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青海 翠
2016年8月25日 12:11
三年前の五月二日、巨大な新生物が地球に大発生し、俺たちの知っていた世界は終わった。以来、俺たちは、蠍戦争の時代を生きている。 便宜上、「蠍」と呼んでいるが、奴らは蠍ではない。 「戦争」と呼んでいるが、これは戦争ではない。一章、夏 それは、最後に残った政を亡くした四日後だったと思う。その
2016年8月25日 22:16
深雪は、俺の動き回る気配に振り向いた。寝ていたのではなかったらしい。月明かりのせいか、深雪の顔は酷く青白く、頬がこけ、目の周りが黒ずみ、死人のようだった。その目が潤んでいるのは、やはり泣きべそをかいていたのか、あるいは熱のためなのか。深雪の生気のない顔に俺は驚いたが、深雪は口の端をわずかに歪めて力なく微笑んだ。「目、覚めたの、たっちゃん」「うん」 俺たちは無言で見つめ合った。互いに
2016年8月26日 09:14
深雪の父は、今時珍しく自宅の一部を道場にしている剣の達人で、錬士七段の称号段位を持ち、自宅や市民体育館や警察署で剣道を教える傍ら、古物商を営み、何本もの真剣を自宅に持っていた。だから生き延びたのだ。戦争が始まった時、何よりも必要だったのは、真剣だった。蠍の鉤爪や毒針や吸い針のついた肢を切り落とすのが、最も効率的な戦闘法だからだ。 蠍は、爪と針を切り落としてしまえば、図体ばかり大きくて攻撃力はな
2016年8月26日 09:18
外の廊下から、こつんこつんと規則的に床を叩く音が聞こえてきたのは、その時だった。聞き覚えのある音だったが、いつ、どういう状況で聞いたのか、すぐには思い出せなかった。戸口に、ひょろりと背の高い若者が立った。顔を見れば、深雪の弟であることは一目瞭然だ。深雪と同じ目をしているというよりも、ほぼ同じ顔をしている。深雪よりも三年下だから、十七くらいだ。深雪の顔を縦に伸ばしたような、まだ、もしかしたら女にも
2016年8月26日 11:09
俺たちは、温泉リゾートホテルの豪華なタイル貼りのロビーエリアを抜け、無人のフロントデスク前を通り過ぎ、外に出て、元は庭園だったと思われる菜園を抜け、海辺から続く遊歩道を陸側に進み、宿泊棟脇の井戸端に来た。望月が、髭を当たってやると言ってくれたのだ。 髪と髭は箱根の山中でも、鋏で切っていた。洗顔や洗髪は雨水でしていたから、清潔に保つにはできるだけ短くしなければならなかったが、カミソリは無かった
2016年8月26日 11:12
深雪が物資の調達係を引き受けてからというもの、この島の住人はもう、本土に上陸して蠍と闘う必要もなくなったという。しかし初めの一年余りは、調達部隊というものがあり、手漕ぎの舟で本土に渡り、命がけで上陸していた。望月を隊長として、足が早く剣の腕の立つ者七人で調達をしていたが、そのやり方をやめたのは、のんぺいが怪我をしたからだった。 当初、調達部隊は、一人を舟の見張りに立て、六人が上陸地点から一番
2016年8月26日 11:14
元々、この島に行こうと言い出したのは、のんぺいだったという。小田原の町道場を根城に町内の生き残りが寄り集まり、蠍と闘いながら暮らしていた頃、のんぺいが、港に行って漁師を仲間にし、漁船を手に入れ、蠍の居ない小島に逃れようと言い出した。その島には、基本的に生活できる設備がすべて整い、水源もある、とも言った。「なんでそんなことを知っているかと聞くと、インターネットで読んだと言うんだな。当時はもうネ
2016年8月26日 11:17
「あなたは深雪さんの何なんですか」今度は俺の方が面食らった。そんなことを医者に聞かれて答えなければならない義理はないだろうと思ったが、聞くからには何か理由があるのだろうから、俺は素直に本当のことを言った。「幼馴染みです」「そうですか、で?」医者はその先を聞きたいというように、待っている。深雪と俺がどういう関係か、というのは、幼馴染みの一言で納得してくれない場合、だらだらと話せば長
2016年8月26日 11:21
俺に与えられた部屋はホテルの客室で、321号室だった。クイーンサイズのベッドがあるか、ベッドが二つ以上ある広めの客室は家族用、小さめの部屋は独身向けと使い分けているそうで、シングルルームが集まっている三階東側部分が、言ってみれば独身寮なのだそうだ。 321という部屋番号を俺に告げたのは、妙に馴れ馴れしい若い女だった。俺は、この島に来て三日目に目覚めて以来、ずっと同じパジャマを着ていたが、この
2016年8月26日 11:23
「俺も漕ぎましょうか」と聞いてみたが、「いいよいいよ、もうちょっと沖に出るまで、押せやいいから」と言われた。 澄んだ水に泳ぐキスが見えた。「見えるだろ。網で掬ったって捕れるんだが、それじゃあ、面白くないし、魚に不公平だろ」と言い、六郎さんは笑った。面白いことを言う人だな、と思った。「わしはねえ、前から漁師なんだよ。村長さんの道場の皆さんが、漁船でこの島に避難したいって
2016年8月26日 14:59
但し、この日は、何をしようか悩む必要がなかった。のんぺいが食堂で、「今日、墓参りしますから」と言ってくれたからだ。 俺と望月とのんぺいが同じ食卓を囲み、深雪と師匠と深雪の妹の今日花が、食堂の一番奥の、幸村家の者しか近づかない食卓を囲んでいた。その食卓の周囲の見えない壁のようなものが異様だと俺は感じたが、島の人達は、とうに慣れているのかもしれない。深雪は、今日花の世話を焼きながら食事
2016年8月26日 15:10
のんぺいは左手に、深雪は両手に竹刀を持った。三人で一礼した後、望月が深雪に掛かって行ったが、簡単に払われた。「先輩、すみませんが、本当に本気でお願いします」 深雪が望月にそう言った後、今度はのんぺいが掛かって行った。松葉杖を右脚代わりに使いながら、のんぺいは肉眼では見えないスピードで、左手に持った竹刀を振り回し、深雪は、のんぺいが繰り出す矢継ぎ早の攻撃を払い続けた。 俺の目は、のんぺ
2016年8月26日 15:13
翌朝、空が白み始める前に、足音を忍ばせて宿泊棟から抜け出し、農地のはずれまで行った。月明かりだけが頼りだが、幸い半月で、山の闇に慣れた俺の目には、十分な明るさだった。 三角形に切り開かれた農地の端の、山道が始まる辺りは、切り株が多く、ぬかるんだ土砂に足を取られ、転びそうになった。この辺りは開墾しようとして諦めたのか、あるいは今、開墾作業の途中なのかと思いながら、そこを通り過ぎ、少し先で、茂み
2016年8月26日 15:15
深雪が落ち着いたところで、俺は深雪の目を覗き込み、頬を拭い、そのまま唇を奪いたい衝動に駆られた。が、思いとどまった。そういうことをするために来たのではない。 深雪は目に涙を溜め、睨み返してきた。「こういうことになっちゃうから、だめなんだよ」涙声で深雪は言い、俺を突き飛ばすように身体を離した。「たっちゃん、お願いだから、わたしに構わないで。辛くなるだけだよ」走るように山道を歩き