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大人になってやめたこと

【はじめに】
子どもは、一つずつ「できること」を獲得していきます。知識を増やし、経験を積み、「できること」「わかること」が増えていきます。
いつになったら、全てがわかった!というゴールにたどり着くのだろう?と思ってきました。
でも…。

50歳になり、人生の折り返し地点を過ぎる頃から、再び「は~、そうだったのか!」と膝を打つことが増えてきました。
ごく当たり前のことや、もうすでに「わかった」と思い込んでいたことでも、す~っと目の前が開けるように、「なるほど!」とわかる…。
そんな体験は、探し求めていたものが、ストンと腹に落ちたようで大層、小気味いいものでした。自分の欠点て、直そうと思って直るものじゃないなと発見する。

シーツはリネンじゃなくちゃと思っていたけれど、コットンもなかなかいいものだと知る。
張り切っておしゃれをするより、普通の服を着ていた方がずっと感じがいいと理解する。

人生後半の「わかる」は、自分の引き出しの中にあるものを、全てひっくり返し、え~っと、これは、どういうことだっけ?と、もう一度その意味や価値を考え直す作業だったよう。

若い頃は、自分の周りに果てしなく広がる世界の中に、ちっぽけな自分がアクセスできる方法を探すだけで精いっぱいでした。
「世界」に「自分」を合わせていくというベクトルです。でも、年を重ねると、世界はとらえようのないほど広くて、不確かなもの、と分かってきます。
だったら、ものさしを「自分」に置くしかない…。引き出しの中身を、自分のものさしで再定義していく。それが、私の50代のはじまりでした。

そんな作業の中で、若い頃から「これは絶対に必要」と持ち続けていたあれこれが、実はいらないんじゃないか、と思うようになりました。
思い癖をやめる、食べ物やおしゃれに関するこだわりをやめる。日々の生活の中の習慣をやめる…。
この本は、そうやって私が暮らしの中で、1つ、2つと「やめたこと」をまとめた一冊です。

「やめたこと」には、必ず理由があります。「やめる」までのプロセスは、私が物事を知り、理解し、再定義する過程でもありました。そして、色々なことをやめるたびに、どんどん身軽になりました。

私にとって、何かを「やめる」ことは、自分に嘘をつかないことでした。それは、私が私を生きるための人生後半の、大掃除だった気がします。


✧心のこと✧
【欠点を無理して直すのをやめる】
→「ついしてしまうこと」には限りないパワーが潜んでいると知る

・人の欠点とは、自分でも気づかないうちに「ついしてしまっている」ことです。人見知りだったり、せっかちだったり、心配性だったり、怒りんぼうだったり。
無意識にしていることを「やめよう」としても、なかなか難しいもの。だから無理して直さなくていいんじゃないか、と思うようになりました。
それよりも、自分が嫌だ嫌だと思っている「欠点」に、別の方向から光を当ててみたら…。心配性は「慎重」に、怒りんぼは「反発力」というパワーにと、きっと「長所」変換できる、と信じてみたい。
・あ~あ、とため息をつく前に、自分の「欠点」の中に、とてつもないパワーが潜んでいると信じることができたなら、「だったらどうする?」と、これからできることを見つけられそうな気がします。

【「わかってからやる」をやめる】
→正しいか間違いかを判別する唯一の方法は「やってみること」

・「人間は、『やったことがないこと』にしか出会いません。なぜなら人間は一回しか生きることができないから。みんな初めての、一回しかない人生をぶっつけ本番で生きています。」
・「わかってからやる」というセオリーを一旦白紙に戻してみると、人生への向き合い方が変わってきます。「わからない」けれど一歩を踏み出すためには、いくつも道がある中で「ここ!」と一本に決めなければいけません。でも、実はこれがなかなか難しい。だって、その道が正しいか、間違っているかがわからないわけですから。
「それでも」と自分を信じ「こっち」と踏み出す。それは「間違っているかも」という可能性も認め、腹をくくることでもあります。
当然「間違えたらどうしよう?」と不安だし、怖い。でも、ずっと「わからない」と立ち止まったままだと、永遠にわかりません。
つまり、「正しいか」「間違いか」を判別する唯一の方法が、一歩を踏み出す、ということ。
・どうやら痛みを伴わないと正しさは手に入らないよう。だったら、早めに間違えて、早めに修正すれば、早く正解にたどり着けるかも。だから思い切って一歩前へ。
そうやって、「わからない」けれど進み始めると、今度はその道が面白くなってきます。「あれ、違うの?」「だったら引き返して、こっちへ行ってみようか?」「わぁ、この道の先にこんな風景が見えるなんて!」と見知らぬ道で体験する全てのことにワクワクします。
いつも正解じゃなきゃダメ。いつも100点じゃなきゃダメ。そんな自分を脱ぎ捨てれば、迷路を歩くのもなかなか楽しいものです。

