見出し画像

海外文学オススメの十冊 第五冊目 アドルフ コンスタン

 この今では独裁者の代名詞となっている男のファーストネームが題名の小説はスイス出身でフランスで活動していた政治家でもあった小説家バンジャマン・コンスタンの唯一の小説である。この小説はフランスの心理主義小説の傑作と呼ばれ、後のフランス文学、例えばラディゲの『肉体と悪魔』にも大きな影響を与えている。

 この小説は『クレーヴの奥方』や『危険な関係』等、他のフランスの心理主義小説がそうであるように恋愛をテーマとしている。物語はとある青年が貴族の人妻に熱烈に恋し、熱烈なアプローチの末ついに口説きおとすが、青年は彼女を我が物にした途端に飽きてしまう。しかし人妻の方は青年に夢中になってしまっており、その二人の思いの違いがやがて悲劇をもたらすという内容である。このあらすじを読むとあり来たりのメロドラマで、バルザックの『谷間の百合』や先に挙げたラディゲの『肉体の悪魔』と同じような話ではないかとフランス文学に詳しい人は思うかもしれない。だが、この小説はそれらの小説と決定的に違うのは最後に主人公を徹底的に裁く事だ。この『アドルフ』もバルザックの『谷間の百合』ラディゲの『肉体の悪魔』も皆最後にはヒロインを死に至らしめる。バルザックやラディゲは女を死に至らしめた主人公を決して罰してはいない。バルザックは主人公を最後まで清廉な人間として描き、ラディゲは作者まで主人公と一緒に泣いているような有様である。だがコンスタンは違う。彼は主人公に自らの過ちで失った女への悔恨の情を語らて退場させるが、その後に主人公の手記を受け取った編集者が出てきて主人公がどれだけ愚かな人間であった徹底的に糾弾するのである。ここまでの厳しさはコンスタント以降のフランスの小説家、もっと範囲を広げてヨーロッパの小説家と言い換えても良い、は誰も持っていない。

 三島由紀夫はどこかの対談でフローベールの『ボヴァリー夫人』なんて『アドルフ』に比べたら全然甘いという事を言っていた。三島から見ればリアリズムの作家でもコンスタンのような厳しいさには到底達していないという事なのだろう。私もそれを『ボヴァリー夫人』ではなくて、もう一つの傑作『感情教育』に感じる。この小説は二月革命の頃のパリを舞台にした話だが、フローベールはこの小説で主人公がいかに無力な人間であるかを最後に至るまで徹底的な書いているが、しかし時々この主人公をとんでもなく甘やかすのである。その極め付けは最後に昔関係を持った夫人と再会する所だが、それが切ないほど感動的に描かれているのである。こんな描写はおそらくコンスタンなら恥じたであろうと思う。

 では一体何故コンスタン以降の作家が彼ほどの厳しさを持ち得なかったのだろうか。それはやはりコンスタンが政治家として功を成した人物であり、人生を知り尽くした大人であったからだろう。ゆえに彼は若者の未熟さを冷徹に裁けたのではないかと思う。対してバルザックやフローベールは青年の側に立っていた。バルザックは死ぬまで成功を夢見た男であり、フローベールは二月革命の挫折から芸術へと逃げた。ラディゲに至ってはまだ少年で文学以外のことなど何もわかっていなかった。

 最後にまた三島由紀夫の話になるが、三島はコンスタンのアドルフと太宰治の『人間失格』の主人公と比較して後者を徹底的に貶めている。たぶん『小説家の休暇』の中にその文章が載っていたと思うが、手元に本がないので内容は確かめる術はない。しかし私はそれを読んだ時から今に至るまで三島が何故この両作を比較したのかわからず、今も頭を傾げてしまうのである。

 追記:近所の図書館でアドルフはドイツ文学の棚に入っているがそれはやはり名前のせいだろうか?

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?