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【ep1】帰国子女の女性フォトグラファー 第8話(群像の中のプロフェッショナル)

皆さん、ごきげんよう。橘ねろりです。

高層ビルが立ち並ぶ都会の雑踏の中―。
人々が急ぎ足で向かう混み合った路上の真ん中で、
ふと立ち止まってみたことはありますか?

通りすがりの大人たちは、一体どこから来て、
どこへ向かおうとしているのか―。
地方から進学してきた人、都会で仕事に励んでいる人、
外国から研修に来ている人、
または旅の途中の人や、人生休暇中の人…。

いろいろな人が行き過ぎるも、
きっと誰もが、何かに向かって進んでいる途中なのだと思います。

だから、そんな通りすがりの人々を呼び止め、あえて尋ねてみたいのです。
「あなたの夢は、叶いましたか?」と。

理想の人生を追い求めて、今どんなステージで活躍し、
そして何を目指しているのか。
「その足跡」と「これから」をインタビューするシリーズです。

【episode1】 
人生は、なんという偶然の集まり!
~東京在住の帰国子女 女性フォトグラファーの場合~

<第1話~第7話はこちら>

第8話
ニューヨークでフォトグラファーデビュー!

大学を卒業したら、アルバイトで貯めたお金でパリに行き、ファッションの本場で撮影技術を身に付けよう! 

そんなふうに卒業後の進路を思い描いていました。
ところが、大学のファッション・フォトグラファーの先生から、パリはファッションの最高峰で狭い世界だから、卒業後にいきなり行くのではなく、誰でも受け入れてくれるミラノかニューヨークに行って学んだ方がいい、とアドバイスを受けました。

確かにそうだと思った私は、まずはアメリカ国内のニューヨークに行ってみようと決めました。

高校・大学とサンフランシスコに住み、西海岸から出たことがなかった私には、東海岸に知り合いもいなければ土地勘もなく、何の当てもない状態でした。
とにかく住まいを探すことから始めることにして、家を探すつもりで一度ニューヨークに遊びに行くことにしました。
ユースホステルに泊まりながら、数日間アパート探しをしたところ、日本人の多いクイーンズという地域で、とても条件の良い住みやすそうなアパートを見つけたのです。

オーナーは中国人の夫婦でしたが、住人選びが厳しく、部屋をきれいに使ってくれる日本人の女性にしか部屋を貸さない、という徹底ぶりでした。
英語が通じる私はオーナー夫婦に気に入られ、すんなり入居が決まりました。
それからサンフランシスコに戻って荷物を5・6個のスーツケースにまとめ、アパートを引き払い、自力でスーツケースを運びながらニューヨークへと引っ越しました。

ニューヨークの空港
マンハッタン橋とブルックリン橋

アメリカに渡ってから7年が経ち、英語力もアップしました。
一人暮らしにも慣れ、美大で写真技術を学び、アメリカで生き抜くための武器もひと通り揃えていました。

ここからは、いよいよ見知らぬ土地での生活をスタートさせるとともに、「海外で働く」という新たなステップを踏むことになったのです。

ニューヨークは、サンフランシスコと比べて、都会で交通の便が良く、東京と少し似ていました。地下鉄に乗ってみれば、さまざまな人々が乗り合わせ、急に歌い出す人や、お金をせがむホームレス、またボランティアで食事やお菓子を配る人などもいて、エンターテインメントが繰り広げられるときもあれば、治安が悪くて怖いと感じるときもありました。

また、ニューヨークは気候も日本に似ていて、四季がありました。ただ夏は東京よりも暑く、冬は大雪が降るほど寒い地域だということも分かりました。人々は摩天楼がひしめくオフィス街で忙しく働き、喧騒と賑わいの中で都会らしい生活を送っていました。それはゆったりとした時を過ごせたサンフランシスコとは、また異なる風景でした。

ニューヨークの夜景

夢を持ってニューヨークに来たのも、大好きなフォトグラファーD氏がニューヨークで活躍していたからです。早速インターンとして働きたいと思い、ポートフォリオを持ってD氏のオフィスを訪ねました。
ところが、D氏はゲイであり、女性は取らないと断られてしまいました。アメリカではよくあることでしたが、期待していたのでとても残念でした。

