グリッチ (1)

                                             

 三年前の五月二日、巨大な新生物が地球に大発生し、俺たちの知っていた世界は終わった。以来、俺たちは、蠍戦争の時代を生きている。

 便宜上、「蠍」と呼んでいるが、奴らは蠍ではない。 

 「戦争」と呼んでいるが、これは戦争ではない。



一章、夏

 それは、最後に残った政を亡くした四日後だったと思う。その日が何月何日か、正確には知らなかった。天変地異が起きてから三度の冬を越し、夏になっていたからには、二○二○年の夏だということはわかったが、カレンダーというものを最後に見てから久しく、日付を正確に知る手段は、もうなかった。

 けたたましい蝉時雨に取り巻かれ、勝手知ったる山里の森で何か食べられるものを探しながら、俺はもう、自分の最期を覚悟していた。三年、よく頑張ったものだと半ば呆れ、戦意を失い、周囲に注意を払っていなかった。いや、もしかしたら、迫り来る危険を見て見ぬ振りして、死を呼び寄せていたのかもしれない。

 気が付いた時には数匹に取り囲まれていた。刀を振り回したが、切っても切っても奴らの鉤爪が降り注ぎ、とうとう左の腿を裂かれた。血が噴き出し、膝を地に突いたところ、左肩に鋭い痛みが走った。刺された。これでもう終わりだ。彼岸に渡ったら、父や母や妹が迎えてくれるのだろうか。いや、誰も迎えてくれない方がいい。生きていてほしい。

 その時、突然、俺の傍らに、小柄な人影が舞い降りた。そいつは、右に左に飛び回り、目にも止まらぬ二刀流で、俺たちが蠍と呼ぶ獣の肢を次々に切り落とした。奴らは三本切られると動けなくなるので、俺を取り巻いていた四匹が間もなく立ち往生し、その身体を乗り越えて来るのが近づく前に、若干の間隙ができた。

 小柄な剣士は、革のベルトに差した鞘に小刀を収め、大刀は抜き身のまま、左手で俺の手を掴んだ。

「たっちゃん、絶対、放さないで」

俺の名前を知っている。驚いて相手の顔を見た。

 深雪。

 俺は死んであの世に渡ったに違いない。俺を「たっちゃん」と呼ぶのは、母と、幼馴染みの深雪だけだ。

 死んだと思い込んで安心した俺は、そうか、深雪が迎えか、それは意外だった、と思いながら、

「久しぶりだなあ」

と微笑みかけた。深雪はもう一度、

「絶対、放さないで」

と言ったが、その瞬間に、深雪の身体が反り返った。その背の後ろに、蠍の触肢が翻っていた。深雪も刺されたらしい。振り向きざま、深雪は大刀を振るい、蠍の肢に斬りつけた。毒針を持った先端部分がどこか遠くへ飛んで行ったが、同時に、残りの七肢を振り回し、蠍は深雪に襲いかかった。深雪の腕から散った血の雫が俺の顔にかかる。四方八方から、わらわらと蠍達が迫り、一瞬、深雪の姿を見失った。俺はこの光景が夢なのか現なのか、死後の世界なのか、もう判別できなかった。

 いやしかし、死後の世界でも相変わらず蠍に襲われ続けることなど、あり得ないだろう。そう思った時、俺は、脚の痛みを堪えて立ち上がり、再び刀を振り上げ、周囲の蠍に切り掛かった。ふと、深雪の姿が再び俺のすぐ傍らに現れた。

