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フォルテシモ&ロマンティック協奏曲 《全編》


自殺寸前のカリスマ指揮者

 カリスマ指揮者大振拓人は今人生の危機に直面していた。

 先日大振拓人はオペラ『トリスタンとイゾルデ』の指揮をしていたが、その舞台で大振はイゾルデ役を務めるイリーナ・ボロソワへの溢れる思いに耐えきれず、とうとう第三幕で彼女を我が物にせんと指揮棒を放り出して全裸でステージに駆け上がり、何故か同じく全裸となっていたトリスタン役のホルスト・シュナイダーとくんずほずれつ全裸の絡み合いをしてしまったのである。この二人に自分の見せ場をぶち壊されたイリーナは怒り狂い、ステージで大振を罵りそのまま日本を去ってしまったのだ。

 この大失恋は大振を激しく悲しませた。しかもそれは時を経ても癒える事はなく、却って酷くなっていった。大振は一度その失恋から立ち直るために武道館で自ら作曲した『交響曲第二番『フォルテシモ』』を指揮をした。しかし大振はその渾身のシンフォニーの第四楽章を演奏している最中愛するイリーナを思い出して泣き崩れてしまい、溢れる悲しみを堪えきれず、クライマックスで「抱きしめたぁい〜!」と見事な美声で即興の歌ってしまったのだった。翌日各媒体が一斉に大振の歌を色物扱いで取り上げたのだが、それが彼をさらに光の届かぬほど深い絶望へと追いやった。

 彼は呪わしいものでしかないイリーナを完全に過去のものにするために、某廃刊寸前の名門音楽雑誌で連載している作曲家とその名曲を扱ったエッセイで、彼女と共演したトリスタンとイゾルデをはじめ彼女に関するものを悪し様に罵しり、イリーナの出身国であるチェコの国民的大作曲家のドヴォルザークに至っては執筆すら拒否した。だがそれでもなおイリーナへの愛の炎は消えず、今もなお自分から永遠に去ったこの音楽の天国から降りてきた天使、チェコからドヴォルザークの魂をボストンバッグに詰め込んで花の都大東京に現れた女を夢見るのだった。

 ああ!イリーナ!君は何故僕の愛を理解してくれなかったのだ!君が「愛の死」を歌っている最中に僕が指揮棒を放り出して全裸で君の元に飛び込んだのは、二人でステージを飛び越えて永遠の愛へと旅立ちたかったからではないか。決して君をほっ散らかしてホルストなんかと裸同士でくんずほつれずしたかったわけじゃない。僕の愛は君にしかない事はわかっているだろうに。イリーナ!イリーナ!今すぐに僕の元に帰ってきておくれ!そして今度こそ永遠なる愛の海へと船出しよう!ああ!君なしの僕はフォルテシモできない惨めなただの天才大振拓人でしかない!僕がもっとフォルテシモするには君がどうしても必要なのだ!

 だが、大振がこれほど愛の復活を願ってもイリーナは帰ってくる事はなく、彼女は大振との事などなど忘れたかのようにかのヨーロッパの地で華々しく活躍していた。一人日本に残された大振にはもはや死しか待っていないように思われた。幼き頃に毎夜夢に出てきた三階の屋根裏に住み着く幽鬼のような老人。あれが死なのであろうか。大振は恋に敗れて自死するロマン派の物語の主人公たちを思い出し、恋のために死ぬならそれも悪くないと自嘲したが、しかし彼は今世紀最大の芸術家で未来の全芸術の希望である天才の自分が死んだら、世界中の全芸術が恐竜のように絶滅してしまう事に気づき、生きて全芸術を未来に繋ぐために必死に死の誘惑に耐えた。だが死の誘惑はなおも大振を深く苛み、毎夜の如く彼を苦しめた。

 そのように死の境界線上でどうにか堪えていた大振の指揮を見ていた彼のファンは悲嘆にくれた。大振ファンはトリスタン事件以降暗くなっていた彼の指揮が自作の交響曲のコンサートで一瞬持ち直した時は素直に喜んだが、コンサート後にその大振の指揮が以前よりさらに深く光さえ届かない病みの底へ沈んでしまったため完全に絶望してしまった。

 しかしそれでも大振の忠実すぎるにも程があるファンたちは毎回コンサートに駆けつけた。ファンは毎回絶望のフォルテシモを撒き散らして指揮する大振を見ているうちに大振が今生と死の間にいる事を感じとってしまった。ああ!拓人はもうすぐ死んでしまう。彼の運命も未完成も悲愴も悲劇的も死出の旅立ちの準備にしか聴こえない!だめよ!一人でイッちゃ!あなたは私と一緒にイクんだから!

 いつからかネットでは大振が近いうちに自殺するとの噂が流れた。大振ファンはそれに激しく反応し、ファンは一斉に大振の個人事務所である『フォルテシモタクト・プロダクション』のビルに駆けつけ、死ぬ時は私もイッしょに連れてイッてと悲痛な声で叫んだ。ある金持ちのお嬢様のファンに至っては自分と大振との心中のために小舟まで購入し、小舟を積んだトラックを指差して今すぐあの舟で私をあの世までイカせて下さい!と叫ぶ始末だった。

 現代最高のカリスマ指揮者大振拓人の自殺騒動はもはや太宰治や三島由紀夫以上の騒ぎであった。騒動はSNSだけでは収まらずもうテレビニュースでさえ取り上げられた。今日本一のカリスマ指揮者大振拓人が自殺するかもしれない。本人はあからさまに自殺を匂わせ過ぎているし、彼のファンもまた彼の自殺を思いっきり煽っている。さらに今度はテレビを代表するマスコミまで食いついてきた。流石にクラシック業界もこの偉大なる指揮者、この誰にも代えがたい金づるの自殺を止めようと大振に対していろんな事を試みた。

 例えばイリーナとホルストのダッチワイフを作ってどちらがいいか選ばせようとしたり、イリーナとホルストのそっくりさんを連れてきて同じように選ばせようとしたり、それでもダメならイリーナとホルストの筆跡を真似て「あなたとよりを戻したい」とか書いてそれぞれ手紙を送ったりしたりいろんな事をしたが、当然ながら全て逆効果であった。ダッチワイフやそっくりさんを見せたら大振にフォルテシモに殴られ、バレぬと思っていた手紙さえ受付印が思いっきり東京であったのでバレてしまい、偽造を行った関係者一同が怒り狂った大振に高層マンションのベランダから投げられた。

 事態はもはや打開不可能だった。「後は大振が死なぬのを祈るしかない」関係者は一応に口を揃えてこう言った。 


 YouTubeである動画が評判になったのはそんな時だった。恐らく海外で作られたその動画は、いや動画といっても作曲者らしき人物の名前が並べられた画像に、二人がそれぞれ作曲したらしき曲をマッシュアップした音源が付けられたものだったが、この中で使われているオーケストラの曲が大振のあの『交響曲第二番『フォルテシモ』』の第二楽章だったのである。

 もう一つのピアノ曲は画像の名前から見て外国人のものであるが、その曲は大振の交響曲に負けず劣らずの複雑なものであり、しかも超絶技巧を使いまくりの、恐らく現役のプロでもまともに弾ける人間はごく少数といった曲であった。しかし曲もさることながらピアノ演奏はそれ以上に凄まじいものであった。たった一台のピアノであの大振のフォルテシモなオーケストラと互角に渡り合っているのである。一体このピアノ曲を作曲して演奏するChopan Romantic Risztとは何者であろうか。と考えているとある男の名が浮かんできた。まさかこのchopan Romantic Risztなる男はあの諸般リストの事ではないか!いや大振とここまで渡り合えるピアニストなんてあの男しかいないではないか!

 しかし、このマッシュアップの素晴らしさはピアニストの正体等どうでもよくさせるほどのものであった。ただ大振の交響曲とChopan Romantic Risztなる男のピアノ曲をマッシュアップさせただけの曲がこれほどまで素晴らしいピアノ協奏曲になるとは!しかもこの動画で使っている大振の交響曲の音源は、ネットでも生中継されたあの涙々の熱唱コンサートのものであり、Chopan Romantic Risztの音源もまたどこかの会場で行われたコンサートのものであり、共に騒音だらけで音源だけではとても聴けない代物だ。にも関わらずこのマッシュアップ曲は我々を激しく感動させてしまうのだ。二人の曲は奇妙な程似ていた。まるで歌謡曲みたいな……いや、バカにでも第一級の芸術だとわかるフォルテシモなほどロマンティックなメロディと、そのロマンティックを全開したフォルテシモな演奏はまるで双子のようにそっくりであった。

 この動画は最初にとあるユーザー海外のどこかのクラシック音楽サイトに上げられ、それからしばらくして別のユーザーがYouTubeに転載したものだが、YouTubeに上げられてからあっという間に1000万PVを超えてしまった。あらゆるネットサイトでこのマッシュアップ動画は大振と諸般のファンの「フォルテシモ!」「ロマンティック!」の熱い書き込みと共に話題となり、業界関係者もこれに注目する事になった。ああ!これを現実でやらせたらとんでもないことになるだろう!しかしこの二人をもう一度共演させるなんて不可能だ。初共演があんな酷いことになってしまったのだから。

 この大振拓人と諸般リストの初共演については以前記事に書いたのでここでは詳しく語らない。詳細を知りたい方は以下のリンクの記事を読んでいただきたい。

 とにかく大振と諸般は初めて会った時から険悪だったが、この初共演の出来事以降二人して業界のみならず、全メディアに向けて相手の名を自分と並べる事を禁ずる通達を出すほど、互いを忌み嫌うような状態になった。

大振を救え!

 これでは当然大振と諸般の再共演など不可能だ。誰もがそう思った事だろう。このまま二人の再共演はなく、ただ大振の自殺を待つばかり。業界の中から頻繁にそんな言葉が漏れた。だがそこに不可能を可能にする男が現れた。そう彼こそ大振拓人に『交響曲第二番『フォルテシモ』を演奏させたあのプロモーターである。プロモーターはいつも何か美味しい案件はないかと舌を舐めずりながら業界各所を回っていたが、その彼に向かってあるレコード会社の一室でイベント担当の男から大振拓人と諸般リストの曲のマッシュアップの動画の事を話したのである。彼は諸般リストという名に懐かしい記憶が蘇ってくるのを感じたが、マッシュアップという聴き慣れぬ言葉を耳にし話し相手のレコード会社の男にそれはどういう意味だと尋ねた。

 イベント担当の男は説明するよりまずは現物を見せようと言って自分のスマホを取り出してYouTubeを開いて見せた。

「とにかくまずはこれ観てくださいよ。マッシュアップってのは違う曲の音源を重ねて一つの曲にするっていうネットで流行っている遊びなんです。で、この二つの曲ってのが大振と諸般のものなんですよ。大振の曲はあなたもご存知の交響曲のコンサートの音源。そして諸般リストのピアノ曲。恐らくピアノソナタだと思うけど、これもどこかのコンサートの音源。これを編集で重ねてるんですが、これがまるでピアノ協奏曲に聴こえるんですよ。まぁ私がどうのこうの言うよりまずは聴いてみてください」

 そういうとレコード会社の男はYouTubeのサムネをクリックした。すると部屋の中にゆったりしたオーケストレーションが流れ出した。プロモーターが音が流れた瞬間すぐに大振の『交響曲第二番『フォルテシモ』』の第二楽章だと気づいた。この綿飴のように甘すぎてまるで歌謡……いやバカにでもわかる芸術作品は、間違いなく大振拓人のものだ。しかしすぐそのふわっふわの甘さの上に、さらにチョコレートの雨を降らすかのようなピアノが鳴り出した。プロモーターはこれを聴いて震えた。まさか大振の他にこんなベタ甘な、まるで布施明が歌うような、歌謡……いやバカにでもわかる芸術的なメロディーをかける人間がいるとは!しかしこれは一体なんなのか。ただオーケストラ曲とピアノ曲をくっつけただけなのに、ありえないほど素晴らしく聴こえる。二つの甘すぎるメロディーが重なり合って濃密な甘汁をどくどく垂らしまくっている。これは真の歌謡……いやバカにでもわかる芸術作品!プロモーターは歓喜のうちにこの歌謡……いや芸術作品を聴き終えるといきなり立ち上りこのピアノ協奏曲は絶対にコンサートにあげなきゃダメだ!と叫んだ。

 このプロモーターはクラシックの興行に携わっているにも関わらずまるでクラシックを知らない男だが、売れるものに関する嗅覚は異常に鋭かった。彼は目をギョロつかせて俺がコイツらをまた共演させてやると捲し立てた。しかしイベント担当の男はその彼に向かって「あなたも当事者として二人が仲が悪いにもほど仲が悪いのはわかってるだろうに」と吐き捨てるように言い、さらに今の自殺寸前の大振にそんな話を持ちかけたら怒りのあまりフォルテシモな自殺をしてしまうと言った。

「だから二人の共演なんて無理なんだよ。あなた。冷静に考えてみてくださいよ。あの大振拓人と諸般リストがこんなマッシュアップの曲なんか演奏するはずない。たとえいくら名曲だったとしてもですよ?自分たちの曲をおもちゃにされた本人たちがやるわけないでしょ!逆に大振が自分の曲を世間におもちゃにされたと思って絶望して自殺するかもしれないじゃないか!もう大振はそこまで来てしまっているんだ。アンタは度々大振に会ってるのに何でそれがわからなかったんだ?俺たちはアイツが多分好きだったイリーナとホルストのダッチワイフとかそっくりさん見せて気に入った方をあげる、って言ったのにボコボコにされたし、やっぱり本人からじゃないとダメかって思ってその二人の筆跡真似て手紙書いたら、郵便局の受付印東京だった事で思いっきりバレて怒ったアイツに窓から落とされたぐらい大振に関わっているからわかるんだよ。チクショウ!クラシック界のカリスマを失ったら俺たちはどうすればいいんだ!」

「何故私に一言相談してくれなかったのですか!」

 プロモーターは椅子を飛ばして立ち上がってこう叫んだ。イベント担当の男はその迫力に思わず怯んだ。

「そんなダッチワイフやらそっくりさんやら偽の手紙なんかで人なんか騙せるわけがない!そんな幼稚な手はすぐに見破られるだけじゃないか!ああ!あの若きマエストロは自分がバカにされたと思っただろう!あなた方は自分たちで彼を自殺へと追い込んでいるのに気づかないのか!」

 ゲス満載のプロモーターにしては真っ当すぎるほど真っ当な批判であった。イベント担当の男はこのあまりに真っ当過ぎるな批判に何も言い返せなかった。プロモーターは立ち上がった姿勢のまま手を広げて彼に向かって言った。

「やはりマエストロを救えるのは私だけ。私に全てを任せてくれませんか?マエストロとは彼が指揮者としてデビューしてからの付き合い。マエストロの事は私が一番よく知っている。私がマエストロを救ってやりますとも。そして彼にこの歌謡……いやバカにでもわかる芸術作品であるこのピアノ協奏曲を絶対に指揮させて見せます!諸般リストも問題はない。彼も絶対に説得してやりますよ。私はあの二人の事を世界の誰よりも知っているのです!必ず二人を同じ舞台に立たせてやります。ですから私を信じて……」

 とここでプロモーターは目をギョロつかせてイベント担当を見た。イベント担当はこのプロモーターの胡散臭過ぎる表情に非常に疑わしいものを感じ思わず身構えた。絶対このこの男は何かよからぬたくらみを考えているに違いない。大体こいつは自分が話すまで大振の現状を全く知らず、自分にも大振の事などまるで尋ねなかった。なのに、マッシュアップの動画を見せた途端まるで自分だけが大振を知っているかのような口ぶりで大振を救いたいとか抜かしやがった。絶対になんかある。イベント担当はしばらく考えてからプロモーターに言った。

「いや、あなたでも無理だ。大体大あなたはあのフォルテシモの交響曲のコンサートの後も大振と度々仕事をしていたのに、今の今に至るまで大振の精神状態についてまるで知らなかったじゃないか!それは大振があなたをビジネス相手としてしか見ていないからだ!あなたも大振をただの金づるとしてしか見ていないはずだ!その証拠に私が大振が自殺するかもって話をしている最中にあなたは何度も「そんなことされたら私の生活はどうなるんだ!ラスベガスで作った借金の返済の当てがなくなるじゃないか!」って嘆いていたじゃないか!大振はそんなあなたの性格を見抜いていたからあなたには自分の悩みを何一つ打ち明けなかったんじゃないのか!」

 今度はプロモーターが痛いところを突かれた。彼は確かに大振とあの事件の後も一緒に仕事をしていた。それは確かに金づるだと思ていたからであり、まだまだこいつで金儲けができると能天気に考えていたのだ。その金を見込んでいたからこそラスベガスで豪遊しまくったのだ。だがその大振が今死のうとしている。彼の巨大な収入源もなくなろうとしている。しかし彼はきっぱりと自分の未来のためにそのあまりに後ろめたすぎる部分を見事に切り捨てて胡散臭いまでにキラキラした目で語った。

「私がそんなよこしまな理由で今まであのマエストロと関わってきたと思ってるんですか?私はマエストロを我が子のように愛してきたのですよ。マエストロも私を実の親のように思って「おとっつぁんに迷惑はかげらんねえ」と思って心の涙を隠していつも笑顔を見せていたに違いない!でなければ私はすぐに愛しい我が子の異変に気付くはずじゃないですか!私にはそのマエストロの心が痛いほどわかる!ああ!私はなんてバカだったのだろう!これじゃ親の心子知らずじゃなくて、子の心親知らずじゃないですか!こんなことってありますか!あなたは歯医者で親知らずを抜く時のあの辛さをわかりますか?あの痛みは子供に去られた時の痛みなのです!ああ!あの子を私に救わせてくれ!あの子はきっとこの協奏曲の素晴らしさをわかってくれるはず!いや私が親としてわからせてやる!そしてあの子を絶対に舞台に立たせてやる!諸般リストも同じだ!あの子もきっとこの協奏曲の素晴らしさをわかってくれるはず!二人はどこか似ているんだよ!肌で接している私にはわかるんだ!二人が人からマエストロやヴィルトゥオーゾと呼ばれるようになっても決して埋められぬ果てしなき孤独を抱えていることが!」

 イベント担当はこのプロモーターの憑かれたような話に思わず聞き入ってしまった。どう考えても嘘八百でしかないこの男の話になぜここまで引き込まれるのか。だがこのインチキ丸出しの男の話ぶりにそんなものを軽く吹き飛ばしてしまう力があった。しかし、彼は冷静になりこのインチキ丸出しの男がこんなことを言うのは絶対に何かあると疑い彼に話をやめさせようとしたが、その時いきなりプロモーターが土下座して来たのである。

