グリッチ (15)
翌朝、空が白み始める前に、足音を忍ばせて宿泊棟から抜け出し、農地のはずれまで行った。月明かりだけが頼りだが、幸い半月で、山の闇に慣れた俺の目には、十分な明るさだった。
三角形に切り開かれた農地の端の、山道が始まる辺りは、切り株が多く、ぬかるんだ土砂に足を取られ、転びそうになった。この辺りは開墾しようとして諦めたのか、あるいは今、開墾作業の途中なのかと思いながら、そこを通り過ぎ、少し先で、茂みに腰を下ろした。慣れない獣道はさすがに月明かりだけでは心許なく、ここで日の出を待つことにした。
薮蚊に襲われながら木の間に朝陽が見えるまで待ち、再び歩き出した。道の左側は海まで緩い勾配で、その先一キロ弱の距離に浮かぶのが、龍王島だった。そちらには野営生活をしている村人が居ると聞いたから、万が一にも、見られる心配のないところを見つけなければならない。
林の中を歩きながら、植生が明らかに箱根とは違うことに気が付いた。箱根の里は杉が多かったが、ここは広葉樹林で、木漏れ日が明るい。ふと、左側は林ではなく、人工的に植林された造園に違いないと思った。
「桜じゃねえか」
花の季節はとうに終わっているから、幹と枝と葉しか無いが、間違いなく桜だった。リゾート開発で桜を植林したのかと思ったが、中には、かなり樹齢を重ねたと思われる大木もあった。これは数年前に植えられたものではあり得ないので、この島に元から生えていた天然ものか、あるいは、数十年か数百年前の入植者が植えた桜なのか。
俺はその木が気に入ったので、その木に登って待とうかと思ったが、その位置は、宿泊棟から見えるかもしれなかった。もう少し先まで行き、この島の稜線の頂点を越え、北側への下り坂になるところが、一番人目に付かないだろう。
島の頂点と思われる付近に桑の大木があった。桑の実を両手一杯食べ、少し空腹を紛らしたが、腹一杯食べると、実が減ったことを村人に気付かれるかもしれないと思い、我慢した。そこから北側へ下ったところには、杉が数本見えた。
「へえ、杉もあるんだ」
とひとりごち、結局、杉の木の枝に座って、待つことにした。
腹を鳴らしてどれほど待ったろうか。深雪は、のんぺいの言った通り、大半の村人が食堂に集まっている時刻に現れた。長い髪をひっつめて頭の上で団子にまとめ、長袖のシャツのようなものに半袖の作務衣を羽織った姿で、右手に小刀を抜き身で持ち、下草や木の枝を時々払いながら歩いて来た。桑の木の下に立ち、桑の実を幾つか口に入れたようだが、高い枝には手が届かないらしく、何度も背伸びをしていた。その姿を見て、深雪はほんとにチビだな、と思った。
高校を卒業した後も、俺はまだまだ背が伸びたが、深雪は中学生の頃から背丈が変わっていないらしい。大人になり損ねたみたいな奴だと思いながら、俺は深雪をやり過ごし、足音が聞こえなくなってから、木を飛び降りて道に戻った。目の前に深雪の後姿があるはずだったが、なぜか見失った。俺は焦って走り出した。
「たっちゃん、何の用?」
後方から声を掛けられ、ぎくりとして振り向くと、深雪が小刀を腰の鞘に収めながら、樹々の後ろから姿を現わした。
「なんだ、脅かすなよ」
「それはこっちの台詞だよ。イノシシか、山崎のじいちゃんだと思ったじゃない」
俺は思わず吹き出した。
「イノシシとじいちゃんの二択か、この山は」
「そうだよ」
「誰だ、その山崎のじいちゃんというのは」
「調理の山崎さんのお父さん」
「なんでこんな所に出るんだ、幽霊なのか」
「違うよ。ちゃんと生きてる。七十幾つかなんかで、昼間はあちこち歩き回ってるの。海で亡くなった娘さんをずっと探してるの。ちょっと、かわいそうなんだよ。女の人を見ると、淑子、淑子って言って手握ったりするんだけど、どうしていいか、わかんないんだよ」
