ずっと誰かが我慢している国。
一時帰国をしてきた。
まだ日本を離れてから7ヶ月ほどなので、すんなり日本の暮らし方に馴染めるのかと思っていたのだけれど、そんなことはなかった。
羽田空港に降りた途端に感じた、生ぬるい気温と少し肌にまとわりつくような湿度。たまたま少し暖かい日に帰国したのもあって、久しぶりに感じる日本の秋の空気だ。
本気を出すと30kg以上になる大きいスーツケースを転がしながら、私は空港からモノレールに乗った。
するとすぐに違和感を抱くことになる。
なんか、人が気になる。
浜松町から羽田空港を結ぶ東京モノレールはJRの在来線などよりも少し車両がコンパクトだ。羽田空港から乗る人達は多かれ少なかれ荷物を持っているし、到着した日が祝日だったので、お昼すぎでも車内が混んでいたというのもあると思う。
けれど、それだけじゃない。
物理的な距離が近くて、嫌でも人が目に入るのだ。
帰国当日、私はこの違いが日本とドイツに住む人の、パーソナルスペースの違いかなと思っていた。
改めて説明しておくと「パーソナルスペース」とは「対人距離」のことで、他人が自分に近づいて不快に感じる距離のことを言う。
アジア圏の人はヨーロッパ圏の人よりもパーソナルスペースが狭い傾向があるらしい。
でも2週間ほど過ごして、人との距離の近さはパーソナルスペースの問題ではないと思うようになった。
なにもかもが小さい街、”東京”
ヨーロッパに比べると、
単純に全てのものが利用者数に対しても、
利用者の大きさに対しても狭く、小さい。
まず思ったのは、交通機関の設備そのものの狭さだ。
日本の公共機関や交通機関の通路や改札、階段、ホーム、車内、車内の椅子の幅やボックス席の向かいの人との距離、その全てが小さいもしくは狭い。
今回の一時帰国では、日本出国の時に使った60Lくらいのスーツケースを持っていたのだけれど、それを駅の改札に通すときすらギリギリだった。
ベビーカーや車椅子のために少し広めの改札も用意されているけれど、混雑時にはそこへたどり着くことすら難しく、流れを横断しようとするせいで他の人とトラブルになることもあるだろう。
あと日本の駅は海外の駅よりもアップダウンが多い。
駅の施設が地下から地上2,3階まであることも多く、全体的に縦長なのだ。
これは利便性を優先して、狭いところに電車だけでなく色々な機能を密集させようとするからだと思う。
都心の駅は特に、
みたいなホームへのアクセス方法が一般的だ。
上下の移動が2回以上あることが多い。
これはベビーカーや車椅子を利用する人はもちろんのこと、大きい物を持つ人にもかなりの障壁になる。
エレベーターもあまり大きくないし、土日となればとても混雑する。
乗り換えに間に合わなくなるために階段を使うしかないこともあるのだけれど(特に荷物くらいだと)、その荷物を持った移動すらスピーディでないと後ろを歩く人が苛立たれてしまう。
私を避けて先に進むほど、階段の幅に余裕がないからだ。
歩きスマホなどで後ろの渋滞を生んでいる人も多く、スマホ画面に夢中な人の背に鋭い視線が突き刺さっているのを何度も目撃した。
「通行の邪魔」を生み出してしまう設備不足
歩きスマホは確かに問題だと思う。
線路への転落など、色々なトラブルを生みかねない。
ただ「歩きスマホ」という一人が少し違った動きをしているだけで、ほかの人に迷惑がかかりすぎているような気がする。
歩きスマホ以外にも、他の人と歩くスピードが合わせられない場合がたくさんあるのに、それが計算されていないのだ。
手を引いて歩かないといけない年齢の子ども連れているときや、杖をつく人、松葉杖を付く人、ハンディキャップがあって歩くのに時間がかかる人もいるだろう。
海外からの旅行客など土地勘のない人たちだっている。
慣れない文字の看板に戸惑いながら、ゆっくり歩いたり立ち止まることもあるかもしれない。
そういう人たちを「通行の邪魔」と思わせてしまう設備の設計そのものが、そもそも間違っているような気がする。
利用者と利用者数に設備が合っていないからにほかならない。
これは利用者がダメというより、設備不足だと私は思う。
もちろんドイツでもベルリンやミュンヘンの中央駅ともなると、駅の階層が東京駅や京都駅くらいに複雑なこともある。
けれど全体的なホームの作りも広く階段や通路も広いこと、エレベーターやエスカレーターの数が多いこと、困っていたら助けてくれるお国柄ゆえに、あまり障壁にはなっていない。
人を助けるために他の人が並んでゆっくり歩いたとしても、階段や通路自体に広さがあるから、そこまで他の人の通行の妨げにならないのだ。
譲り合ってぶつかる不思議な座席
次に気になったのが、電車の席の狭さだ。