「お願いだ!私にあの二人の我が子の仲直りをさせてくれ!思えばあの稀代のマエストロとヴィルトゥオーゾを、ともに二十代まで互いを知らなかった、あの兄弟のような二人を引き合わせたのはこの私です!不幸にして喧嘩別れしたあの二人を再び共演させ、そしてあのまるで歌謡……いやバカにでもわかる芸術作品であるピアノ協奏曲を演奏させることの出来るのはやっぱり私しかいない!私はマエストロが苦しんでいるのを見たくないのです。ましてや彼に自殺なんかされたら私も死ぬしかない!だから私にすべて任せてくれ!必ずあの兄弟である二人を舞台に立たせて見せるから!」

 プロモーターそう地べたに這いつくばりながらこう歎願していた。その彼の態度には本当に大振を救いたい気持ちがあふれていた。そしてそれよりもはるかに自分を救ってもらいたい気持ちが溢れすぎるほど溢れていた。こいつがここで死んだらカジノの借金返せずに後追い自殺しなきゃいけなくなる。そんな思いが溢れていた。だが、イベント担当は首を縦には振らなかった。

「バカ野郎!俺がこれほど言っているのにわからないのか!」と業を煮やしたプロモーターが床を叩きつけて叫んだ。

「もう時間がないんだぞ!大振の命を救うには諸般と一緒にこのマッシュアップの協奏曲を演奏させるしかないんだ!大丈夫だ!きっと大振も諸般もこの協奏曲をわかってくれるはず!あの二人が自分の曲が侮辱されたなんて怒るはずがない!だってあの曲は別れた兄弟が再会したようなものじゃないですか!きっと二人もあの曲を聴けばそう思うはず!私は曲だけじゃなくて本当にあの二人を再会させてあげたいんだ!多分それはあのマッシュアップの動画を作った人間もそう思ってあの動画を作ったはずなんだよ!もしかしたらあのマッシュアップの作者は音楽の神かもしれない!もう音楽界全体が二人の共演を望んでいるんだ!とりあえず今すぐここに一億円持ってこい!その金で大振と諸般を舞台に立たせてやるから!」

 プロモーターは絶妙なタイミングで金の無心をした。イベント担当はその勢いに飲まれて思わず幹部クラスに連絡を取って一億円を用意させた。プロモーターは目の前に置かれた小切手をぶんどるとこれでカジノの借金が払えると喜んで早速大振の元に向かった。

クラシック界の祈り

 すっかり通い慣れた大振のフォルテシモタクトプロダクションのビルに来たプロモーターは、受付からマエストロは最近全くここに来ていないと返事を受けて思いっきり動揺した。早くしないと金づるが永遠にいなくなってしまう。彼は早速彼の自宅のあるマンションへと向かいそのオートロックキーの部屋番を押して何度も彼を呼び出したが、全く反応はなかった。いつもだったらすぐに出てくるのにこの無視っぷりはどうしたことだろう。プロモーターはふと考えて背中にぞわっとするものを感じた。まさか大振はもう……。いてもたってもいられなくなった彼はマンションの住人がたまたまドアから出てきたのを見て、開いたドアにさっと入り込んだ。それからエレベーターで大振の住んでいる階に向かった。しかしエレベーターは住人を乗せたり降ろしたりして遅々として進まなかった。プロモーターは一刻を争う事態なのにコイツラはと憤慨したが、しかし住人に乗降りするなと怒鳴りつけるわけにもいかない。そんな時一人の住人が乗ってきた。その男はすでに乗っていた男と知り合いらしく早速二人は挨拶をして喋り始めたが、その時すでに乗っていたほうがもう一人にこんな事を聞いた。

「そういえば朝のフォルテシモって最近聞いてないよなぁ~」

「そうだな、一体どうしたんだろうな。俺あれを目覚まし代わりにしていたのに」

「やっぱりか。もしかしたらウチの階まで声が届いていないのかって思ってたけど、高層階の君のところまで届いていないってことはフォルテシモやってないってことみたいだな。ウチのかみさん大振ファンだからずっと心配しているよ。どうしたんだろうな大振」

「まさか、噂通りじゃねえだろうな?なんかいろんなところで出てるだろ?ほら、大振の奴が外国の男だか女に振られとかで自殺するんじゃねえかって」

「おいおいめったなこと言わないでくれよ!そんなことされたらウチのかみさん発狂するじゃねえかよ!」

「いや悪い悪い、だけど何事もなければいいよな」

 プロモーターは彼らの会話からその場面を想像してゾッとした。もう住人なんかかまってられるかと思い、エレベーターが止まってドアが開くと乗っていた人間を全員叩き出した。それからドアの前に立ちふさがり、エレベーターに誰も乗ってこれないようにした。そうしてようやくエレベーターは大振の居住階についた。

 エレベーターから大振の居住階に降りたプロモーターはその異様な沈黙にまた背筋がゾワっとした。なんの音もない空間に自分の足音だけがクリアに響く。やがてプロモーターは大振の部屋の前に着いた。ここで彼は立ち止まりゆっくりと深呼吸してドアノブに手を近づけた。

 その瞬間ドアがカチリと鳴った。プロモーターは鍵が開いたのかと考えた。という事はまだマエストロは生きている。彼はそう信じ震える手でドアを開けた。開けた途端に大音量のオーケストラでショパンのあの有名な『葬送行進曲』が鳴り出した。ああ!これは大振がアレンジしたものだ!我が子よ、我が金づるよ!生きていておくれ!プロモーターは大音量の葬送行進曲を浴びながら恐る恐る前へと進んだ。恐らくマエストロはあそこにいるはず。彼はピアノ室の前に立ち止まりドアノブに手をかけた。これもあっさりと回った。そして彼は部屋に入った。とまた別の曲が先程よりも遥かにけたたましく鳴った。ああ!今度はこの間CD発売した彼の指揮によるチャイコフスキーの第六番『悲愴』の第四楽章のアダージョではないか!プロモーターは慌てて大振を探した。ああ!白きベヒシュタインのグランドピアノの上に我が息子、我が金づる、我がマエストロが白装束で正座しているではないか!大振はまっすぐ一点を見つめ辞世の句みたいな事を言い出した。

「時はきた。今、全ての扉の鍵開かん。我果つる時、メールで届けし遺書を読みし者、急せ参じて、我が美しき骸を発見せむ。嗚呼!この悲愴のアダージョ終わりし時、我もまた生を終えん。今アダージョ、最後のフォルテシモ迎えん!」

 その時悲愴のカスタロフが鳴り。それと同時に自らのフォルテシモの絶叫が鳴り響いた。その絶叫を目を閉じて聴き終えた大振は、もはや現世に未練なしと、毒薬入りのグラスを手に取った。

「いざ行かん!黄泉の国へ!」

 我らがカリスマ指揮者大振拓人は今死に赴こうとしていた。幾度も死を思い、しかし自らの死後に待っている全芸術の絶滅を憂いて死を思いとどまってきた男がもはや耐えきれぬと、自らと共に逝く全芸術に詫びながら毒薬入りのグラスを口に持っていった。そして張り裂けんばかりに「フォルテシモぉ~!」と絶叫し毒薬を飲み込もうとしたその時であった。彼は「なにをしているのです!」という声と共に目の前に立っているプロモーターの姿を認めたのである。

「貴様なにゆえにそこにいるか!今すぐここから出ていけ!」

 大振はプロモーターを見るなりベヒシュタインのグランドピアノの上から毒薬入りのグラスをぶん投げてフォルテシモに激怒した。割れるグラスの音と共に毒薬とグラスのかけらがあたり一面に飛び散った。だがプロモーターは怯まず、そのままチャイコフスキーの悲愴を最後まで聴いた後で大振を𠮟りつけた。

「そのような下らない事をするのはおやめなさい!」

「何が下らぬことか!貴様のような芸術を知らぬものには天才の俺の苦悩などわかるまい!俺のイリーナに対するフォルテシモなほど命を駆けた熱情が貴様にわかるか!俺はイリーナとのフォルテシモな恋にすべてを賭けたのだ!だがイリーナはもういない!あの天使はこの日本という地上に俺を捨てて永遠にヨーロッパという音楽の天国に帰って行ったのだ!俺はもうイリーナなき地上に未練はない!俺は本物の天国でモーツァルトやベートーヴェンに挨拶してくるつもりだ!貴様は女ごときに命まで捨てるとはなんと呆れた男だと俺を笑うだろう!笑え!笑うがいい!俺の死と共に芸術は死に、残るは貴様たちのようなつまらぬ俗物どもばかり!さぁ笑え!恋に敗れて自死へと向かうこの最後の偉大なる芸術家大振拓人の死を腹から笑え!」

「いいえ、私はあなたを笑いません!」

 大振はプロモーターの強い言葉を聞いて震撼した。まさかこの金にしか目のない男からこんな心からの強い叫びを聞けるとは思わなかった。

「な、なにを言うのだ貴様!貴様は俺を金づるだとしか思っていないだろうに!」

「いえ、それは誤解なのです。私はあなたに出会った頃からずっとあなたの芸術の信奉者だったのです。それどころかあなたを我が息子とも思い、あなたを世界最高のマエストロに育ててやりたいとも思っていたのです。マエストロ!あなたはまだ世界最高のマエストロにはなっていない!それなの途中で道を終えていいのですか?確かにオペラの舞台でイリーナさんの前でホルストさんと全裸の絡み合いをしているのを見られて振られた事はショックでしょう。私だってそんな恥晒しな事しているのをみんなに見られたら自殺したくなりますよ!」

「バカもの!いちいち詳細を語るな!」

「だけどマエストロ。多くの芸術家はその苦難を乗り越えてきたのです。確かにマエストロのように女を襲おうとして間違って男を襲ってしまったなんてアホな事をした芸術家は他に一人もいないでしょう。だけどベートーヴェンもみんな苦悩の果てにその苦難を乗り越えてきたのです。それにあなたは一つ大事なものを忘れている。それはあなたのファンの事ですよ!あなたは自分を信奉してくれるファンをどう思っているんですか?あなたにすべてを賭けた、あなたしか見えない。そんな哀れな子羊を置いてこの世を去るつもりなんですか?ファンたちはあなたが死んだら我も我もとあなたを追っていくでしょう。あなたがイリーナのいない世界に生きる意味なんてないと思っているように、彼女たちもまた、あなたのいない世界なんで生きる意味なんてないと思っているのです。あなたのファンだけじゃない。世界のクラシックファンはあなたという存在を必要としているのです。先日私はYouTubeである動画を観ました。その動画には世界のクラシックファンの祈りが込められていたのです。今スマホでその祈りの動画を見せます。マエストロ!彼らの祈りを観てあげてください!」

 そう叫ぶとプロモーターはポケットからスマホを取り出して、いまだにピアノの上で正座している大振に突き出した。その途端スマホからとんでもない騒音が流れ出した。大振はふざけているのか突き出されたプロモーターのスマホを叩き壊そうとしたが、騒音の中に聴こえる懐かしきメロディーが彼の手を止めた。

 これは……俺の作ったクラシック史上最高傑作の『交響曲第二番『フォルテシモ』』の第二楽章ではないか!ああ!なんてことだ!ずっと心の中に封印していたこの曲がこんな所で流れるとは!ああ!イリーナ覚えているかい?君はトリスタンとイゾルデの稽古の最中もうイゾルデを演じられないと言って泣き出したね。その時僕はマイシェリ、君の翼は折れていないと言ったのだ!僕は二度と帰らぬあの幸せだった事を思い出しながら曲を書いたのだ!ああ!今聴いても胸が掻きむしられるよ!イリーナ!イリーナ!イリーナ!おや?このピアノの伴奏はなんだ?まるで僕とイリーナの恋を讃えるような、甘く切ないピアノはなんだ?伴奏どころではない。これはバッハの対位法の如きもう一つの旋律ではないか。この俺の曲にまるで蔦のように美しく絡むこのロマンティックに甘いピアノはなんなのだ。まるでショパンかリストが俺とイリーナの恋を祝福しているようではないか!ああ!あまりのロマンティックさに涙まで出てきた。一体このピアニストは何者なのだ。並の、いや巨匠ともいわれるピアニストでも、天才の俺の世界最高傑作の交響曲にこれほどのピアノをつける事はできぬ。ああ!もしかしたらこのピアニストは絶望の淵に沈む俺を救わんと神が遣わした音楽の天使なのか?このピアニストと共演したらひょっとしたら俺は絶望から救われるかもしれぬ!何者なのだ!この者は何者なのだ!大振はプロモーターに向かって叫んだ。

「このピアニストは何者だ!」

 大振の問いにプロモーターは目を瞑り、腕を広げて言った。

「マエストロがよくご存知のあの諸般リストです」

 大振は天使だとも思っていたピアニストの正体が憎っくきバカロマンティックピアニスト諸般リストである事を知って衝撃を受けた。彼は大激怒してプロモーターを怒鳴りつけた。

「しょ、諸般だとぉ!何故奴が俺のフォルテシモ交響曲にピアノの伴奏なんかつけているんだ!」

 しかし大振はここでふと黙って考えた。

「もしかしてあのバカロマンティック男も、俺のフォルテシモ交響曲の虜になっているのか?奴も芸術家の端くれ。俺の交響曲の偉大さをたちまちのうちに理解出来るはずだ!だから心酔のあまりピアノの伴奏をつけたというのか!まさかあの男まで……」

 大振の自画自賛、我田引水の極みの勘違いを聞いてプロモーターはこれはチャンスとばかりに、そうですよマエストロ!諸般もマエストロのフォルテシモ交響曲に心酔しているんですよ、と大嘘を言って一気に大振を取り込もうと思った。だがそう言おうとした途端に大振は「いや違う!」と叫んで激しく長髪を振り乱した。

「あのロマンティックなまでにプライドの高い男が俺のフォルテシモ交響曲を素直に認めるはずがない!俺は奴の性格をよく知っている。奴は自分が一番でなければ気のすまぬ男。俺のフォルテシモ交響曲のような真の天才の作品を聴いてもなお、自分が天才と自称し、その中身のないロマンティックなピアノを世界最高の芸術と言い張る男!そのような男が俺の交響曲にピアノなどつけるはずがない!おい、貴様!正直に言え!これはなんだ!何故俺のクラシック史上最高傑作であるフォルテシモ交響曲と奴のロマンティックすぎるバカピアノ曲が一緒になっているんだ!答えろ!」

「ああ!」とプロモーターはいきなり絶叫した。そして胡散臭いまでにキラキラした目でこう語り出したのだ。

「これはあなたを救わんと願うクラシック界の祈りです!今死なんとしているマエストロを救いたいという全クラシックファンの心が生み出した祈りの動画なのです。絶望の淵にあるあなたを救えるのはあの諸般リストしかいない。そうファンたちは考えてあなたの曲と彼の曲を一つにしたのです!」

「ふざけるな!何故フォルテシモな天才の俺があんなこけおどしのロマンティック野郎に救ってもらわなくちゃならんのだ!そんな屈辱を受けるぐらいだったら死んだ方がマシだ!」

「だがマエストロはさっき彼のピアノを聴いて涙を流したではないですか!そして私にまるで救いを求めるかのようにピアニストの正体を尋ねたではないですか!マエストロ、あなたはもう気づいているはずです。自分を救えるのは諸般リストのピアノしかいない事に!」

 このプロモーターの言葉を聞いて大振は号泣のあまりベビシュタインのピアノの上を思いっきり転がり回った。だが思いっきり過ぎてとうとう床に落ちてしまった。プロモーターは崩れ落ちた大振に手を差し伸べた。そのプロモーターに向かって大振は泣き叫んだ。

「俺はどうすればいいんだ!」

神のお告げ

 こう叫んだ瞬間突如目の前が眩しくなった。大振は何事かと目を凝らしてみるとなんと自分の前に立っているプロモーターが神々しく光輝いていたではないか。ああ!なんてことだ!まさかこの下種男がイエス・キリストだったとは!プロモーターは床にへたり込んでいる大振を慈悲深い目で見降ろしてこう告げた。

「我が子よ。素直に諸般リストと共演なさい。そなたのオーケストラと諸般のピアノで自身に憑りついた不幸な出来事を浄化するのです。人間に憑りつきし様々な不幸を癒し、浄化するのは音楽のみ。そなたのオーケストラと諸般のピアノは対位法のように最終的に融合して不幸なる出来事を浄化し、弔ってくれるでしょう」

 大振はこの即席のイエス・キリストに泣いて縋り付いた。即席のイエス・キリストを務めるプロモーターは、あくまで即席なので、泣いて縋り付くこの男を避けたかったが、しかしこれが最後のチャンスだと思ってどうにか耐えた。その即席のイエス・キリストを澄み切った目で見上げて大振は言った。

「ですがイエス様、私は本物のフォルテシモな天才指揮者で奴はペラペラの中身のないロマンティックピアニストなのです。そんな二人が共演なぞ出来るでしょうか?結局奴は最後まで役立たずで、私の不幸は浄化されぬまま演奏を終えるのではないでしょうか。そうしたら私はもう死への道を選ぶしかない!」

「そなたはまだ諸般リストを認めていないのですか?彼こそそなたに匹敵する唯一の天才。彼の助力なくしてそなたは永遠に救われないのです。諸般を認めそして信じなさい。彼こそそなたの音楽の真の兄弟なのですから」

「兄弟?私があんな奴と?」

「そう、天は音楽の天才を東と西の地に誕生させました。それがそなたと諸般です。最初会った時そなたたちは不幸にして仲違いしてしまいました。しかし神は再びそなた達を結びつけて下さったのです。さぁ、兄弟に会いなさい。そして音楽で分かち合いなさい。苦しさも、死に至る程の絶望も、淋しい病気になるほどのさびしさも、全て分かち合いなさい」

 この即席のイエス・キリストの御神託を聞いたカリスマ指揮者大振拓人は再び激しく号泣しプロモーターを拝み始めた。

「ああ!分かち合いましょうとも!諸般は我が兄弟、音楽の血を分けたたった一人の兄弟なのですから!」

 歓喜に満ちた顔でこう宣言すると大振は勢いよく立ち上がり、グランドピアノの上に置いていた指揮棒を取って振ってフォルテシモの絶叫した。即席のイエス・キリストのプロモーターはこれに喜び大振に向かって「我が子よ、ここにサインをするのです」と言って契約書を突き出した。しかしいつの間にか我に返っていた大振は「バカ者が!」と一喝して契約書を丸めて放り投げてしまった。大振の突然の行動にまだ即席のイエス・キリストをやっていたプロモーターは大振を諫めた。

