は捕虜収容所の中に作った共同墓地の隣にある菜園の豆やトマトを見ながら、しみじみ「実に平和だった」と思うのである。
「ここ(※捕虜収容所)にいるとよくあることだが、彼は永久に、戦争が終わってからもずっと、この収容所に留まっている自分の姿を夢想した。(P.260-261)」とさえ書いている。
凡その人はこの心理に大きな違和感を持つ事だろう。――これはバラードの『ハイ・ライズ』にも、全く同じような奇妙な心理が出てくるのである。
これは、前回『ハイ・ライズ』を紹介した記事でもぼくが指摘し、多くのレビュアー達も指摘している「違和感」でもある。
上に引用したのはぼくが前回『ハイ・ライズ』のレビューで指摘した事なのだが、この文章の「高層マンション」に「龍華収容所」を、「住人たち」に「ジム少年」を代入してみれば、この内容がほぼそのまま『太陽の帝国』に当てはまるのである。
ジム少年は、龍華収容所で様々な過酷な経験をするものの、けっきょくその経験を「イヤなもの」だとか「トラウマ的なもの」だとかという捉え方を、まったくしていないのだ。
龍華収容所に収容されている人々は、『ハイ・ライズ』の舞台となる高層マンションの住人らと同じく、いずれも上流階級のイギリス人らであり、彼らは同様にこの閉鎖状況の中で「瓦礫とゴミと糞尿と死体に彩られ荒廃してドロドロの不衛生状態の中で原始人のような姿」になっていくのである。
が、『ハイ・ライズ』と本作の違いは、本作ではこの状況に「安息と快適さのようなものさえ感じている」のは、ほぼジム少年一人なのである。
上に書いたように、本作の意図が「自分の捕虜収容所体験を「一人きり」で再体験する事」であったのは、このような状況に「安息と快適さのようなもの」を感じていたのは、およそ主人公のみだったからかもしれない。
当然の事だが、大人たちはこのような状況を歓迎するはずもなく、主人公の気持ちに共感し肯定してくれる者など一人もいなかっただろう。そしておそらく、両親も同様だっただろう。
このような過酷な収容所の状況を歓迎してしまうジム(=著者)の世界観を追求しようと意図した場合、ジムに近しい登場人物としての「家族」というものは、「ジムの世界観の中で、ジムの感情を否定し相対化するネガティブな存在」だからこそ、この物語からは削除されなければならなかったのではないだろうか?
ジムは、よほどこの捕虜収容所の中に安らぎを感じていたのだろう。
劇中、ジムは幾度となく自分の意思でこの捕虜収容所に戻ってくるのである。
最初は日本軍の捕虜になって連れてこられた。
その後、彼は捕虜収容所の中で数年間を過ごし、収容所の捕虜たちは日本の敗戦が濃厚になってきた時期に、日本軍に連れられて南島へ移動させられる事となる。
そうやって一度は捕虜収容所を離れたものの、ジムは南島のスタジアムで、収容所でお世話になったミスター・マクステッドに「あいつらと一緒に行ってはいかん……ジム……ここに残れ。(P.345)」と腕を掴まれたので、彼と共に死んだふりをして日本軍をやりすごした。
マクステッドはすぐに亡くなるが、そうやって一人になったジムはその後すぐ捕虜収容所に引き返すのである。
収容所は別のイギリス人らが占拠していた。
ジムは彼らと共にまたしばらくの間、収容所の中で生活する事となる。
が、その後収容所を占拠していたイギリス人らは、ジムから南島のスタジアムに日本軍がヨーロッパ人から徴収した様々な略奪品を置きっぱなしにしているという話を聞き、それらを漁りに南島へ向かう事となる。
再び龍華収容所から離れたジムたちは南島のスタジアムへ行き、そこで今度は中国国民党軍の襲撃を受け、離れ離れになってしまう。
一人になったジムは途中、知り合いのアメリカ人一向と共に行動するものの、けっきょく最後は一人になり、ラストは再びあの龍華収容所に戻ってくる。
本作の主人公・ジムは、このように劇中、幾度も捕虜収容所に戻ってくるのである。
主人公のジムが、ストレートに著者の言いたい事を代弁するキャラクターだったとすれば、著者がこの作品に込めた思いもジムと同じく、自分が青春時代を過ごした「懐かしい捕虜収容所」に戻る事だったのではなかろうか。
そして彼はその後何度も、『結晶世界』や『ハイ・ライズ』といった自分の作品の中で「黙示録的な荒廃の中で朽ち果てていく状況」に舞い戻って行くのである。
揚子江に流される棺は、河口まで流れていくと、再び潮流に乗って上海の街まで戻ってくる。――このエピソードは、本作の冒頭とラストの一行に掲げられている。
「棺が何度も繰り返し戻ってくる」というのは、――本書を読んだ方ならピンと来る方も多かったと思うが――まるで本作の劇中、何度も龍華収容所に戻ってくるジム自身の事を象徴しているかのようだ。
何より、冒頭の一行とラストの一行に同じ話題を持ってきているという事は、「川に流された棺が、川岸に何度も戻ってくる」というこのエピソードを、著者自身も意図して使用しているのは明白であろう。
勿論、ここでいう「棺」は、言うまでもなくジムの象徴である。
ジムは死んでいる。
バラードも死んでいる。
だが、彼らの魂はもうずっと以前から肉体を離れ、時の潮流に乗って青春時代を過ごした捕虜収容所に何度も何度も戻ってきているのである。――