【「誰かと一緒」をやめる】
→自分の中から「好き」を掘り起こす

・ものを選ぶスタート全てが「誰かが言っていたあれ」「誰かが持っていたこれ」になってしまうと、自分でものが選べなくなり。物事の良しあしが見極められなくなってしまいそう。
さらには、もし街中をブラブラ歩いている最中に、「あ、これいいなあ!」と何かをキャッチしても、それが「名もなきもの」であったら、自信を持って選ぶことができない人になる…。
・取材でいろいろなお宅を訪ねると、大抵同じようなものを見かけます。有名作家さんの器、北欧の人気ブランケット、雑誌でよく紹介されている家具…。確かに素敵なんだけど、そこに住んでいる人が見えてこない…。
そうか!
そこに「自分の目」がないと、どんなに素敵なインテリアでも、それは「コピー」にすぎないんだと、わかってきました。
逆に、独自の目線で集めたものをしつらえた部屋を訪ねると、そこには、確かにその人だけの時間が流れていたのです。
・「我が家はとっても狭いんです。でもね、居心地がいいんですよ。それは、嫌いなものが1つもないから。私は、どんな小さな場所でも、そこに自分の好きなものを集めさせすれば、幸せに暮らしていけると思うんです」。
そんなお話を聞きながら、「満足度の風呂敷を広げすぎないっていいなぁ」と思ったのでした。
・「誰かと同じ」を求めると、あっちの「誰か」のことも、こっちの「誰か」のことも気になって、知っておかなくちゃいけないことや、手に入れなくていけないものの幅が限りなく広がっていきます。
すると、いつまでたっても心が満たされることがない…。
・私は器が好きで、若い頃から本当にたくさんの器を買ってきました。最初は雑誌で紹介されている作家さんの個展に足を運ぶことから始めました。
この小鉢は○○さん作。こっちの平皿は、△△さんが作ったもの。1枚器を買っては、料理を盛り付けるとワクワクしたなぁ。
でも…。数年たつと、自分の食卓を眺めるのがだんだん苦しくなってきました。料理よりも○○さん、△△さん、という作家さんの名前が先に立って、息苦しく感じられたのです。
そこで、もう作家さんの名前を手放すことにしました。誰が作ったかよりも、私が作った肉じゃがが美味しく見えればそれでいい。やっとそう思えるようになりました。
若い頃は「誰かと一緒」であることで安心していました。でも、しばらくすると「誰かと一緒じゃなきゃ」という思いが、逆に自分を不自由にすると知りました。
大事なのは自分で選び直すこと。人生の後半は、自分の中から、本当の「好き」を掘り起こすことをワクワクと楽しみたいと思います。

【長く続けることをやめる】
→意志の力でなんとかするより、素直に体のリズムに従って早めに休みを

・上手な時間の使い方は、いつの時代も永遠のテーマです。
・いつも頑張れる自分ではいられない。それを認められるようになるまで、随分と時間がかかりました。でも「できないこと」を諦められるようになったとき、初めて「だったらどうする?」と次の一手を打つことができるようになりました。
無理して「できない」を「できる」にひっくり返すより、「できる」ことだけを見つけて取り掛かった方がずっとラクだし、早いし、確実です。
・「そろそろ飽きてきたな」は、体のサイン。意志の力でなんとかするより、素直に体のリズムに従って、早めに休み、早めに気分転換し、仕事も家事もストレスなくやっていければいいなあと思っています。

【反省をやめる】
→寝る前に楽しいことを1つ考えれば今日一日が全てハッピーになる
・「今」の感じ方で、人はこんなにも変わるもの。
・「できないこと」ではなく、「今、できること」へのチャンネルを切り替えるだけで、布団の中での心のぬくぬく度合いが変わってくる!だったら反省や不安を手放して、嬉しかったこと、ワクワクしたことへチューニングし、ハッピーな眠りに落ちたいなぁと思うこの頃です。

【明日でいいことは今日しない】
→今日に余力を残しておけば、何かに気づく心を持てる

・いつも正面からしか見てこなかったものを、後ろから見ると、価値観がぐらりと揺らぎます。9割でやめる、ということは、単に時間にゆとりを持つだけでなく、そんな「もう一つの視点」に気づくことなんだろうなぁ。
・「何が何でも、今日はここまでやらなくちゃ」と思う込んでいた自分をふっと緩めてみる…。そうやって、自分を甘やかし、許し、解放することも、必要になってきたのかなと思います。
ふ~っとひと息ついたとき、見える風景、聞こえる音、感じる風を大事にしたい。そう思うと「あと1割」の先に広がっている世界をのぞくことがなんだか楽しみになってきました。

