グリッチ (14)

 のんぺいは左手に、深雪は両手に竹刀を持った。三人で一礼した後、望月が深雪に掛かって行ったが、簡単に払われた。

「先輩、すみませんが、本当に本気でお願いします」

 深雪が望月にそう言った後、今度はのんぺいが掛かって行った。松葉杖を右脚代わりに使いながら、のんぺいは肉眼では見えないスピードで、左手に持った竹刀を振り回し、深雪は、のんぺいが繰り出す矢継ぎ早の攻撃を払い続けた。

 俺の目は、のんぺいの神業に釘付けになった。のんぺいの動きに比べれば、望月はスローモーションに見えるくらいだ。十四歳にしてのんぺいが一番強かったと望月が言ったのは、このことだったらしい。深雪はすばしこさの故にのんぺいの竹刀を避け続けていたが、数分の後、疲れてきたと見え、とうとう、のんぺいの竹刀を脛に受け、転倒しかけた。ところが、子どもの頃と同様、床上五十センチのところで身体を丸めて空中回転し、見事に二本足で着地した。そのまま立ち上がろうとしたが、弁慶の泣き所に入った一撃はさすがに堪えきれなかったらしく、顔をしかめてしゃがみ込んだ。のんぺいが歩み寄り、

「姉ちゃん、今の、両脚、切れてるよ」

と言った。

「だよね」

と言う深雪は、歯噛みして、かなり痛そうな顔をしていた。一方、のんぺいは、さほど息を切らしてもいなかった。

「ごめん、痛かった?」

あまり悪びれもせず、そう言うのんぺいに、

「本気でやってって頼んだのはわたしだし」

と返し、深雪は悔しそうな顔をして立ち上がると、望月に、

「もう一回お願いします」

と頭を下げた。

 俺は、こいつら二人とも、人間ではないのかもしれない、と思い始めた。それに、この稽古は、もはや剣道ではなかった。足払いは、剣道では禁止行為だが、蠍から逃げ切るための稽古では、反則などと言ってはいられないから、何でもありだ。のんぺいは、病み上がりの深雪にあらゆる方向から容赦なく攻撃を繰り出し、深雪は、俺にはできそうにない奇妙な動きで、のんぺいの竹刀を避け続けた。

 のんぺいにこういう芸当ができるなら、望月が稽古に参加する意義はあるのだろうか、と思ったが、蠍の鉤爪は一度に五本でも十本でも降って来るので、やはり、どんなに速くても、のんぺいの竹刀一本では、実戦のシミュレーションにはならないのかもしれない。

 のんぺいに脛を一本許した後の深雪は、すべての打ち込みを払い続け、一本も譲らなかった。しばらく打ち合った後、深雪が手を挙げて試合を止めた。肩で息をして、言葉が出て来なかった。その様子を望月は心配そうな顔をして見ていたが、何も言わなかった。深雪は、ようやく息が整い、

「ありがとうございました」

と一礼した。これで終わりということらしい。剣道の稽古ではなく、サーカスの曲芸を見たようなものだった。深雪が、

「明日、行きましょう」

と言い、望月は、

「来週まで休んだ方がよくないですか。まだ本調子じゃないですよ」

と言った。

「料理用油と粉ミルクが、底を突いたそうです」

粉ミルクと聞いて望月の顔が一段と曇った。俺も同じ事を思っていた。深雪は続けた。

「明日一度、竹原市に連れて行ってください。この前見たけど入らなかった薬局があるんです。その後、一週間休みます」

「わかりました。じゃあ、隊員に言っておきます」

「お願いします。ありがとうございました」

深雪は望月に一礼し、道場の神棚に一礼し、のんぺいを伴って出て行った。

 見たか、と言うような顔をして望月は俺を振り返り、俺は、頷いた。

「深雪さんも凄いが、のんぺいのは、人間業じゃないだろう」

「あんなことができるなら、義足要らないじゃないか」

「いや、あれは、平らな床だからできるんで、石ころやでこぼこがあったら、転ばないためにエネルギーを使うから剣のスピードが落ちる。それに杖を突くために右手を使うのは、なんとも勿体ない。あのスピードで二刀流だったんだぞ。想像できるか」