「我が子よ、なんてことをするのか!」

「黙れ!何が我が子だ!俺がいつ貴様の子になった!」

「じゃ、じゃあさっきの話はどうなるのです?マエストロ、あなたはさっき涙ながらに諸般リストと共演すると言ってくれたじゃないですか!あれはなんだったのですか!」

 大振はこれを聞いて不敵に笑った。そして両手を掲げて左手に持っていた指揮棒で天井を指して言った。

「やるに決まっているだろう!俺はさっき突然現れたキリストに諸般と仲良くしろと説教されたのだ。俺はキリストの説教を聞いて奴とまだ決着をつけていないことを思い出した。あのコンサートで俺は諸般をラフマニノフの協奏曲で叩きのめすどころか、熱くなりすぎてフォルテシモとロマンティックの場外乱闘をしてしまったのだ。今度こそ奴をフォルテシモの指揮のアッパーカットでそのロマンティックなピアノごとリングの底に沈めてやる!そうしなくては死ぬに死ねん!真の天才はこの大振拓人一人だけだと世界に知らしめてやるのだ!待っていろ諸般リスト!今度こそ武道館で貴様の下手なピアノごとボロンボロンのけちょんけちょんに叩きのめしてやる!」

 この獅子のように咆哮する大振をプロモーターはただ唖然として眺めていた。今百獣の王の如く起立して吠えている男が、さっきの涙を流して自分を拝んだ人間とは同一人物とはとても思えなかった。しかしこの傲慢ぶりこそいつもの大振なのだ。彼はさっき大振がクシャクシャに丸めた契約書を拾ってサインを求めた。しかし大振は「この天才大振拓人に向かってこんなクシャクシャの契約書にサインをさせるのか!」と怒鳴って契約書を引きちぎってしまった。

「それにだ!俺はこんなチンケなファン動画の真似事などせん!今から武道館のコンサートのためにこの天才大振拓人が最高傑作を書き上げてやる!奴にも言っておけ!せいぜい下手な伴奏でも用意しておけってな!」

 プロモーターは完全復活した大振を見てコンサートが大成功すると確信した。これでカジノの借金を返済出来る。キャバクラ行きたい放題だ。俺の信用度は爆上がりして大振どころじやゃなくて日本や海外の巨匠のプロモートを任せてもらえる。彼は鞄から新しい契約書を出して大振に持っていこうとした。しかしその時、突然インターフォンの音がけたたましく鳴り出したのだ。大振はプロモーターを待たせてインターフォンに向かいボタンを押した。するとモニターが映し出されそこに物凄い人だかりが出来ているのが見えた。彼らはマイクがONになっているのに気づかず口々にこんな事を喋っていた。

「何回押しても出てこないって事はやっぱり自殺したんだなあのバカ。本当にイヤなやつで、ずっと金のためだけに付き合ってきたようなもんだけどいざ亡くなった見るとやっぱり悲しいものがあるな」

「だけどその理由が外人のオペラ歌手に振られたってのは傑作だよな。大体アイツは舞台のクライマックスで全裸で、しかも本人じゃなくて相手役の男を襲ったんだろ?そんなの振られて当たり前だろうが」

「そっ、なのにあんな気取った遺書送りつけてきやがって。何が恋に破れし大天才大振拓人が先に逝くことをすべての芸術に謝罪するだよ。どんだけ御目出度いんだよお前の頭は。この遺書発表されたらみんな爆笑するぜ?」

「そうだよな。全裸の恥晒しが原因で自殺するんだからギャハハハ!」

 大振はこのバカ業界人の会話を聞いて怒りのあまり神が逆立った。彼はインターフォンを激しく叩きインターフォンから玄関にたむろっている業界人をフォルテシモ中のフォルテシモで怒鳴りつけた。業界人は大振のフォルテシモの一喝を浴びて一斉に謝った。大振はその業界人を自宅に呼びつけると彼らを土下座して並べてこう述べた。

「自殺はやめることにした。俺は先程突然現れたイエス・キリストからファンの誰ぞが作った俺と諸般リストの曲を合わせた動画を観せられてまだあのバカロマンティックピアニストと決着をつけていないことを思い出したのだ。それを思い出したら自殺どころじゃなくなったのだ。天才の俺が死んだら、バカロマンティックピアニストの奴が天才を自称するだろう。そしたらクラシック界はインチキ連中が跋扈してあの愚かな恐竜のように絶滅してしまうだろう!ああ!そんな事をさせてたまるか!だから俺は今度武道館で世界中の観客が観ている前で諸般リストを徹底的に叩きのめす事にした。コイツが天才だと口が裂けても言えぬようにボロッボロのカスッカスにしてやる!だから俺が送った遺書は今すぐ捨てろ!」

 大振はそうその場にいた全員に向かって言うと、腕を掲げてこう力強く宣言した。

「近いうちに世界に天才大振拓人の復活を見せてやる!貴様らそれまで楽しみにしていろ!とりあえずプロモーターの貴様さっさと諸般リストを俺の前に連れてこい!」

 大振の一喝に動揺したプロモーターは彼の命令に忠実に従ってその場で諸般のマネージメント会社に電話をかけて、今すぐに諸般を大振拓人のマンションに連れて来てと言ってしまった。だが当然外国の会社が名前も名乗らぬ意味不明の電話にまともに対応するはずがなく、即ガチャ切りされた。

「マエストロ!あなたのおっしゃる通りにしたら諸般の奴無礼にもガチャ切りしてきました!」

「当たり前だバカ者!お前は言葉通りにしか受け取れんのか!」


 後日プロモーターは改めて諸般リストのマネージメント事務所宛に例の動画の添付付きで大振拓人との共演依頼のメールを送った。勿論大振の厳密すぎるチェックを得てである。しかもそのチェックで大振に書き直された文章があまりにも諸般を挑発しすぎてしていたので、慌てて元に戻した上である。そこでプロモーターは例のマッシュアップ動画へのリンクを貼ってこの動画はファンが諸般と大振の仲直りを願っていること、そして諸般と大振は神から遣わされた音楽の兄弟であることを説き、最後のダメ押しで大振は今自殺寸前でありもう諸般しか救える人はいないと訴えて文章を締めた。

 そのインチキ臭いまでの泣き落としが功を奏したのか。諸般のマネジメント会社から共演を引き受けると返信が届いた。プロモーターは意外にあっさりと引き受けてくれたものだと思い早速大振に報告しに行った。大振は諸般が共演を引き受けると聞いて喜び指揮棒を振ってこれで奴をぶちのめせると喜んだのだった。

衝撃の再会!

 我らがカリスマ指揮者大振拓人は成田空港で大勢のスタッフやマスコミと共に、アメリカから来日する自称ロマンティックヴィルトゥオーソのバカピアニスト諸般リストを待っていた。このいつもながらの燕尾服を身に纏った大振の、腕を組み手に持っている指揮棒をピンと立てた堂々たる待ち姿を見た者たちは、誰もが彼こそ外国大使に相応しいと思ったであろう。実際かなり以前からSNS等で大振を外務大臣に推す声も出ていた、ある保守系の政治評論家など大振を白洲次郎なんぞより遥かに偉大だと言っている程である。全くその通りだと私も思う。日々そのフォルテシモな指揮で日本は勿論世界からも大絶賛を受ける大振は、真偽不明のエピソードばかりが持て囃される白洲などよりもよほど実績がある。彼が外務大臣になれば、その大胆なフォルテシモ外交でアメリカ人など一瞬で黙らせてしまうだろう。

 だが大振には外務大臣になることより遥かに大事な事があった。それはもうすぐやってくるであろう憎っくきバカピアニスト諸般リストをコンサートでフォルテシモにとっちめてやることだ。諸般リストは人気のピアニストであるが、大振から見ればインチキロマンティックピアニストでしかなくクラシックの害そのものである。奴を涙さえ出ぬほどにフォルテシモでとっちめて二度とピアノを弾けぬようにしてやる。大振は改めてそう誓い、握っていた指揮棒を親指で強く押し込んだ。

 その不倶戴天の敵、諸般リストはいつまで経っても来なかった。到着時刻はとっくに過ぎているが、諸般が連れているであろうスタッフらしき影さえなかった。日本側のスタッフやマスコミがまさかバックれたのではないかと冗談を言い出したが、大振はすぐさま彼らに「くだらぬ事は言うな!」と一喝して黙らせた。大振は諸般が自分から逃げる男ではないと信じていた。バメリカンの奴とてクラシックピアニストの端くれ。俺との勝負から逃げるはずなどない。大振はひたすら諸般リストを待った。

 そうして大振たちは諸般の到着を待ち続けたが、その大振たちの近くが急に騒がしくなった。どうやら出口付近で乱闘騒ぎがあったらしい。警官が一斉に現場に駆けつけているのが見えた。それで気になってよく見ると白人のデブの大男がやたらめったら拳を振り回しているではないか。他の野次馬たちは突進してくるデブから一斉に逃げていた。その人の捌けた場所には、何故か2メートルぐらいの長さの枯れ木みたいなものが転がっていた。

 警官は数人で「ファック!」と何度もがなるデブを後ろから取り押さえ羽交締めにしてどこかに連れて行った。デブがいなくなると皆の注目は床に転がっている枯れ木に集まった。大振もまた近寄ってその枯れ木を、何故こんな見窄らしい枯れ木がと注意深く見ていたが、しばらくして突然枯れ木の正体に気づき、思いっきり目を剥いた。それはなんと枯れ木ではなく人間であった。しかもその人間は、あの諸般リストだったのである。

 しかしあのロマンティックに髪を靡かせていた諸般リストが、何故こんな枯れ木みたいに見窄らしくなったのか。あの長い髪はチリチリでロマンティックのかけらさえなく、ショパンやリストから死罪を言い渡されそうなほど薄汚い。その貴族的な服にいたっては浮浪者かと思われるぐらいボロボロで、マリー・アントワネットがギロチンにかけられずに路上にほっぽり出されたような感じだった。大振はこの宿敵のあまりの変貌に衝撃を受けてその場に立ち尽くした。

 すると突然倒れていた枯れ木の諸般リストがピクリと動き出した。そのカクカクとした動きはまるで死にかけの病人そのものであった。大振はその諸般を見て思わず彼の元に駆けつけて声をかけた。

「貴様、諸般リストだな!そんな枯れ木みたいな見窄らしい格好をして何をふざけているのだ!まさかこの大振拓人から逃げるためにそうしているわけではあるまいな!」

 この大振の声を聞いて空港内は騒然となった。枯れ木の諸般の前に群がっていた野次馬の中の女どもはそこに燕尾服姿で仁王立ちしている大振を見て驚いた。そしてその大振から目の前に転がっている枯れ木が実は人間であり、しかもあのロマンティックヴィルトゥオーソの諸般リストであることを聞かされて歓喜と衝撃のあまり大絶叫した。その絶叫を聞きつけて空港中の者たちが大振と諸般の元に殺到した。その群衆の注目を一身に浴びた大振は枯れ木の諸般に向かって再び声をかけた。

「俺の質問に答えろ諸般!貴様その汚らしい髪はどうしたのだ。以前ここで会った時、貴様は背中につけた扇風機でバカバカしいほどロマンティックに髪を靡かせていたではないか。あの扇風機はどうしたのだ!」

 それを聞いて諸般リストはカクカクと体を回転させて大振に背中の扇風機を見せた。

「ふっ、僕のロマンティックサーキュレーターはもうボロボロになってしまったのさ」

 大振は早速諸般の背中のロマンティックサーキュレーターとやらを見たのだが、諸般の言う通り完全にサビだらけで羽はボロボロの完全にゴミだった。

「せっかく最期のピアノを弾きに先祖のふるさとのこのジャパンに来たのに、ここで終いだなんて……ああ!」

 諸般はこう叫び最後の抵抗とばかりに天を掴もうと立ち上がろうとした。だが彼はその途中で意識を失いぐったりと崩れ落ちた。大振は必死で崩れ落ちる諸般に駆け寄り、彼が地面に叩きつけられる寸前に抱き止めた。そして大振は諸般を抱き抱えたままマスコミに向かってこう言い放った。

「申し訳ないが明日の記者会見は中止だ!会見はこの諸般の体調が回復次第行うことにする。だが案ずる事はない。僕と諸般は必ずコンサートまでに曲を完成させ、そして最高のコンサートをする。いや復活しなくても僕が一人で曲を作り、コイツも無理矢理コンサートに引きずり出してやる!」

 大振のこの堂々とした見事な宣言に空港中から拍手喝采が起きた。今、空港中と言ったが本当に空港の中にいる全人間が大振に喝采を送ったのである。空港の職員は大振の男らしい宣言に感動するあまり全員職場放棄した。おかげで飛行機のダイヤは混乱しまくり、到着予定の飛行機は着陸できず近所の畑に不時着したが、そんな事は大振の諸般への思いとコンサートへの決意を語った宣言が与えた感動に比べればどうでもいい些事に過ぎなかった。

メランコリア

 諸般リストを抱えた大振は空港の外に止まっていた救急車に乗り込んだ。大振のこの一連の行動を見守っていた関係者とマスコミはその信じがたい光景に驚愕した。あの傲慢チキのパワハラ常習犯で、血も涙もない独裁者と言われる大振が、ここまで一人の人間に親身になれるとは。彼らはやはり大振と諸般は不倶戴天の敵同士とはいえ、やはり音楽家同士の絆があったのだと感動した。

 しかし救急車に乗っていた大振は担架に横たわっている諸般を助けたことをひたすら悔いていた。彼は枯れ木のように朽ち果てている諸般を憎さげに見て心の中で呟いた。ああ!こんな粗大ゴミを何故助けたのか!恩義のある人間なら粗大ゴミ以下の人間でも慈悲の心で助けもしよう!だがこいつには恩義どころか軽蔑と憎しみしかない! 

 クラシック界の面汚し。ピアニストという名の曲芸師。恥知らずにもロマンティックヴィルトゥオーソなどと名乗り、偉大なるクラシックを見せ物にまで貶めた男。こんな男をこの偉大な二十一世紀最大の音楽家である、この大振拓人が助けてしまうとは!こんな枯れ木の粗大ゴミなど、あの場に見捨てて朽ち果てさせればよかったのに! 

 あの詐欺師もどきのプロモーターは日頃から俺とこの粗大ゴミを似たもの同士だと言っていた。俺もそれを感じてこの粗大ゴミに親愛の情を感じてしまったのか。いや違う!このフォルテシモに偉大な音楽家の俺とバメリカンの曲芸師のコイツでは神とちり紙ほどの違いがある!ただの気まぐれに過ぎぬ!今からでもいい!早くコイツを救急車から捨てようと諸般を持ち上げてやると大振は担架から諸般を持ち上げて投げ捨てようとした。

 大振のあまりに奇怪な行動に驚いた救急隊員が慌てて彼を止めた。しかし大振は逆に救急隊員をボコボコにしてバックドアを強引に開けてそこから諸般を投げ捨てようとした。だがその瞬間大振は突然この枯れ木の粗大ゴミが突然愛しくなってきたのだ。大振はそれでも気まぐれだと振り切って諸般を投げようとした。だが出来なかった。彼は突如として現れた愛情に負けて諸般を投げ捨てる事をやめた。結局大振は諸般を担架に戻しいつの間にか止まったいた救急車の運転手に早く病院に向かわんか!と怒鳴りつけた。

 病院に着き諸般リストは早速緊急治療を受けた。大振はその緊急治療室の前で諸般の治療が終わるのを待っている間ずっと妙な胸騒ぎを覚えていた。さっきまで投げ捨てようとしていたあの枯れ木の粗大ゴミを何故ここまで心配するのか。さっきまであんな粗大ゴミは捨てて当然だと思っていたじゃないか!なのにどうして今あの粗大ゴミが助かるかどうか心配するのだ。ああ!これはただの憐れみ!粗大ゴミをペットか何かと錯覚したが故の憐れみに過ぎないのだ!だが今彼は一方でその粗大ゴミの生死を心臓が破裂しそうなるのを抑えながら必死で見守っていた。

 それからしばらくして緊急治療室の扉が開いた。中から医師とベッドの諸般とそのベッドを運んでいる看護師が現れた。医師は大振を呼んで別室に来るように声をかけた。大振はクラシックに無知な医師がフォルテシモなカリスマ指揮者大振拓人を知らないため、自分を諸般の兄弟と誤解していると思い、その場で自分がいかに素晴らしくフォルテシモな指揮者である事をアピールして誤解を正そうとしたが、しかしすぐに今の諸般が完全にぼっちなのに気づいて仕方なく医師の元へ向かう事にした。

 部屋の中で医師は意外にも平静な顔で大振に諸般の病状を説明したが、それによると諸般は特に病気らしい病気はないが、極端な栄養失調で、このまま何も食べなければいずれ死んでしまうという事だった。大振はこれを聞いて全く人騒がせなバカメリカン!ただのダイエットの失敗だったのか!いかにもバカメリカンらしい所業だと呆れ果てたが、医師は続けてこう言ったので急に耳を正した。

「とりあえず、健康上は何の問題もないので何か食べさせれば体調はすぐに回復に向かでしょう。しかし精神の状態が非常に悪く、治療中も、死ぬ、僕は死ぬ、ロマンティックに僕は死ぬと繰り返し譫言を言っていて、このまま放っておいたら大変危険かと。一度専門の病院で診てもらった方がよろしいと思います」

 これを聞いて大振は驚愕した。このバカメリカンがメランコリアというロマンティックな病に憑かれただと?メランコリアは洗練された文化を持つヨーロッパの芸術家や、俺のような規格外の天才芸術家のみがかかる病だ!奴如きいつもハッピーセットなバメリカンの曲芸師がかかるはずがない!ヨーロッパをひたすら讃え、アメリカ文化を果てしなく軽蔑する大振には諸般のようなハッピーセットなバメリカンがメランコリアにかかった事を知って憤激した。

 大振は医師の部屋から出るとまっすぐ諸般が収容されている個室に向かった。そして諸般の部屋のドアをそっと開けたが、諸般はすでに目覚めており、大振を認めるとハローと片手を上げて気のない挨拶をしてきた。大振は撫然とした顔で鼻を鳴らして諸般に向かって空港での出来事を語り、そして貴様どうしてそんな枯れ木みたいな格好をしているんだ!貴様のせいで明日の記者会見はなくなったんだ!貴様は本当に俺と曲を作る気があるのか?ましてやコンサートなどやれるのか?この枯れ木の粗大ゴミめ!と徹底的に諸般を罵倒した。しかも最後に押し付けがましく自分が助けなきゃ貴様は死んでいたのだぞ。俺に感謝しろと語って自分への感謝を強要した。

