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雑考・メモ・日記

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#絵画

雑考・日記・メモ「グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ」

雑考・日記・メモ「グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ」

グスタフ・クリムトとレオナルド・クレモニーニ

19歳だったか20歳だったかの頃。

今は無き池袋のアート専門書店ARTVIVANTにて、一目ぼれして購入したのが、レオナルド・クレモニーニの画集でした。当時2万5000円くらいしましたが、思い切って買ったのです。

クレモニーニは今ではほとんど忘れられていて、アートシーンでで語られることはないんじゃないかと思うのだけれども、私はもっと語られてもいい

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哲学・日記・メモ「音楽と絵画『タブローは自己批判しない』」

哲学・日記・メモ「音楽と絵画『タブローは自己批判しない』」

音楽と絵画「タブローは自己批判しない」

音楽は本質を志向する、と言うよりも本質を志向すること自体が音楽なのではないか。
それは属性をそぎ落とし原初へと遡及して、最後は音そのものも消失してしまうだろう。そこにかろうじて残るものがあるとすれば世界の始まりの「ゆらぎ」、もしくは「インフレーション」のような「はたらき」そのものである・・・とでも言えばよいのだろうか。
対して絵画は、そのような音楽の本質志

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哲学・日記・メモ「音楽的ではない絵画の事」

哲学・日記・メモ「音楽的ではない絵画の事」

音楽的ではない絵画の事

カンディンスキーの絵画は絵画の体裁をした音楽だ。
それは具体的なのチーフを排して、非具体的なリズムを本質として志向している。
だからカンディンスキーの絵画は音楽なのだ。

対して本質を志向しない絵画と言うものもある。
岡本太郎は「芸術はいやったらしくなければならない」とか何とかいったが、そのような絵画こそが絵画なのだと、私も思う(しかし私は岡本太郎は好きではない)。
太郎

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哲学・日記・メモ「枠と総合性、そして絵画的なるもの」

哲学・日記・メモ「枠と総合性、そして絵画的なるもの」

「枠と総合性、そして絵画的なるもの」

教会において「建築」という「総合性」を保証していたのは壁であった。そして壁は「絵画」においては「枠」となった。

この「枠」を継承しているところが絵画がそもそも総合的であるという事であるだろうし、それは絵画は音楽のように本質的ではないという事でもある。だから真に画家が「絵画的なるもの」を志向するのならば、彼は世界の本質に背を向ける事で、新しい世界を総合的に創

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雑考・日記・メモ「メモ『明るい部屋』の写真論再考」

雑考・日記・メモ「メモ『明るい部屋』の写真論再考」

「メモ『明るい部屋』の写真論再考」

「メモ『明るい部屋』の写真論再考」
記憶は嘘をつく。
確かにそうだなぁ、と思います。身に覚えがあるからです。「記憶を修正した記憶」だけが確かにあって、本当の記憶のほうが嘘なのか本当なのか曖昧になっている・・・何て事もあります。
「記憶が嘘をつく」のであるのならば「嘘をつかないもの」はあるのか?それは例えば写真。写真とはあくまで「それは・かつて・あった」と言うゆ

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詩・散文「林檎を描く」

詩・散文「林檎を描く」

リンゴを描く

絵筆をとって何十年
林檎がそこに在るような林檎の絵を描きたかった
いや
林檎そのものが在ると言う事を描きたかった
今でもそうだ
しかし未だ描けてはいない

いくらかは林檎がそこに在るかのような絵は描けるようになったが
林檎そのものが在るというにはほど遠い
いったい林檎が在るとはどういう事か
そして何故私はその「問い」に「描く」事で答えようとするのだろうか

もう何十年も絵を描いてい

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雑考・日記・メモ「音楽が『呪術により近い技術』なら『絵画』は・・・」

雑考・日記・メモ「音楽が『呪術により近い技術』なら『絵画』は・・・」

「音楽が『呪術により近い技術』なら『絵画』は・・・」

音楽は「呪術に向かう技術」であり「絵画」は「方法に向かう技法」であろう。

「呪術⇔技術⇔技法⇔方法⇔方策⇔策略⇔謀略」と言う「企ての序列」を考えるならば。
因みに「謀略」の先はもはや企てを介さない「略奪」。

2022年1月16日 岡村正敏

哲学・日記・メモ 「印象派・個人表現の誕生」

哲学・日記・メモ 「印象派・個人表現の誕生」

印象派・個人表現の誕生
●19世紀後半のフランスの印象派の画家たちは、戸外出て世界の光を直接画面に写生しようとした。彼らは手順と時間をかける古典的描法を用いず(ぼかしのスフマート技法や透明なメディウム層をレイヤー状に重ねるグリザイユ技法等)、筆のタッチそのものを一発で決めていく、プリーマ描法を使い始める。

●これは極めて短時間で作品を仕上げることが出来るであるが、この描法がもたらしたものは時短に

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哲学・日記・メモ 「絵画と音楽」

哲学・日記・メモ 「絵画と音楽」

絵画制作はミメーシス(模倣)から始まる。
そして、ミメーシス(模倣)が再認識だとしたら、絵画のモティベーションとは、そのよろこびであり、再認識と一体をなした驚きでもある。
としたうえで、もしそうだとしたらそれは、音楽とはだいぶ異なるもののように思えます。絵画は再認識とその驚きの為に対象との距離を不可欠に保とうとするのに対し、音楽はその距離を無くそうとする事に勤めて、恋焦がれるものであるように思えて

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哲学・日記・メモ 「音楽と絵画」

哲学・日記・メモ 「音楽と絵画」

●音楽は対象を持たない。それ故に、音楽は現象を超えた「宗教的なもの(≠宗教)」へどこまでも近づかんとする。そして対象を持たないが故に音楽は、さらに対象の束縛から解放された感覚の直接性・・・直接的な皮膚感覚や内臓感覚にその本源を見出していく。つまりその、直接性ゆえに人の五感+α(内臓感覚や平衡感覚も含めたもの)の中で最も意図的な変容が不可能な、内臓感覚=内臓のリズムを志向する。
●そしてそのような感

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