そこでイタリア人のファッション・フォトグラファーA氏のオフィスを訪ねたところ、インターンとして採用してもらえることになりました。案外すぐに職場が決まったのでラッキーだと思い、これからたくさんの技術と経験を積んでいけるものだと期待して、やる気に満ちていました。
ところが、仕事を始めてみると、撮影の現場に入れることはなく、A氏が撮った写真をひたすら加工するだけの日々が続きます。

インターンで入ったフォトグラファーのスタジオ


撮影の技術を学ぶチャンスももらえないなか、A氏とトラブルになって辞めていく同僚もいて、「プロと駆け出し」、「夢と現実」のはざまであえいでいるうちに、フォトグラファーという職業にもだんだんと希望が見えなくなっていきました。

「いったい、私はニューヨークまで来て何をやっているんだろう…」
一人で悩み始めました。

インターンを辞めた方がいいのか、いや、なんとかインターンを続けてプロの撮影技術を学ぶチャンスを待つか―。
そんなジレンマと焦りにさいなまれ、
「もしかして、人生がうまくいかなくて死にたくなってしまう人は、こんな気持ちになるんだろうか」
と思って落ち込むこともありました。

そんなとき、励ましてくれたのは日本にいる母でした。
母に電話で仕事や生活の悩みを打ち明けてみると、
「せっかく夢の舞台のニューヨークにいるんだから、お金のことなど気にせず、ニューヨークの生活をもっと楽しみなさい!」
そう励ましてくれました。
母は金銭的な援助を約束してくれたので、また考え直して、新たな仕事を探してみよう思い、職場を辞めることにしました。

アパートには、さまざまな年代や職業の日本人女性たちが住んでいました。
アパートの外でよくタバコを吸っている中年の日本人女性と、ある日、話す機会を得ました。私が仕事を探していることを打ち明けると、
「それなら紹介できる人いるわよ。上の階に編集者の女性が住んでいるの、知ってる?」
そう言って、上階の女性に取り継いでくれると言いました。

そんなに近くに仕事でつながれる人がいると思っていなかった私は、とても驚きました。

数日後、あのタバコを吸う女性からすでに話を聞いてきたのか、なんとその編集者の女性だという人が、私の部屋を突然訪ねてきました。

女性は日系人向けの新聞社の編集者で、興味を持って私の話を聞いてくれました。そして私が名刺を出すと、明日にでも編集長に話を通してくれると約束してくれたのです。

何というラッキーな出会い!
そしてそこからは、とても早い展開で進んでいきました。

翌日、その女性編集者から、
「編集長が会いたいと言っているのですぐに会社に来てほしい」
という連絡が入り、早速面会に向かいました。
「ついでに撮影もしてもらいたいからカメラも持ってくるように」
とも言われていたので、これはうまくいけばフリーランスとして雇ってもらえるチャンスだと期待しました。

その編集部のオフィスは、ニューヨーク市マンハッタン区のロウアー・マンハッタンにありました。日本街といわれるイーストビレッジの近くで、まわりには日本のスーパー「NIJIYA MARKET」や、日本食レストランが多数あり、日本人が多く住んでいるエリアでした。
オフィスはビルの3階にあり、50人くらいのスタッフが働くなか、私は事務の女性スタッフに案内されて応接室へ通され、編集長と会うことができました。

日系の新聞社のオフィス

編集長のTさんは40代くらいの働き盛りの日本人男性で、とても気さくな人でした。実はサンフランシスコに住んでいたらしく、私と共通の知り合いもいることが分かり、初対面なのに話が盛り上がりました。
この面会で私は好印象だったのか、T編集長から、
「すぐに撮影の仕事があるから、また呼ぶね」
と言われ、数日後、本当に撮影の仕事をいただきました。

それは、マイケル・ジャクソンのコスプレ特集の記事で、これが、社会人になって初めて手掛けた記念すべき第一号の撮影となりました。
このころ、ちょうどファッションウィークと重なり、今度は子供たちのファッション特集を撮影する仕事が入ってきました。
場所はチェルシーにある子供服店で、モデルの子供たちがそのお店の服を着てポーズを取り、それぞれ何パターンかを撮影するというものでした。