 しかし諸般は大振に感謝も激怒もせず、突然体を震わせて泣き出した。大振はこのロマンティック気取りの男のあまりに意外な反応に驚愕した。

「オー、スティック・ボーイ。僕はもうダメだ。もうピアノなんて弾けないよ」

「何を言っているのだ貴様!俺と共作の協奏曲の話はどうなったのだ!それよりもコンサートはどうするのだ!協奏曲なら天才の俺が才能ゼロの貴様の代わりに全部書いてやるが、コンサートは俺一人じゃ出来んのだ!いや、俺一人でもコンサートはできる!だがこのコンサートはあくまで俺のフォルテシモな指揮で貴様をとっちめてやるためのコンサートなんだぞ!貴様が出なければ意味がないのだ!それなのにピアノが弾けないだと!貴様もしかして俺のフォルテシモな指揮が怖くて逃げるつもりか?正直に言え!貴様はコンサートで俺にとっちめられるのが怖くてステージに立てません申し訳ありませんと跪いて俺に懺悔しろ!」

 大振は諸般のあまりにも情けない言葉に憤慨して激しく怒鳴り散らした。すると諸般が突然拳で激しくベッドを叩いて叫んだ。

「ボーイ!さっきも言っただろ!僕にはもうピアノなんて弾けないんだよ!今の僕にはピアノなんて全く意味のない存在だ!今の僕にできるのは死ぬことだけだ!先祖から受け継がれたヤマトスピリッツを抱いてこの地でロマンティックに朽ち果てるのさ!ふっ、最初はこのむなしい人生の最期を君のコンサートで飾って死ぬつもりだった。だけどそれさえもう出来なくなったんだ!僕はもう終わりだよ!ジ・エンドだ!」

 諸般はこう激白すると両手で頭を抱えて号泣した。諸般の悲しい絶叫を聞いて大振は深い衝撃を受けた。このハッピーセットのバカメリカンがこれほどに人生に絶望しているとは!この絶望っぷりは、まるでこの間までの俺そのものではないか!ああ!大振は今心から諸般に同情し始めていた。人を人とも思わない大振が他人の不幸に初めて心を揺さぶられたのである。大振は諸般に何があったのか知りたかった。それを知れば彼を救えると思ったからである。

「諸般!貴様に一体何があったのだ!俺に全部話してみろ!」

二枚の写真

 大振は諸般に向かってこう呼びかけた。ああ!これほどにこの皇帝のように傲慢な男が無心の心で他人に手を差し伸べたことがあっただろうか。大振は生まれて初めて慈愛というものを知ったのだ。諸般はこの大振の態度に衝撃を受けて涙さえ止めてしまった。大振はその諸般を熱く見つめて諸般の言葉を待った。すると諸般はボロボロの貴族服のポケットから一枚の写真を取り出して大振に見せた。

「これが僕の凋落のすべての原因さ」

 大振はその写真に写っている男を見て驚きのあまり何度も写真を確認した。なんと写っているのはあのデブのホルストではないか!そう写真の男はあの因縁のデブと髪と肌の色以外まるで瓜二つだったのである。写真のデブは金髪のホルストと違い輝くばかりの黒髪で、肌は白デブのホルストと違い見事に日に焼けていた。大振はもしかしたら本人ではないかと思った。コイツはイメチェンしたに違いない!あの呪わしい『トリスタンとイゾルデ』の開演の前に奴はダイエットに成功していた。それて調子に乗ってラテン系に成り済ましたのだ!ラテンの熱い魅力で再びイリーナを口説き落とそうとして!ああ!イリーナ!イリーナ!君は今どこにいるんだ!だがこの男は本当にあのホルストなのか?イメチェンしたホルストなのか?大振は諸般に尋ねた。

「この男は誰だ!もしかしてホルストとかいうバイエルン人じゃなかろうな!」

 諸般はこの大振の問いを聞いて一瞬何事かと訝しんだが、すぐに何事か察していわくありげに微笑んだ。

「残念ながら写真の男は君の愛するホルストじゃないよ。まあ、名前は多少似ているけどね。この男は、僕が唯一愛した恋人、ホセ・ホルスさ」

 この諸般の衝撃的な告白に大振は唖然とした。まさか貴様がゲイだったとは!いや、なんとなく身振りからもしかしたらそうではないかと思っていた。男らしさのかけらもないその扇風機で髪を靡かせたロマンティック気取りの薄っぺらなスタイルはまさにバメリカンのゲイそのものだ。ゲイの作曲家がほとんどいないクラシックの世界にもたった一人例外がいる。それはあのチャイコフスキーだ!チャイコフスキーは自分が呪われしゲイであること悩んで自ら命を絶った。こいつもゲイに悩んで自ら命を絶とうというのか。だが俺がそんなことはさせん!何故なら貴様は芸術家ではなく、薄っぺらなバカメリカンのピアニストでしかないからだ!貴様など俺のこの指揮棒で串刺しにして一生この世に留めてやる!

「そのホルスとやらはどうしたのだ。何故一緒に日本に来なかったのだ」

「君はそれを僕に聞くのかい?残酷な人だね君は。僕のホセは、あのチカーノの天使は、このメキシコのメドゥーサに奪われてしまったんだぁ!」

 諸般はこう叫ぶと服のポケットからもう一枚の写真を出して大振に投げつけた。

「そいつが僕からホセを奪った憎きメドゥーサ、イザベル・ボロレゴだ!」

 大振は床に落ちた写真を拾って諸般のいうメキシコのメドゥーサとやらの顔を見た。彼はボロレゴなんてアホな名前からしてどうせラテン系のバカ女に違いないと写真を一瞬だけ見て返そうとしたのだが、写真を見た瞬間ホルストどころじゃない衝撃に思わず気を失いかけた。ああ!写真に写っているのは、愛しいイリーナ・ボロソワその人ではないか!確かに写真の女は黒髪に褐色の肌をして我がイリーナとは全く違う!たがその瞳、その口元、その肉感的な体すべてがイリーナだった。よく考えれば名前までイリーナに似ているではないか!ああ!なんてことだ!イリーナよ!どうしてお前は俺をここまで苛むのだ!俺は何度もお前との思い出を捨てようとしているのに、いつのまにか戻ってきて、今度はこんな売女のラテン女姿で現れるのか!ああ!耐えきれぬ!この地獄は俺には到底耐えきれぬ!大振は地面に這いつくばって泣き崩れた。ああ!大振の号泣ぶりに影響されて諸般も号泣し始めた。まさか指揮者とピアニストが涙の二重唱をするとは誰も思わぬだろう。しかしここでそれが起こってしまっていた。病院内はこの涙の二重唱で機材にトラブルが続発し、助かる命も助からない異常事態を迎えたが、幸いにも誰も死ななかった。

 散々涙の二重唱を歌い尽くした後、諸般は大振に向かって微笑み、多分君も僕と同じように失恋したんだねと言った。大振はそれに対し衝動的に諸般の写真の女によく似たイリーナ・ボロソワとの出会いから舞台上で振られるまでの経緯をトイレ休憩三回ほど挟んで涙ながらに語ったが、それを聞いた諸般は大振を真から憐れみ、我がソウルブラザーと叫んで抱きつこうとした。しかし、大振は冷静にその手を撥ね退けて早く貴様のことを教えろと言った。

呪わしき二人

 すると諸般は涙ながらにホセ・ホルスとの失恋の顛末を語り始めた。諸般によると彼がホセと出会ったのはサンディエゴのコンサートホールだったという。その日コンサートが大成功に終わった諸般はスタッフと共に、打ち上げ会場の有名ホテルに向かうために、ホールの裏口に待たせてあった車に乗ろうとした。そこにホセが飛び込んできたのだ。彼は大袈裟な身振りでまず自分が諸般のファンである事、そして自分がオペラ歌手を目指している事を涙ながらに語った。諸般はこの突然目の前に現れたビンボ臭い格好のステーキみたいに焼けた男に嫌悪感を感じてスタッフにつまみ出せと言いつけてそのまま車に乗り込もうとしたのだが、その時突然ホセが歌い出したのだ。

「ああ!あの時のオー・ソレ・ミオと歌うホセはなんと素晴らしかっただろう!その見た目通りの荒々しいテノールは僕をノックダウンさせてしまったんだ!僕はこのロマンティックのかけらもないチカーノに、未来のパヴァロッティを、ドミンゴを、カレーラスを見たんだ!いや、その三大テノールを遥かに超える天才を見たんだ!ああ!僕は信じられなかったよ!こんなチカーノの野蛮人がこれほどロマンティックなヴォイスを持っているなんて!」

 オペラ歌手という言葉を耳にして大振は即座にイリーナの事を思い出した。ああ!イリーナ!イリーナ!お前も僕に天使のソプラノを聴かせてくれた!なのに何故お前はここにいないのか!

「僕はホセの歌を聴いた瞬間はもう打ち上げなんてどうでも良くなったんだ。今すぐにこのホセを連れて帰らねばと思った。だから僕は何故か耳を塞いで倒れているスタッフに打ち上げには行かないといって、そのまま彼を乗せてホテルの部屋に入ったんだ。ああ!その部屋でのホセはなんて素晴らしかっただろう!再びのオー・ソレ・ミオの絶唱、続いて僕の伴奏での『サンタ・ルチア』の熱唱、そして二人で互いの肉をシンバルがわりに激しく叩いて歌う裸の二重唱!ああ!思い出すよ!天地が揺れるほど激しいあの二重唱を!僕は彼の焼け爛れ、張ち切れんばかりに膨らんだ愛を差し挿れられて、文字通り360度夜通しロマンティックに回されたんだ!」

 大振は諸般が語るホセとの熱い情事にトリスタンとイゾルデで自分とホルストがやらかした大惨事の場面を思い出して吐きそうになった。おおなんと悍ましい!あんな白ブタそっくりの男とそんな醜悪な事が出来るとは!俺は今もイリーナとあの白ブタを間違って求めた事を激しく後悔しているのに!

「僕らはそれから恋人同士となってアメリカ中を回ったよ。それからヨーロッパに行って。僕はアメリカでもヨーロッパでもホセをオペラ歌手としてデビューさせるために、コンサートのプロモーターからレコード会社の重役まで彼を見せて回ったんだ。だけどダメだったんだよ!この僕の名声を持ってしても、どれだけ大金を叩いても、みんな彼の天才を受け入れなかったんだ!だけど僕はホセの歌唱を生で聴かせてやれば皆一瞬でわかるだろうと信じて、あるコンサートに無理矢理を彼出して僕の伴奏でオー・ソレ・ミオを歌わせたんだ。だけど結果は散々だった。みんなチカーノのホセを忌み嫌い「ユーアージャイアン?」とか「聴覚が死ぬ」とか「そりゃおー、ソレは歌うな」と散々ブーイングを垂れて挙げ句の果てに倒れている奴がいるぞとか言い出して救急車なんか呼んだんだ。全くなんて酷い観客だ!僕のホセのロマンティックヴォイスが理解できないなんて!」

 諸般が語るホセへの切ない愛に大振は深く感動してしまった。歌えば客席に一斉にブーイングが起こさせるどころか、急病人まで出すほどロマンティックな歌を披露するホセ。そんな男をロマンティックだとひたすら崇めてデビューさせるために涙ぐましい努力をする諸般。だが大振はその切ない話を聞いて何故ホセがデビュー出来なかったか完全に理解してしまった。要するにホセは歌が下手だったのだ。

「でもそれでもホセとの愛の日々は最高にロマンティックだったよ。僕はパリのショパンの墓をホセと一緒したんだけどその時とんでもなくロマンティックな気分になってスタッフにピアノ持って来させて彼の曲を演奏したのさ。ああ!ショパンも僕の演奏のロマンティックさに墓場から思わず飛び出て来そうだったよ。そしてホセがそのショパンのあまり知られていない歌曲を歌った瞬間、なんと墓が思いっきりドスンドスンとすごい地響きを立てて鳴り出したんだ。僕はショパンもホセのロマンティックなヴォイスに感動しているのかと思って泣きそうになったよ。リストの時も同じだった。ホセが歌い出した瞬間、ショパンの時と同じようにリスト墓をドスンドスンとさせたんだ。僕はそれを見てショパンもリストも彼を認めているのになんで世間は認めないんだと涙したよ。ホセはメトロポリタン歌劇場で喝采を浴びるべき人間なのにって!あ、そうだ。ホセは日本にも連れてきたんだ。君との共演コンサートの時にね」

 では俺はそのホセってホルストそっくりな奴に会っているかもしれないってことか!ということはあの悲劇の種はイリーナと出会う前からすでに撒かれていたということだ!ああ!イリーナ!僕らは最初から結ばれぬ運命だったのか!大振は我が身の不幸を嘆いた。だがその時諸般が突然絶叫したのでハッとして我に返った。

「そこに突然あのメキシコのメデューサが現れたんだ!」

 痛ましい絶叫であった。その枯れ木のような体が折れてしまうぐらいの大絶叫であった。

「あのメデューサが最初に現れたのはメキシコ公園の帰道に寄ったとあるタコスレストランだった。僕はそこにホセと一緒に入ったんだ。僕はタコスなんて食べないが、ホセがどうしても行きたがっていてね。それで店に入ったらすぐにとんでもなくまるまる太ったデブの女が出てきた。それがイザベル・ボロレゴだ!」

 そのデブがイザベルだと?ならイリーナにそっくりの写真の女はなんなのだ。

 諸般リストは今度はデブのイザベル・ボロレゴについて語り始めた。彼によるとイザベルは二人が立ち寄ったタコスレストランの従業員で、この夜は彼女しか出勤していなかったらしい。デブのイザベルはホセと諸般に向かってプロレスラーとスーパーモデルのカップルみたいだと褒めちぎった。諸般はこの褒め言葉に感激して頬を赤く染めて彼女に礼を言ったが、彼女は諸般の声を聞いて本当に目が飛び出るぐらい驚いたらしい。どうやら彼女は諸般を女だと思っていたようなのだ。イザベルはその飛び出た目で諸般とホセを凝視した。その後二人はタコスを注文し出来た料理を食べたが、ホセはタコスを食べた途端涙ぐんでイザベルにこれはグランママのタコスそっくりだ。出来ればまた食べに来たいと料理の感想を伝えた。それを聞いた途端デブのイザベルが突然泣き出した。彼女によれば店は今月で廃業で、もうそうなったら自分は路頭に迷って餓死してしまうと餓死しなさそうな体で我が身の不幸を嘆いたという。ホセはそのイザベルに深く同情し、彼女をコックとして雇ってくれと泣きながら諸般に訴えた。

「ああ!今考えればあのデブのイザベルをコックに雇うべきではなかったのだ!あのデブはただのデブじゃなくてメドゥーサだったのだから!」

 その後ホセの土下座での必死の懇願に負けイザベル・ボロレゴをコックとして雇うことにした諸般であったが、彼は最初からイザベルを忌み嫌っていた。彼女を嫌うあまり諸般は彼女を自分の家である『ロマンティック・パレス』に決して住まわせず、そばの豚小屋に等しい小屋にぶち込んだ。スーパーモデルの如き美意識でどんな時でも背中の扇風機で髪をロマンティックに靡かせている彼にはこのデブのラテン女と同じ空間にいることすら耐えられなかったのである。彼がそれでもイザベルを受け入れたのはただホセへの熱い想いからだった。諸般はイザベルから元々は歌手になりたかったと告白された時には思いっきり嘲笑した。

「だって笑えるじゃないか。この美のかけらもないバカなデブ女がかつてオペラ歌手を目指していたなんてね。しかもポップスまで歌いたかったらしい!あんなコアラみたいなゲップ声で呆れるよ。だから僕はあのデブに言いつけたんだ。二度と僕の前で歌うなと。まぁ耳が汚れるからね」

 笑いながら諸般がこう喋ったのを聞いて大振は思わず目を剥いた。オペラ歌手にポップス?ああ!まるでイリーナじゃないか!ひょっとして諸般も俺と同じような悲劇を味わったのか?

 この大振の推測は正しかった。いや正しかったどころか大振のそれをはるかに上回る悲劇が諸般を待っていたのである。

 諸般リストとホセ・ホルスの同棲生活はいかにもロマンティック・ピアニストの諸般らしい熱く熱情的なものであった。諸般のロマンティックの結晶であるロマンティックパレスは過剰なまでにロマンティックな愛の巣となった。いつでもどこでも二人はロマンティックに愛を繰り広げた。そのロマンティックから弾かれたイザベルはいつも悔し泣きで二人の愛し合う光景を見ていた。そんなある夜彼女は淋しい病気になる程の淋しさに耐えられず、つい諸般の禁則を破って庭で歌を歌ってしまった。するとその時拍手が聞こえたのである。イザベルが音の鳴る方を見るとそこにホセが立っていた。ホセはイザベルになんて素敵な声なんだと褒め上げた。「まるで天使の歌声のようだった。コアラさえ思わず昇天してしまうほどの」「まあ!」イザベルはホセが褒め言葉に感激して思わず泣いた。ホセは泣いているイザベルに向かって自分の下半身を指さしながらこう言った。「お前がもうちょっと痩せてくれたらロマンティックにコイツをぶち込んでやるのに」これを聞いたイザベルは目を見開いた。「痩せればアンタとロマンティック出来るの?」ホセは笑って答える。「たりまえだろ。あんなオカマ野郎にはもううんざりさ」それを聞いたイザベルは目を輝かせてホセにこう宣言した。「私絶対に痩せてアンタとロマンティックしてみせる!」

悲劇の顛末

 ああ!これが諸般の悲劇の始まりであった。もはや悲劇のトリガーはロマンティックに弾かれていたのだ。ホセははじめは諸般をロマンティックに愛していたが、元々営業ゲイであるホセはだんだん諸般を疎ましく思うようになった。確かに初めのうちは自身の360度フル回転のロマンティックに悶える諸般に興奮しまくったが、諸般がもっともっととさらなる弩級のロマンティックを要求して来たのでうんざりしてきた。おまけに諸般は女以上に嫉妬深かった。明日のロマンティックホールに放出したロマンティックミルクがちょっとでも少ないと「すぐ浮気したのね!僕以外の男とロマンティックしたのね!誰とロマンティックしたか正直に言いなさい!」と一晩中喚き散らした。ホセはそんな諸般に誤解だと弁明し、お前を想像してミルクを放出していたからこんなに少なくなっちまったんだと弁明したが、諸般はそれでも信ぜず発狂したかのように彼を責めた。ホセはもうそんな地獄の毎日から脱出したかった。だが、諸般の元を離れたらまた昔に逆戻りだ。離れるなんて出来ない。

 ホセがイザベルに例の冗談を言ったのはそんな状態の時だった、しかしそれはあくまでも冗談でしかなかった。あんなデブがダイエットなんて出来るわけねえだろ。もし仮に出来たとしても痩せた不細工が現れるだけだと彼は思っていた。ホセはボロ小屋の窓に映るダイエットの本を必死こいて読むイザベルを見て無駄な努力と嘲笑った。

 だが奇跡は起こってしまった。ロマンティックが突然に始まるように奇跡もまた突然に現れてしまったのだ。なんと実家に帰っていたイザベル・ボロレゴがまるでディーヴァの如き美人に生まれ変わって戻ってきたのだ。これは諸般もホセも驚愕した。ホセはこの奇跡に興奮し目を充血させたが、諸般はそのホセを見て愕然となった。まさかホセ。もしかしてこの痩せたビッチに惚れてしまったのかい?僕というロマンティックな恋人がいながら!