日本の電車の席は狭い。
新幹線のような、2人掛けで進行方向を向いている座席の形ならまだいいのだけれど、6人や7人で使う長椅子タイプの椅子はかなり異常に見えた。
日本人の細身の人が並んでも肩や腕がぶつかるし、7人掛けのところを6人で使ったりそれ以下の人数で余裕を持って座ったら、座れなかった人がとんでもない目で見てくることもある。
荷物などで座るスペースを奪うのはよくないと思うが、体格や諸々も事情でゆとりを持って座ることも許されないのが、日本の電車の現実だろう。
肩や腕がぶつかったり、くっついた状態で電車に乗ることも多いから、必然的に相手の一挙手一投足が気になる。
何かをカバンから出すために腕を動かせばこちらにも腕がぶつかるし、その人がスマホをひざ上でいじりたいがために肘を椅子の背側へ引けば、こちらの脇腹に肘が当たり続けるということも起きる。
席が狭いせいで、隣が何をしても気になってしまうし、何をされても不愉快に感じられるのだ。
そういう席の作りだから、結局ずっと我慢を強いられることになる。
都心のような駅の区間の短い電車であれば「お互い様よね」で済むかもしれないけれど、1時間以上電車に乗るときなどにこういうことになると、なかなか人も降りないのでずっとこのもやもやを抱え続けることになる。
ただ電車に乗って座っているだけなのに、こういう地味な我慢で精神的に疲弊するということが起きるのだ。
こんな些細なこと…と思う人もいるかも知れないけれど、満員電車や長距離移動をする人は、疲労から苛立っている人も少なからずいる。
そのせいで実際に揉め事になることもあって、電車が遅れることもあるから馬鹿にできない。
こういう事件があると大体、「最近イライラしてる人が多いね」とか「人がおかしくなってきてるよね」とか、「世も末だ」みたいな意見を耳にする。実際私もそう思っていたけれど、海外で暮らすようになってから、そうはあまり思えないようになっている。
「みんな同じ」じゃないのは当然だからだ。
むしろ日本はまだ常識みたいなものが揃っている方で、それでも揉めているのだから、むしろ設備に問題があるように思うようになった。
全員が座れないとしても、ずっとぶつかり合わないといけない満員電車や、それでもその電車乗らなきゃいけない状況をもっと問題にしてもいい気がするのだ。
人と近づきすぎない、ヨーロッパの乗客
ちなみに海外にももちろん長椅子タイプの電車の席はあるのだけれど、大抵は1席1席分かれているか、座る形に座席が凹んでいて座り方がわかりやすいものが多い。
しかも座る幅が日本に比べて広く取られているので、かなり体格がよかったり厚手のコートを着ているとかでない限り、あまり誰かとぶつかり続ける感じにはならない。
ヨーロッパでも地下鉄になれば多少席は狭くなる。ロンドンの地下鉄は、体感的には大江戸線のようなコンパクトさなのだけれど、ロンドンの地下鉄はスマホの電波が通じないので、使うのはダウンロードしたドラマを見ている人やスマホで読書をしている人が多く、そんなに触れ合ったりガンガン肘をぶつけてくる印象はなかった。
これはロンドンもそうだけれど、ヨーロッパの地下鉄の治安が全体的にあまり良くなく、スリなどもよく発生するので、体をくっつけ合うことが防犯上リスクであるというのもあるかもしれない。
怪しまれるようなことはしないし、されそうになったら逃げる。
妙にくっついてくる人がいたらだいたい避けるし、じっと見て近づかないように牽制することもあるだろう。
比較的治安の良いドイツであっても、知らない人がピタッとくっついてくることには抵抗があるのは変わらない。
なんなら、パーソナルスペースはアジア圏よりヨーロッパ圏で育った人のほうが広いので、狭いところに無理してでも座りたいという人が少ないというのもあるかもしれない。
基本的に狭いのが嫌いだし、防犯の観点からも日本の満員乗車は無理なのだ。
ずっと誰かが我慢する国、日本
この問題は、人口密度の問題でもある。
東京の人口密度では豊島区などだけで考えれば、世界でもかなり上位の人口密度らしい。ただ、そういう密度になったのはここ数年の話ではないし、それこそ戦後に地方から仕事を求めて東京へ人が出てきた頃から、人口の密集度は高かったように思う。
戦後の人口集中が始まった時代を描く、小津安二郎監督の映画「東京物語」のワンシーンには、東京の街に無機質なマンションが密集しているところが映る。
「サザエさん」でも電車のシーンでは、波平さんやマスオさんが肩を寄せ合って座っていて、通勤シーンなのもあって席がスカスカなことはほぼない。
そんな映像ばかり見ていると、その頃から今日まで、
日本はずっと、誰かが我慢しているようにも思えてくる。
