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◆読書日記.《高木光太郎『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』》

<2023年12月30日>

<概要>
人は嘘をつこうとしていないのに、体験していない出来事を見たり聞いたりしたと証言してしまうことがある。証言の聴き手が、それと気づかないうちに虚偽の証言や自白を生み出す手助けをしてしまうこともある。人間の記憶は脆く、他者の記憶とのネットワークによって成立している。これを法廷という非日常の「現場」に生かすことは果たしてできるのか。興味深い実例を交え、心理学研究の最前線をわかりやすく説明する。

本書・袖の内容紹介より引用

<編著者略歴>
高木光太郎(たかぎ・こうたろう)
1965年(昭和40年)東京都生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。東京大学大学院教育学研究科助手、東京学芸大学海外子女教育センター講師、助教授を経て、東京学芸大学国際教育センター助教授。発達心理学、認知心理学、法心理学専攻。

本書・著者略歴より引用

 高木光太郎『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』読了。

高木光太郎『証言の心理学 記憶を信じる、記憶を疑う』(中公新書)

 非常に読みやすくてシンプルな内容ながら、多くの示唆に富む、法廷のおける「人の記憶」についての心理学。

 犯罪の容疑者や事件の目撃者などの証言は、しばしば実際に起こったものとはかけ離れた内容であったりする――というのは、犯罪学などでも昔から良く知られたものだが、本書はそんな証言者たちの記憶違いは何故起こるのか?間違った証言で冤罪事件を巻き起こさないためにはどうすればいいのか?という問題が本書のメイン・テーマとなる。

 ちなみに著者は現在、青山学院大学の教授で本書の様な法心理学だけでなく学習などに関わる「コミュニケーションの過程、特にそこに「ズレ」が生まれている状況」に関心を持って研究をしている方なのだそうだ。

 ここで「コミュニケーションの"ズレ"」と「記憶違い」というものに、いったい何の関連があるのか?――と不思議に思った方もきっと多いだろう。

 ここに通常、人が「物事を記憶する」という事について持っている一般的イメージと、その実情との大きなギャップが存在しているわけである。

 著者によれば、人の記憶というものはパソコンやスマホのストレージ(記憶装置)のように、それ単体で完結するものではないというのである。

 人間が見たもの、感じた事というのは、全てが脳の記憶に残るわけではない。それは、細かい部分の記憶だけではなく、しばしば非常に重要な事でさえあっさり忘れてしまう事さえある、非常に「脆い」ものなのだ。

 本書のメイン・テーゼであり、心理学の分野でも多くの結果が出ているのが、この「人の記憶は非常に脆いものだ」という事である。

 しかもそれは「これは絶対に間違いない」と自分で思っている記憶でさえも、間違っている事がしばしばあるのだ。

 多くの研究が、自分の記憶が正しいと思っている程度(確信度)と実際の記憶の正確さが単純な対応関係にあるわけではないことを明らかにしている(伊東・矢野、二〇〇五)。絶対に正しいと確信している記憶が間違っていることもよくあるのだ。容疑者を目の前にした瞬間に目撃者が「この人です、間違いありません」と声をあげたら多くの人が目撃者の記憶を信じてしまうだろう。実際、このように高い確信度を示した目撃者が間違った人物を指さしてしまうことで冤罪が生み出されることもある。

本書P.36より引用

 この時点で既に、一般にある「人の記憶」のイメージとは乖離しているのではないだろうか。

 だが、これほど「法廷での証言」において重要になる要素もないだろう。

 しかもこの問題は、われわれ一般人でも無関係な話ではなく、裁判員制度によって法廷に呼び出される可能性がある以上、一般人であっても知らなくて良い情報というものでもない。
 何しろ法廷で「この人です、間違いありません」とはっきり断言する証言者の記憶が、全く違っている可能性もあるのだから。

 人の記憶は、一度脳の中に入ったらそれはスマホのストレージのように正確なデータのまま保存されているわけではない。
 人間の記憶というものは、物事を見た、体験したその瞬間から忘却され、変形し、書き換えられていってしまうという性質のものなのである。

 物事を見た、体験したその直後に、他人に言われたちょっとした一言が、その記憶を変形させてしまう事もあるし、その体験について話し合った人とのコミュニケーションによっても記憶は簡単に書き換えられてしまう。
――ここに、本書の著者の関心事である「コミュニケーションの"ズレ"」と「記憶違い」に関するテーマが含まれているわけである。

