「小さなズル」のコスパについて考えた
ドイツのスーパーマーケットなどでは、『買うものが少ない人には先を譲る』という習慣がある。
1週間分の買い物をする人たちの間に、ランチ用のパンとドリンクだけ買うような人が混ざるから、そういう人をむやみに待たせないという配慮なのだと思う。
スーパー以外にもドラックストアなどのような、商品をレジへ移動させるコンベアが搭載されているタイプのレジがあるお店では、だいたいこの習慣が適応されている。
このルールは基本的に、買い物をしているお客さんの善意によるものなので、先を譲るかはお客さん次第だ。
けれど、この習慣を逆手にとった人がときどきいる。
レジが長蛇の列になっているときにふらっと現れ、荷物の多そうな人に声を掛けて、買うものが少ないから自分を先に入れてほしいとねだるのだ。
本来このルールは後ろに並んだ人を前に送るだけで、割り込みではないと思うのだけれど「これだけ買うものが少ないのだから、後ろから並んで前に送られるのと実質同じでしょ」ということらしい。
まあ言わんとするところはわかるけど……という感じだ。だから実質割り込みであっても、譲る人は譲る。
けれどこういう人にはトラップがある。
それはそういう割り込みをねだる人たちは大抵、買うものをバッグなどに隠していて、実際は15点以上商品を持っている。
つまり少ない買い物に見せかけて会計の順番を譲ってもらい、長蛇の列に並ばずに買い物をするというちょいズルなのだ。
わたしの中では「ちょいズル界隈の人」と呼んでいる。
先日もスーパーのレジが長蛇の列になっているところ、とあるおばあさんがどこからともなく現れ、わたしの2人前にいる大荷物のおばあさんの前へ入れてくれとねだった。
並んでいた大荷物のおばあさんは自分の後ろに並べと言い、その後ろでありわたしの前に並んでいたおばあさんが不快そうにそれを見ていた。
買い物が少ない人に譲るのは自分の前であって、自分の後ろを譲るのはあまり見たことがない。
きっと大荷物のおばあさんは、割り込もうとするおばあさんの魂胆がわかっている。だから自分に実害が出ないように、自分の後ろに入れたというわけだ。
でも従来の習慣からいけば、そこに入るならわたしの前で待つおばあさんへの”許可取り”が必要なはずなのだ。
しかし割り込んだ「ちょいズル界隈」のおばあさんは、後ろを見ることなく割り込んだ。
わたしの前にいたおばあさんは、振り返ってわたしをガン見した。
「これ、ありえないと思わない?」
そんな言葉が、脳内に直接語りかけられた気がした。
わたしは驚き顔をしたあと、苦笑いして返した。呆れてる感じが伝わったようで、少しだけニコッとしてくれた。
そのあと割り込んだおばあさんは案の定、カバンから大量のチーズやらバナナやらをコンベアに並べた。どう見ても20点はあって、少ない買い物とは言えなかった。
私の前にいたおばあさんは、またもや振り返りわたしをガン見した。
「ありえないと思わない???????」
おばあさんの眼力を強めた鋭い眼差しが、わたしにぶっ刺さりまくった。
気持ちはわかるよ!気持ちは!!
でもわたしに言われてもね!?!?
こういう場合、明確に文句をいう人も多いのだけれど、わたしの前のおばあさんはじっと睨むだけでこらえていた。
割り込んだおばあさんも振り返ればなにか言われるのがわかっているから、終始無視して買い物の順番を待っていた。
日本でも長い行列に割り込む人はいる。
ドイツにもこういう小さいズルをする人はいるし、別の国に旅行したときも経験がある。
こういう「ちょいズル界隈」の人は世界中に数%存在していて、どこにでもいるのだと思う。
日本ならまだしも、各国で合う人たちは、身体に馴染んでいる宗教も倫理観もまったく違う人たちだから、どういう理由や事情で「ちょいズル界隈」の住人になっているかは想像できない。
でも、わたしが何度か目撃していて感じるのは、
そういう小さなズルを当たり前のようにする人は、総じてあまり幸せそうには見えないことだったりする。
近所のスーパーには、このおばあさんのほかにも何人か同じ手でズルをする人がいて、わたしもされたことがあるし、今回以外にもほかの人がされていたのをみたこともある。
「ちょいズル界隈」には年齢や性別の制限はないようで、この日のようなおばあさんもいれば、若い男女というときもある。
でもどうしてか総じて、少し張り詰めているような、仄暗い雰囲気がある。
少し顔色が悪いことも多く、周りの敵を警戒しているみたいに目がギラついていたり、眉が固まってしまったかのようにつり眉のままになっていたりする。
あえて言葉にするなら、生き方や考え方が皮膚からにじみ出ていると言ってもいいのかもしれない。
本来なら「ちょいズル」をしたことで買い物の時間を短くできているのだから、本当ならほかの人よりも少しだけ得をしているはず。
それなら、その得した分だけ幸せそうでもいいはずだ。
ズルして得た分、自由な時間が増えているのだから。
それなのに、どうして幸せそうには見えないのだろう?
