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【ep1】帰国子女の女性フォトグラファー (群像の中のプロフェッショナル)

皆さん、ごきげんよう。橘ねろりです。

高層ビルが立ち並ぶ都会の雑踏の中―。
人々が急ぎ足で向かう混み合った路上の真ん中で、
ふと立ち止まってみたことはありますか?

通りすがりの大人たちは、一体どこから来て、
どこへ向かおうとしているのか―。
地方から進学してきた人、都会で仕事に励んでいる人、
外国から研修に来ている人、
または旅の途中の人や、人生休暇中の人…。

いろいろな人が行き過ぎるも、
きっと誰もが、何かに向かって進んでいる途中なのだと思います。

だから、そんな通りすがりの人々を呼び止め、あえて尋ねてみたいのです。
「あなたの夢は、叶いましたか?」と。

理想の人生を追い求めて、今どんなステージで活躍し、
そして何を目指しているのか。
「その足跡」と「これから」をインタビューするシリーズです。

【episode1】 
人生は、なんという偶然の集まり!
~東京在住の帰国子女 女性フォトグラファーの場合~


第1話 
珍しいIT企業のフォトグラファー

私は、東京のIT企業に勤める30代のフォトグラファー。
出版社や編集プロダクションではなく、IT企業に勤めるフォトグラファーは、業界でもとても珍しいと思います。

私は企業のホームページを制作する部署に所属し、それぞれのホームページに必要な企業の風景や人物を撮影する仕事をしています。
媒体がWebというだけで、出版物のフォトグラファーと仕事の内容はほとんど一緒です。

我が社が制作するホームページは、建築系の中小企業からのご依頼が多いので、女性でも時々ヘルメットをかぶり、夏はファン付きの空調服を着たりして、工事現場の撮影に出向くこともあります。

ですが、本来の得意ジャンルは、
ファッション業界やブライダル業界のモデル撮影。
しかもフォトグラファーになったのも、日本ではなくアメリカでした。

その足跡を導いてきたものは、数々の幸運と偶然の集まり。
とはいえそれは、半ば癖ともいえる私自身の習慣がもたらしたものでした。

第2話 
出会った人とは必ず友だちになる!

母は毎日全身ピンク色の服を着て、ちょっと個性が強いけど、明るくて自由奔放な人。
その一方で、父は有名企業に勤めるまじめで優秀なエンジニアでした。
だから2歳上の兄も父に似て勤勉でしたが、私は兄と違って勉強に没頭するタイプではなく、友だちと楽しく毎日を過ごすことが好きな子でした。

学校での楽しみは、とにかくクラスメイト全員と友だちになり、クラス外の生徒にもどんどん声を掛けて友だちをつくること。
とにかく、人が好きで、人付き合いが大好きな性格なので、子供のころから友だちをつくることに専念していました。

そんな楽しい学校生活を続けていた高校2年生のときに、
父の転勤でアメリカに移り住むことになりました。
人見知りをせず好奇心旺盛の私には、海外移住なんて夢のようなチャンス!
アメリカの高校に転校する、ということに、何の抵抗も不安もありませんでした。
でも、英語は苦手で、全く話せない状態でした。

こんな状態で、本当にアメリカの高校生と一緒に、英語での授業を受けながら学校生活を送ることができるのか。
考えてみてもよく分からないので、とにかく飛び込んでみるしかありません。
ただ友だちづくりは好きなので、きっとなんとかなると思ったのです。

行き先は、カリフォルニア州のサンノゼ。
どんな家に住むのか、どんな高校に行くのか、
まだ見ぬ新天地に夢を膨らませながら、家族4人で渡米したのでした。

第3話 
フォトグラファーへの憧れ

カメラ好きの祖父が亡くなったのは、中学生のとき。
いつも家族旅行に行くときは、祖父が家族の写真を撮ってくれていたのですが、亡くなった後は写真を撮る人がいなくなったので、なんとなく私がその役目を継いだようなかたちになりました。

その当時は、一眼レフなどを使わずに、普通のフィルムカメラや「写ルンです」などで気軽に写真を撮っていました。
また当時通っていた中学校が横浜にあったので、撮影には絶好の風景がまわりにあり、学校にもカメラを持って行くようになりました。

横浜の海や港、公園などに行き、空や雲、夕焼けの風景など、この日、この時間にしか見られない風景を撮ることに熱中していました。
その風景にたまたま出合い、たまたま見つけた、という素敵な瞬間を切り取って残しておきたい、という気持ちだったかと思います。