彼の魂の旅路に、家族が伴っていないという事実は、彼のこういった奇妙な心情を理解できるのは、周囲に自分ただひとりだけだったからこその「一人旅」になったのではないだろうか。
◆◆◆
――と、非常に綺麗に纏まったので、自分としてはここで本レビューを締めたい所ではあったのだが、本作におけるジム少年や、『ハイ・ライズ』に出てくる高層マンションの住人らの、不可解とも思える「黙示録的な荒廃の中で朽ち果てていく状況を、歓迎すべきものであるかのように受け取る」という心理の「謎」について、少しだけ思う所を述べておきたいと思ったので、蛇足とは思いながらも、もう少々お付き合い頂ければ。
本作では、ジムの心理状態というのはあまり詳しく記されておらず、いくぶん主人公を突き放したような書き方がなされている。
そのため、捕虜収容所にずっといたいと願うジムの心理の「原因」の手がかりがほとんど見つからず、そのため登場人物の不可解な心理に違和感を思える読者も少なからずいただろうと思わせられる。
ジムの心理は、ほとんど『ハイ・ライズ』の主人公らの心理と同じなのだが、『ハイ・ライズ』のほうには多くのレビュアーがこの奇妙な心理に対して違和感を指摘しているものの、本作に関するレビューを見渡すと、その手の指摘はさほど多くはない。
だがそれは、ただ単に著者自身が本作の主人公のモデルであり、ジムと全く同じ体験をしているからこその「実体験からくる説得力」があるからでしかないと思われる。
読者からすればそれは奇妙ではあるけども、真赤なウソと言い切れないだろうから、著者自身が「そう思った」と言われれば納得せざるを得ないだろう。
そのように本作では決して多くはないジムの内面描写の中でも、珍しくジムが詳細に「死」について考えている所が一か所ある。そこに何かしら手がかりがあるのではないか。
実はぼくも、子供の頃はこの頃のジムと似たような精神状態の時期があった。
もしかすると、ぼくがバラードの世界観に深い共感を持ってしまうのは、そういった過去持っていた死生観が共通しているからかもしれない。
ちなみに、上に引用した文章の最後にある「自分には何の価値もないことをジムは知っていたのだ」という部分は、ぼくが思うに「(他の人たちに比べて)自分には何の価値もない」という意味ではなくて、「(自分だけではなく人間という存在は、そもそも)何の価値もない」という意味での「何の価値もない」ではないかと思っている。
でなければ「彼にとっては、(略)パイロットたちの死、ひいては自分の来たるべき死さえ大歓迎なのだった」等と、他の人の死も自分の死も、両方とも含めての「大歓迎」という感覚にはならないだろう。
バラードは、子供の頃から死を見過ぎたのではないかと思うのである。
人間は簡単に死んで、ゴミクズみたいな死体を晒す。
ジムがまだ上海の親元で上流階級の暮らしをしていた頃、上海の街では至る所で戦争のフィルムが上映されていたという。彼はそういったフィルムを夢に見るまで貪るように見ていたのである。
それだけでなく、引用した記述にもある通り、ジムはその目で野ざらしになった骨やコレラによって死んでいく人々や、槍の穂先に掲げられた生首といったものも、目撃しているようなのである。
「人間の尊厳」等というものは、その世界観の中には欠片もなく、自分も他人も何の意味もなく簡単に死んで、簡単にあのゴミクズみたいな死体の一つに加わる未来が真隣にすぐ見えているような環境なのである。
そんなバラードが、自分の周囲にいる全ての人間を巻き込んで人類が滅亡する所に魅了されるのは、何故かぼくには良く理解できるのだ。
というか、彼の少年時代とは、そういった自分の「死」というものさえ考えずにはいられない環境であったろうと思う。
そういう体験を経た人間にとって、人生における「死」を全く無視したような逃避的な願望を描いた「幸せなフィクション」や「無邪気なエンタテイメント」などは、書けなかったではないか。
だから、常に登場人物らの「死」と共にあるのが、彼流の「スペキュレイティブ・フィクション=思弁小説=SF」になったのではなかろうか。
本作には、冒頭から夥しい死体が現れる。
ジム少年にとって「死」とはフィクションでも何でもなく、非常に身近にある「リアル」だったのだ。死は子供の時からすでにバラードのすぐ隣にも、あった。
その「死」には何の意味もない。そして、それはいつでも自分を狙っているのだ。――それなのに、どうしてこのちっぽけな人間などという生物に「価値がある」等と思えるのか?
バラードは無神論者だったという。
常に「死」を考えずにいられないジム少年の目には、第31章で南島のスタジアムから目撃した「長崎を焼き尽くした強烈な原爆の光」はどう写っただろうか?
人間が、とんでもなく無力な存在であるという事を再確認させられるかのような、唖然とさせられる圧倒的な滅亡の風景。
その後の人生で、バラードはこういった「黙示録的な景色」を何度も何度も繰り返し書き、何度も何度も繰り返し「死」について考える事になる。――その諸作で人類の滅亡を、それでも多少の詩情を交えて書くのは、そんなゴミみたいな人間たちを悼む彼なりのささいな「価値づけ」でもあったのであろうか。
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