 【「もっともっと」をやめてみる】
→「持っていない」ものを数えるより、すでに持っているものを「使う」人生を

・若い頃から、なかなか自分に「よし!」とOKを出すことができませんでした。
・「これでよし」と満足してしまうと、そこから先に進むことができなくなるんじゃないか?という心配もありました。私は「ここ」で満足しているわけでなく、もっと上にのぼりたいんだ!若い頃は、そんなギラギラ思いがあったのかも。
・「まだまだ」と思うことは、自分の中の「欠け」を認めることでもあります。まだ私にはできていないことがたくさんある。
・世の中にはまだ知らないことがたくさんあって、それを学ぶことで、私はもっと成長できるはず…。ただ、ずっと「まだまだ」と思っていると、絶えず不安で、絶えず満たされず、心が疲弊していきます。
・いろいろなコミュニティーの中で、「自分」を出してみると、今までとは別の世界が開けるんじゃないかなぁと最近思っています。
「自分の中にあるもの」で勝負をすると、そこに自然と自分の「場」ができます。多分それは、「私はこう思う」と声にすることで、そこに共鳴してくれる人が集まってくれるから。
若い頃は、どこかに何かを探しに行く時期。人生の後半は、すでに持っているものをより成熟させ、自分の内側を充実させていく時期。
「もっともっと」をやめてから、新しい発見がいっぱいです。

【カメレオン体質をやめる】
→「お腹の中にあること」を声に出してみれば、ありのままの自分になれる
・誰しもが「人」と関わるとき、一度は「自分を殺して、人に合わせる」という経験をしたことがあるのではないでしょうか?
でも、そうやって自分に嘘をついていると、必ずバレます。さらに噓をついていると自分を消耗します。自分が本当に好きなものは一体何だったのかさえ、わからなくなってきます。
絶えず「人」をものさしにし続けることで、自分のものさしの目盛りまで読めなくなってくる…。これでは、せっかく100の力を持っているのに、50の力でしか生きていないことになってしまいます。
・思い切って声に出してみて、最初に感じたのは、「あれ?言っちゃっても大丈夫じゃん!」という驚きでした。
そして、自分の「お腹の中にあること」と「声に出すこと」が一致したときは、こんなにもスッキリと気持ちいいものなんだなとあらためて知りました。
・嘘偽りのない私のまんまで意見を言うと、きちんとみんなが「こういう人なんだ。」と認識してくれて、次の会話に進むときに「Bがいい○○さんが、今度は…」と前提条件を理解してくれている…。これは人間関係を育んでいく上で、とてもラクなことなのです。
・カメレオンをやめることは、ありのままの私になることでした。そして、ありのままの私を人の前に投げ出して、わかってもらうことでもありました。嘘をついていると、いつまでたっても本当の自分を理解してもらうことができません。だから辛くて、心がどんどん疲れてしまっていた…。
本当の自分で生き始めると、自然に自分が好きなもの、興味を持つこと、気が合う人が集まってくるから不思議。すると誰かと自然に繋がって、新しい扉がパタパタと開きだす…。私が私の色で年を重ねていったなら、その先にどんな変化がおこるか楽しみです。

【独り占めをやめる】
→誰かに託して、思いがけない結果が返ってくるときめきを受け取る

自分ではそんなつもりは全くなかったけど、「人より幸せにならなくちゃ」という思いがこびりついていたのだと思います。人よりたくさんの宝物を拾って、人より早く、ゴールをぶっちぎらないと…。でもどうやらそうではないらしいと気づいたのは、ごく最近のことです。
・一人で抱え込んでいた仕事を、人に手伝ってもらった方が、よりクオリティーが上がることを知り、一人でイライラしながらやっていた家事も「お願い!」というひと言を言うだけで、ぐんとラクになることを知る…。その結果、たどり着いた結論は、「一人で幸せになる」より「みんなで幸せになる」ほうが、100倍も「幸せ度」が高くなる、ということでした。
・人に託したことは、リターンとして何が返ってくるかわかりません。お任せしたら、もう私のコントロール下にはなく、ただ「待つ」ことが必要です。時には期待外れ、ということも。でも、自分の力が及ばないからこそ、思いがけない結果が返ってきたときの喜びは、何物にも変えられず、心をときめかせてくれます。

【付き合いをやめる】
→誰かと関わる幅をひと回り小さくして、心が触れる距離感に

人生は短いもの。だったら「なんとなく」会うのではなく、粒より人間関係の中で、本当の心のやりとりを楽しみたいと思うのです。

✧おしゃれのこと✧
【服を探すのをやめる】
→服も、幸せも「探して」ではなく「出会って」手にいれるもの
・「見つからなかったら、以前とおんなじでいい。」
・出会って買ったものは、「そうそう、私が探していたのはこれだったのよ!」と手にするので、失敗する、ということがほとんどありません。
その代わり、「出会うまでは、絶対買わない」というルールを守ることが大前提になります。
・ステキな服に出会うことと、人生の転機を迎えることは、なんだか似ているなぁと思います。
・振り返ってみれば、少しずつ「やりたいこと」が形になってきました。でも、「よし!」と決心してやり始めたことなんて、一つもありません。
ただ、「こっち」じゃなくて「あっちが楽しそうだぞ」と鼻をクンクンさせたり、「私がやりたいのは、こういうことかも」という漠然と感じてきただけ。正解はわからなくても、「悶々とした思い」を持ち続けていれば、いつか「出会い」がやってくる…。今、振り返ってみるとそう思います。
そして確実に言えるのは、自分の人生をワクワクした方へと導いてくれるのは、「決意」ではなく「出会い」だということ。
・幸せは、自分の力でもぎ取るものではなく、ひたすら機が熟すのを待って、ぽとりと落ちる実を疲労ことなのかなぁと思います。