「そうかあ」
それはかわいそうな話だったが、そんな年寄りが、この戦争を生き延びたというのが、また驚きだった。この島は意外なことばかりだ。
「イノシシも出るのか」
「うん、この島に着いた時にね、一頭、居たらしいんだよね。野生なのか、リゾートで飼ってたのが野生化したのか、知らないけど」
「居たらしいって、見た事ないのか」
「ないけど、ほんとに猪突猛進してくるから、気をつけないといけないって言われてるんだよ」
「この島、そんなにでかいのか」
「え?」
「だって、居るはずのイノシシ、見たこともないんだろ」
「そうだよねえ。小さな島なのに。ほんとは居ないのかなあ。都市伝説だったりして」
「どこが都市なんだよ」
俺たちは同時に吹き出した。
「子ども達が山に一人で入って怪我したりしないようにって、誰かが言いふらしたのかな」
「それに騙されちゃったのか。深雪も子どもだもんな」
「子どもじゃないよ!」
深雪はむきになり、俺の腕をぽかりと叩いた。幼馴染みというものは、こういうものかもしれないが、顔を見た途端に、昨日の続きのように、どうでもいいことを、幾らでもしゃべる。何の話をしに来たのか忘れてしまいそうだ、と思った時、深雪が何やらよそよそしくなり、
「こんなこと話しに来たんじゃないでしょ。何の用、たっちゃん? 二人で散歩にでかけたなんて、知られるとまずいんだけど」
と言った。
「知られないように気をつけて来たから、大丈夫だよ。お前に話したいことがある」
「なに」
話は二つあった。どういう順序で話そうか、一瞬ためらっている内にも、深雪は歩き出した。
「急がないなら、また今度にして。忙しいんだから、わたし」
俺は慌てた。
「おい、ちょっと待てよ。話があるんだ」
深雪はまた足を止め、面倒くさそうな顔をして振り返った。
「お前にまだちゃんと礼を言っていない。命がけで助け出してくれてありがとう、と言いたかったんだ」
馬鹿の一つ覚えだが、俺はきちんとお辞儀をした。深雪は、ふっと唇を緩め、
「なんだ、そんなこと。気にしなくて良いよ」
と言うと、また向きを変えて歩き去ろうとした。
「でも、なんで俺が箱根に居るって知ってたんだよ」
深雪はぎくりとして足を止めた。その様子から、俺は、深雪があの日、俺が居ることを知っていて、箱根まで跳んだことを確信した。
「偶然だよ」
「何兆分の一の偶然だよ。あるわけないだろ、そんなこと」
深雪は困ったような顔をして答えなかった。
「偶然だって言うなら、箱根に何しに行ったんだ」
「富士山を見に」
今度は間髪入れずに深雪が答えたので、俺は、ひょっとして本当の事かも知れないと思った。
「時々、景色を見に行くんだ。折角もらった特殊能力だから、時には自分の楽しみに使わないとね」
深雪は嘘をついているようには見えなかった。本当にそうなのか、と思いかけたが、それはあり得なかった。あの森はとても富士見の名所とは言えない。あんな所に富士山を見に行くはずがない。
「俺を、何の為に助け出した。何か目的があったんだろう」
深雪は俺の目を見ずにこう言った。
「目的なんてなかったよ。ただ、蠍に囲まれてるところを見ちゃったから、助けに行かないわけにはいかなかったんだよ」
俺にはこの時、深雪の言ったことの意味がよくわからなかった。俺が襲われているところを一体どこから「見ちゃった」のだろう。しかし、深雪は、これ以上聞く暇を与えなかった。
「話はそれだけ? わたし、これから、色々やらなければならないことあるんだけど。たっちゃんも、何か仕事ないの?」
せかされたので、俺は本題に入った。
「話はもう一つ、俺に女をあてがうような真似するのは、金輪際やめろ」
深雪は明らかに狼狽した。
「そんなことしてないよ」