 人の記憶というものは、とにかく「脆い」ものだ。
 だから、人は大切な事を覚えたり、人と共有した経験を覚えるために、自分の頭の中だけでなく、普段から様々な方法を用いて、自分の不完全な記憶を補完しているのである。

 一つの方法は他者と過去を語り合うことによる間違いの修正や欠落の穴埋めである。このよなコミュニケーションは「共同想起」(joint remembering)と呼ばれている。私たちはまたメモや写真など、過去の出来事を正確に思い出すのに役立つさまざまな記録や手がかりを自分のまわりに用意している。記憶を助けてくれるこのような記録や手がかりは「外的記憶補助」(external memoriy aid)と呼ばれている。

本書P.39より引用

 人は普段から無意識に、他人とのコミュニケーションによって自分の記憶を補完するし、メモや写真撮影や日記などといった記録によって記憶を補完しているのである。

 そして、人間が自分の経験した事を覚えたり、忘れたり、その内容を変形させるという事に、コミュニケーションは大きな影響を与えている。これは、著者による具体例を見て頂いたほうが分かりやすいかもしれない。

「昨日は飲んじゃったね」
「うん。久しぶりに馬鹿みたいに飲んだね。というかあれば馬鹿だな」
「結局、最後まで残ったのは俺たちとHさんとOさんと、ああそれからYさんね。結局おやじだけになってしまう」
「いやHさんは珍しく先に帰ったでしょ。朝早くから町内会の草むしりがあるとか言って」
「あ、そっか。Hさんは帰った。え、草むしりじゃなくて資源ゴミ回収の係だよ。三軒目に入って十五分くらいでね。でも間に合ったのかな、終電」
「どうだろ。またタクシーかな」
「そういえば俺三軒目の飲み代払った?」
「え、三軒目は全部おごってくれたじゃない」
「俺が? ほんとに? なんで?」

本書P.40-41より引用

 読者諸兄もこういった雑談を友人や知人らとする事は珍しくないのではないだろうか。

 上の例を見てもらっても分かる通り、人は自分の記憶の曖昧な所を他の人の話によって補助し強化するし、逆に他人との話によってせっかく自分の持っていた「正確な記憶」を「間違った記憶」に変形させてしまう事もありうるわけである。

 人の記憶は、PCやスマホのように、記録されたら次にアクセスがあるまでその記憶領域内におとなしく保存されているデータなのではなく、「ネットワーク状に外に開いている」のである。

 何度も言うように、人の記憶は「脆い」ものだ。
 だから、このように「ネットワーク状に外に開いている」人間の記憶というものは、固定的なものではなくて、時間によって失われて行き、人とのコミュニケーションによって変化し、自分の受けた印象や思い込み等によって容易に書き換えられてしまうのである。

 人の記憶は、このように刻々と変化するものなのだ。

 だが、それが普通に日常生活を送っているだけならば、そんな脆い記憶であっても支障が出るわけではない。
 人は何を覚えていて、何を忘れていいか生活をしながら無意識に取捨選択をしており、例えば昨日会った人物の洋服の色や、電車で見かけた見知らぬ他人の髪型など「忘れても支障がない事柄」といったものの記憶などは、自然と失われていくものなのだ。
 そんな些細な物事にまで自分の記憶を使っている人など滅多にいないのである。

……が、それは日常生活の上での話である。

 法廷で問題とされ、厳しくその記憶内容を問題とされるのは、そういった「普段だったら忘れても支障のないような、些細な物事」なのである。

 証言という行為は、記憶があってはじめて可能になる。しかし、記憶は証言という行為にしっかりとした足場を与えてくれるわけではない。記憶はそれ自体が揺れ動き、変化してしまう厄介な代物である。「記憶を語ること」はビデオ映像を再生するようなものではない。ここまで見てきたようにそれは、むしろ、熟成したワインから素材である葡萄の香りや味を探し出すような繊細で間違いやすい作業なのである。しかも私たちは、いま自分を支えている足場(記憶)が適切なものなのかどうか、間違ったところに不適切に立てられた危険なものなのか、判断することがあまり得意ではない。いま思い出していることが体験をきちんと反映した記憶なのか、「熟成」の結果、変容してしまったものなのかをうまく判別することができないのである。

本書P.35-36より引用

 人の記憶は簡単に外部とのコミュニケーションによって変形してしまう。
 だから、例えば捜査官の質問の仕方であったり、容疑者の取調べを行う取調官の取調べの仕方によって、証言を行う人の記憶も変化する可能性がじゅうぶんにありうるというわけである。