✧食べること✧
【おかずを1品作るのをやめる】
→数を減らせばクオリティーが上がる。一旦その場を離れれば、新しいアプローチが見つかる
・いい原稿を書くには、スキルではなく、「自分の心と頭と体が一番クリアな時間」という「環境」を整えるのが一番の近道だということがわかりました。

【じゃがいもを丸ごと茹でるのをやめる】
→ラクすればイライラも半分に【新しい調味料を買うのをやめる】
→自分の「経験」というリストの中から「できること」を探してみる

若い頃から、無駄な買い物を本当にたくさんしてきたなぁと思います。便利そうな調理道具やかわいい保存瓶、評判のオリーブオイルやビネガー、文具屋さんで一目惚れしたノートやファイル…。そんな中で「買う」という行為は、本当にそれが必要というより、「これをに手に入れたら私の生活がちょっと変わるかも」という「妄想」に左右されるんだなぁ、とわかってきました。もちろん、一つのモノとの出会いで、新たな扉が開いて、暮らしがガラリと変わるという体験は、本当にワクワクするもので、買い物の楽しさはそこにあると思います。
買っても結局使わない。
そんな体験を生かして見えてきたのは、私たちの買い物は多分に「気分」に左右されているということ。「新しいものを買う」という行為によって、自分の心が「刺激されること」を求めているだけ…。
だったら、「刺激」と「もの」を切り離して考えてみれば、不要なものを買わなくてもいいんじゃないか、と考えるようになりました。
・お店で「何か」と出会ったら、それを手にとりながら、自分の持ち物を思い出し、「これ」の代わりになるものを探すクセがつきました。
・ものをたくさん買って、使ってみて、自分の体を通して世界を知るという時期があります。逆にいらないものを手放して、自分が本当に必要なものだけで暮らしたくなる時期がやってきます。
・インプットする時期から、自分の中にあるものを「使って」楽しむ時期へ。それが意識せずとも自然とやってくる「人生の折り返し地点」というものだのかもしれません。
・ものを減らしたくなるのはラクして暮らすため。ものが多ければ多いほど、整理整頓にも管理にも時間と手間がかかります。そこにかける労力をできるだけ減らして、「もの」の代わりに自分の内側に蓄積した「経験」というリストのページをめくり、「できること」を探してみたいなと思います。
・「買う」だけでは、自分は変わりません。
「かといって」だけで新たなものとの出会いをシャットアウトしてしまったら、暮らしの風通しが悪くなります。
人生を楽しむためには「買う」と「使う」のバランスが大事。そのジャッジを「点」ではなく、長く続く「線」でとらえてみる…。そうすれば、自分の人生に必要なスパイスが見えてくる気がします。

【糖質を軽くやめる】
→食べ物で、自分のパワーを無駄なく使うシステムを作る

・排出する→食べる→吸収するというサイクルを体の中にきちんと作ることで、便秘が解消され、体調が整う。
・人の体は食べ物でてきているんだなあと実感。何を食べるかで、体調も、心の落ち着きも、頭の回転も変わってくる…。
自分の体がどう変わるのかは、やってみないとわかりません。だから、少しずつ「何か」をいつものメニューに加えてみたり、「何か」を食べるのをやめてみたり。合ったり、合わなかったり、続けれたり、続けられなかったり、あっさりやめたり。自分の体がピピっと反応したものを続けたらいい。
・クリアな心で過ごしたい。仕事の効率を上げたい。さっさと家事をこなせる人になりたい。自分を変えようとしても、なかなかうまくいかないものです。「よし、今日から頑張ろう!」と決心しては挫折して。そんな失敗を繰り返し、私は自分の「努力」というものを信頼しなくなりました。
それよりも、周りの環境を整えて、自然と自分のパワーを無駄なく使い切るシステムを作ればいい。食べ物は、そんな環境を作る大切な要素です。