もちろん我慢しているのは、公共交通機関の狭さだけじゃない。
最近なら、物価も税金も上がっているのに、
賃金は同じようには上がっていないこともそうだろう。
私の周りにはインボイス制度によって生活にかなり影響が出ている人もいる。
人口は減っているはずなのになぜか上がっていく土地代や、
それにともない上がっていく東京近郊のマンションの値段も謎だ。
東京に会社があることが普通でありいつまでも出社にこだわるせいで、
ずっと東京から離れられない働く人たち。
正社員とそれ以外の勤務形態での扱いの差も、10年以上前から問題になっている。
結婚や妊娠を会社に言いにくくなっている職場。
時短勤務で給料が減っているのに、謝りながら時短で帰る子育て中の人たちも、考えてみれば変だ。
そんな子どもによって働く時間を短くすることを良しとしない雰囲気なのに、夫婦ともに働き子どもを持つことを「普通」とする風潮。
事情に関係なく専業主婦を悪とする人もいる。
自分のペットや子供に対してしたこと、もしくはしてあげないことを、何かと「かわいそう」と言いながらなじる文化。
有名人に清廉潔白を求め、何か失敗すれば容赦なく叩き吊るし上げる風潮。
毒親・親ガチャなど、最近になって見えてきた家庭内の問題も、
大抵の場合、誰かの我慢によってギリギリ保っていたり、我慢の限界で問題が露呈することも多い。
今年騒ぎになっている芸能系のニュースも、見えないところで我慢していた人が明らかになったというものが多いような気がする。
忖度もあるが、我慢の部分もかなり大きい。
それを強いる(我慢しなければそこにいられない)環境が、自分たちが思っている以上にたくさんあるということだろう。
日本で生きている人は、
常にどこかで我慢しているのだと思う。
そのせいで寛容さや余裕を失っている。
しかも、自分にも周りにも意味のないことで我慢してしまっている。
人は生きていればどこかで我慢することはあるけれど、
日本と日本の外では、やはり我慢の度合いと質がだいぶ違う。
理不尽を我慢する英才教育
少し前に話題になったが、中学高校の校則も意味不明なものがいっぱいある。
私の通った公立中学にも変な校則がたくさんある上、上級生において制定される裏校則も存在していた。校則も裏校則も厳しく、学校内で威張れなかった中学1年生が、校庭で遊んでいた当時小学校6年生だった私たちの前に威張りにやってきたこともある。「私たち、お前らの先輩だから」と。
今思うとかなり異常な縦社会だった。
高校も私立校で近隣住民の目が厳しいところだったから、最寄り駅からの自転車通学が禁止だったり(学校運営のバス会社のバスのみ利用可)、傷んだ髪の毛すら「髪が茶色い」と叱責されるようなところだった。
そんな外聞の良さを追求するためのような指導を受ける高校に通いながら、自分は学費を払ってもらい補習だらけの教育を受けながら、見た目を整え、できるだけ偏差値の高い大学に合格し、学校の印象を良くすることだけが求められているのだと感じた。
こんな多感な時期から、意味のわからないルールや理不尽に我慢させられていたら、我慢が普通になってしまうのもわかるような気がする。
これはもはや「我慢の英才教育」だ。
今思うと、成績や内申点をチラつかせ、学校が生徒をコントロールしていたとしか思えない。
我慢は必ずしも悪いことではない。
こういう「理不尽でも我慢しなくてはいけない」「声を上げても何も変わらない」「誰も助けてくれない」という気持ちを持たされることが、悪なのだと思う。
”気の持ちよう”だけでは、全ての我慢は消えない
ずっと理不尽を我慢していると、問題の解決方法を自ずと絞ってしまう人が多いように思う。
例えば、ストレスの根源(シチュエーション)を減らしたり絶つ方法よりも、自分の気の持ち方で解消しようとする。
「見方を変えればストレスが無くなる」的な理論だ。
「アンガーマネジメント」という言葉もかなり一般化した気がする。
もちろんそれで解決することもあるけれど、そうでないことも多い。
見方を変えるだけで不安やストレスがゼロになるなら、ストレス社会なんて言葉は生まれないはずなのだ。
むしろそんな思考が常習化するせいで、我慢できないのは自分の忍耐の弱さだと思い、自分を責めたり「自分さえ我慢すれば……」と思い込んでしまう人も多い。
そしてこういう「我慢」が、問題発覚・解決を遅れさせている部分も大きい。
我慢が常習化してしまい、後から参加した我慢できない方がダメということになったり、抜本的に見直せば皆のストレスが減るのに、誰も声を上げないせいで問題として認識されないということもある。
なんなら、何かトラブルになって初めて問題が露呈することもあるだろう。