「放さないで」

と、もう一度言い、深雪は大刀を持ったままの右腕を俺の首に巻きつけ、左腕を俺の腰に回し、跳んだ。

 跳んだということは、後で聞いた。その時の俺は、死に際に支離滅裂な夢を見ていると思っていた。

 俺と深雪は、海辺の暑い砂の上に倒れ込んだからだ。箱根の山里から、どこぞの砂浜に、どうして来たのか、俺にはさっぱりわからなかった。深雪が、俺の襟を引っ張り、

「もうちょっとこっち。濡れるから」

と言って歩かせようとしていた。言われるままに、俺は四つ這いで、波打ち際から一メートルほど移動した。この一メートルがまた生死の分け目だったというのも、後で聞いた。

 砂の上に座り脚を投げ出し、俺はこのときまで抜き身だった刀身をシャツの身頃で拭い、鞘に収めた。刀は命と同じくらい大切だ。どんな状況でも粗末にしてはならない。夢と現の境で頭が混乱していても、三年間に培われた習慣で身体が勝手に動いていた。

 深雪は、大刀を鞘に収める力も残っていないらしく、刀を浜に落とし、俺の隣で砂の上に倒れたから、深雪の刀を俺が拭い、収めてやった。

 蠍の毒にやられたのか、俺よりも酷い怪我をどこかに負い失血したのか、深雪は意識を失いかけていた。俺は深雪の肩を掴み、揺すった。

「おい、深雪、どうした、しっかりしろよ」

 この時、背後から数人の足音が聞こえ、振り返ると、揃いも揃って汚れた作業服を纏った男達が、一斉に刀や鎌や鋤や銛やシャベルを向けて来た。俺は深雪の肩を放し、鯉口を切った。すると、深雪がわずかに目を開き、

「わたしの兄弟子、腕が立つから…手当して」

と言うと、また目を閉じた。

 男達は驚いた顔をして武器を引いた。一人が手早く、深雪の大小をベルトから外して持ち、もう一人が軽々と深雪を抱き上げ、走り出しながら言った。

「深雪様、すぐ、先生を呼びますから、頑張ってください」

 深雪がなぜ「深雪様」なのか、俺にはもう、さっぱりわからない。先ほど俺に農具や工具を向けた男達が、俺の両肩を支え立たせようとしたが、脚に激痛が走り、俺は大声をあげた。誰かが、担架をもってこい、と言った。

 浜の先の小道から、担架を持った男達が駆け付け、俺を載せた。失血のせいか毒のせいか、意識が朦朧としてきたが、担架で運ばれる間、豪勢な玄関ロビーのような家具調度と、片面ガラス張りの廊下を通り抜け、俺は混乱した。死んだに違いない。ここは天国と呼ばれるところか。しかし、天国に居ながら、怪我をしていて、担架で運ばれるのか。天国では皆、作業服を着るのか。その作業服がまた、作務衣と呼ぶに相応しい上下であることに気付き、日本人専用の天国に来たのかとも思った。一体全体、ここはどこだ。


 

 やがて担架が辛うじて通れる戸口を抜け、ベッドに移された。そこは、病室のようなところで、狭い部屋にベッドが三床並んでいた。隣のベッドに横たわった深雪は、腕から血を流し、死んだように動かない。

 まもなく、眼鏡をかけた痩せぎすの四十がらみの男に続いて、背丈が二メートルもありそうな屈強な男が走り込んで来た。俺は、思わず、

「師匠!」

と呼びかけた。男の名は、幸村貴清、深雪の父で俺の剣道の師だ。師匠は俺の薄汚れた髭面を訝しげに見たが、やがて驚きの声をあげた。

「おおお、神山竜樹君か。本当に竜樹君か。生きていたのか。一体どこで」

と言いかけ、

「いや、話は後だ。まず、手当てを受けなさい」

と言った。

 師匠は、痩せた男に目顔で指図すると、深雪のベッドの向こう側に回った。深雪と俺を運んできた男達は、時々、深雪の方を振り返りながら、どかどかと出て行った。

 痩せぎすの男は医者に違いなく、まず、俺の脚の怪我を診ようとした。

「俺はいいから、深雪を診てくれ」

と言うと、医者は一瞬、不快そうに眉根を歪めたが、

「止血が先ですから」

と言い、手際良く俺の腿の付け根に止血帯を巻いた。

 次に、医者は深雪の方を向き直り、深雪の名を何度か呼んで揺すった。深雪が意識を取り戻すと、何回刺されたか聞き、深雪は、消え入りそうな声で、三回か四回と答えた。薬品棚に走り寄る医者の横顔が、深雪の顔より青くなったように見えた。医者は棚から薬瓶を三本持って来ると、その中身を次々と注射器に移し替えては深雪の腕に注射した。