【小分け冷凍をやめる】
→不要な「備え」をやめて、ダイレクトに「目的」にアクセスする

・家事は自分や家族が心地よく暮らすためで、仕事は、自分の力を生かして、誰かの役に立ち、対価を得るため。なのについ、私たちはなぜかイライラしながら掃除をし、「どうしてこんなことしなくちゃいけないんだろう?」とブツブツ言いながら仕事をしています。
それはきっと、どこかで「備える」ことが「目的化」し、本当に大切な「目的」が遠く霞んで見えなくなっているからなのかも。
・ずっと備えてばかりいると、前に進むことができません。「それからどうする?」とその先を見通したとき、初めて人はその「備え」を使うことができるようになるよう。
・でも、果たして今、自分が何かの準備をしているのか、それとも準備を終えて歩き出しているのか、自分の足元は、なかなか見えないものです。
そんな自分の立ち位置を確認する唯一の方法が、立ち止まってみること。足を止めれば、自分がどこにいるかがわかります。立ち止まったら、その「備え」が本当に必要なのかどうか確認してみます。もしかしたら、目的とは逸れた「備え」になっているかもしれません。
・そして思い切って、ひとつ「備え」をやめてみる。今まであまりにも当たり前だと思ってルーティン化してきたことの中に、実は必要なかった!ということを見つけられたら儲けもの!さっさとやめれば、その時間を他に使うことができます。
・きっと人はずっと「備えて」いる方が気持ちがラクなのだと思います。ひき肉を冷凍しておく方が「もしも」のときに安心…。不要な「備え」を1つ、2つ手放すことは、自分が寄りかかっていたつっかえ棒を外すということ。
するとより自由に身軽になって、ダイレクトに「目的」にアクセスできるようになる。そうすれば、やりたいことが叶う時間がもっと早くなる気がするのです。

野菜の宅配をやめる 】
→「これじゃなきゃ」と他のものを切り捨てるより「こっちでもいい」と思える頭に

【かわいいカップ&ソーサーをやめる】→お茶を飲むためには適量がある。昔から続く「当たり前」を大切に

・本当に大切なことは、実はとても当たり前で、目立たないものかもしれないなぁと思います。誰かのために特別なことをしなくても、ただ笑顔でいるだけでいい。でもそれが難しく、だからこそ大きな力を秘めている。
・若い頃は、何か行動を起こしたら、その見返しがあって当然だと思っていました。お茶を入れたら「わあ、このカップかわいい!」と褒めてほしかったし、仕事で頑張れば評価してほしかった…。
でも、「当たり前のこと」は、特別に褒められるわけでもないし、必ず評価を受けるものでもありません。
誰も、何も言ってくれないけれど、世の中にはそれでも大切なことがある…。それに気づき、「それでも」と大切にできる人になりたいなと思うのです。
・ちょうどいいサイズのカップでお茶を飲めば、「すごくかわいい!」と感動しなくても、ちょうどいい量のお茶を美味しく飲むことができます。
きっとそんな「当たり前」を一つずつ味わっていけば、心の中に本物の豊かさを積み重ねることができるんじゃなかろうか。未だ見えていない「当たり前」を身の周りで見つけながら、指さし確認していきたいなと思います。

✧日々の暮らしのこと✧
【夜、仕事をするのをやめる】
→寝る前に「何もしない」余白の時間を作れば、「もう一つ」の豊かさに気づく

・習慣を変えるには、時間がかかります。つい張り切ってガラリと変かさせたいと思いがちですが、一つの習慣の前と後ろには、今までの習慣が繋がっています。少しずつ変えて、前後と繋ぎ直し、試験運転して確かめて、さらなる変化をプラスする…。そんなプロセスが必要。
・最近、朝のウォーキングを夕飯後に変えてみました。早朝、朝焼けの空を見ながら30分ほど歩くのはとても気持ちがいいものでした。でも夜のウォーキングは、全く違う意味を持つことを知りました。明かりのついた我が家から出て、夜の街を歩き出すと、今日過ごした一日を、一歩外から見直しているような気分になります。暮らしや仕事としう箱があったとしたら、その箱を高い空の上から見下ろしているような感覚。すると、時間も頭も心も一旦リセットされ、今日という一日を俯瞰で眺めることができるのです。
星空の下、30分歩いて、帰ってきたら、ゆったりと好きな時間を過ごす…。目下、夜時間の充実大作戦が進行中です。

【手紙をやめる】
→いつも「ベスト」でなくても、「これだったらできる」を見つければいい

・「お礼の気持ちが冷めないうちに」
・大事なのは、「ベスト」を知ったその後に、「だったら?」と自分ができることを考えること。「ベスト」ができないなら「ベター」でいいと割り切ることも時には必要でし。
・誰もが完璧には生きられるわけじゃない。全ての人が「ベスト」で生きていたら、みんなAIになってしまいます。誰でも「できないこと」を持っていて、「できる」度合いが違うからこそ、一人ひとりの個性が生まれる…。
そう考えると「できること」を見つけるのは、自分という存在を愛おしむことなのかも。「これだったらできる」を拾い上げ、無理をせず「ベター」な生き方をしていこうと思えるお年頃になりました。