我慢が状況を悪化させてしまうこともあるのだ。
なんとも皮肉だけれど、まったくない話ではない。
そういうことがよくあるのだと、昨今の日本のニュースを見ていればよく分かるはずだ。
ドイツの我慢と”選別”
ドイツで暮らす人も「仕方がない」という、ある種の「お互い様精神」があるので多少の我慢はするけれど、日本人ほどの我慢はしない。
自分が得しない我慢は、基本的にしないのだ。
「得をしない我慢はしない」というと、利己主義のように見えるかもしれないけれど、一人の得をしない我慢は他の人にとっても得をしない我慢であることも多い。
気になればはっきり言うし、譲らないと決めたことはとことん譲らない。
不満があれば声をあげるし、それが仕事なら団結してストライキをするし、政治のことならデモ活動で訴えることもある。
日本人の私からは、ちょっといきすぎでは…?と思う内容の活動や要望もあるけれど(「今より働かないけど給料はあげろ!」みたいなストライキもある)、「まず声をあげて要望を言うだけ言ってみる」という姿勢は、日本とは全く違う。
少なくとも最初から「どうせ言っても無駄だろう」という思っていることはないように見える。
それでもストレスや人間関係に悩む人が多いのか、そういうものの解消のための本はドイツでも売っているし、本屋で平積みされていることもある。
マインドフルネスや禅(座禅)みたいなワードはドイツでも人気のようでよく見かける。(フランスの本屋にも結構あった)
ただ、それで解決しようとしている問題は、本当の意味で自分が逃げようのない問題によるものなのではないかと思っている。
例えば、家族との悩みや子育てによるストレスは、元を断つことがなかなか難しいし、そう簡単には手放せないから解決方法を探すのだろう。
自分にとって大事なものにはちゃんと悩み、あまり大事でないもので発生するストレスは回避する。
避けたいストレスについては、とりあえず要望をあげてみたり、元から絶つ方向で動いてみる。
彼らを見ていると、そんな考え方が見えてくる。
そう考えると、ストレスについて「このストレスは自分が受ける価値があるか」みたいな観点で、少し選別をしてみてもいいのかもしれない。
全てのストレスを受取り、我慢し、発想の転換で全てが解決できるとは到底思えないからだ。
譲り合わなくても心地よい日本へ
話は戻るが、満員電車や隣の人とぶつかり合うほど狭い席、
前を歩く人を抜くことすら出来ないほど狭い駅のホームや通路は、
誰にとっても不要なストレスだ。
こういう問題を今までは「譲り合い」や「察し」という乗客の気遣い(ソフト面)で解決しようとしてきた。
それを訴える駅や電車内のポスターを幾度となく見てきたけれど、改めて日本の電車や駅の設備を見ていると、譲り合うだけで解決する問題なのかと思うことも多かった。
長年続いている人口密度の問題や利用者の幅が広がっていることを考えると、もう乗客の気遣いで補える限界を超えている。
通路やホームのスペースを広く取る、座席を広くしたりルールを変更するなどの「ハード面」での解決策なしでは、どうにもならないところまで来ていると思うのだ。
都心でも再開発が進んでいる駅はホーム自体が広くなってきているものの、まだまだと言わずにはいられない。土地などの権利問題もあるのだろうが、これから更に海外からの観光客が増えるエリアでの設備補強は東京に限らずどこでも必須となってくるはずだ。
観光地も、人の受け入れを制限できないなら、設備を補強するしかないのだ。
こういうところに、工夫とブラッシュアップが得意な日本人の気質を遺憾なく発揮してほしい。
全車両が2階建てになってもいいのだし、企業が東京以外の土地に移転して人口密度を下げるというのもいいだろう。
話が変わるが、20年くらい前に国会など首都機能を移転するみたいな話もあったが、結局どうなったのだろう?
新札や新硬貨を作るよりも、よっぽど経済にインパクトがありそうだけれど、それゆえにやっぱり難しいのだろうか。
日本国内の交通の便も以前よりもかなり良くなってきているし、リモートでの会議も一般化した今、どこの会社とも物理的に近い必要がなくなってきているはずだ。
受け取る我慢やストレスの選別と同様に、
「これって本当に(ここに)必要?」と
改めて問うタイミングが来ているのかもしれない。
電車の席の狭さからだいぶ話が広がったけれど、
そんなに混雑していない時間帯なのに、車内のどこに立っても邪魔扱いされる大きいスーツケースを手に、私はそんなことを考えていたのだった。
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