見出し画像

370.人生には、たった2つの生き方があるだけだ。1つは奇跡などないかのような生き方、もう1つは、まるで全てが奇跡であるかのような生き方だ。

(23)人生に奇跡を呼ぶ方法


1.   明るい人と暗い人


どうやら、世の中には2通りの人種が存在していて、「明るい人」「暗い人」に分かれているという。

また、不思議な現象だけど、「明るい人」の回りには「明るい人」が集まり、「暗い人」の回りには「暗い人」が集まるんだね。

その理由って、「暗い人」には暗い人同士理解しあうことができて、「明るい人」は明るい人同士が理解しやすい、ということなのかな。
 
確かに、病を持つ人の気持ちの場合は、同じような病を持つ人同士でなければ理解し合うことができないように、互いの痛みの共有、共感できることによって理解し合うということに似ているね。
 
逆に、「暗い人」が「明るい人」たちの集まりに参加することによって、明るくなったり、明るい人でも「暗い人」たちの集まりに参加すれば暗くなってしまう。
それぐらい明暗というものが分かれてしまい、そのエネルギーは影響を及ぼす。
 
でもね、街頭に集まる虫や蛾のように、明るい光に群がるように、自然と人も同じ明るいエネルギーの方へ人は集まるようだ。
このように、「明るい人」には明るい人が集まり、暗い人には人が寄り付かないしくみある気がする。
 
でもね、「暗い人」と「明るい人」はどう見分けるの?
 
暗いと感じる人は「暗い人」、明るいと感じるから「明るい人」だというものでもない。誰が見ても暗い人だと思っていても、本人にしてみればとても明るい性格の人も入れば、明るい性格の持ち主に見えても陰険な人もいるわけなんだから、そう簡単にすみ分けはできないよね。

だから、やっぱり「感じる」「感じさせる」「感じ取る」という意識したものの見方がないと、なかなかわからないものだと思う。
 
でも、そんなに難しいことではない。
言葉に表れなくとも、行動(態度)で判断すればいいのだから。

明るい人は笑顔が多く、暗い人は笑顔が少ない、いつも怒った表情(真剣な場合もある)、不機嫌な表情(何か思い悩む場合もある)の人は暗く見えるよね。
 
反面、言葉が少なくとも表情の明るい人などは、相手に不快感を与える事が少なく、一目、その態度で判断ができる。
 
私には友だちがいないとか、寂しいなどと言う人は意外と他人に冷たい表情をしているかもしれないね。だからといって、無理して笑顔を作ったとしてもそれでは相手に心底伝わるわけではなく、心の思い方、考え方によってそれらは自然に出来るものなんだからね。


©NPО japan copyright association Hiroaki

2.  何を言いたいのか、わからない! 

相手の気持ちがわからない、自分の気持ちがなかなか伝わらない、と嘆く人が多い。これだけ情報化が進んで、ほとんどの人が伝達ツールという武器を持ち、誰もがとても楽に、簡単に便利に自分の考えや意思が伝えやすい時代になったというのに、その「言葉使い(言い方)」によって誤解を招いたり、真意が伝わらなくて争いとなったり、トラブルが多発してしまう世の中。

不思議だと思わない?
 
つまり、便利で簡単になればなるほど無駄だと思う言葉、不必要だと感じる言葉たちを省略してしまうことで増々伝わりにくくなっているんだ。
 
メールやラインは、信頼関係のある一部の友だちを除いては相手を傷つけたり不快な思いにさせているということを知る人が少ない、いや、わからない。
それは自分中心、自分の考えが伝わればいい、という勝手な拡大解釈があり、意味の伝わらない友達感覚のメールやライン文だらけとなっていることなんだよ。
 
メールやライン、場合によってはツィッターなどの短文なども同じ文、アナログ的にいえば手紙に近い私文書だ。最初に挨拶、終わりという明確な区分がなくただの要件のみであったり、一方的に相手が必要な情報であれば良いのだけれど不必要な情報ばかり送りつける人がいる。
 
パソコンなども同じ、たった一度だけの名刺交換にも拘わらず一方的なメールを送り続ける人、ネットで買い物をするだけで知らない会社からメールが続々と入る、これらは個人情報保護法に抵触する場合もあるけれど、乱立した情報が氾濫を招いている。
 
一方的な通信(送信)って、自分勝手で相手に不快感を与えているということが気づかない人が多い。このように情報技術の深化と共に「失礼文」が無限に氾濫しており、礼儀、礼節、思いやりや配慮がかけてしまった時代となってきたといえるかもしれないね。
 