また横浜は、中華街などもあり、ドラマの撮影がよく行われる場所。撮影があれば、有名人を間近で見られたので、カメラを向けるのが楽しい街でした。
そのうち、好きなアイドルの撮影現場に遭遇し、遠くからこっそり写真を撮ったりしていました。そうなると、今度はアイドル雑誌の写真にも興味が湧いてきました。

「そうか、フォトグラファーになったとしたら、好きなアイドルも撮影できるのかー。
それなら撮影現場でアイドルの写真をこっそり撮るのではなく、フォトグラファーとなって堂々と芸能人を撮ってみたい!」

そんな願望が芽生えてきたのですが、両親からは写真はいつでも撮れるので、とりあえず何か将来に役に立つ資格でも取れるよう大学に進むように言われました。資格があれば、人生なんとかなるからと―。

アメリカに移住するかもしれない、という話が持ち上がったのは、そんな中学3年生のころのことでした。中学から高校へは受験せずにそのまま進学できたので、学校に提出する進路希望の紙には、とりあえず行きたい大学や写真の学校などを書いたかと思います。

そして高校1年生が終了した3月に、通っていた中高一貫の私立校を中退し、アメリカに行く準備を始めました。

実は、アメリカに行くかどうかの選択権は自分にありました。
日本にいたければ、父以外の家族と日本で暮らすこともできたのです。ですが、それまで家族旅行でハワイやグアムに行ったり、中学校の修学旅行でニュージーランドに行き、ホームステイとファームステイを経験したりしたことで、海外への興味が湧き、片言でも英語で外国人と話すことが楽しいと思う気持ちが生まれていました。

私は高校を辞めて退路を断ち、アメリカに移住することに決めました。
もう後戻りはできません。
この16歳での決断が、その後の人生に大きく影響したのです。

第4話 
さあ、海外移住へ! ~アメリカの高校に転校するということ~

カリフォルニア州、サンノゼ。
そこは半導体やコンピュータ関連の企業が集まるシリコンバレーの中心都市であり、「シリコンバレーの首都」ともいわれる町です。
つまり、父はシリコンバレーにある支社に転勤になったということでした。

サンノゼの町

この町にはもともとヒスパニックやラテン系、アジア系も住んでいますが、私のように海外からの転勤族で移住してくる外国人も多くいました。
両親が用意した家は2階建ての一軒家。警備員が立つゲートを入ると、隔離された住宅街に通じ、そこは外部からは見えないエリアで、セキュリティーも十分な住まいでした。

環境の良いサンノゼの住宅地

そして学校は、アメリカ国内で優秀な学校として認定されたブルーリボン賞を受賞している高校に決まりました。両親が探してきてくれたのですが、アジアを含む各国から入学してくる生徒が多くいて、日本人としても馴染みやすい学校だと思われました。
兄はカレッジに通うことになり、高校に通う私は入学前に英語のテストを受け、ESL(English as a Second Language:第二外国語としての英語)のクラスに入ることになりました。
ESLはレベルが5段階あり、日本で勉強していればレベル3のクラスに入れるものでしたが、私は英語が苦手だったので、レベル2のクラスからスタートすることになりました。

4月になり、いよいよアメリカでの高校生活が始まりました。
父が運転する車で、いざハイスクールへ!
クラスに行ってみると、そこには日本人は一人もおらず、中国・ベトナム・カンボジア・マレーシア・メキシコ・エチオピアなどの国籍のクラスメイトが集まっていました。
ESLが基準なので、英語力はみな同じくらい。
私のほかにエチオピア人とウガンダ人の生徒が一緒に入学しましたが、日系人の先生やクラスメイトから優しく声をかけられ、初日はほっとしたことを覚えています。

アメリカの高校は、日本の高校のように入試がないので、こんな感じに転校もスムーズにできました。
そのうち、マレーシア人・ベトナム人・エチオピア人の友人と仲良くなり、学校生活にも慣れていきました。
授業は1学期に取れる単位が6単位しかなく、ESLクラスでは英語のほかにUSヒストリー(社会)、理科、数学、体育などがありました。私は数学と体育は成績が良かったため、なんとレギュラークラス(アメリカ人と一緒のクラス)に入ることができ、レギュラークラスで初めて本物のネイティブイングリッシュに触れることができました。