できなかった。

「深雪は大丈夫なのか」

と聞くと、望月は、険悪な顔になった。

「大丈夫なわけないだろう。あの程度で息切れするってことは、相当疲れてるんだよ」

それなのに、明日は調達に出ると決めてしまった。望月は溜め息をつき、俺に片付けと掃除を任せ、親衛隊員に知らせに行った。

 道場の掃除という慣れた仕事を久しぶりにやりながら、俺は、この時、一つのことを心に決めようとしていた。

*   *   *   *   *   *   *

 翌日、俺が食堂に朝食をもらいに行くと、深雪と親衛隊は調達に出た後だった。食堂に居る村人達の雰囲気が、張りつめていた。そして、彼らの俺を見る目つきに、いつもより刺があるように感じられたのは、気のせいではなかった。俺は、深雪に救出され、この村に来ることによって、村の調達スケジュールを二週間以上止めた張本人だ。そして、この日、粉ミルクに頼っている村内の四人の赤ん坊の命が、深雪の帰還にかかっていた。本土上陸は、毎回、命がけだ。深雪に今日、何かあったら、その瞬間から村の存亡の危機が始まる。

 俺は、何か余程役に立つ事をしなければ、「ただ飯喰い」の厄介者だった。この上、今日、深雪の身に何かあったりしたら、疫病神と忌み嫌われるだろう。つい先日まで、物珍しさゆえに親切にしてもらえた新入りの立場から、自分の存在を正当化しなければならない「役立たず」に転落した。

 この島での俺の存在価値とは、一体何だろう。

 肩身の狭い思いで膳を受け取り、誰も座っていない食卓に一人で座ったところ、のんぺいがやってきて、俺の向かいに座った。いつものように、松坂さんが、一人前の膳をのんぺいのために持って来た。松坂さんは、以前と変わらない笑顔で、俺にも挨拶してくれた。

「心配しなくても、姉貴はちゃんと帰ってきますよ」

俺の心を読んだように、のんぺいが言った。こいつ、読心術もするのか、と思ったが、この朝の皆の関心事は、深雪が無事に帰って来るかどうかの一点だということは、超能力がなくともわかることだった。

 

 俺には何も役目がないんだよなあ、と思い、俺は師匠を探しに行くことにした。何か仕事をもらいたかったのだ。師匠には村長の執務室のようなものがあるわけではなく、その時、用のあるところに居ると望月に聞いていたので、松坂さんに師匠の居そうな所を聞くと、松坂さんの夫が居る修繕班が井戸の修理をしているから、そこに行ってみて、と言われた。

 というわけで修繕班に入れてもらい、井筒の修理作業を見よう見まねで手伝うことになった。この島には、セメントというものがあることに驚いた。その一部は、蠍発生以前に、この島全体がリゾート開発された際の建設資材の残りだったが、この島にある建材の大半は、村の男が総出で本土に取りに行ったものだと言う。

 その話を、作業をしながら聞いた。

 その頃、調達部隊は、島から二キロ程の距離にある小松原海水浴場という浜から、国道に上がったところで調達を繰り返していたが、ある日、国道沿いに土木建材工場を見つけた。

 島での生活を少しでも便利に豊かにするために、建材をまとめて調達しようという話になり、船頭をする六郎さん一家の男達五人に加え、荷役を買って出た若い男達八人を連れ、五艘の小舟に分乗し、調達に出たという。

 舟は海岸の二十メートルほど沖に錨を下ろした。のんぺいと若山を含めた当時の調達部隊七人を乗せた一艘と、荷役八人と船頭一人を乗せたもう一艘を浜まで寄せ、建材工場から人力で運べるだけの建材を浜まで運んでは、それを一艘に積み、船頭が沖に出し錨で固定する間に、沖で待つ別の船頭が空舟を浜に寄せるという方法で、建材を沖へピストン輸送したという。