MJコスプレ特集
キッズモデルの撮影

このファッション特集の記事を取材した女性ライターが、ファッション専門の記事を担当している人だったので、私の方から「ファッションショーを見に行きたい」「ファッションの写真をもっと撮りたい」と今後の希望を語っているうちに、女性ライターは撮影のチャンスがある場合は呼んでくれると約束してくれました。

この日本人の女性ライターAさんとの出会いが、また運命的な出会いとなったのです。

『GLITTER』、『NYLON JAPAN』、『Vogue girl』
これらの日本人向けのファッション雑誌を手掛ける女性ライターAさんのおかげで、たくさんの仕事をいただくことができました。
写真が必要なときにはいつも撮影に呼んでくれるようになり、2年ほど一緒に仕事をしました。ニューヨークの生活にも慣れ、フォトグラファーの仕事にも慣れていきました。

撮影に関わった日系の雑誌
新聞のトップ誌面の撮影も

さて、ニューヨークは家賃が高いので、ちょっと治安が悪くても、家賃の安いところの方が良いと判断し、何度か引っ越しをしました。安全だったクイーンズの日本人女性限定のアパートで知り合った友人2人と共にマンハッタンのアパートをシェアして住むことにし、できるだけ家賃を抑える生活を始めました。

ところが、日本人同士でも一緒に住んでみると、生活の仕方や癖が気になって、友人ともケンカするようになりました。一人の友人と一緒にアパートを出て、少し離れたアパートに引っ越しました。
そこは、通りの向こうに「シェルター」と呼ばれる施設があり、ホームレスの人たちが抽選で部屋を得て住んでいました。そんな施設が目の前にあるような、治安の境界線ギリギリの場所では、時々銃声が聞こえ、パトカーも頻繁にやってくるような日々で、女性が住むには物騒なエリアでした。

安いアパートを自分たちでリフォーム

それでも、住めば都。どんな場所でも住人になってしまえば、平気で日常の暮らしを送ることができました。

ある日、部屋のWi-Fiがつながらなかったので、夏の夜中にマクドナルドとバーガーキングが並ぶエリアに行き、閉店している店の前に段ボールを敷いて座り、店から飛んでくる無料のWi-Fiを利用して、仕事の写真をパソコンで転送する作業を行っていました。
身の危険を危惧するよりも、とにかく写真を納品しないといけないというプレッシャーの方が強く、たとえパトカーから警察官が降りてきて
「大丈夫か」
と声をかけられても、
「OK、OK!No problem !」
と言って気さくに追い返していました。

ニューヨークでのファッション雑誌の仕事は、モデルの写真も撮れば、街を歩くオシャレな一般人の写真も撮りました。
ライターがいない日は、自分で街行く人に声をかけて写真を撮ってくることもありました。全てが順調に進んでいきました。

その後、ビザが切れるため、一度日本に帰ってビザを取り直し、またアメリカに戻るつもりで帰国しました。アメリカに移住してからは長くても1カ月しか日本に滞在しなかったのに、そのとき初めて2カ月ほど滞在を続けていました。

すると、思いのほか日本にいたいという想いが強くなり、このまま日本で働こうか、という気になってきました。
今思えば、そう思うにはまだ時期が早かった気もします。でも、アメリカの大学時代から、年上の人たちに
「若い時に日本に帰った方がいいよ。年を取ってからでもアメリカには来られるけれど、年を取ってからでは日本には帰れないから」
と何度も言われてきたのです。

つまり、日本で就職することの方が難しいという意味でした。
ましてや日本で一度も働いたことがなかった私にとって、その言葉は重く響いていました。それなら若い時に一度日本に帰って、しっかり日本で働いてみるのも悪くない―。

結局、その想いの方が強くなり、ついに決心して、完全に帰国することに決めました。

アメリカ生活、約10年。あふれるほどたくさんの思い出をつくった年月でした。
これからは高校生以来の日本の生活がまた始まります。
とはいえ、不安でいっぱいでした。
果たして、
フォトグラファーとして日本でどれだけ活躍できるのだろうかと―。

しかし、そんな想いを抱く傍らで、また運命は思わぬ方向へと突き進んでいくのです。

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>第1話~第7話


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