「ふふふ、私メキシコに帰ったら何故か痩せちゃったの。不思議ね」

 不思議もクソもなかった。この元デブはメキシコの田舎に帰ると嘘ついてロスで脂肪吸引手術を受けてきたのである。全く女の美貌に対する執念は恐ろしい。イザベルは貪婪な視線でホセを見た。ホセもまた欲情を丸出しにしてイザベルをガン見した。諸般はその二人の互いをむさぼるような目を見てもしかしたらホセがこの美人に生まれ変わったイザベルに奪われぬかもしれぬと怯えた。

 諸般はこの思わぬ事態に不安に陥ってしまった。彼の愛するホセがこのメキシコのバカ女に魅入られてしまった。ここで彼が浮気をしたら家から出て行ってもらうと脅しつければホセは今も彼の元にあっただろう。だが諸般にはそれが出来なかった。自分がもしそうしたらホセはイザベルの元にいってしまうと思ったからだ。

 ホセはその諸般の不安を巧みに利用した。彼は諸般に対して急に強気になり、ロマンティックの時も何もせず諸般に対して果てしなきロマンティックを要求したのである。諸般が嫌がるとじゃあお前と別れるぞと脅しつけた。それで仕方なく諸般がいやいやのロマンティックをしたのだが、ホセはピシャリと彼の頬を叩き、「もっと優しくロマンティックに舐めろ!」と怒鳴りつけた。諸般は一瞬にしてホセの奴隷になってしまった。だが諸般はそれでもホセを追い出さず、彼に尽くしたのである。ああ!ホセをあまりにもロマンティックに愛するがゆえに!

 こうして諸般をロマンティックに屈服させたホセはさらなる要求をした。メトロポリタン歌劇場で自分とイザベルのリサイタルをやれと言い出したのである。諸般はこの無茶にも程がある要求を「君一人だったらブッキング出来るけど、あんなコアラ以下の歌しか歌えない女はダメだ」と言って拒否したのだが、ホセはそれを聞いて笑いじゃあ俺とお前はここで終わりだと言って出て行こうとした。諸般はそれを泣いて止めた。

「お願い!僕を捨てないで!君に捨てられたら僕は死ぬしかないんだ!」

 こうしてメトロポリタン歌劇場で全く無名どころか完全なる素人のホセ・ホルスとイザベル・ボロレゴのリサイタルが開かれることになったのだが、いざチケットを販売しても殺人的に売れなかったので、プロモーターは諸般に向かってこれじゃうちは大赤字で破産すると捲し立てた。それではと諸般がピアノの伴奏で参加する事になったが、肝心のホセとイザベルがそれを嫌がった。二人はゴージャスなオーケストラの演奏じゃなきゃ歌う気になれなと頑強に主張したのだ。だが肝心の主役が素人ではチケットが売れるわけがない。それではと諸般は愛するホセのためにコンサートを成功させようとあらゆる媒体でホセ・ホルスとイザベル・ボロレゴのコンサートを宣伝した。彼はあらゆるメディアに向かってホセの素晴らしい歌唱を讃え、聴いていたら気を失うほど素晴らしいんだと語り倒していたが、その姿はもういじましい程だった。

 その甲斐もあってどうにか半分以上は埋まったメトロポリタン歌劇場でホセ・ホルスとイザベル・ボロレゴのリサイタルは無事開演を迎えたが、それはもう地獄の光景であった。ゴージャスなオーケストラが全く意味がなくなるほどの美声は客の耳を突き刺し次から次へと気を失わせた。だが、どうにか無事に美声に耐えた客たちは一斉にステージの二人に向かっていろんなものを投げつけた。ステージは空きビン、空き缶、燃えるゴミ、燃えないゴミ、粗大ごみ、生もの、プラスティック、産業廃棄物、危険物などゴミの分別もしようがないほどのゴミで埋め尽くされた。だが、ステージの二人はそんなことを全く気付かずにメトロポリタン歌劇場に朗々とその自慢の美声を響かせた。

 ピアノを弾くことさえ禁じられた諸般はホセの美声にうっとりし、イザベルのコアラマーチのゲップ声には吐き気を催しながら、なんとかホセを救おうと思っていた。ホセはイザベルに洗脳されているだけに過ぎない。だから僕のロマンティックラブパワーをホセの体に注げば彼の洗脳は解け、再び僕の元に帰ってくるだろう。だが、今自分はステージにすら上がれず客席に閉じ込められている。ステージの二人は現実を超えて完全に二人の世界に入って行ってしまった。諸般はホセをイザベルから救い出そうと思ったが、しかしそうしたらホセが怒って自分の元から永遠に去ってしまうことを恐れて立ち止まった。ああ!今、リサイタルのプログラムの最後の曲ワーグナーの『愛の死』のオーケストラが鳴りだした。

『愛の死』だって!と大振は諸般が愛の死の件を口にした途端、胸が串刺しになる程の痛みを感じて崩れ落ちた。ああ!イリーナ!僕のイリーナ!あの時全裸でステージに駆け上がったのはただホルストから君を救いたかったからだ!ああ!諸般まさかお前も俺と同じように!

「その時突然ステージのライトが消えたんだ。僕は一瞬電源が落ちたのかと思ったけど、その時ライトは二人の顔だけを映し出したんだ。ああ!その時のイザベルの顔は人を海へと溺れさせるあのメドゥーサそのものだった!このメキシコのメドゥーサは僕のチカーノの天使ホセ・ホルスを地中海の海に沈めようとしていたんだ!僕はロマンティックラブパワーでホセを救おうと全裸になってステージに駆けだした。もうリサイタルがどうなっても構わなかった。ただ僕はホセを永遠に地中海に沈めようとしているこのイザベル・ボロレゴというメキシコのメドゥーサから救いたかっただけなんだ!」

 ああ!全く同じだった!まさかこのバメリカンの自称ロマンティックピアニストがここまでフォルテシモに人を愛することが出来るとは!もう諸般の性癖への偏見など完全に吹き飛んでしまった。愛する人を救うために全裸でステージに駆けるなんてことをする奴が俺以外にいたとは!

「僕は全裸で暗闇の中ホセめがけて飛び込んだんだ!メキシコのメドゥーサの前で僕らの愛を見せつけて退散させるために!僕はホセを捕まえてそのままありったけのロマンティックを注いだんだ!久しぶりのホセとのロマンティックは新鮮だった。まるで初めてロマンティックしているみたいだった!だけどステージの明かりがついたとき、僕はそこにホセじゃなくてただのデブの警備員を見たんだ!ああ!僕はなんてことをしてしまったのか!ホセとイザベルは冷たい目で僕を見下ろしているではないか。僕は警備員をほっぽりだしてホセに向かって誤解だと必死に弁明した。だけどホセはイザベルを抱きながら僕にこう言ったんだ。「この野郎散々俺に浮気するなっていてたくせにてめえはやりまくりかよ!人のステージ台無しにしやがって!そんなにやりたきゃ外でやれ!」ってさ。それからホセとイザベルはメキシコに旅立ってしまった。しかも僕の財産を丸ごと奪ってだよ!」

 諸般はこう語り終えると号泣して天井に向かって絶叫した。大振もまた号泣した。ここにいるのは俺そのものではないか!まさかあのプロモーターの言うことが当たっているとは思わなかった!ハッピーセットなバメリカンのコイツがここまで俺と瓜二つだったとは!ああ!この指揮者とピアニストの二人はまた世界一ピュアな涙の二重唱を歌いだした。その二重唱は再び病院を突き抜けた。看護師の注射の針がが患者の動脈を刺し、心電図の電源が落ち、手術中のメスがいらない所を切り刻み、もう助かる命さえ助からない状態になったが、奇跡的なことに誰も死ななかった。

 大振はその果てしない号泣の二重唱の中で諸般を絶望から救わねばと決意した。この男はかつての俺と同じだ。俺もまた失恋の苦悩の果てに命まで捨てようとしたのだから。この男は一刻も早く救わねばならぬ。でなければ確実に枯れ木のように死んでしまうだろう。諸般はその大振に諦めきった顔でこう言った。

「こうして全財産を失った僕はそれからずっと死に場所を求めてさまよっていた。そんな僕に君から日本のコンサートの仕事が来たのは僥倖だったよ。これで思い残すことはないとね。最後にグランパパの故郷でピアノを弾いてそしてフジヤマの山頂でロマンティックにセップクして息絶える。最高の死に方だと思ったんだ。だがそれもダメになった。借金取りが僕のピアノまで奪ってしまったんだ!日本に着いたとき空港でたまたまその借金取りを見つけてピアノを返してくれと取ったらいきなり殴ってきた。君も見ただろ?ロマンティックに髪すら靡かせられなくなった惨めな僕を!もう終わりさ。あとは惨めに餓死するしかないのさ」

 諸般の悲痛な叫びがショパンの葬送行進曲のクライマックスのように響き渡った。大振はこの全てに絶望した諸般を救わんと我知らず声を張り上げた。

「バカ者が!貴様それでもクラシックのピアニストか!芸術家の端くれか!芸術家は困難な時ほど一層己が才能を輝かせるものだぞ!ベートヴェンを見ろ!チャイコフスキーを見ろ!貴様のレパートリーのラフマニノフを見ろ!みな降りかかってきた苦悩を乗り越えてあれほどの芸術を生み出したのだ!なのに貴様はなんだ!苦悩に立ち向かおうとせず、それどころか己が苦悩に押しつぶされるがままに泣きくれている!情けないと思わないのか!自分を憐れむより大事なことがあるだろう!貴様が今なすべきことはピアノを弾くことだ!貴様のロマンティックなピアノを俺のために弾くことではないのか!貴様はさっき死ぬために日本に来たと言ったな。だが俺はそんな奴と共演なんぞせぬ。なぜなら俺の曲は死んだピアニストになど絶対に弾けぬものだからだ!貴様はただ甘ったれているだけなのだ!ハッピーセットのバメリカンの薄っぺらな連中にちやほやされ、それで調子に乗って芸術の厳しさを忘れたがゆえに、芸術は苦悩を乗り越えて生まれるものだという事を完全に忘れてしまったのだ。さあ目覚めよ!今からでも遅くはない!苦悩を乗り越えて貴様の芸術を輝かせて見せろ!」

 ああ!なんという事だ!あの大振がここまで他人を叱咤激励するとは!あの傲慢で人を人とは思わない皇帝大振拓人が涙さえ浮かべて人の命を救おうとするとは!諸般リストはこの大振の激高ぶりに驚いて彼を見つめた。だが、すぐに顔を背けてこう呟いた。

「せっかくだけど僕はもう無理なのさ。僕は君みたいに強い人間じゃない。君の言う通りアメリカのハッピーな風土に染まり切った哀れで滑稽なロマンティストに過ぎないのさ。こうしてすべてが奪われて惨めに裸にされてすべてを悟ったんだ。ロマンティックのない僕なんてただの髪の靡かない枯れ木でしかなんだって!」

「この愚か者がっ!」大振はこう叫びながら諸般を殴り飛ばした。そのパンチのあまりの勢いに枯れ木の諸般がベッドの外に飛び出してしまった。諸般は折れた枯れ木のように背中を折って床に蹲っていた。そのまま動かないので大振は死んだかと思い慌てて諸般を抱きしめて呼びかけた。

「諸般!しっかりしろ!まだ死ぬんじゃない!」

 その大振の言葉が届いたのか諸般はしばらくしてからゆっくりと目を開けた。大振は死ななかったことに喜んで潤んだ目で彼を見つめた。すると諸般は歓喜に震える声で大振にこう言ったのである。

「僕、パパにさえ殴られたことなかった。こんなに、こんなに熱い気持ちで殴られたのは初めてだ。ああ、君の想いが痛いよ……」

「諸般!」大振は思わず彼の名を叫んで思いっきり抱きしめた。ああ!ついにこの兄弟のような男たちは初めて互いを分かち合ったのだ。ともに音楽家として、芸術家として、男として!

「とりあえず飯でも食わんか。さっき医者から貴様が栄養失調だと聞いたのだ。今から近くの高級レストランに電話をしてコックを全員呼び寄せてやるから待ってろ」

 この大振の唖然とするぐらい優しい言葉に諸般は涙ぐみ頬を真っ赤にそめて泣き出した。

「でもいいのかい?今の僕には全くお金がないんだよ。ドルも円もすべてないんだよ」

 その諸般に対して大振は男らしくこう答えた。

「バカ者が!金の事は気にするな!あとは全部俺に任せて貴様は体調を回復させることに専念していろ!」

 諸般は大振のこの男らしい照れを見て胸がキュンとなった。それは彼にとって新たな恋の予感であった。

フォルテシモとロマンティックの結婚

 さて、我らがカリスマフォルテシモマエストロ大振拓人がロマンティックヴィルトゥオーゾの諸般リストを抱えて共に救急車で空港から消えた後、現場はとんでもない大騒ぎになった。大振と共に空港に来たマスコミはすぐさまスマホでググってそこら中の病院に大振と諸般はいるかと電話しまくった。二人のファンや野次馬も同様の行動をしたが、その中の一部の過激なファンはなんと空港警察に大振と諸般の捜索願まで出した。フォルテシモで名高いカリスママエストロとロマンティックヴィルトゥオーゾピアニストの突然の失踪は空港をパニックに陥れるほどの騒ぎになった。空港は大振と諸般の失踪のため業務ができないとの理由を挙げて全ての業務を停止した。しばらくしてマスコミの記者の一人が何故かフェイスタオルで頬かむりをしてこっそり人混みの間を抜けようとした。すると他の連中がすぐさまそいつを摘み上げ誰かが持っていた十字架に吊し上げて拷問を始めた。

「貴様!抜け駆けしおって!大振と諸般の居場所はどこだ!さっさと白状しろ!でないとライターで貴様を火あぶりにしてやるぞ!」

 このその場にいた全員の着火したライターを掲げたあまりに本気の脅しに記者はあっさりと屈服し、すぐさま大振と諸般のいる病院の名を白状した。するとそれを聞いたマスコミと二人のファンと野次馬はすぐさま病院へと向かったのだった。もう各々の事情などどうでもよかった。今はただこのフォルテシモなカリスマ・マエストロとロマンティック・ヴィルトゥオーゾピアニストの行方を探すことがすべてであった。ああ!ここまで人を混乱に陥れるとは!この事実だけで世間が二人の共演にどれほど注目していたかがわかるだろう。東西を代表するクラシック界の超新星。そのシリウスの如き輝きを今観なければいつ観るのか。その期待が人を狂わせ、空港を止め、そして大挙して二人のいる病院へと駆けつける事態を引き起こしたのであった。

 だがいざ病院の前に駆けつけてみたものの、肝心の大振と諸般の現れる気配は一向になかった。病院は警備員総勢千人超の警備員で四方完全にガードされ、来院や見舞いは大振と諸般のせいで一切停止となり、妻や親や兄弟の死に目にも会えない状態であった。マスコミとファンと野次馬は病院前の周りに畑と空地しかないあまりに殺風景な場所でずっと大振と諸般の現れるのを待っていたのだが、三日三晩待ち続けても二人は全く姿を現さなかった。

 それでもファンは大振と諸般が現れるのを待った。待つ過程でファン同士の国際交流が生まれ、その中で今現在交戦中の某国出身のファンの間で友情が生まれた。また今まで人種差別をしていたファンは自分が忌み嫌う人にもピュアに大振と諸般を慕う人間がいる事を知って自らの愚かな人種差別を捨てた。ああ!何ということだ。クラシック界の超新星と呼ばれるこの二人はまさか現代のイエス・キリストでもあったとは。邪な心を持ったファンが改心してゆく様をみて心あるファンは一斉に大振拓人と諸般リストの降臨を願った。ああ!タクリス!(大振拓人と諸般リストのカップリング名)早くわたしたの前に現れて!世界にはあなたたちが必要なのよ!

