グリッチ (11)

  但し、この日は、何をしようか悩む必要がなかった。のんぺいが食堂で、

「今日、墓参りしますから」

と言ってくれたからだ。

 俺と望月とのんぺいが同じ食卓を囲み、深雪と師匠と深雪の妹の今日花が、食堂の一番奥の、幸村家の者しか近づかない食卓を囲んでいた。その食卓の周囲の見えない壁のようなものが異様だと俺は感じたが、島の人達は、とうに慣れているのかもしれない。深雪は、今日花の世話を焼きながら食事をしていた。今日花を見る時、深雪は他の誰にも見せない優しい目をした。俺の知っていた深雪は、町内一の負けず嫌いのお転婆娘だったので、深雪が優しい顔をするというのが少々意外だった。のんぺいに聞くと、今日花は今年七歳というから、蠍戦争が始まった年には四歳、母を亡くして以来、深雪が母親代わりなのだろうということは想像できた。

 師匠の亡き妻と次男の墓は、島の東側斜面に造られた墓地にあった。

 当然だが、墓地に墓石は一つもなく、廃材を加工した手作りと思われる卒塔婆に、下手な字で、俗名ばかりが刻まれていた。この島に来てから、誰も彼も家族や友人の形見の品をここに埋葬して墓所としたと、のんぺいが教えてくれた。卒塔婆の一群から少し離れたところに、木の十字が十数本立っているのは、六郎さんの親族の墓だろう。

 共に杖を突いている俺とのんぺいは足が遅いので、師匠と深雪と今日花よりも遅れて、墓の前に立った。のんぺいと俺が到着すると、今日花が、

「その人、だあれ? どして来たの」

と、のんぺいに聞いた。幸村秋子・武蔵と書かれた卒塔婆の方を向き、地面に正座していた師匠が振り返り、

「竜樹君、来てくれたのか。ありがとう」

と言った。深雪が小声で、今日花に、

「子どもの頃ずっと一緒に育った竜樹兄ちゃんだよ。きょんも赤ちゃんの時、だっこしてもらったことあるんだよ」

と教えた。今日花は不思議そうな顔をして俺を見た。

 師匠は立ち上がり、まっすぐに俺の目を見て、

「君には弔いたい人は居るのか?」

と聞いた。この時まで、師匠も、深雪も、のんぺいも、俺に家族のことを一切、聞かなかったのは、家族の消息は迂闊に聞かないという不文律を、この島でもやはり守っているからだ。

「家族は、消息がわからないんです。甲府に帰省中でしたけど、俺だけ別行動していたもんで」

他人事のように素っ気なく、俺は言った。実は、生き別れになって以来、父さん、母さんという言葉も、美樹という妹の名前も、俺はどうしても口に出すことができなかった。言うと息が詰まるからだ。

「そうだったか」

 俺の両親は、師匠にとっても学生時代からの親友だ。師匠は苦しげな顔をして、しばらく俯いた。そして、

「では、生きていると信じて、無事を祈ろう」

と言い、再び卒塔婆の方を向きかけた。師匠の背中に、俺は、

「死んだ仲間の髪を預かっているんですが」

と打ち明けた。師匠はもう一度、俺の方を向き直り、

「君はそれをどうしたい」

と聞いた。俺は、どうしていいかわからないので、答えようがなかった。

「ここに埋めて墓を作るか。それなら、また別の日に、きちんと葬式をして埋葬することもできるよ」

それは、俺が決めることなのだろうか。俺には答が出せなかった。

「いつか、平和な世界が戻ったら、家族を捜し出して渡すという約束で預かったんですが、正直、どうしていいか、わかりません」

すると、師匠は即答した。

「そうか。それなら持っていなさい。死者との約束を違えてはいけない。君の身に何かあっても、誰かがその人達の望みを引き継げるように、わかるように書いて、大切に保管しておきなさい」

「はい」

誰かが大事な事を迷わずに決めてくれるというのは、なんとありがたいことか、と、このとき俺は思い、この事に関して突然に気が楽になった。

 

 師匠は、この後、墓に花を供え、経を二つ読むと説明してくれた。仏説阿弥陀経と般若心経を唱えるという。この島には仏僧は居ないので、意味もわからないが、これを唱えることが供養になると思うのだ、と師匠は言った。深雪が促し、今日花が持っていた花束を卒塔婆の前に置いた。ここに来る道中に摘んだ野の花らしく、主にたんぽぽや野菊や露草だった。師匠は作務衣の懐から小冊子を出して広げ、経を読み始めた。