ネイティブの英語は早すぎて聞き取れませんでしたが、その代わり数学は私の方が上でした。
最初の授業では3桁の数字のかけ算のテストがあり、アメリカ人はみんな計算機を使うので、計算機を使わずに筆算で解ける私は、とても優秀だと驚かれました。アメリカでは、サイン・コサイン・タンジェントなどの計算問題も計算機に打ち込んで解き、出てきた答えを書くだけなので、こちらの方がびっくりです!
レギュラークラスの友人たちは、英語が話せない私には、よりフレンドリーに接してくれたので、おかげで友人もたくさんできました。

ハイスクールのクラスメイト

この高校では、音楽の授業がなかったため、ブラスバンドのクラブに入りました。中学時代には吹奏楽部でフルートを吹いていたため、ブラスバンドでもフルート担当でクラブ活動を行っていました。

アメリカの高校らしさを感じたところはほかにもあります。
アメリカでは16歳で車の免許が取れるので、自分で運転して車通学している生徒もいました。また学校内には託児所もあるため、10代で出産した生徒が子連れで登校する姿もありました。日本とはずいぶん違う世界です。

高校生活はたった2年間でしたが、その間に友だちも増え、ESLもレベル4のクラスに上がりました。日常生活に支障のない英語力で友人たちとも不自由なく付き合えるようになり、アメリカの生活にもどんどん馴染んでいきました。

そして、その後の進路を意識するころに、フォトグラファーへの道も切り拓かれていくのです。

第5話 
フォトグラファーへの一歩

アメリカでは、11・12年生の高校生もカレッジのカリキュラムを無料で受けることができます。
カレッジは一般の人にも開かれていて、兄が通うカレッジには母もフラメンコを習いに通っていました。

12年生になった私も同じカレッジに通い、興味があったフォトグラフィーのクラスを受講することにしました。

趣味を深めるくらいのつもりだったのですが、一応カレッジなので単位を取ることができ、プロの技術を学べるというお得な授業内容でした。
そのクラスで、初めて「現像」の方法を知ったのです。
スチールカメラで撮ったフィルムを自分の手で現像する、ということが楽しくて、どんどんフォトグラフィーの世界にはまっていきました。

使用していたカメラは、長く使い込まれたペンタックスの一眼レフ。
写真を撮るきっかけをつくってくれた祖父の愛機でした。

私は週2回、2つのカレッジに通い、両方のカレッジでフォトグラフィーのクラスを受講しました。
カラー写真をマスターする前に、白黒写真の基礎を勉強するのですが、この当時撮っていたのは、花の写真や町の風景。

写真を撮ると、クラスメイトに発表し、それぞれ構図やコントラストなどについてディスカッションします。
「この写真の構図はいいね。でも自分が撮るならこう撮る」など、
そんな意見に対して、先生がアドバイスしてくれるのですが、正規のカレッジ生と共に専門的な授業を受けることは、とても刺激的で興味深いものでした。

そのうち、高校でも卒業準備の時期に入ってきました。
アメリカの高校を卒業し、大学に進むためには、大学でどんな勉強をしたいかという具体的なビジョンについてエッセイにまとめる作業をしなくてはなりません。
そのまとめたエッセイを、授業を担当した先生たちに提出し、それぞれ大学への推薦状を書いてもらうのです。

そこで私は、「フォトグラファーになりたい」という夢をエッセイに書きました。
すると一人の先生から、フォトグラファーといってもいろいろな種類があると指摘されました。フォトグラファーになれば何でも撮影できると思っていたのですが、プロのフォトグラファーは、それぞれ得意分野を持っていて、分野ごとに棲み分けしているというのです。

本当はファッションの世界に行ってみたかったのですが、海外のファッション界となると浮世離れしたイメージで、とてもハードルが高そうでした。
そこで、ファッション性が高いけれども、より生活に馴染みのあるウェディングフォトグラファーを目指すことにしました。

エッセイには、かつて横浜で空や雲を撮っていた中学生の頃のように、
・その瞬間しか撮れない写真を撮りたいという気持ちがあること、
・ だからこそ、幸せの絶頂の瞬間を写真に収めることができるウェディングフォトグラファーになりたい ――、­­
そんな熱意を込めに込めた文章を書き連ねました。
そして先生からの推薦状と一緒にこのエッセイを大学に提出すれば、入試なしで大学に進学できるはずでした。