 そのファンの願いが通じたのかついに大振拓人と諸般リストが病院の門に現れた。ファンはイエスの復活のように眩しい光に包まれて登場したは二人を見て驚愕した。車椅子に乗った諸般とその車椅子を押している大振はまさに天国の住人であった。しかも二人とも純白の衣装を着て天真爛漫に笑っていたのだ。ああ!ファンは大振と諸般の仲睦まじさに目が眩んだ。ファンの一人はその天使の如き二人を見て卒倒してしまったほどだ。

 しかしその降臨も一瞬で終わった。病院の門前を占拠するファンに気づいた大振がさっと諸般の車椅子をUターンさせて病院の敷地内に戻ってしまったのである。

 大振拓人は諸般リストの介護をするまで誰かのために何かをしようとした事はまるでなかった。彼は事実上の皇帝であるから部下に救済を命じても彼自身の手は絶対に汚さなかったのだ。だが今大振は率先して諸般の身の回りの世話をし、しかもそれに喜びさえ感じていた。彼の諸般を労り想うその感情はどこか恋に似ていた。恋、そう恋。我らがフォルテシモ指揮者大振はあまりにモテすぎるが故に恋する人間の自然な感情を身につける事が出来ずに生きてきた。彼にとって女は召使と一緒であり、ああせいこうせいで動くロボットでしかなかった。いつかの週刊誌に書かれた大振拓人はマグロ男という暴露記事は全て事実である。彼にとって大半の女はそのような存在であった。確かに大振はイリーナ・ボロソワを激しく愛した。そして彼は今だにイリーナへの未練に囚われている。しかし彼女との愛は自然の愛とは程遠く、まるで彼がかの女のために振った『トリスタンとイゾルデ』のような嵐のような劇的な愛であった。今大振は諸般に対して生まれて初めて普通の少年少女が抱くピュアな恋に似た感情を覚えていた。諸般はその大振の思いを知ってか知らずか、度々自分を見つめる大振を揶揄った。しかし意外にも大振は諸般に対して激昂せず、ただ呆れて笑うのだった。

 実際諸般はまるで女子のようであった。これがロマンティックに髪を靡かせて指をピアノの鍵盤に滑らせるヴィルトゥオーゾとは思えなかった。ロマンティックの服を脱いだらそこからヤンキーガールが現れたのだ。彼はヤンキーガールとして大振にわがままの限りを尽くした。諸般は大振に髪を靡かせるために背中につけるロマンティックサーキュレーターが欲しいと頼んだが、大振が買ってきたそれが自分の好みではまるでなかったのでロマンティックに髪を振り乱してブチ切れた。

「違う、これじゃない!こんなのじゃ僕の髪はロマンティックに靡くわけないよ!」

 だが大振はその諸般のわがままにさえ怒らなかった。それどころか謝罪までしたのである。彼は真心を込めてすまなかった。今度はお前に似合うサーキュレーターを見つけるよと謝った。彼が他人に対して心から謝罪したのはこれが初めてだった。

 暖かい日に病院の敷地内を二人で散歩をしたとき、すれ違った看護師が振り返ってまるでハリウッドスターとスーパーモデルのカップルみたいだと小声で言った。そのヒソヒソ話を耳にした二人は恥ずかしさのあまり思いっきり顔を赤くした。

「ねぇ、僕たちパートナーだって思われているよ?」

「バカ者!なぜ俺が貴様とパートナーにならなきゃいかんのだ。俺たちは男同士ではないか」

「それでも嬉しい……」

 大振はその諸般のヤンキーガールに中に隠されたヤマトナデシコの如き恥じらいを見て思わず赤面した。

「バカ者!人をからかうでない!」

 ああ!この共に恋に破れて少年少女に帰ってしまった二人の男はこのだだっ広い畑ばかりの世間から隔絶された場所で幸福の絶頂にいた。ああ!共にクラシックの超新星。未来の巨匠ともてはやされ休む間もなく演奏してきた二人。その二人が今互いに天才の仮面を外して素顔で接している。ああ!こんな二人を見たら二人を誰だって二人をそっとしてあげてと思うだろう。だが残念な事に天才として生きていかねばならぬ二人にはそんな猶予などなかったのだ。

 諸般リストの体調は大振の愛情に満ちた介護のおかげでみるみるうちに戻っていった。枯れ木にしか見えなかった諸般の体はロマンティックな白樺の木に戻りつつあった。諸般は歩く事が可能になり病院の仲をあちこちと歩き回れるようになっていた。大振はそれを喜んだが、しかしその一方で不安になった。諸般は入院中一度もピアノに触れようとしなかった。それどころか演奏会の話をする事を極端に避けた。大振はこれを最初は病気で弱っていてピアノを弾く体力がないせいだと考えていた。しかし諸般は完全に動けるようになった今もピアノに触れようとしない。大振は諸般とのコンサートが間近に迫っている事をふと思い出し一刻も早く稽古を始めねばと焦った。

 大振はいつものようにお口あーんと甘えてくる諸般に向かって病気はほとんど治ったのだからピアノの稽古をせぬかと言った。しかし諸般はピアノという言葉を聞いた途端顔をこわばらせ頑として首を横に振った。

「ピアノを弾けだって?なんてことを言うんだい!今の僕にピアノなんて弾けるわけがないだろう!」

「何故ってお前はピアニストだからではないか!ピアニストならピアノを弾くのは当たり前だろう!」

「ああ〜!君まで僕を苦しめるのか!今ピアノなんか弾いたらホセに毎夜ロマンティックに回された日々が思い浮かんで僕を発狂させてしまうじゃないか!お願いだよ!二度とピアノの事は口に出さないでおくれ!」

 ああ!諸般の病はまだ癒えていなかったのだ。ホセに毎夜ロマンティックに回されていた日々。その恋人の裏切りがこれほど彼を苦しめるとは。大振現実から逃げようとする諸般に自身の失恋を重ね、痛ましい思いで彼を見ていた。大振もイリーナにさられてしばらくこのような状態であった。度々クラシックもオーケストラも全て投げ捨てたいような衝動に駆られた。コンサートの時はいつも逃げ出したい思いを抑えながら指揮棒を振っていた。だが大振は見事そこから立ち直った。イリーナは今もなお彼を苦しめるが、彼はその絶望を乗り越えるにはクラシックをやり続けるしかない事を悟り、そして見事絶望を乗り越えたのである。それに引き換えこの男はと大振はピアノを弾きたくないと子供のように駄々をこねる諸般に怒りすら覚えた。この甘ったれめ、所詮こいつもバカメリカン。子供のころから人口着色料のキャンディーをたっぷり嘗め回してきた連中。こいつを無理やりピアノにくぎ付けにして一から芸術の厳しさを叩きこんでやりたい。大振は甘ったれの諸般に叩きなおしてやろうと拳を握りしめた。だが、大振は目の前の涙に濡れる諸般を見て拳を下ろした。いや、だめだ。このロマンティックなまでに絶望に沈んでいるこの男にそんな事をしてはだめだ。諸般に今必要なのは優しさだ。天国から差し伸べる手だ。俺がこの男に手を差し伸べねばならないのだ。大振は諸般に手を差し伸べた。

「諸般、この手をとれ」

 諸般は大振が神々しく見えた。その姿は闇を照らす一閃の光であった。だがその光は失恋のショックで現実から逃げてしまった彼を呼び戻すには不十分であった。

「でも、でも僕はダメだよ。僕は君みたいに強くないんだ。この諸般リストはちょっとチカラを入れたらポキリと折れてしまう繊細なほどロマンティックな小枝なのさ。僕はもうピアニストなんかじゃない!もう何もできないんだ!」

「バカヤロウ!」と大振は諸般に向かって叫び、そして彼を熱く抱擁した。

「なんて甘ったれ野郎なんだ!全くお前は俺がいないと何も出来んのか!何が僕はピアニストじゃないだ!なにがもう何もできないだ!俺がいるじゃないか!俺がお前を苦しめている過去を残らず消してやる!さぁ、俺と共に立て!俺とお前の協奏曲で過去なんか吹き飛ばすのだ!」

 諸般は大振に強く抱かれて恍惚となった。彼なら自分を絶望から救ってくれると思った。ああ!言葉にならない感情は涙となってナイヤガラの滝のように流れる。諸般は大振に抱きついて激しく号泣した。その諸般を抱いていた大振もまたこの哀れなるロマンティックな子羊を思って号泣した。ああ!この二人の号泣の二重奏はどれほど病院を震わせただろう。病院内のあらゆる医療機械は故障し、軽病患者も重病患者も入院者は全員危篤状態に陥ったが、二人の守護神たる音楽の神の計らいで何とか命だけは食い止めた。

金箔の記者会見

 カリスマ指揮者大振拓人とロマンティックピアニスト諸般リストが行方不明になってから十日ほどたった頃、突然各マスコミに向けて成田空港のホテルで記者会見の通達が出た。マスコミはあまりに突然の事態に驚きざわめいた。大振と諸般は行方不明になってから各所で取り沙汰された。週刊誌に載った病院での大振と諸般の仲睦まじい様子、そこから当然出た二人の関係への憶測、諸般の体調の事、そして日にちが迫ってきた二人の共演コンサートの曲について。もう日本だけでなくて世界中が二人に注目していた。二人の故国である日本とアメリカは勿論、クラシックの本場であるヨーロッパ各国でさえ自分の国の演奏家を完全に脇にのけて総力を挙げてこの二人を取り上げていた。そこにこの記者会見である。私は何度も書いているがカリスマ指揮者大振拓人にとって記者会見とは演奏会の前哨戦であった。大振の演奏は記者会見の席ですでに始まっているのだ。あの強烈な自己アピールも全てが大振拓人の指揮であり演奏であり芸術であるのだ。だが今回は明らかに何かが違っていた。あの成田空港での倒れた諸般を担いだ大振のフォルテシモなまでに見事な脱走劇、そして数日後に病院で見た大振と諸般の仲睦まじい様子。会場に集まったマスコミは今回の記者会見が極めて異例なものになると確信した。

 記者会見場は妙に静まり返っていた。記者会見場にやってきたマスコミ各社はまず大振と諸般が座るテーブルの後ろに立ててあった金箔の屏風にデカデカと二人の名前が書かれてあるのを見て驚いた。それがまるで婚約会見のように見えたからである。二人は犬猿の仲で、今回の共演だって奇跡だとさえ言われていたのにいつの間にかそんなに深い関係になっていたとは。いや、もしかしたら二人は自分たちの関係を隠すためにあえて周りに仲が悪いように見せていたのかもしれない。だとすれば自分たちは二人に一杯喰らわされたということか。マスコミはもはや芸能人の婚約発表のような雰囲気が充満している会場の中で固唾を飲んで二人が現れるのを待った。

 間もなくして司会者が現れてもうすぐ記者会見が始まることを告げた。それを聞いたマスコミは一斉に二人の座る席を見た。間もなくあそこに大振と諸般が現れるのだ。一体二人は我々にどう話すのか。マスコミは固唾を飲んで二人の登場を待った。

 その時突然会場が眩しく光った。だがそれは決して会場を照らすライトのせいではなかった。あの二人が、そう今回の記者会見の主役である黒き燕尾服を身につけた大振拓人と、純白のドレスのような長いジャケットを着た諸般リストがまるで結婚会見のように現れた二人が眩しかったからである。会見場に現れた二人は尊いほどに輝いていた。このような輝きを持つ人間は古今東西探しても一人しかいない。この現代のWイエス・キリストの登場はフォルテシモでロマンティックな衝撃を会場内に、そしてその会場から中継するカメラを通して全世界に与えた。

 世界中の人々がこの二十一世紀のW救世主の登場に歓喜した。二人の存在はジェンダーの彼岸のさらに先で新しき人類のゆくべき道を指し示していた。その二十世紀の救世主たる大振と諸般が行う演奏会の記者会見を仕切る司会者はまるで神父のような厳かさでマスコミに質問の挙手を促した。マスコミはいつもの大振の記者会見とまるで違うこの厳粛な雰囲気に飲み込まれそうになるのに耐えながら各自恐る恐る手を挙げた。

「最初にご指名いただいてありがとうございます。私は○○新聞の○○と申します。さっそく質問に入ります。まずお二人にお聞きしたいのですが、何故お二人は成田から失踪したのでしょうか。そして今の今までどこに雲隠れしていたのでしょうか。この件は我々マスコミだけでなく、全世界のクラシックファンが知りたがっていることです。差し支えなければお教えいただけないでしょうか?」

 こののっけからの無礼な質問に大振りと諸般はぎょっと顔をこわばらせた。大振は傍らにいる諸般を思って激しく憤り、記者を睨みつけて立ち上がろうとした。しかし諸般はその大振を手で制して記者に向かって語りかけた。

「それは全部ボクのセキニンです。決してタクトのせいじゃない。正直にいいます。ボクはアメリカでのトラブルのせいで精神的に追い詰められてロマンティックどころか日常生活さえも満足に過ごせる状態じゃなかった。でもタクトから日本で共演しようって誘われて、引退するならグランパパの故郷のジャパンにしようと最後のプレイのためにジャパンに来ました。だけど成田でもトラブルに襲われてしまったんです。ボクはそのショックでその場に倒れてしまいました。その僕を近くのホスピタルに連れて行ってくれたのが、今ボクの隣にいるタクトです。ああ!タクトはずっとボクに付き添ってくれた。セルフィッシュなボクの要望を全部聞いてくれた。タクトがいなかったら今ごろ僕はエンジェルたちを相手にロマンティックしていたかもしれない。タクトがいたからこうしてボクは戻ってこれた。タクトがいたからボクは今こうして生きていられる。タクトこそボクのキリストです」

 諸藩がこう喋り慣れぬ日本語で大振に対する感謝の弁を述べると会見場は拍手に包まれた。会見の中継を見ていた世界中の人々もまた涙とともに拍手した。その拍手に諸般は感極まって号泣してしまった。全く予想外であった。大振拓人の記者会見がこれほど感動的な暖かさに包まれるとは。いつも緊張感だらけの、しかも今回は前回乱闘寸前までいった諸般リストとの記者会見なのに。大振は泣き崩れる諸般を抱きしめて皆に呼びかけた。

「皆さん、この諸般リストに盛大な拍手をお願いします!天に轟くほどのフォルテシモな拍手を!」

 この大振の呼びかけに会場だけでなく、会見を各メディアで観ていた全世界の人々が一斉に拍手をした。その拍手の音は地球さえ轟かせるほど大きなものであった。

 長い拍手の後で会見は再び質疑応答へと戻った。マスコミは度々互いに熱く見つめ合う大振と諸般にいささか照れながら質問をした。

「諸般さんに質問します。先ほど諸般さんはご自分がご病気だったと言われましたが、この記者会見に出てこられたという事はもうご病気は完全に治った。演奏にも全く問題はないと思ってよろしいでしょうか?」

 この質問を聞いて大振と諸般は苦難に満ちたリハビリの日々を思い出した。失恋のショックでピアノの弾き方まで忘れてしまった諸般。その諸般に自身の嫌悪するアメリカのブランドスタインウェイのグランドピアノまで買ってあげた大振。だけどそれでもピアノの弾き方を思い出せず鍵盤に触れようとさえしない諸般。何も出来ず虚しく時が過ぎていく中、大振は勇気を振り絞って諸般の手をとった。驚きのあまり目を剥いて大振を見つめる諸般。大振先生による手ずからの指導。大振の逞しい指に導かれて諸般はついに鍵盤に触れる。触れた瞬間何かが弾けた。頭の中でロマンティックな風が吹き荒れ音楽のミューズが降りてきた。諸般はロマンティックなミューズに誘われて激しく鍵盤を弾く。弾く鍵盤からはロマンティックに満ち溢れた宝石のような音たち。嗚呼、天才ロマンティックヴィルトゥオーソ諸般リスト今ここに復活す!

「これも全てタクトのおかげです。タクトが熱血指導してくれなかったら、僕はピアニストに復帰するどころかピアノの下敷きになってロマンティックにメイドインヘブンしていたでしょう。ボクは……ボクはタクトに感謝しても仕切れない……」

「いや、それは違うぞ諸般!」と大振が諸般を制して言った。

「それはすべてお前自身の中にピアノを捨てまいとする意志があったからこそなしえたことなんだ!お前にピアニストとして復活したいという意志がなかったら俺の体をベッタリ貼りついての手取足取りの濃厚な指導だってなんの意味もなかっただろう!俺はここでお前に言うぞ!俺もまたお前のように深く傷つき長い間絶望を彷徨っていた。だけどお前とこうして肌を合わせるが如く深く濃厚に付き合っているうちに自然に俺の絶望まで癒されて言ったのだ!諸般!俺の方こそお前に感謝したい!俺たちは二人で一緒にこの絶望から救われたのだ」

 と言った途端大振は声を上げて泣き出した。このカリスマ指揮者の突然の号泣を見てマスコミは驚いた。鬼の目ならぬ大振の目にも涙である。あのカリスマ指揮者大振拓人がカメラのここまで無防備に自分を晒すとは。今大振りは諸般と共に抱き合って泣いていた。会場のマスコミや記者会見を各メディアで観ていた人々もこの美しき二人の抱擁に熱い涙を流した。二人の泣き声はロマンティックな調べとなり、フォルテシモに響き渡った。ああ!なんと感動的なのだろうか!かつてあれほど憎しみ合った二人が世界中の人々が頬を赤く染めるほど熱く抱き合っているなんて!会場のカメラマンが抱き合う二人を激写しまくる!この記者会見を観ている世界中の視聴者もまた二人の姿をスマホや、あるいはPCからキャプチャーしまくり、この伝説の瞬間をとらえたのだった。

 そうして感動の場面が終わり皆が静まると記者会見は再開された。指名された記者がコンサートの開催日と開催地について聞くと場内どころか世界中が騒めいた。この二人の愛のコンサートはきっととんでもない事になる。興奮した一人の大振ファンらしき女性記者が二人の答えを待ちきれずに立ち上がって大振と諸般に向かって尋ねた。

「当然会場は武道館ですよね!プログラムはもう決まっているんですか?大振さん教えて下さいよ!」

 大振が記者会見のルールに厳密で、それに反した人間を男女平等に絞首刑にしかねない人間である事をよく知っている司会者は慌ててこの礼儀知らずの記者をキツく注意した。しかし大振は意外も記者の無作法を笑いながら許したのだった。

「おい司会者。晴れの記者会見で声を荒げて彼女を叱るな。彼女は僕らのコンサートを待つ全世界の人々の気持ちを代弁しているんだから」

 会場の記者たちはこの無作法までをも寛大に許す大振に悟りを開いた釈迦の姿すら見た。今の慈愛の人となった大振から想像できないが最近までの大振はいくら女性であってもマスコミの無作法は許さなかった。女性であっても頭ポンポンやってあげる感じで甘やかしたりしなかったのである。だが今の大振はLGBT時代の救世主にふさわしい真の慈愛を持って記者に接しているのである。大振は女性記者に向かって微笑み、そして諸般をチラリと見てから質問に答えた。

「君のいう通り開催は武道館で行うつもりだ。そしてコンサートのプログラムの事だが僕と諸般の共作をメインにしようと考えている。あとはそれぞれ自分の演奏曲をやるかどうかだが、それはまだ……」

 と、大振が話している時、諸般が突然タクトと大振に話しかけた。

「タクト、ソーリー、お話の最中だけど、ボク今プログラムについて一つ考えを思いついたんだ。ボクとタクトは随分前にコンサートで初共演したけどその時二人とも意地を張りすぎてコンサートを無茶苦茶にしてしまった。あの時僕もタクトも互いを意識しすぎてクレイジーになりすぎていたんだ。ボクはあのコンサートのリベンジがしたいんだ。勿論君との共作は演るよ。だけどその他の曲はあのコンサートと同じにしたいんだ。あのコンサートの第一部は確か君がグランパパの国に帰ってきた僕を歓迎するためにドヴォルザークの新世界の第二楽章を演奏し、それに対して僕がリストのピアノソナタを演奏するってプログラムだった。僕はそれのリベンジがしたいんだよ。本当に意味でグランパパの国に帰ってきた僕を君がドヴォルザークの新世界で歓迎し、僕がそれをリストのピアノソナタで応える。ああ!最高じゃないか!」

 この諸般が歓喜の表情で出した提案を聞いて大振は急に暗い表情になった。ドヴォルザーク、ずっとこの忌むべき名を避けてきたのにまさか諸般からその名を聞かされるとは。

「……お前の言う通り確かに俺たちはあの恥ずべきコンサートのリベンジはしなければならぬ。だが、今の俺にドヴォルザークは振れぬ。俺はドヴォルザークをワンフレーズでも聴くとどうしても苦い過去を思い出してしまうのだ!」

「タクト」と諸般は頭を抱えてうなだれた大振に向かって呼びかけた。

「ダメだよタクト。君のような強い男が現実から逃げちゃ。君は言ったじゃないかアートは苦悩を乗り越えて生まれるものだって。君も苦悩をアートで乗り越えなきゃダメだ。ボクも君の力になってあげるから。一緒に二人で苦悩を乗り越えて最高のアートを作り上げようよ!」

「諸般!俺は!俺は!いいさやってみるさ。俺はお前のためにドヴォルザークを振ってあの忌まわしい過去を芸術へ昇華させて見せる!もう俺は過去に立ち止まったりしない!真の天才大振拓人としてお前と一緒に最高のコンサートを演って見せる!」