 人の記憶に基づいた「証言」「自白」というものは、現在も裁判では有罪無罪を左右する「証拠」となっている。が、その証拠は、非常に失われ易く変化しやすい「脆い」人の記憶というものに基づいている、というわけなのである。

――ここに、裁判における目撃者の証言や容疑者の自白に関わる大きな問題があるのだ。

 時として裁判に立つ証言者は、何も嘘をつこうと意図しているわけでもないのに、記憶の変化によって実際にあった事とは違う事を証言してしまう。それが仮に当人が「間違いなく覚えている(確信度の強い状態)」と自覚していてさえ、こういった事故は起こってしまうのだ(実際に本書では、証言者の記憶違いによって起こされた冤罪事件「自民党本部放火事件」や「甲山事件」等を紹介している)。

 では、果たして人の記憶とはどこまで信頼して良いものなのか?
「証言」が重要な証拠となる裁判では、この問題は非常に重要なのである。

 心理学では百年以上前からこの「人間の記憶の脆さ」というものに注目し、知見を重ねてきている。
 例えば、本書で取り上げられている実験心理学によって分かっている「目撃証言に影響すると考えられる諸要因」には以下の様なものがある。

 凶器を持った人物を目撃したとき、その凶器に注意が集中して犯人の顔など他の側面の記憶が不確かになる「凶器注目効果」。暴行をうけるなど「ストレス」が高い状況での記憶の低下。写真で見せられただけの人物を実際に見たと勘違いしてしまう「写真バイアス」。別の場所で出会った人物を犯罪の現場で見たと思い込んでしまう「無意識的転移」。そして子どもや知的障害者など、証言が苦手な人々に固有のさまざまな問題。

本書P.92より引用

――問題なのは、実験心理学で判明しているこれらの要因が、実際に起こった様々なケースに、どれだけ適用できるかという事である。

 本書の後半では、具体的に目撃証言研究に貢献した研究者エリザベス・ロフタスや、日本において自白や証言に関わる心理研究を行っている浜田寿美男の「供述分析」のアプローチなどを紹介する事で、心理学が具体的にどのようなアプローチで裁判の証言に関わっているかを説明している。

「人の記憶は脆い」が、「日本の裁判ではその記憶に基づく証言が強い力を持っている」――この問題をいかに解決すればいいのか?

 本書で提示されるテーマはこのように非常にシンプルで分かりやすいものの、この問題は非常に厄介だ。

 脳の記憶システムというものは未だに全て解明されているわけではないし、個別のケースを考えれば、状況は千差万別だ。
 しかも、著者も指摘している通り、裁判で扱われる「過去に起こった出来事」というものは「正解のない世界」なのである。

 これは思った以上に様々なテーマを孕んだ問題なのかもしれない。

◆◆◆

……という事で本書の内容紹介はこれくらいにして、以下は本書を読んでいてぼくなりに考えた「様々なテーマ」についてのあれこれを、つらつらと綴っていこうと思う。

 もともとぼくは「人の記憶」の不思議さというものに興味を持っていた。

 特に最近になって、今書いている原稿のように、読んだ本の詳しい記録をとるようになると自分の記憶の正確性というものが非常に気になってきてしまう。

 自分の読んだ本の内容というものは、時間を置いて同じ本を読んでみると、驚くほど覚えていないという事に気が付く。
 以前も原稿用紙1枚に収まる程度の分量の簡単な読書メモなどはとっていたのだが、その程度の記録だと、後にその本の内容を思いだそうとしてみても、ガッカリするほど何も覚えていなかったりするのである。

 今の様にしっかりとした長い分量の批評や評論文を書くようになると、以前読んだ本の内容を引用したり参照したりする事も多くなる。
 そのために過去に読んだ本の該当箇所を読んでみたりするのだが、驚くほど記憶と違っているものがあったり、忘れている内容があったりする。
 また引用のために、どの本に具体的にどういう記述があったか確認しようと該当箇所を探す事も多いのだが、いくら記憶を頼りに本を引っ繰り返して探しても見つからず、大変な時間がかかって結局諦めてしまうケースもしばしばある。

 これが小説であったならば、多少内容を覚えていなくても再読する楽しみが出来たとポジティブに捉える事もできるものの、大変な時間をかけて読み終わった分厚い哲学書なんかの内容を、後日その大半を忘れてしまっている事に気付いた時には、物凄い徒労感と喪失感を味わわなければならない。