むしろ苦しそうというか、「負」の雰囲気をまとっているように見える。
レジの列に並びながら、そしてときどき前のおばあさんの視線が自分に刺さるのを感じながら考えていたとき、あることに気づいた。
「可哀想な人」でないといけないからかもしれない。
ちょいズル界隈にも色々な人がいるけれど、ドイツでよく遭遇するレジの割り込みをねだる人は、他人の情けにすがって恩恵を得るタイプの人たちだ。
そのためには、情けをかけられる必要がある人でないといけない。
肌艶がよくて快活な雰囲気では、本当に買う荷物が少なくないと成功確率が下がる。
しかも常習犯だから「ちょいズル界隈の人」として身バレもしている。
だから余計に、仕方ないな…と思わせられるだけ、可哀想な人に見えないといけない。
得するために「可哀想な人」のレッテルにふさわしい姿や雰囲気の人になった結果、「可哀想な人」というレッテルが体から剥がれなくなってしまった、みたいな感じがする。
もちろん普段はめちゃくちゃ派手な格好をして元気に過ごしているのかもしれないし、「ちょいズル界隈」の人というフィルター越しに私が勝手に感じているところもあるかもしれない。
でもこういう「自分の言動が自分に染み付くこと」ってある気がする。
好きな服を着るとすっと背筋が伸びるのと似ていて、そのシチュエーションや求める状態になるためにしたことに自分の身体が反応する、続けることで自分に染み付き習慣になる。それが自分の一部になっていく。
その効果が逆にも発揮されてしまう、ということなのだと思う。
今改めて考えると、日本で遭遇したちょいズル界隈の人たちも、こんな感じだったかもしれない、と思っている。
こんなに露骨に憐れみを求めてくる感じはないけれど、「私は苦労してるんだ」「日頃辛い思いをしてるんだ」という雰囲気を出す人は少なからずいた。
当時のわたしは余裕がなくて、こういうのが本当に許せなくて、遭遇するたびにイライラしていた。
「ズルした人が得をしている」という怒りと同時に「この人のせいでわたしが不幸せになっている」という、幸せを搾取されるような感覚を持っていた。
けれど今、少し落ち着いてちょいズル界隈の人を見ていると、そんなことはないのだ。
その場でなにか恩恵を受けていたとしても、その人が本当に得をしているかは別の話。その人が自分を肯定したり周りに理解されるために纏う雰囲気が、結局自分を貶めているということがある。
この「ちょいズル」を成功させるためには、「可哀想な人」を装う努力が発生してしまうからだ。
そしてそれを繰り返すせいで、可哀想な人が板についてしまっている。
自分に染み込んだものは、なかなか抜けない。
たかだか10分そこそこの時短のために「不幸そうな人」を演じ、その代償として自分が不幸そうに見える雰囲気を纏うことが、等価交換かそれ以上の価値のあるものかは、わたしにはわからない。
少なくともわたしには、コスパがまったく見合っていないように見える。
自分のやったことは自分に返ってくるからだ。
これも、世界共通の事実のような気がしている。
実はお金持ちの女優で、お金のない不幸な人役を演じるために実際にそれを経験してみるというような、某少女漫画のキャラみたいな鍛錬を積んでいるならいざ知らず、さすがにいらない作業すぎんか……?と思ってしまう。
それぞれの価値観があるので、多少不幸そうに見えても、周りに見下されても、時短したり誰かの慈悲で得をすることに生きがいや幸せを感じられている人なのかもしれない。
こうやって書くと、世間の感覚に振り回されない、強靭な自分軸で生きられている人にも見えて、ちょっと面白い。
わたしはなりたいとは思わないけれど。
そんなことを考えていると、混雑に気づいた店員が、わたしが並ぶ列の隣のレジを新しく開けた。
わたしは背後にいた人に促され、隣の新しく開いたレジへ行くことになり、ちょいズル界隈のおばあさんより先に会計を終えることになった。
わたしはラッキーだったけれど、ちょいズル界隈の人にとっては、なかなか皮肉な結果だ。
そして一番気の毒なのは、振り返ってわたしに必死に理解を求めていた、前に並んだおばあさんだ。(おばあさんはコンベアに商品を載せ始めてしまっていたため移動できなかった)
パワフルな眼力を持つおばあさんに、一つでも多く、幸せが訪れますように。
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