さらに、酷いのは「何を言いたいのかわからない」「何を伝えたいのかわからない」というメールやライン文がある。まさに、このような人たちは相手の背後がわからずに不快感を与えて続けていることに気が付かない。
 
coucouさんは、そのような失礼な人たちには一切の返事をするのを辞めた。
でも、それでもその人たちは勝手に連絡を送り、不必要な情報を送り続けて来る。

いらないんだよ、そんな情報はね。

ならば、その人たちには着信拒否しなければわからないかもね。
そう、相手のこと、相手の背後のわからない自分中心な自分勝手な人たちだけに。

©NPО japan copyright association Hiroaki

3.想像力は奇跡を起こす

さて、想像力はすべてにおいて奇跡を起こすんだ。

私たちは自分の目の前に映る現象はよくわかるけれど、隣の部屋は見えないためわからない。
でも、隣の部屋でも、知らない世界でも、別の世界でも、相手の世界でも注意して意識するだけで感じ、見えるようになるものなんだよ。

私たちの頭の中は空想や妄想、想像、創造の固まりともいえるもので、誰もがいつ何時、瞬時に膨大な想像をすることのできる能力を身に備えている。

だから、人はそんなものがなくとも、生きれるのかもしれないけど、これは人間に与えられた素晴らしい能力と言えるものだと思う。

今日の世界のすべては神が想像したものではなく、すべて人間が想像した結果の姿といえるんだもの。
同時に、私たちの現在の考え方、行動のすべては私たち自身が望み、想像してきた通りの世界、人生になっているはずだからね。
 
 

「アインシュタインの言葉」
人生には、たった2つの生き方があるだけだ。
1つは奇跡などないかのような生き方、
もう1つは、まるで全てが奇跡であるかのような生き方だ。



©NPО japan copyright association Hiroaki


©NPО japan copyright association 

coucouさんです。
みなさん、ごきげんよう~

「人生に奇跡を呼ぶ方法」23回目となった。

一見、つまらない話なのだけれど、とても大切なことだとcoucouさんはね、勝手に思い込んでいるんだ。

それはね、coucouさん自身の問題でもあるからなんだ。

アイシュタインの有名な言葉にあるように、
「人生には、たった二つの生き方があるだけだ。一つは奇跡などないかのような生き方、もう一つは、まるですべてが奇跡であるかのような生き方だ」

coucouさんの人生って、自分でいうのもおかしいけれど、「奇跡なんて信じない」「奇跡なんてない、ありえない」という長い生き方をしてきた。だから、どうしても奇跡を信じることができなかった。

あるとき、coucouさんの父が自分のことを「奇跡だと思う…」といった。

「早くして父や母を亡くしたけれど、父や母の想い出がある。とても苦しい時代だったけれど、奴隷のように働き続けたために、その貯金(健康)で長生きができた。戦争から生きて帰れた。妻と結婚した。お前たちが兄弟が生まれ、育った。病気こそ繰り返し続けたが、こうして生きている。なによりも、お前たち兄弟が無事でいること。こんな奇跡ってないと思う…」

「朝、覚めることができる。外の美しい世界が見える、美味しい空気、太陽、星が見える。何といっても94歳現役で仕事ができる、そして人さまのお役に立つ。これは全部、奇跡だと思う…」

このときから、あまりにも遅いかもしれないけれど、coucouさんの毎日、日々の中にささやかな奇跡を感じるようになった。

coucouさんは父が去ったとき、奇跡をいただいた。
いや、奇跡を見せられた。
母が去るときも、父と同じように奇跡を見せられた。
二人とも生きていることが奇跡だと信じていたからさ。

そう、それ以外は何もいらないよね。

私たちのすべては、奇跡に囲まれているのだからね。


みんなが読んでくれることも、
出会うことも奇跡だね。

読んでくれて、ありがとう~
みんな、奇跡をありがとう~

また、あしたね~



※coucouさんの電子書籍のご案内「~儲けにはある一定のリズムと法則がある~負けない心1.「ZERO」全3巻好評発売中!下記URLにて検索してください。

人生を楽しく明るく!幸せになるための物語。
 https://www.amazon.co.jp/s?i=digital-text&rh=p_27%3ACou+cou&s=relevancerank&text=Cou+cou&ref=dp_byline_sr_ebooks_1


©NPО japan copyright association 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,651件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?