【古道具を買うのをやめる】
→「買った」後には、「管理」を暮らしに定着させることが大事

生活には「管理」というものが必要だと気づいたのは、ごく最近のことです。欲しいものをに手に入れて、暮らしの中に仲間入りさせると、新たな時間が始まるようでワクワクするけれど、実はどう組み合わせるのか、これからの毎日でどんなふうに使うのか、どうやって手入れをし、きれいに保つのかを考えなくてはいけません。
私は大雑把人間なので、この「管理」が本当に苦手。
一つ失敗するたびに「これはいかん!」と「管理」するための方法を考えるようになりました。買い物はすぐにできるけど、「管理」は生活を放りっぱなしにせず、観察し、改善し、自分でそのルールを構築しなくてはなりません。
・なんとなく暮らしているのではなく、そこには「意志」が必要になります。ただ、あまりに張り切りすぎると、途中で息切れして続けることができないので、「面倒くさがりの私でも続けられる」方法をなんとか編み出します。
こうして、やっと暮らしにいくつかの「管理」が定着してくるうちに、ふと考えました。もしかして、「暮らしていく楽しさ」って、この管理=マネジメントにあるんじゃないだろうかって。
・暮らしのマネジメントは、人に頼むわけにはいきません。暮らしのディテールは自分にしかわからないし、持続可能なことはどんな方法なのかは、自分の胸にしか聞くことができないから。
「自分でしか作り上げられない」からこそ、作っていく過程が楽しいのだと思います。

【完璧に掃除をすることをやめる】
→100点を目指さなくても、80点を毎日続ければ、部屋はきれいになる

・どんな人もただ一回きりの人生の中で「できること」はそんなに多くありません。好きな趣味がある人も、突き詰めてできることの数は限られています。
世の中には、もっといろんな世界がある、と知ってはいるんだけれど、なかなかその扉を開けることはできない…。だったら、せめて目の前のことに夢中になるだけでなく、時折ふっと視線を上にあげてみたいなあと思うのです。
・100%を使い切らず、どこかで力を抜いて、あたりをキョロキョロ見渡してみたい、とこの頃考えるようになりました。
・まずは、「やらなくちゃ」と思い込んでいるけれど、実は「やらなくてもいい」ことを探してみることから。それはきっと、今まで夢中になってきた仕事とはひと味違う人生のお楽しみなような気がします。

【ジム通いをやめる】
→自分の体を変えるには、毎日コツコツ続けることが一番効果的

・目的に達成するためには、誰かに教えてもらわなくちゃ、と思い込んでいたけれど、実は教えてもらうのは、どうやって達成するかというプロセスだけです。
でもそこからが本番。それを毎日続けて自分のものにすることこそが大事。
どうやって自分の暮らしに取り入れ、定着させ、習慣化させるかが勝負です。
・これは、人生一般においても同じなのかも?
いつもの仕事や日々の過ごし方をぐるりと見渡して、複雑で無駄になっていた回路を一旦切断し、「目的」と最短距離でつながる回路へ新しくつなぎ直してみたくなりました。

【リネン生活をやめる】
→お金で経験を買う時期を経て、「何を持つかより、どう使うか」を考える時期へ

・機能性より何より、「暮らしの中でリネンを使う」というおしゃれな響きが嬉しかった。だけど、当時の私の収入では「エイッ」と清水の舞台から飛び降りないとか買えないような高価なリネンにも手を出して、一人で悦に入っておりました。
・自分の収入の中で、何にお金をかけるか。それは、その人の生き方と直結しているなぁと思います。若い頃は無理をしてでも、憧れるものを手に入れ、「経験」を「お金」で買う時期。そんなインプットが少し落ち着くと、今度は「これって、本当に私の毎日に必要?」と一歩引いて眺めるようになります。
・きっと私は、若い頃「リネンを使っている私っておしゃれでしょ」と言いたかっただけなんだろうなぁと、今ならわかります。背伸びをして、高価なリネンを買うことで、それを使う❝人種❞の仲間入りができたような気分を味わっていたのかもしれません。でも、それが、絶対にリネンではなければいけないひつようせいは、ちっとも理解していなかった…。
・世の中には、いいものがたくさんあります。「もっともっと」と高望みすれば、より上質なものがどんどん現れます。そんな中で「身の丈を知る」とは、意外に難しいことなのかもしれません。
若い頃、何と何を手に入れれば、幸せになれるのかと真剣に考えました。
でも、ふと周りを見渡せば、ギリギリの生活をしているのに「幸せです」と語る人がいて、高級車を乗り回しているのに、いつも「不安だ」と口にする人がいました。
・幸せになる方法をあれこれ探すより、「幸せだ」と感じる心を磨いた方がずっと近道。
・暮らしも同じなのかなぁと思います。何を持つかより、どう使うかの方が大事。いかにいい鍋を持っても、昔から使い続けているアルミの鍋で、煮物からシチューまで、色々な料理を作る母にはかないません。それを心にして、一つ何かを手に入れたら、一生懸命使いたいなぁと思います。
毎週末、シーツと掛布団カバーを洗います。ついでに布団を干して、その間にベッドを掃除機で掃除し、モップで水拭きを。さっぱりとした寝室で、からりと乾いたシーツをセットすると気持ちいいこと!
こうやって、自分の時間を紡いでいくこと。それがものを手に入れる目的なのだと、忘れないようにしたいものです。

