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詩・散文

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#メモ

詩・散文「あした私猿になる」

詩・散文「あした私猿になる」

あした私猿になる

日毎に日がのびて
地がぬくんでくると私
目覚める度にウキウキしちゃう
ウキウキウッキーって
あした私
猿になる

2022年2月28日岡村

詩・散文「右手と左手」

詩・散文「右手と左手」

右手と左手

「右手」とは「左手の右側の手」であるのならば、「左手」は「右手の左側の手」であろう。
別に「手」じぁなくったっていいし「手じゃない何か」である必要もない。単に「左右の定義」として考えてみると、
「右の定義は左の右側」であるし、「左の定義は右の左側」である。とすると、この定義は真であるか偽であるか?

2021年11月1日 岡村正敏

詩・散文 「鏡面の真っ平らな世界から始めよう。それは真っ平らな世界の破綻を問う事であり、真っ平らな世界の信望とは異なる」

詩・散文 「鏡面の真っ平らな世界から始めよう。それは真っ平らな世界の破綻を問う事であり、真っ平らな世界の信望とは異なる」

「鏡面の真っ平らな世界から始めよう。それは真っ平らな世界の破綻を問う事であり、真っ平らな世界の信望とは異なる」

真っ平な世界は、ただ一つの面が何処までも広がっている無言の世界なのか
真っ平らな世界は、無数の山頂が等しい高さに犇めいている多弁な世界なのか。

どちらにせよ、真っ平の世界に立った時、
私は私だけが起立している事を知るのであるが、だからと言って自分を真っ平らにしようとしてはならない。

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詩・散文「夢さえ見ずに眠りたい」

詩・散文「夢さえ見ずに眠りたい」

夢さえ見ずに眠りたい

あそびはやがてあきるが、あきる事にもあきた時、私はもうどうでもよくなるのだろう。

「あそびたい」はまだ「あそびたい」という欲求を目的としているが、この目的を契機として「あそび」に没入している時、「あそび」にはもう目的はなくなっているのだろう。
しかし目的なき「あそび」は永続する事は無くやがて「あきる」。
そして「あきる」とは「もうこのあそびを止めにしよう」という目的の残照

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哲学・日記・メモ「詩? それとも物語?」

哲学・日記・メモ「詩? それとも物語?」

詩?それとも物語?

●世界の開闢の瞬間に立ち会い、「開闢」に祈りを捧げまたは賛美するのが「詩」なのだとしたら、「開闢」の現場に立ち会い、「開闢」そのものを問う、その問いのstanceに固執するのが「物語」なのではないだろうか?
●「開闢」などと書くと、それは出来事の因果をさかのぼり歴史として記述されなければならない、と考えるかもしれませんが、「開闢」はそのような歴史的遡及によって知られるのではな

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詩・散文 「幼子」

詩・散文 「幼子」

げに恐ろしは幼子よ

蟻にパン屑を与えている光景は 次の瞬間

蟻の巣を掘り返す姿に変わっていた

1985年頃 岡村

哲学・日記・メモ 「世界を終わらせる問い」

哲学・日記・メモ 「世界を終わらせる問い」

満たされて、満たされて尚問う「問い」があるとしたら、それはこの世界とこの私の終わり(と同時に始まり)についての問いなのだろう。終焉にまつわる問い(そもそもの始まりと終わりに関する問い)と言っても良い、それは、子や孫に、次世代に、そしてさらに言えば人類の永続性に委ねるべき問いではなくて、私一代で完結させねばならない、世界を完全に終わらせる問いなのだ。それは満たされて、満たされることで初めて知る絶望を

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