「抗痙攣薬は打っておきますが、症状が出ないと言う保証はできません」

医者は再び俺の方を振り向き、

「あなたは何回刺されたんですか」

と聞いた。

「俺はいいから、深雪に全部やってくれ」

医者はまた、不快そうに顔を歪めたが、

「深雪さんには、最大量を打ちました。これを打たないと、あなたは暴れて失血死しますよ。何回刺されたんですか」

と聞いた。

「一回だけ」

「なら、良かった」

 医者は抗痙攣薬と睡眠導入剤を一ユニットずつ打つと説明しながら、俺には二本の薬瓶から注射を打った。そして再び俺に背を向けると、深雪のベッドと俺のベッドの間を衝立で仕切り、深雪の負った切り傷に取りかかったらしい。

「深雪さん、服、切りますよ」

という声が聞こえ、布を断つ音がした。それから、

「村長、すみませんが、押さえてくれませんか」

という声がして、深雪が二度、悲鳴をあげたのは、傷口を消毒したのかもしれない。そして、いきなり、バシン、バシン、バシンと規則的な機械音が聞こえ、深雪の泣き声が漏れた。

「もう少しですから、がんばってくださいね」

バシン、バシン…と五回聞こえた間、深雪の声はもう聞こえなかった。きっと失神したのだろう。後は包帯を巻いたらしく、布ずれの音がしていた。

 衝立の向こう側から、医者が再びこちらに回って来たとき、その手に大型拳銃のようなものを持っていた。これがあの機械音の元かと思ったが、俺にはまだその用途がわかりかねていた。ともあれ、医療を受けられるとは驚いた。

 過去二年余り、俺と仲間達は、木に登れない蠍の習性を利用して、樹上生活で生き延びてきたが、医者にお目にかかったことなど無く、蠍に喰われなくても、些細な怪我や病気で命を落とした者が居た。今日のような深手を負ったら、死は免れないはずだったのに、突然、担架で病室に運ばれ、ベッドというものに寝かされ、手当を受けている。

 腿の傷を診察した医者は、

「深いな」

と呟き、先ほど手にしていた大型拳銃を横に除け、縫い針と縫い糸を用意し始めたので、俺にもようやく、その機械の用途がわかった。外科用ホッチキスだ。しかし、俺の傷は深いので、ホッチキスで閉じることはできないということなのだろう。

「麻酔はありませんので」

と医者は言い、振り向くと、衝立越しに言った。

「村長、患者を眠らせてくれませんか」

そういう医療なのか、と呆れた時には、師匠が衝立の後ろから現れ、

「悪いな、神山君」

と言うなり、俺の首に一発入れた。そういうわけで、麻酔無しの消毒と縫合の苦痛を知らずに済んだのは、幸いだったと言うべきだろう。


 

 何十分後か何時間後か知らないが、目を覚まして飛び起きた時、俺の左脚には包帯がきつく巻かれていた。着ていたズボンもシャツも脱がされ、手足についた血や泥は綺麗に拭き取られていたが、俺は熱を出したらしく、汗だくだった。

 目覚めた時に俺が何か叫んだのか、医者が飛んで来たが、俺の額に手を当て、

「寝なさい」

と促しただけで、また衝立の向こう側に消えた。

 入眠剤と蠍の毒の組み合わせで、俺の意識は朦朧としていた。隣のベッドでは、深雪が痙攣発作を起こしているらしく、暴れる深雪の身体を、師匠と医者が押さえているようだった。


 