「嘘が下手なんだよ、お前は。顔に出るんだから」
「だから、あてがうなんて、そんなつもりは…ただ、万里亜ちゃんに、あの人誰って聞かれたから…」
「言葉が乱暴で優しくて誠実で良い人だって言ったんだってな。そのことに文句言ってるわけじゃないんだぞ。それは全部本当のことだから、いいとしてだな」
深雪が笑い出したので、俺も笑った。
「お前、普段はほとんど誰とも口利かないじゃないか。なんで、万里亜って子には親切に俺を薦めるんだよ」
「万里亜ちゃんは優しい良い子だから、お似合いだと思ったんだよ。それだけ」
「それが余計な世話だよ」
「余計な世話で悪かったわね。この島じゃ、男子の方が多いんだから、年頃の可愛い子は早くしないと誰かに取られちゃうよ。折角来たのに、一生、独身じゃ、かわいそうだと思ったから」
それは本当のことだった。この島では、というよりも、今の世の中、男女比が極端に崩れている。蠍戦争では、戦闘能力のない女が、男よりも先にどんどんやられてしまったからだ。
そうだとしても、俺が一生独身かどうかを深雪が心配するとは、話が全く逆ではないか。
「俺にはやるべきことがあるんだよ」
深雪は眉根を寄せ、妙に心配そうな顔をした。なぜ、そんな顔をするのだろうと思うと、
「箱根に帰りたいの?」
と聞いた。俺が箱根で何かを遣り残して来たと思ったらしい。とんだ勘違いをさせてしまった。
「違うよ。お前のことだよ。俺は、お前の警護に徹するべきだと決めたんだ」
深雪は目を丸くして俺の顔を見上げたが、目が合った途端にくるりと後ろを向いてしまった。だから俺は深雪の背中に言った。
「この三週間、ずっとお前のことを観察していたんだけどな、お前、ずっと一人ぼっちじゃないか。誰とも一緒に食事しないし、家族以外は、誰とも話さない。そうなった事情は望月に聞いたよ。お前が、年頃なのに人を好きになることも結婚することも許されない、村の働き蜂になってしまったって。な、それなら、俺も働き蜂になるから、何でも頼んでこいよ。こう言っちゃなんだが、俺は望月より強いらしいぞ。お前と一緒に本土に入って、荷物持って来ることだってできる。三年、生き延びたんだから、蠍なんかに負けやしない。お前の生活が今より少し自由になるように、何か考えるから…」
深雪はまだ振り返らなかった。彫像になってしまったように、背を向けたその姿勢のまま、肩に力を入れて固まっている。じれったくなってきた。
「強がってんじゃねえよ。お前にだって、相棒ってもんが必要だろうが。俺はお前の兄弟子なんだから、お前が危ない目に遭いそうなとこには一緒に行くよ。何でも一人で背負い込まないで、疲れたらいつでも寄っかかりに来い」
深雪は何も言わずに歩き出した。
「なんか言えよ」
俺は思わず深雪の腕を掴み、振り返らせた。その頬が涙に濡れていた。
深雪が泣くとは思わなかった。しかし、泣き顔を見た瞬間、俺の決意は違う方向に揺れた。深雪を抱き締めたくなった。が、そういうことをするために来たわけではないから、やめた。すると、深雪の方から俺の胸に飛び込んできた。俺の心の臓の辺りに頬を押し付け、深雪はいきなり声を上げて泣いた。
溜めていた涙が沢山あったのだろう。深雪の肩をさすりながら、しばらくそうしていた。
深雪と話すことにした時、こういう方向に話を進めようと思っていたわけではなかった。俺はただ、命がけで俺を救い出してくれた深雪の重荷を軽くする方法があるはずだと、それをすることが、この村での俺の存在意義だと、決心したのだ。これは一種の仁義だ。だが、突然、何の前触れもなく、心がとんでもない方向にすっ飛んでしまうことがある。
(つづく)
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