【切り抜き&ブックマークをやめる】
→情報で満タンにせず、自分の心に「へ~!」と感じる隙間をあけておく

・とりあえず「いつか読み直そう」と溜めた情報。だけどそれを再度見返すということは滅多にありませんでした。「いつか」は永遠にやってこないと分かってきました。本当に必要と思うものは自然と「別格扱い」をして、後からわかりやすいように保存していました。
・どんな情報も「持っている」だけでは何の役にも立ちません。保存しておく情報量が多くなればなるほど、必要なものを、必要なときに「探し出し」、「使う」ための仕組み作りが必要になります。
・いろんな情報を保存してしまうのは、その情報がもったいないと思うから。このままスルーしてしまったら、きっと忘れ去ってなかったことになってしまう。「保存」しておけばいつか役立つかもしれない…。
でも、ただ判断を先伸ばしにするだけの情報は、たぶんこれから先も必要ないのだと思います。「いる」か「いらない」かは、「今」判断すべき。判断ができないものは、きっと「いらないもの」。そう割り切ることにしました。
・旅をする時は突然。当然、行き先の情報など集める時間もなく、いつも行き当たりばったりの旅です。でも、それでいいかなと思っているのです。
というのも、緻密に調べて予定を立てると、雑誌やガイドブックの情報を確認しに行くような旅になってしまうから。
とびきりおしゃれじゃなくても、地元の人が集まるカフェに入って、時間を気にせず、コーヒーを飲みながらダラダラ過ごしたり、何気ない街角の風景を眺めてみたり。
すると、自分にこびりついている垢がポロポロと剥けて、「ああ、私がバタバタしている日々の裏側で、こんな過ごし方をしている人がいるんだなぁ」と、当たり前のことに感動したりします。
・情報が多すぎると、「感じる」時間がなくなってしまいます。でも、新たな情報が全くないと、ワクワクに巡り合うことができません。だからこそ、そのバランスが大事だなぁと思うこの頃。
そのバランスを取る方法の一つとして、「欲張る」ことをやめてみたというわけです。あれもこれも知っておかなくちゃソン、みんなが知っていることを知らないなんて恥ずかしい、乗り遅れたらダメ、という思い込みは手放して。
本当に必要な情報なら、きっと今手放しても、後できっと巡り巡って私のところにやってきてくれるはず。満タンな心をちょっと整理して、隙間をあけておけば「へ~!」「ほ~!」と、色々なことに感動できる気がします。

【トイレブラシをやめる】
→トイレがきれいになっても、ブラシはどうする?「目的」の1つ先まで考えてみる

・暮らしの中には、「トイレブラシ的」なものがたくさんあるんじゃないかと思います。本来、汚れを取るための道具のはずなのに、その道具自体の清潔感が保てない…。人は、「トイレをきれいにする」という目的だけしか目に入らないと、「ブラシを使った後」のことまで考えないものなのかもしれません。
・掃除をする、料理を作る、原稿を書く、子供の宿題を見る。暮らしの中には、さまざまな「やらなくてはいけないこと」があります。でも、大抵の場合、その「目的」は「一度果たせば完成」ではなく、毎日毎日繰り返さなくてはいけません。夕飯は毎日作らないといけないし、原稿も一本終わったら、また次の一本が始まります。
ゴールを切ったと思ったら、またスタートに立ち止まり、また次のゴールへと走り出す。そう考えると、目的を果たすよりも大事なことは、常にゴールまでたどり着ける「循環」を作ることだとわかってきます。
・仕事で評価を受ける。売上をあげる。子供をいい学校へ入れる。夫が出世する…。人生にはたくさんの「目的」があるけれど、「その先」には何がある?と自分に問いかけてみると、違う道があることにハッと気づいたりします。
・仕事でどんな評価を受けても、リタイアした後、どんな幸せな日々が待っているのだろう?と考えると、今この時の評価に一喜一憂することが、なんだか虚しくなったりします。
目的のその向こうまで視野を広げると、「こうじゃなきゃ」という思い込みが解けていくような気がします。
・トイレのブラシをやめてみたら、簡単に「きれい」をキープできる仕組みが生まれたように、当たり前に「必要」だと思っていたものを手放したとき、もう一度、本当に無理のない循環をつなぎ直すことができるように思います。

【どんぶり勘定をやめる】
→「なんとなく不安」に光と風を当て、「不安」の正体を知る

・40歳過ぎてからようやく、お金のことを真剣に考え出し、毎月いくらと決めて定期預金を開始。
そうしてわかってきたことは、お金は、「決めて」「行動」を起こさないと、どんどん消えていくということ。未来の予測はできないかもしれないけど、目をつぶってでも毎月「いくら」と決めることで、確実にそれは残っていくということ。
・日常の中には「できるかできないかわからない」ということがほとんどです。なら「これなら大丈夫」とできることを確信してから出発したいのに、その道筋が見えなくて一歩も足が動かない…なんてことがいっぱい。
・「貯金」という未知なる世界を体験してみて、今感じることは、「見切り発車」ってなかなか有効!ということです。皆見当がつかないことを、一歩一歩わかっていく方法は、「やってみる」しかありません。途中で「やっぱり違った」と引き返すにしても、「やって」みないと、それが「違った」ということすらわからない…。もし間違えれば引き返し、また新たな方向を歩み出せばいい。
・もしかしたら、私のあのどんぶり勘定時代に通帳を見たくなかったように、私たちが一歩を踏み出せないのは、「なんとなく不安だから」だけなのかも。そこに風を通し、光を当ててみたら「不安」は自分の心が作り出した影だと気づきました。