 この時ばかりは、調達部隊は荷の運搬ではなく、荷を運ぶ男達を護衛する役に徹した。奇跡的に蠍には遭遇せず、半日で、五艘の小舟が転覆しそうな量のセメント粉、タイル、レンガ、各種合板、戸板、各種工具、取手や錠前、蝶番、釘など、島で自給することが不可能な建材や道具を集めた上に、木材を縄で舟の後ろに繋ぎ、島に戻ることができた。その時入手した建材は、その後の土木工事に使用して、ほぼ使い果たしたが、井筒を修理するくらいの量のセメントなら、まだ残っているという。

 話を聞きながら、俺は、建材調達作戦をこの目で見てみたかったと思った。この島では、人はただ辛うじて生き延びているのかと思ったら、実はかなり生産的な活動をしている。望月の言うとおり、深雪が多大な犠牲を払っているという点は問題なのだが、これを解決する糸口は、既に在るのではないか。但しそのためには、死者を出す危険を受け容れなければならない。このことについて、俺は望月と話さなければならないと思った。

 昼飯に行く修繕班から抜け、俺は浜の方を見に行った。のんぺいが、調達の舟は昼ごろには戻るので、迎えに出ると言っていたからだ。のんぺいの予告通り、深雪と親衛隊が乗った手漕ぎの舟が、水平線に現れ、間もなく桟橋に横付けした。のんぺいと師匠が桟橋の先端まで迎えに出ていたが、俺は、深雪に近づいてはいけないと心得ているので、遠目に見ていた。親衛隊の四人の男達が、舟から箱を四つ下ろして担ぎ、倉庫になっている別棟の方に歩き去った後、深雪はのんぺいと師匠に両脇から挟まれ、ホテルの玄関ではなく宿泊棟裏口に向かった。

 俺は食堂に戻り、井筒修理班の面々と昼食を摂った。深雪は食堂には姿を見せず、しばらく後にのんぺいがやってきて食事をした後、松坂さんから風呂敷包みをもらって行ったから、深雪は部屋で食事をしたらしい。

 

 井筒の修理は午後三時頃には終わり、皆、汚れを落としに海に入ると言った。一日の労働を終えた島民が、三々五々、海水浴に出て来る時間だった。修繕班の松坂さんと楢沢さんは、浜で各々の子ども達と合流し、一緒に水浴した。俺より若い刈田という男は独身で、洗濯班の茜ちゃんを気に入っているので、彼女が浜に出て来るのを待つと言い、浜辺をうろうろしていた。

 脚の怪我は完全に塞がっていたので、俺はこの島に来て初めて、海に入ることにした。周りを見回すと、皆、水着とゴーグルを持っているらしい。スノーケルまで装着している人も居た。一体全体どうやって全員の分を手に入れたのだろうと不思議に思ったが、考えてみれば、本土の無人化した街の商店で、八十人分の水着を失敬してくることくらい、可能だったのかもしれない。あるいは、ここは海辺のリゾートホテルだから、宿泊客用の水着売り場がそっくりそのまま残っていたのか。俺も頼めば水着をもらえるのかもしれなかったが、この日は、下着で代用した。

 海水浴をする日がまた来るとは、ほんの先日まで想像もできなかった。浜から奇声を挙げて走り、水位が胸の高さまで深くなった所で、頭から水に飛び込んだ。遠浅の海の水は限りなく澄み、波が砂に描く紋様を水中で見ることができるくらいだ。潮が目に沁みたが、俺はゴーグルなしで潜水し、日光が水を通過して底の砂の上に描く光の波紋を目で追った。時々通り過ぎるキスを素手で追い回し、捕まえようとした。

 周囲では、流れて来る海藻を拾い集めている人も居た。海育ちとはいえ、恥ずかしながら俺は、食用になる海藻とならない海藻の見分け方を知らなかった。いずれ教えてもらおう、と思ったが、今日はそれより何より、遊びたい。水中の浮遊感が格別で、いつまでも波間に漂っていたかった。

「そろそろ揚がって、潮を流して食堂行かないと、あんた、夕飯もらい損ねるよ」

と誰かに言われるまで、俺は、水の中に居た。

 この島は、まるで楽園だ。こんな生活を突然与えられたからには、恩返しをしないわけにはいかないだろう。

 そのために、一つ、片付けなければならないことがあった。

(つづく)

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