 師匠が経を読めるとは、この日まで知らなかった。後でのんぺいに聞いたが、小田原の道場が町内の避難所になって以来、避難者の家族や知人の供養をしなければならなくなり、師匠は経典を手に入れて読み方を練習したという。深雪とのんぺいと今日花は、墓の前の地面に敷いた布の上に、三人並んで正座した。俺は、左脚をまだ正座に組めないので、三人の後ろに立っていることにした。

 仏説阿弥陀経は延々と続き、今日花は我慢ができなかった。深雪の耳にしきりと何か囁くあどけない声が聞こえ始め、やがて深雪は立ち上がり、今日花の手を引いて、墓地になっている斜面から少し登ったところの木陰に連れて行った。しばらく後には、のんぺいが立ち上がり、俺に何やら微笑みかけると、やはり同じ木陰に移動した。

 師匠一人が、墓の前の地べたに正座し、炎天下で、静かに読経していた。俺は、二つ目の般若心経が終わるまで、師匠の真後ろにずっと立っていた。深雪達には親子だからこそ許される非礼が、俺には許されないように思い、また、師匠が俺の家族の無事と友達の供養のために祈ってくれると言ったからには、俺も最後まで居なければいけないように思ったからだ。師匠は読経を終え、膝から泥を払って立ち上がり、俺がまだそこに居たことに気付くと、意外そうな顔をした。

「よく頑張ったな、暑いのに」

俺は、師匠に頭を下げ、ありがとうございました、と言った。

「君は昔から礼儀正しい子だった。立派になったね」

と言うと、師匠はいきなり、

「ご両親と再会できるまで、わしが君の父親だ。何でも頼りなさい」

と言った。師匠は俺の肩をぽんぽんと叩き、深雪達の居る木陰の方に、斜面を登って行った。

 昨日、六郎さんの舟の上で泣いておいて良かったと思った。深雪達の前でこみ上げるものを堪えるのが、それほど難しくなかったからだ。

 涙を完全に呑み込んでから、深雪達の居る木陰を振り返った。深雪と今日花は、手をつないで遥か下に見える海を見ていた。のんぺいは、その傍の地面に座り、隣に座った師匠と何やら話していた。

 今日花が、

「武蔵くん、こんなちっちゃくて、お人形さんみたいだったよね」

と言ったのが聞こえた。深雪は胸でも刺されたかのように、ぎゅっと目を閉じ、とても痛そうな顔をした。

「そうだね、可愛かったね。でも、もうお星様になっちゃったね」

と言いながら、深雪は今日花を抱き寄せた。今日花が空を見上げ、

「見えないよ」

と言うと、深雪は笑い、

「そりゃ、見えないよ、昼間なんだから。夜になったら、ちゃんと見えるよ」

と言った。

「お母さんも見える?」

「見えるよ」

「お母さんにもわたしが見える?」

「見えるよ。ちゃんと毎日、見ていてくれるよ」

深雪は今日花に悟られないように、素早く、目元を拭い、

「暑いね、きょん。戻ろうか」

と言うと、今日花の手を引いて、村に戻る道を歩き始めた。それを見てのんぺいが立ち上がり、師匠を木陰に残したまま、俺の方にやって来ると、

「親父は多分、一日ここに居るから、俺たちも戻りましょう」

と言った。

「いいのか、師匠だけ残して?」

「いいんです。一人になりたいんですよ。親父の年に一度の休日です」

そう言えば、師匠は村長なのだった。

 

 のんぺいに聞くと、この島には筆記用具も普通にあると言うので、紙とペンをもらい、俺はこの日、箱根で亡くした十一人の仲間達の名前や出身地や命日を、思い出せる限り正確に書き付けた。形見の髪の束を俺に預けた三人は、俺に実家の住所を書いた紙も託していたが、その紙ももう擦り切れていたので、新しい紙にきれいに書き写し、髪を包み直した。もう誰も彼らの消息を探そうとはしないかもしれないが、師匠の言った通り、俺が死んだ後にも誰かがいつか彼らの親族に伝えてやれる可能性を残しておくことが、俺にできる唯一の供養だった。書いたものと形見の品を袋に入れ、貴重品入れに戻した。

(つづく)

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