 ぼくが最近、いま書いているようなレビュー原稿で、読んだ本の内容をある程度の分量をかけてまとめているのは、こういった徒労感を味わわないためでもあるのだ。

 読んだ本の内容など本の袖に書いてある内容紹介をそのまま引用すれば事足りるのだが、ぼくがわざわざ自分の言葉でかみ砕いてその内容を説明しているのは、その本の内容を自分がどの程度かみ砕いて理解できているのか試している、という目的が一つあるのと、もう一つは自分の言葉でまとめる事によって、その本に書かれていた内容で特に覚えておきたい部分の記憶を強化するという目的がある。

「読んだ本の内容を自分の言葉で要約する」というのは記憶術の本にも書いてある事だし、書かれた事は、例え後日忘れてしまっても読み返して思い出す事が出来る。

 ぼくの中で、読んだ本の要約をするという事は、半ば自分の中に強固な記憶インデックスを作る、という感覚でいるのである。

 本書でも書かれている通り、人間の記憶は「ネットワーク状に外に開いている」ものだ。
 他人との対話での合意や、メモや写真や日記やSNSの投稿など、様々な「外部の情報」との柔軟な繋がりによって複雑なネットワークを構成しているのである。

 つまり、これをポジティブに捉えるのならば、人は自分の記憶を何も「自分の頭の中だけで暗記しなければならないもの」と思うのではなく、メモや写真やその他様々な記録によって自分の記憶を補助すればいいものだと思えばいいのである。
「あの件については、あの人が詳しいので尋ねればいい」といったように、他人とのコミュニケーションも「外的記憶補助」として利用すれば良い。

 この際にぼくが重要だと思っているのは、「どこに何の情報がある」という記憶だけは、失ってしまうとそこに辿り着くまでが大変になってしまう。故に最近ぼくが重視しているのは、自分の中に「記憶の強固なインデックス」を作る事なのである。

 読んだ本の内容はけっこう簡単に失われやすいし、それを読んで考えた事なんかも、すぐにメモっておかないとすぐ忘れてしまう。
 だから最近は読書する際はメモや付箋を傍らに置いておくのは必須事項になっているし、いま書いているようなレビューの文章もならべく詳細に、くどくどと書かねば気が済まないのである(笑)。

 思えば、ビジネス上でも失敗を減らす方法として「人間とは忘れるものだ」という事を前提にして作られているものも多いだろう。

 最近のスケジューラ―に必ずリマインダーが付けられているのも「人間とは忘れるものだ」という事を前提にしているからだし、企業の会議では必ず議事録がとられるのは合意事項の「証拠」として、話し合われた事が忘れ去られないためでもある。

 人は自分が外出した時、ついさっき玄関の鍵を閉めたか閉めなかったか、そんな些細な記憶でさえ自信がなくなってしまう事がある(皆さまも似たような経験に心当たりがあるだろう)。
 自分の行動の些細な事でさえすぐ忘れてしまう――だからこそ仕事でルーティン・ワークをやる時に、決まった行動を間違えず行いそれが間違いなくやったかどうか忘れないようにチェックシートを使ったり指さし確認を行ったりする。

 このように日常生活にも関わってくる「人の記憶は脆い」という、この基本的な認識というものは、意外に重要な認識なのではないかと思うのである。

「人の記憶は脆い」という事をポジティブに捉えれば、巧く記憶を活用する事ができるかもしれないし、ミスを未然に防ぐヒントになるかもしれない。

 ぼくがこれを「思った以上に様々なテーマを孕んだ問題かもしれない」と言ったのは、例えばこういった事が考えられるからでもある。

◆◆◆

 裁判で証拠となる「証言」というものは、その証言者の記憶が「正しい」と信頼できる事が前提になっている。

 だが、この証言の問題というのは、著者が何度も指摘しているように「正解のない世界」なのだ。

 事件がどのように起こったか、それを断言できる者はいない。見間違いや記憶が変容している可能性を考慮すれば、事件の渦中にあった真犯人や被害者の証言ですら、そのままでは事件について何かを断言する資格をもたない。物証もそれが即座に過去の「事実」を指し示すわけではない。それが事件の何に、どのように結びついているのか、あるいは無関係なのか、徹底した吟味が必要である。ビデオ映像のように一見確実に見えるものでも、それが撮影された日時、被写体、捏造や改変の可能性などを検討しなければならないだろう。証言も物証も、それ自体ではなんら確実なものではなく、それを根拠にして過去について判断を下すことはできない。
 事件はこうして「不確かな断片」として多くの人と物に振り分けられ、現在にその姿を「暗示」し続ける。裁判とは、そうした断片の一つ一つを拾い集め、吟味し整理し、事件について「確実なこと」を導き出そうとする困難な作業なのである。
「正解のない世界」。何人も、裁判官でも、もちろん心理学者でも、そこから抜け出すことはできない。