 新時代の救世主たちはまたしても号泣して抱き合った。その神聖なる抱擁に会場にいた記者たち、そして全世界の住人たちは一斉に号泣した。ああ!この無常な現代の世に奇跡が起きるとは。二人の抱擁は新たなイエスの復活であった。きっと神は現代人に救いを与えるために二人を地上に遣わしたに違いない。大振は諸般を抱きながらカメラに向かって力強く言った。

「僕たちのコンサートは間違いなく伝説となるでしょう!バッハもモーツァルトもベートーヴェンもカツラを脱いで地肌を晒すほど感激するような、チャイコフスキーもブラームスもいけないものまで流して号泣するような、マーラーもドビュッシーも濡れたハンカチを見て顔を赤らめるような、そんなコンサートになるでしょう!その日を楽しみに待っていてください!」

両雄愛並び立たず

 記者会見を終えた大振と諸般はその日のうちに東京へ戻った。もはや一国の猶予もならぬ。早く自分たちのピアノ協奏曲を作り上げなければならない。大振は成田で諸般を出迎える前にすでに協奏曲を仕上げていた。しかしそれはあくまで諸般への憎悪のみによって作られたものであった。だからもうそんなものは捨てて一から作らねばならぬ。ああ!この諸般と一緒に!今の大振は心から諸般との共作を望んでいた。天才大振拓人が他人と分かち合いたいと願ったのは初めての事であった。神の如く自分以外を見下していた大振。だが心のどこかで密かに友を求めていたのだ。今その友は後部座席の隣で寝そべっている。ああ!早く東京へ、東京へ行ってこの最愛の友と芸術を分かちあい最高の作品を仕上げねばならぬ。大振と諸般を乗せた車は後から騎馬隊のようについてくるマスコミの車を振り切って翼を広げるが如く鮮やかにフォルテシモタクトプロダクションのビルの地下駐車場へと入って行った。社員達が車の前に勢ぞろいして自分を出迎えているのを見て大振はまだ眠りについていた諸般の肩を叩いた。諸般は目を覚ましうつろな目で大振を見た。の諸般に向かって大振は言った。

「さぁ、今から俺と一緒にフォルテシモホールに行こう。そこで作り上げるのだ。俺たちの最高傑作を!」

 しかし大振と諸般の共作は手を付け始めた途端暗礁に乗り上げてしまった。理由はありがちな話だが、二人の芸術家としてのプライドが原因である。芸術家という人種は芸術こそが全てである。芸術を愛し、芸術を生み、芸術と共に生きる者たちである。だから普段どれほど仲のよい友人同士でも、いざ共作を始めたたら、途端に仲間割れする事が良くある。真の芸術家は妥協というものを知らない。たとえそれで自分たちの友情が壊れたとしても、そして相手の命さえ奪ったとしても、それでも芸術家は己が芸術のためにエゴを貫くのである。

 魂よりも遥かに深く結ばれた大振と諸般もまた、己がエゴをむき出しにして互いの芸術をかけて言い争っていた。

「諸般!貴様は何度言ったらわかるのだ!ここはオーケストラでフォルテシモしなくちゃならんのだ!それをピアノでロマンティックに廻されたら曲は甘ったるさで崩壊してしまうではないか!」

「タクト!何を言っているんだい!この部分はサーキュレーターで靡く僕のの髪のようなロマンティックなピアノがベストなんだ!君の激しく怒張するフォルテシモなオーケストラじゃ固すぎて曲としてとても成り立たないよ!」

 二人はこうして共作を始めてから互いの芸術観に深刻な相違がある事を徹底的に思い知らされた。世間では同じロマンを信奉すると云われる二人であるが、その二人のスタイルは甚だしく相違していた。それは二人とも最初からわかっていた。だが、二人は共にロマン派を信奉し、それぞれフォルテシモな指揮や、ロマンティックなピアノで己がロマンを最大限に表現していた。そして何よりも二人は互いにまるで兄弟が夫婦のような強い絆で結ばれ、その絆の力で価値観の相違など乗り越えるどころかむしろそれが合わさった相乗効果で驚くべき傑作が生まれるのではないかと思っていた。しかしいざ共に創作を始めた途端、二人は自分と相手の芸術家としての核の部分そのものが相容れないものである事に気づいてしまったのである。大振と諸般はそれぞれ自分と相手が書き上げた楽譜を見比べてゾッとしたのだった。共作は間違いなく失敗すると。

 大振と諸般の共作を巡っての争いは激しすぎる言い争いと、愁嘆場の後の一時的な仲直りを何度も繰り返し、ついに決定的な決裂へと至ってしまった。二人はもはやフォルテシモホールで顔を合わせることがなくなり、それぞれ自分が演奏するプログラム曲の練習をするようになった。諸般は大振への友情などすっかり忘れ切ったが如く閉め切ったホールで一人ただリストのピアノソナタをロランティックのかけらもなく弾き、大振に至っては元々避けていたドヴォルザークの演奏を決裂した諸般のために演奏することを憤然と拒否し、代わりに諸般への当てつけか、自ら編曲したショパンの『葬送行進曲』のオーケストラ版をフォルテシモタクト・オーケストラに演奏させる始末であった。


 この二人の決裂の噂はコンサートの関係者の間に瞬く間に広がってしまった。コンサートを主宰するレコード会社のイベント担当は真偽を確かめるために何度も大振の事務所を訪ねたが、警備員がわんさかやって来て面会謝絶だと言われて追い出された。もうコンサートの正式発表までいくらもない。武道館はとっくに抑えたし、チケットの販売のために準備も済ましてある。そして今回のコンサートのためにわざわざ来日する各国首脳と財界人のために宿泊施設の手配をかけている所だ。そんな状況でコンサート自体が中止になったら。ああ!なぜなのだ!記者会見の席であれだけイチャイチャしていたのに。男も女も七色の愛に旅立とうとしている二人を祝福していたのに。どうして突然決裂などしたのだ!ああ!このイベントを成功させたら自分は間違いなく取締役に昇進できたのに!もう終わりだとイベント担当は頭を抱え込んだ。しかしその時例のあのプロモーターがひょっこりと目の前に現れたのである。

「ゲヘヘヘ、そろそろ私の出番かと思いましてね。お困りごとはなんですか?よかったら私が忽ちのうちに解決してあげましょう」

「何が解決してあげましょうだ!今までどこをほっつき歩いていたんだ。大振と諸般が失踪した時から何度もあんたに連絡したのに!」

「ほっつき歩いていたとはなんと人聞きの悪い。私はあなた方からいただいた金で借金を全てチャラにしようと固く決意してラスベガスに向かったんですよ。だけど私の計画は悪の天才ギャンブラーが仕組んだ罠にはめられて見事崩壊してしまったのです。結局私は有り金全部掏って借金を増やしただけでした。というわけで私は今すぐにでも金が欲しいのです。どうせ大振と諸般のことでしょ?アメリカでも二人は大きく取り上げられていましたからね。やはり二人は結ばれるべくして結ばれた音楽の兄弟。その二人のコンサートはきっと全世界中の人々を驚愕させるものになるでしょう!その二十一世紀の奇跡となろうコンサートは絶対に行わねばならない!」

「やかましい!今はアンタのくだらんおしゃべりに付き合ってる暇なんかないんだ!何がギャンブルで金を掏っただ!全くしょうもない!」

「何を言うか!黙るのはあなた方だ!寄りにもよって大振を救った恩人の私を怒鳴りつけるとは!恩人の話は最後までありがたく拝聴するのが礼儀であろう!で、困りごとはなんだんだ!さっさと言わんか!」

「これは申し訳ない。じゃあお言葉に甘えて言わせてもらいますよ!実はアンタの大振と諸般が喧嘩して決別してしまったって噂が流れてるんですよ。我々も最近それを知って大振と諸般に何度もコンタクトを取ろうとしているんですが、全く取れない状態でどうやら噂が真実だって確信しましたよ。だけどこのままコンサートがご破算になったら俺はどうしたらいいんでしょうか。せっかく取締役への道が開かれたと思ったのに、もう完全に首じゃないですか!」

「バカ者が!」とプロモーターは部屋が震えるほどの声でイベント担当を一喝した。

「お前はこんな事態になってもま~だ自分の出世が大事か!そんな事だからあの二人が喧嘩別れ死してしまった事にさえ気づけないんだ!いいか!あの二人は天才なんだ!天才って人種は我々のような凡人とまるで違う存在なんだ!だから我々が大したことのないと思っている事でさえ、天才たちは互いに譲らず相手どころか自分さえも傷つけかねないまでに激しく争うのだ!このあきれ果てたバカどもが!さっさと俺にラスベガスの借金分の小切手持ってこい!それで二人を仲直りさせてやるから!」

 非常に鋭い指摘と畳み掛けるような多額の金額のおねだりコンボにレコード会社のイベント担当はまたもや転がってしまった。彼はその場で幹部連中に泣きつきプロモーターの借金分の金額を引き出すことに成功した。もうこのコンサートを実現させるためだったら、詐欺師にだって魂を売ってやる。そんなやけくそ状態でプロモーターにお金と共に全てを託してしまったのである。

 イベント担当は小切手を貰うとすぐさまフォルテシモタクトプロダクションのビルへと駆けた。もう一刻の猶予もなかった。大振と諸般を救うために駆け付けなければならなかった。それは大振と諸般のためだけではない。コンサートに関わったすべての人々のためであり、二人のコンサートを待つファンのためであり、何よりも自分の命のためであった。ラスベガスで散々むしられた金。それを返すためにいろんな所から拵えた借金。昨日きた最終通告『はやく返さないとFBIと日本警察に訴えるよ』。大振ファンに混じって出待ちしている自分のコスプレをした男たち。ああ!もう早くしないと俺は破滅だ!

 地下の静まり返ったフォルテシモホールの中央に備えられたテーブルの両側に大振と諸般が向かい合わせに座っていた。二人とも深刻な顔で俯き、その二人の前には一枚の紙があった。その二人の周りをオーケストラの面々と事務所のスタッフたちが囲んでいる。ホールにはすすり泣きの声がそこら中から聞こえた。きっと泣いているのは大振と諸般を囲んで立っているだれかだろう。大振と諸般は同時に顔を上げた。

「もう、俺たちは終わりだ。金は融通してやるから早くアメリカに帰るがいい。あとは俺が全て責任を持つ」

「タクト、君の申し出はありがたいけど、それは受け取れないよ。僕は一人で帰るさ。君と過ごした時間は短かったけどとても有意義なものだった。君の活躍を神に祈るよ」

 この諸般の言葉を聞いた大振は憮然とした顔でテーブルの上の紙を諸般に突き出した。

「ならば、さっさとそれにサインをせんか!」

「君はホントにせっかちだね。言われなくたって書くさ」

 この二人の別れにオーケストラの面々はたまらず号泣した。諸般と練習をしたのはほんの短い間だったけどその間大振は奇跡的に優しかった。だけど今諸般に去られたらまた昔の暴虐皇帝の大振拓人に戻ってしまう。しかしそれと同時に彼らは大振の事を思った。せっかくまともに友達、いやそれ以上の関係と呼べる人間と出会えたのにこんなにあっけなくそれが失われてしまうなんて。ああ!何事もなくコンサートが開かれたら二人はどんな演奏をしていただろう。だがそうそれは望むべくもないのだ。

 諸般は手元のケースから駕ペンを取り出した。そして大振を見た。大振はさっきのように憮然とした顔だったが、少し表情が震えているようだった。諸般はこれで今生の別れだと駕ペンを握りしめ自分の名前をサインしようとした。しかしその瞬間どこからかそれにサインしてはならぬという天からの声が聞こえてきたのである。諸般は手を止めて大振を見た。しかし大振もまた天からの声に驚いているらしくキョロキョロとあたりを見回している。

「おい、警備はどうなっているのだ!外部のものは一匹たりとも入れてはならぬ。もし見つけたら人間も含めて生物はすべて殺処分しろとあれほど言いつけておいたではないか!」

 大振はそう周りの人間を怒鳴りつけながら必死に侵入者を探した。この俺の神聖なるホールに入ってきた無礼者。この俺自身がフォルテシモに打ち殺してくれる。

「ああ!あの人は!」

 と、突然諸般が叫んだ。大振は不法侵入者をとっちめてやろうとして指揮棒をフェンシングのサーベルに変えて振り向いた。

再び現れた救世主

 そこにはなんとあのプロモーターがちょこんと立っていたのだった。この久しぶりに登場したゲス男を見て大振は大激怒した。神聖なフォルテシモホールに土足で入ってきたのがこんなゲスな人間で、しかも寄りにもよってこんな時に侵入してきたことに。大振は殺してやるといきり立って指揮棒をプロモーターに突き付け、そして串刺しにしようとした。しかし諸般は自ら身を投げ出してプロモーターを守った。

「タクト、早まってはいけないよ。この人はゴッドだよ!」

「何がゴッドだ!こんなインチキな奴がどうして神なんだ!さあどけ今からこいつをバーベキューみたいに突き刺してくれるわ!」

「息子たちよ!私は父だ!」

 大振は突然叫ばれたいつかのキリストそっくりの声に驚いてすぐさまサーベル代わりの指揮棒を下ろした。そして無意識に膝を屈して頭を下げていた。諸般も同じように膝を屈して頭を下げた。その二人に向かって何故か光り輝きだしたプロモーターはこう聞いた。

「息子たちよ、何故に別れようとするのか。お前たち兄弟は音楽のミューズの使命を受けて地上に降り立ったはず」

 大振はプロモーターに答えた。

「偉大なる父よ。いくら兄弟といえ私たちの芸術観は水と油なのです。これはどうしても埋められないのです。無理矢理埋めようとしたらもうフォルテシモもロマンティックもない惨めな作品しか仕上げられないでしょう。そうなる前にいっそ」

「ゴッドファーザー、僕もタクトと同じです。僕たちがこのまま一緒に曲を作り続けたら曲どころか互いまで殺し合わなくてはいけなくなります。そうなる前に別れるべきなのです。悲しいですがそうするしかない。僕らは不幸なことに反発する両極だったのです」

 プロモーターは二人に向かって静かに首を振った。そして全身から神々しい輝きを放ちながらこう告げた。

「息子たちよ。そなたらは互いにそりあえないから一緒に曲が書けないというのですね?しかし息子たちよ、それは間違っています」

「間違いですと?」

 大振と諸般が二重奏で放った問いに、この絶賛神演技中のプロモーターは慈悲の目ですっかり息子と成り果てた大振と諸般を見つめこう述べた。

「そうです。息子たちよ、そなたらは間違っているのです。何故ならそなたらはすでに傑作を天に捧げているからです。あのような傑作は二度と作れるものではありません。どんな天才でも生涯に一曲しか作れぬものなのです。それがこの神曲なのです!」

 そういうとプロモーターはポケットから七色に光るバルミューダーのスマホを取り出して大振と諸般に翳した。するとスマホのYouTubeの画面から古代めいた雑音と共に綿菓子よりも甘いオーケストラと、チョコレートをトロトロにかけたような同じぐらい甘いピアノが流れてきたのである。このフォルテシモでロマンティック曲は紛れもなく……。二人はスマホから流れてきた神曲を聞いて一瞬にしてそれが自分たちの曲を合わせたものだということに気づいた。この音源は確かに聴いたことがある。確か!大振はプロモーターに尋ねた。

「その曲は先日あなたが聴かせてくれたもの!だがしかしその曲はどっかのネット愚民がいたずらで私の究極の傑作交響曲第二番『フォルテシモ』と諸般のロマンティックなピアノ曲をただ合わせたものではないですか!これが神曲だとあなたはおっしゃるのですか!そうだとしたらあなたは私たちを完全に侮辱している!」

「ファーザー。タクトの言う通りです。あなたはボクたちがネットのおふざけより劣ると考えているのですか!僕の至高の傑作ロマンティックピアノソナタをなんだと思っているんですか!」

 その二人の不平に対してプロモーターは「そうではない」とエコーかかりまくりの無駄に厳かな声をあげた。

「この曲は神が音楽の兄弟であるそなたらに贈りしもの。神はそなたらを結びつけるために天使を遣わしてそなたらの魂であるこの二つの曲を結びつけたのだ。そなたらの作りしこの二つの甘い、まるで歌謡曲……いやバカにでもわかる偉大なる芸術作品は二つで一つなのだ。どちらが欠けてもこの芸術作品は成り立たぬ。そなたたちもまた二人で一人。互いなくして存在すらできぬ。よいか息子たちよ、そなたたち二人でこの神が結び付けてくれた曲を演奏せよ。そなたたちが真の音楽の兄弟としてこの曲を演奏する姿を神はお望みなのだ」

 大振りと諸般はこの相当神ってるプロモーターの手を取り泣きながら誓った。

「ああ!偉大なる父よ!演奏して見せましょうとも!この僕らの曲は二つで一つ。そのことに今やっと気づきました。ああ!どうして気づかなかったのか!思えば一人で曲を作っていた時ずっと何かが欠けていると思っていた。だが父よ、あなたの言葉ではっきりとわかったのです。この曲は僕らが二人で作るものだってことを!ああやりましょうとも!この曲を来るべき武道館コンサートでで全世界の人々に聴かせましょうとも!」

 二人は二重唱のようにそろってこう誓った。その誓いはなんと甘美だったろうか。今まで互いが音楽の兄弟であったことに気づかず、不幸にも憎しみ合っていた二人。だがその二人が葛藤をへてついに一つになったのだ。もう二人は肉体以外はすべて一つであった。あとは肌さえ触れ合えば完全に一つなれた。ああ!二十一世紀最高の芸術家にして、世界で最も美しいカップルよ!御覧二人の前には七色のライトが光るよ!あの七色のライトは未来を照らすLGBTの光だ!