【新聞をやめる】
→頭で「判断」するのではなく、「心」に「やりたい」か「やりたくないか」を聞く

・やってみて、わかったことがあります。それは、私はそれほど新聞を読みたくなかったんだということ…。本当に読みたいのなら、ほんの少しの時間があれば、新聞を広げていたはず。「時間がない」と後回しにしたのは、新聞より小説やエッセイを読みたかったし、社会問題はテレビで見る程度で充分だったということになります。
・自分が本当は何がやりたくて、何をやりたくないかを見極めるのは、思っている以上に難しいものです。それは、「やりたい」と「やりたくない」の境目が、頭と心では違うから。本当のことを知るためには、自分の心に手を当て、耳を澄ませてその声を聴いてみる必要があります。
「頭」を使うと、どうしても「判断」したくなります。「やった方がいい」とか「やるべき」とか「やったらどうなる」とか…。そんな外側の価値を一枚ずつ剥がして、心の芯にある本当の気持ちにフォーカスする。それが、「やりたい」と「やりたくない」を見分けるコツのような気がします。
・浮き沈みのあるフリーライターという仕事は、不安と背中合わせです。でも、落語には、どんなダメな人も、そこにいていいという寛容さがある。そこに救われた。

【メモで日常を足し算する】←事実をメモした後、「抽象化」する作業が大事。事実から導き出した自分にとっての「真理」を書き加えることで、より日常がワクワクする。
前田裕二さんのベストセラー、「メモの魔力」を読んで一番なるほどと思ったのは、メモを取った後のお話。メモの内容は、その日起こった事実です。それを「抽象化」する、という作業が大事なのだとか。つまり、事実を記録してから、そこから導き出した自分にとっての「真理」を書き加えるということ。
あれもこれもと欲張ると負担になるので、ハッと心が動いたときにメモをするようになりました。すると今までなら、どんどん忘れていたであろう言葉が、ノートの中に宝物のように残っていくので、なんだかワクワクしてきました。
そして一日の終わり、私はお風呂の中で、タオルを敷いてメモを広げます。そして、今日一日のメモを読み返します。読み返しながら、6色のボールペンで、「記録」に対する分析や感じたこと、そこから導き出したアイデア、これからの計画に転用できそうなことなどを書き込んでいきます。ペンを走らせると、思考がぐんと深まって、自分でも思ってもいなかった言葉を書き足したり、これからの展望が開けたり。その時間の充実していることと言ったら!
毎日ノートを見返すので、昨日、おととい、その前の日と、「感動の記録」を何度も反芻することができます。「読み返して」「書き足す」という作業を通して、自然に記憶も鮮明になり、仕事で文章を書くときに、「あ、そうそう!あんなこと考えてたんだった」と、自分で構築した真実をヒントにできるようにもなりました。
サラサラと流れていく時間を、このメモが堰き止めてくれて、昨日に今日を、今日に明日を足し算していく暮らし方ができるようになればいいなぁと、しばらく続けていきたいと思っています。


【終わりに】
自分の欠点を無理に「直そう」と思うことをやめてみたら、「自分にしかできないこと」が見えてきました。

じゃがいもを丸ごと茹でるのをやめて、切ってから茹でてみたら、ポテトサラダを作るのが億劫でなくなりました。

私にとって、何かを「やめる」ことは、今まで歩いてきた道のすぐ横に、もう一本道がある、と気づくことでした。
太いメインストリートでなくても、細い路地裏の道を歩いても、きっと違った風景を眺めながらゴールへたどり着くことができる…。そんなお楽しみを知ってから、少し生きることがラクになった気がします。

何かを「やめる」ことは、「できない」と諦めることでもあります。それは、案外悪いことじゃない。歳を重ねてやっとそう思えるようになりました。人には「できること」と「できないこと」があります。つまり「できないこと」があっても当たり前ということ。
でも、若い頃は「できないこと」があったらダメなんじゃないかと思っていたのです。

人生に限りがあると感じ始めた人生後半になって、「できないこと」をどうにかしようと頑張るより、潔く手放してしまった方がずっとラクと知りました。
「できないこと」をやめてみると、自分の中にある力を丸ごと「できること」に使うことができます。すると、「できること」の精度がよりアップして、もっともっと「できる」ようになる…。
それは私が見つけた、自分をより上手に効率的に使い切る方法でした。

「できること」という燃料に着火すれば、よりラクチンに、より遠くまで、気持ちよく飛んでいける気がします。

一田憲子

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