本書P.85-86より引用

 勿論「正解のない世界」だから、裁判で証言を採り上げる事が即「意味がない」という事にはならない。
 例え「正解のない世界」であっても裁判は行われなければならないし、証拠も証言も徹底的に吟味された上で判断されなければならない。

 著者も書いているように、それは「不確かな断片」を集めて「暗示」される過去の姿を再現しようとする困難な作業なのだ。

 だが、これが「正解のない世界」だという厳然たる事実は、忘れられてはならないだろう。
――これはアルベール・カミュがその思想エッセイ『ギロチン』で展開した死刑廃止論にさかのぼって反省しなければならない問題なのだ。

 裁判とは「証言も物証も、それ自体ではなんら確実なものではなく、それを根拠にして過去について判断を下すことはできない」という、非常に不確実な「正解のない世界」であるにも関わらず、それによって「死刑」という、行われたが最後、決して取り返しのつかない「不可逆で決定的な刑」を行っても良いのか?

 要するに、裁判で行われる判決というものは「天の裁き」のような完璧なものではないのである。
 その「不確実な裁き」を信頼して、容疑者を死に至らしめる「決定的な刑」を執行する事に問題がないと言えるのか?

 現代に至ってまで、ここまで不確実な世界であるのに、まだ「死刑は必要だ」と言うのならば、せめて警察や検察が、冤罪を生み出さないだけの信頼できる組織と、信頼できる捜査方法を確立させてから死刑存置論を議論できないのか?

 本書でも指摘されている事だが、容疑者の取調べプロセスに何か問題がなかったか第三者が検証するには、せめて警察・検察の取調べの全面可視化及び検察の手持ち証拠の全面開示が必要なはずだ。

 検察による自白の強要というのも問題だが、「人の記憶」というものはそれだけに収まらない非常に繊細なものなのだ――というのは本書でも様々な例を上げて説明している所である。

 上で紹介した様に「写真で見せられただけの人物を実際に見たと勘違いしてしまう「写真バイアス」」があるから証言者に対して容疑者の写真を見せる時は細心の注意を払わなければならないし、誘導尋問というほどでなくとも取調官の質問によっては証言者の記憶が変化してしまうので、質問も吟味しなければならない。

 そういったプロセスの全てが適切なものだったのか、それとも何らかの問題によって証言者の証言を歪めてしまった可能性があったか――そういった繊細な問題についても、まず取調べの全面可視化が行われなければ検証しようがない。

 ぼくが思うに、日本は死刑制度を存置させておくには、あまりに司法が信用できないのである。
 司法プロセスの全てが信頼に足るものになっているのか、警察・検察が信頼に足る組織なのか――最低でも、死刑を廃止している欧米各国より、これらが信頼に足るものだと納得できるようになってからの「死刑存置論」ではないのか、と思うのである。

 冤罪を生み出す危険性を極力まで潰そうとする努力をしていない時点で、ぼくには日本が死刑制度を行う資格があるとはとても思えないのである。

※因みに……事件の真実を知るというのが「正解のない世界」だというのは、ぼくの好きな推理小説にも適用できる問題だといえよう。
 というか、推理小説はしばしばリアルな捜査の世界に存在する決定不可能性の問題にぶつかってきた。推理小説はこのジャンル内に原理的にこの問題を抱えているのだろう。
 この問題はまた今後も推理小説のレビューで詳しく触れる事になるだろうから、ここではあまり深くは触れない。テーマだけ示唆しておくに留めよう。

◆◆◆付記◆◆◆

 という事で、今年はこれが最後の投稿になるかと思います。

 今回の投稿で記事はトータル316記事になりました。

 今年は後半からプライベートがバタバタしていて読書時間も減ってしまい、更新頻度が下がってしまいましたが、それでも見捨てずご愛顧いただいている皆さまには感謝に堪えません。来年も変わらず御贔屓にしていただければ幸いです♪

 そんじゃ皆さま、良い年を☆


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