 蠍の毒は中枢神経を襲い、全身の激しい痙攣、発熱あるいは逆に低体温、昏睡、幻覚、悪夢、夢遊症状など、様々な症状を出す。いずれの症状が出ても、蠍と闘って逃げ切ることはできない状態になり、蠍に組み伏せられ、体液を吸い取られて終わりだ。しかし、刺されてから症状が出るまでの約十分間に、蠍から逃れてどこかに隠れれば、症状は三日で自然に収まる。仲間と樹上生活を始めた後、俺自身、刺された後に高枝に縛り付けてもらい、中毒症状を生き長らえたことが何度もあった。

 だが、深雪は今日、三回か四回刺されたと言っていた。それでも生き延びられるものなのか、俺は知らなかった。

 次に目を覚ましたのは、足音に混ざり、こつんこつんと床を何か固いもので突く音が聞こえたからだった。

「姉ちゃん、がんばれよ」

「お姉ちゃん、起きてよう」

という声がした。深雪の弟妹が見舞いに来ているらしい。名前はなんといったか思い出せなかった。深雪は死にかけているのか。意識不明なのか。起き上がって深雪の容態を見に行こうと思ったが、身体が重く起き上がることができなかった。

「傷は化膿していないんで、やはり毒ですね、この高熱は」

と言ったのは、あの医者の声だった。

「なぜ男一人を小田原から運ぶなどという、無謀なことをしたんでしょうかね」

「小学校まで、よく一緒に遊んだのだ。深雪にとっては実の兄のようなものだ。見捨てることはできなかったろう。しかし、生きて再会するとは、奇跡だ」

と答えたのは、師匠の声だった。

 深雪は俺を「運んだ」のか。それはどういう意味だろう。俺は箱根に居たのに、なぜ、小田原からと言うのだろう。それにしても、深雪のベッドの周りの床を時々規則的に叩くのは何故なのだろう。そんなことを考えながら、俺はまた悪夢に引きずり込まれて行った。

 その後、俺自身が痙攣を起こしたのかどうかは知らないが、何度も悪夢にうなされた。蠍の神経毒には奴らの呪いが仕込まれているかのように、蠍に刺された者は、蠍に襲われる夢を見続ける。恐怖が最高点に達し、叫んだり暴れたりして目が覚めるが、またすぐに睡魔に襲われ、悪夢の世界に引きずり込まれる。身体は睡眠状態にあるらしいが、頭は全く休まらないのだ。 

 目を覚ますと、月が明るい夜で、灯りの無い室内でも、物の輪郭がはっきり見えた。寝ている間に誰かが身体を拭いてくれたらしく、俺は清潔なパジャマを着て、意外なほど小ざっぱりとしていた。隣のベッドから深雪の苦しげな息が聞こえた。深雪は時々言葉にならない小さな声を漏らし、夢を見ているか、啜り泣いているようだった。うなされているなら起こしてやろうと思い、起き上がり、ベッドを降りようとしたが、左脚が痛んで歩けそうにない。支えになるものを求め周囲を見回すと、俺の大小が、丁寧にベッドの脇に立てかけられ、紐で支柱に括られていた。

 俺は一体どこに居るのか。それまでに断片的に聞き取った情報から、今居る場所を推定しようとした。師匠が「村長」と呼ばれているからには、どこかの村なのだろう。すぐ手に取れるところに刀を立てかけておいてくれる心配りは、いかにも師匠らしい。戦争が始まって以来、師匠のような男が生き残り、どこぞの村長になったとしても、おかしくはない。が、俺がなぜここに居るのかは、未だに理解できない。

 俺は、ベッドの支柱に絡んだ紐を緩め、大刀を取り、抜いた。蠍の体液を吸った刀身が錆びていないか、気がかりだったからだ。だが、この心配は杞憂に終わった。師匠が手入れしておいてくれたに違いなかった。俺は大刀を鞘に収め、杖代わりに突き、左脚を引き摺って衝立を回った。

                                                    (つづく)

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