ところが、アメリカの大学に進学するということは、簡単にはいかない状況でした。
私が高校を卒業したら、両親が日本に帰国するというのです。
アメリカは高校卒業までは義務教育なので、高校の間は両親の帯同ビザで通学できるのですが、もし両親が日本に帰国してしまったら、帯同ビザが使えなくなるため、自分自身でステューデントビザを取らないといけないのです。

そうすると、高校時代にカレッジに通っていた経歴も抹消されてしまい、日本から来た留学生として一から大学に入り直さないといけないらしく…。
そうなってしまうと、今度はTOEFLも必要となってきます。
アメリカの高校を卒業するので、本当ならTOEFLもいらないはずなのですが…。

そんな情報に惑わされて、随分と悩んでいました。
たとえ日本に帰っても、たった2年間学んだだけの英語力では大学の帰国子女枠には入れないだろうし、日本の勉強も中途半端だから日本の大学を受験したところで受からないだろうし…。

とりあえず、アメリカに残って通い慣れた2年制のカレッジに行く方向で考えることにしました。
引っ越し準備では、両親の荷物と自分の荷物を分けました。

そして両親の引っ越しの日―。
このときに来た引っ越し業者のおじさんとの出会いが、実は運命的な出会いとなりました。
この人と巡り合わなければ、私は今の人生を歩んでいない、
といえるほど、偶然でありながら未来を決定づける貴重なきっかけをもたらしたのです。

第6話 
クロネコヤマトのおじさん

その引っ越し業者の日本人のおじさんは、両親の荷物と別にしている私の荷物を見て、
「なぜ娘さんだけアメリカに残るのか―」
などと聞いてきました。

母は単なるいつものコミュニケーションとして、これまでのいきさつや、娘がフォトグラファーになりたい夢持っていることなどをそのおじさんに話しました。すると、おじさんは、それなら自分の母校に行ってみたらどうか、と提案してきたのです。

おじさんはサンノゼにあるクロネコヤマトに勤める日本人スタッフでした。
今は作業員ですが、実は若い頃にアメリカの美術大学を卒業していて、フォトグラファーとして活躍していた過去があるというのです。
おじさんは現地の女性と結婚したそうですが、奥さまからフリーのフォトグラファーの仕事よりも、土日に休日が取れる会社員になってほしいと求められたので、フォトグラファーを辞めて引っ越し業者に転職したということでした。

おじさんは、自分の母校であるサンフランシスコの美術大学には、日本人の学生もたくさんいると教えてくれました。その情報をきっかけに、その美術大学について調べてみたところ、どうやら本当にフォトグラフィー学科があり、校風も良さそうな大学に見えました。

私はすぐに行動を起こすことにしました。
私の高校の卒業式に出席するために日本から遊びに来ていた祖母を空港まで送る際、サンフランシスコに立ち寄れたので、家族と共にその美術大学に行ってみたのです。

サンフランシスコ

学生課を訪れ、そこのスタッフに入学についていろいろ尋ねてみると、アメリカの高校を卒業した私の場合、大学入学のためにTOFLEは必要なく、入学も可能だというので、もうその場で入学手続きをしてしまいました。

さらに、両親が帰国した後、最初は大学の寮に入ることにし、寮の予約もしてしまいました。寮の場所はサンフランシスコの中心部にあり、とても贅沢な立地です。それを知っただけでも、大学生活への夢が大きく膨らみました。
ここまでトントン拍子に決まったので、本当にクロネコヤマトのおじさんには感謝です!
その後、両親も安心して日本に帰国しました。

ちなみに、私と一緒にアメリカに来た兄は、私とは正反対の内気な性格なので、アメリカに馴染めず、半年で帰国して日本の大学に入り直しました。そして日本にいる祖母と一緒に暮らしながら歯学部を卒業し、その後、歯科医となりました。

一方、私はアメリカの生活がとても気に入っていたので、アメリカでの大学生活にとても期待していました。
ここからは、一人暮らしをしながらの大学生活が始まります。初めて暮らすサンフランシスコで、フォトグラファーになるための、大きな一歩を踏み出すのです。

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★橘ねろりの記事「Bitter Orange Radio」
「自己紹介 橘ねろり」
「コンテンツグループのメンバー紹介/ライター・フォトグラファーのプロフィール」
「群像の中のプロフェッショナル ーあなたの夢は叶いましたか?―」
「セラフィーナとエクリプサ ChatGPTとの秘かな戯言 【第1夜】」
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