「で、息子たちよ。この曲になんとタイトルをつけるのじゃ。私はベリースィート、ベリーハーモニー協奏曲なんていいと思うのだが。この曲の歌謡曲……いや、バカにでもわかるタイトルをつければもう演奏した瞬間から曲は大注目!CDとかサブスクで発売されたらオリコンどころか、ビルボードトップは間違いなし。韓国アイドルなんぞ軽く蹴散らしてしまうだろう。どうだ?結構イカすじゃろ。このタイトルをつけたいのなら私を共作者の中に入れるのじゃ。印税の振込先は後で教える。ほれどうじゃ、ほ……な、何をする息子たちよ!私はお前たちの父だぞ!」

 すっかり我に返った大振と諸般は神父みたいな恰好をしているプロモーターを二人でボコボコに殴り始めた。

「うるさい何が父だ!貴様はいつ間にかなんで神職者みたいな恰好してここにいるんだ!さっさとこっから出てうせろ!」

「へっ?お二方さっきまで私のひざ元で泣いていたじゃありませんか!それなのにこの仕打ちはひどすぎる!」

「何が酷すぎる仕打ちだよ!変な格好して勝手に僕たちのサンクチュアリに入って来ないでくれる?ああ!どうしてくれるんだよ!君が突然乱入したせいでゴッドファーザーが消えてしまったじゃないか!」

「そのゴッドファーザーは実は私でして……」

「何が自分は神だ!貴様には不敬という概念がないのか!無礼にも不法侵入するだけでは収まらず自分を神だとまで自称するとは、全く呆れるにもほどがある!いいか!首にされないうちにさっさと出て失せろ!……おっと待て。出ていく前に協奏曲のタイトル今思いついたから教えてやる!俺と諸般の協奏曲は『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』だ!今すぐ関係各所を回って触れ回っておけ!天才大振拓人と諸般リストの初共作、初演奏の新曲は『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』だとな!」

「ひいい!くわばらくわばら!命だけはお助けを!マエストロ!ヴィルトゥオーゾ!今すぐ関係各所に協奏曲のタイトル伝えて参りまする!」

 大振の大喝を浴びたプロモーターは鼠の如く逃げ出した。大振はその惨めったらしい後姿を眺めていたがふと不意に我に返り諸般の方を向いた。諸般は目を剥いて彼を見つめていた。その諸般の表情を見て大振はすぐさま思わぬことを口走ったと謝ろうとしたが、諸般は大振が口を開く前に歓喜に目を潤ませてこう叫んだのだ。

「今言ったのが僕たちの協奏曲のタイトルかい?最高のじゃないか。ああ!僕と君から生まれた曲がフォルテシモ&ロマンティック協奏曲だなんて素敵じゃないか!どこまでも僕たちを表わした素敵なタイトルだよ。フォルテシモ!ロマンティック!ああ!世界の人々の喝采が聞こえてくるよ!」

 大振はこの諸般の言葉を聞いて感極まって号泣した。諸般もまた号泣していた。この神が地上に生みし音楽の兄弟たちは今ここでようやく一つになったのである。二人の涙の二重唱は甘すぎるほど感動的で、号泣して抱き合っている二人に感動している泣いている周りの人間の歯さえも溶かしきっていた。彼らは二人の感動的な抱擁を見て何故歯まで痛むのかわからなかっただろう。そして遠くない未来に自分が総入れ歯になってしまう事を予想だに出来なかっただろう。

 こうして様々な曲折を得てついにフォルテシモ&ロマンティック協奏曲へとたどり着いた二人はこの神からの授かりものをさらにブラッシュアップさせんがために曲の譜面を楽譜に起こし始めたのだった。二人のフォルテシモ&ロマンティック協奏曲は今までの困難ぶりが嘘のように次々と仕上がっていった。この我の強すぎる天才二人はなんと譲り合いの精神まで習得してしまったのだ。今まで電車の優先席で堂々と足を組んで座り何人たりとも、周りから冷たい視線を浴びても決して席を譲らないゼウスの如きエゴの持ち主てあった大振と諸般は今自らのエゴを天に捧げて共に神の曲の完成ために尽くしていた。「諸般、この部分はお前のピアノを中心にして俺のフォルテシモなオーケストラは背後にひっこめよう」「タクト、ここはボクのロマンティックなピアノがでしゃばる所じゃない。君のオーケストラが前面に出なきゃいけない」ああ!なんと素晴らしい共同作業か!きっと神は今まで離れ離れになっていた音楽の兄弟が今こうして二人で神曲を仕上げている所を目を細めながら見ているだろう!

 やがてこのLGBT時代最大の神曲『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』は完成した。諸般と大振は緊張感から解き放たれたのか神曲の完成と共に深い眠りに落ちた。熟睡している二人の周りには神からの祝福だろうか後光が差している。寝ている二人の周りにいたオーケストラの面々は二人のあまりの崇高な姿に思わず姿勢を正した。二人が完成させた神曲は三楽章制であるが、これはピアノ協奏曲では典型的な構成であった。天才の二人が作ったにしてはあまりにオーソドックスであるが、なんとこの構成を主張したのは大振である。大振は諸般のロマンティックなピアノを輝かせるために三楽章制を主張したのである。諸般はこれに感激したが、しかしそれだと大振のフォルテシモなオーケストラの見せ場が減ってしまうと疑問を投げかけた。その果てしない譲り合いの協議の結果、ラストの三楽章は大振の交響曲の第四楽章と、諸般のピアノソナタの第三楽章を合体させたものになった。こうして完成した第三楽章は一二楽章の倍となり、フォルテシモとロマンティックの壮大なソナタとなった。大振と諸般のそれぞれの楽想が平行に奏でられ、時に対立し、時に惹かれ合い、クライマックスで完全に総合するという構成だ。それは二人の友情、いや愛の軌跡をフォルテシモなほどロマンティックになぞったものである。また全演奏時間は二時間をゆうに超える大作であり、ピアノ協奏曲としては前代未聞のものであった。

神の子たちの奇跡

 大振拓人と諸般リストが協奏曲を完成させたとの報を受けてレコード会社とイベント会社はコンサートの開催の開催は可能と判断してコンサートの詳細とチケットの販売について協議に入った。それから間もなくして各マスメディアでコンサートの開催とチケットの販売が正式に発表された。大振と諸般の競演コンサートは記者会見で大振が宣言した通り武道館で行われる事になった。コンサートのタイトルはズバリ『フォルテシモ&ロマンティックな共演 日米の若き天才が奏でる七色の調べ!』である。完全に今のLGBT時代を象徴するタイトルであるが、今の世界でこの二人ほどこのタイトルにふさわしい人間はいないであろう。この神に選ばれし二人こそ人類を新しき道へと誘っていくのだ。

 チケットはまず先行分から発売されたが、チケットの販売の遅れのお詫びとして先行分のチケットに特典として大振と諸般の協奏曲『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』の楽譜ダウンロードサービスがついていた。先行分が発売された途端、日本だけでなく世界中のファンが殺到し0.0000000000001秒でチケット販売は終了したが、運よくチケットを購入できたものたちの中に例の大振と諸般のマッシュアップの動画の作成者もいた。彼女は早速楽譜をダウンロードしてそれを見たのだが、その楽譜の第二楽章の部分が自分のマッシュアップしたものとよく似ているのに驚いた。この事実はネットで早速広まり大振と諸般のパクリ疑惑さえ持ち上がったが、彼女は大振と諸般のために言下にそれを全否定しSNSでこう書いた。

『皆さん、偉大なる音楽家タクト・オオブリとショパン・リストへの中傷はやめてください。あの二人が私のマッシュアップ動画をパクったなんて出鱈目です。二人はアーティストとしてフォルテシモでロマンティックな霊感に導かれてあのような神さえも驚かしめる偉大な曲を書いたのです。その曲と私のマッシュアップが似ているのはタクト・オオブリとショパン・リストへを愛する私たちファンの思いが二人のフォルテシモでロマンティックな霊感とどこかで共振しているからでしょう!二人は現代に現れた神の子。私たちの前に現れたWイエス・キリストなのです!そのキリスト達が私たちの望んだ通りの曲を書いてくれたのに何故パクリなんて汚い言葉で批判できるのでしょうか!私は二人に曲をパクられたなんて思いません!ただこの神の子たちの奇跡をブドーカンで見守るだけです!』

 このマッシュアップ動画作成者がSNSでの発言はあっという間に各言語に翻訳されて大反響を巻き起こした。二人のファンはマッシュアップの投稿者を二人のイエスを結びつけた彼女を偉大なる母マリアと称え、自らが持つ全メールアドレスでもてる限りのアカウントを作ってフルパワーのグッドを押したのであった。一般のクラシックファンもまた彼女を寛大な精神の持ち主と称えた。楽譜から見ると大振と諸般のピアノ協奏曲の第二楽章は明らかに彼女のマッシュアップ動画が元になっている。彼女が第二楽章の元となったマッシュアップ動画を作成しなかったら、この二十一世紀の神曲も誕生しなかったであろう。世界中のメディアがアメリカに住む彼女にインタビューを申し込んだ。だが、アメリカ人としてありえないほど控えめな彼女はそれらのインタビューを全て断りこんなコメントを寄せた。

『皆さん、私は今タクト・オオブリとショパン・リストがブドーカンで神の奇跡を起こすまで沈黙を続けるつもりです。皆さんもその時まで、静かに二人を見守っていてあげて下さい』

 チケットの一般発売を前にして各メディアが一斉に大振りと諸般の特集を組み始めた。二人の馴れ初めをその最初の共演での出会いから、二度目の共演の為に来日した諸般が成田で倒れ、その介護を大振がしていたという感動エピソード。そして苦心の果て二人が産み落とした神曲ピアノ協奏曲の事までテレビ各局はドラマからニュースに至るまで全番組をとっとと休止して一日中大振と諸般を特集した。新聞も世間を揺るがすあの大事件を三面記事の隅っこ二載せ大振拓人と諸般リストのリハーサル記事を毎日一面にデカデカと載せた。SNSもまた大振と諸般の話題しか出てこなくなり、その他のニュースや世間の話題は全くなくなった。こうして世界は大振と諸般で満ち溢れその他の世間を揺るがす大事件はなかったことになり、世界は急に平和になったのだった。これも現代のWイエス・キリスト大振拓人と諸般リストが起こした偉大なる奇跡であった。

 さて、こうして各メディアが騒いだせいで大振と諸般の共演コンサートの一般発売のチケットはもはや一般大衆には手に入らないものになってしまった。各メディアがそろってチケットを買い占め、その残りっカスのチケットが申し訳程度に発売されたが、それもパイの奪い合いであった。しかも今回は海外からも大量のチケットの応募があり、一般の日本人は完全にのけ者にされていた。特に割を食ったのが、大振ファンの女子たちであり、彼女たちはチケットを購入した外国人の諸般リストファンを逆恨みし、拓人を私たちから奪うなと猛烈にディスった。外国人の諸般ファンもそれに対抗してリストを奪っているのはどっちだとディスり返した。ああ!つい先日までは大振と諸般の七色の光を浴びて一緒ににこやかに微笑んでいた者たちが、コンサートのチケット一つでここまで争うとは!やはり人間とはどこまでもエゴから逃れられないのか。互いのファン同士、いやそれぞれのファン同士までもがチケットを巡って不毛な争いをするようになった。チケットを手に入れられなかったレミゼラブルな人々は、チケットを手に入れたシンデレラな人々を猛然と攻撃した。ああ!このありさまを大振と諸般が知ったらどれだけ悲しむだろう。自分たちが発している七色の光の下ではこんなに醜悪な争いが繰り広げされているなんて。

 だがその時再びマッシュアンプ動画の作成者が登場してSNSにYouTubeのURLを貼り付けてこうメッセージを発したのである。

『迷える七色の子羊よ。愚かな争いはやめなさい。Wイエス・キリストのタクト・オオブリとリスト・ショパンがあなたたちを見て悲しんでいます。このマッシュアップ動画を見て自分たちの心がどれほど汚れているかイマジンしなさい。そして七色の心を取り戻しなさい。でなければ神の奇跡はあなた方の元には降りません』

 YouTubeにあったのはこのコメントが画面に貼りつけられたあのマッシュアップの動画であった。双方のファンはこのどこまで砂糖菓子のように甘い曲を聴いて自分たちの争いごとが愚かしくなった。ああ!私たちはなんて愚かだったの?二人の七色の愛の光を浴びながらどうしてこんなに醜い争いが出来たのだろう。彼女たちはみんなして自らの愚かしさを詫びた。


 そのコンサートの主役である大振拓人と諸般リストはそんな世間の大騒ぎをよそに今本番に向けての最後のリハーサルをしていた。ああ!この二人の兄弟は、この七色の絆で結ばれたもの同士は今真に一つとなろうとしていた。そそり立つ指揮棒とそれに呼応して鳴り出すピアノ。その愛に満ちた絡みはまるでギリシャの神々の睦まじい姿そのままであった。

 二人にもう迷いはなかった。あとは導かれるままにただ愛への道を走ればよかった。その先にはきっと七色の奇跡が待っているだろう。休憩中、大振はピアノの椅子にもたれかかっている諸般を見て微笑んだ。諸般もまた仁王立ちしている大振を見上げて微笑んだ。もうすべての準備は終わった。あとはコンサートを待つだけだ。


 そして大振拓人と諸般リストのコンサートの日がやってきた。今回のコンサートは音楽界どころか日本の政治経済を全てストップさせるほど話題になっている大振拓人と諸般リストの共演コンサートであった。だからマスメディアでは緊急情報をアラートで度々地方のものは東京に来ないでくれと警告を出していた。だがその警告もまるで効果がなかった。大振りと諸般の奇跡のコンサートを求める群衆は予想以上に多く、全国のレインボーマン、レインボーウーマンがが大挙して東京になだれ込んでしまったのだ。政府はその事態を受けて緊急事態宣言を発動し陸海空の交通機関はすべてストップさせ、チケットなしものは道路さえ歩けなくしたが、大振と諸般を求めるレインボーたちはそれに屈せず警官をぶち倒し拳を掲げて武道館を目指したのであった。これは革命であった。情熱のレインボー革命であった。ああ!七色の光は全てを自由にする。人種も、セックスも、すべて超えて愛へと向かうのだ。

 コンサート会場である武道館の周りのすでに封鎖されている九段下や水道橋やその他の駅の前ではチケットを購入できなかったレインボーたちのまとめ役たちがチケットを求めて通行人に暴行やチケットと引き換えに自分を捧ぐような行為をやめるように戒めていた。

「みんな聞いて!今から武道館で行われるのは拓人とリストの七色の光に満ちた自愛のコンサートなの。だから大人しくここで二人を見守りましょう!決して人からチケットを奪ったり、チケットの為におぢさんに自分の体を捧げるなんてことはやめて!せめて今日だけは聖母マリアのように拓人とリストを見守りましょ!」

 会場である武道館前は七色の光に満ち溢れていた。武道館の壁に四五メートルはあるのではないかと思われる巨大な大振拓人と諸般リストの肖像画が取り付けられていた。二つの肖像画の背景には七色の光が描かれており、これはまさに七色の祝祭の場であるこのコンサートに相応しいものであった。この二つの肖像画には一つ仕掛けが施されていた。なんと絵の取り付けられている壁を動かことで二人が向かい合わせになる仕様になっていたのだ。時報がなるとこの二つの肖像画はまるで互いを見つめるように向かい合わせになっていった。レインボーたちはその絵の徐々に向かい合わせになってゆく動きを見て大振と諸般のキスする場面を想像するのだった。

 その二人の照らす七色の光の下で全世界のレインボーたちは七色の衣装を纏ってピースフルな空間を作っていた。このレインボーたちは国籍や人種や性別を超えてただ人間としてここにいた。会場のグッズ売り場には七色に染め上げられた大振と諸般の顔写真が売られており、レインボーたちはそれを求めて我もと手を差し伸べるのであった。ああ!暴動が日常茶飯事の大振のコンサートでここまでピースに満ちた空間があっただろうか。この地球の最先端を行く七色のレインボーたちを見て、今まで大振を広告代理店の客寄せパンダ、あるいは公金チューチューの偽物とバカにしていたリベラルのインテリは己の考えの浅はかさを猛省した。そうしてピースフルな空間でピースフルに過ごしているうちに時間は進み、開場時間まであと少しとなった。

 するとどこからか大振の交響曲第二番『フォルテシモ』の第四楽章の歌謡曲……いや、バカにでもわかるほど芸術的な甘いメロディーが流れてきた。それと共にレインボーたちが一斉にあの大振の歌謡……いやバカにでもわかる崇高なる絶唱『抱きしめたい』を歌い出したのである。

「抱きしめた~い♬世界中のぉ~誰よりもぉ~♬あなたをぉ~♬はなしたくない~♬」

 この大振が自作の交響曲のコンサート中に自分の元から去ったイリーナ・ボロソワを思って即興で歌った失恋ソングはレインボーたちよって七色に光るWキリストを称えるアンセムとなった。会場前のものは勿論、会場の外の人々、さらに日本中にいるレインボーたちや、ネットを通して世界中のレインボーたちが一斉に『抱きしめたい』を唱和した。その時武道館の方から会場のアナウンスが鳴り響いた。これを聞いたすべてのレインボーは整然と列を作って粛々と入口に向かったのである。

七色の祭典開演!

 場内はまばゆい七色の光で照らされていた。場内に入った全世界、全人種のレインボーたちはその光景を見て恍惚となった。ああ!もうじきここに現代のWキリスト大振拓人と諸般リストが現れる。レインボーたちはその軌跡を全て目に焼き付けようと各自で所持していた目薬を差し始めた。目薬の液体で七色の光が一層まばゆく輝き出した。レインボーたちは誰ともなく大振と諸般の名をコールし始めた。その光景を中継で見ていた会場の外のレインボーたちも同じように二人の名を呼び始めた。ああ!今世界中のレインボーが大振と諸般の名を呼んでいた。ああもうじき大振拓人と諸般リストがLGBT時代の最強のアンセム『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』を引っ提げてもうじきこの武道館に降臨する。レインボーたちはさらに声を張り上げて二人の名を叫ぶ。

 その時今まで七色のライトで照らされていたステージが突然暗くなった。レインボーたちはこれを見てコールをやめ、一斉にステージを見た。ああ!もうすぐ現代の救世主がここに降臨する。七色の光と共に現れて私たちを未来へと導いてゆくために!やがてステージは徐々に明るくなった。明るくなったステージにはいつの間にかフォルテシモ・タクト・オーケストラの面々が演奏台に座っていた。そしてそのステージの指揮台にはスタンウェイのグランドピアノを背にWキリストの一人大振拓人が立っているではないか!大振は漆黒の燕尾服を身に纏い厳粛な面持ちでレインボーたちは彼に向かって一斉に喚声を浴びせた。この喚声のコーラスに大振は微笑みで答えた。ああ!なんと純粋な微笑みなのだろう!今まで大振がここまで屈託なく微笑む姿を見せたことがあるだろうか!レインボーたちはもうはちきれんばかりに叫んだ。だが大振はしばらくすると真顔に戻って指揮棒をゆっくり下ろしてレインボーたちを制した。

 大振の制止で場内は一瞬にして静かになった。もはや幕は切って落とされた。二人の七色の祭典がいよいよ始まるのだ。。一部のレインボーは緊張してか何度もパンフレットを見て今回のコンサートのプログラムを確認した。

 今回のコンサートのプログラムはすでに語ったように二部構成であり、メインの二部は勿論大振と諸般の共作の『ロマンティック&フォルテシモ協奏曲』だが、第一部は前回の共演コンサートのプログラムをそのままなぞっていた。まず大振拓人が日本をルーツに持つ諸般をドヴォルザークの交響曲第九番『新世界』から第二楽章「家路」を指揮して歓迎し、次に諸般がそれに答えてリストのピアノソナタでそれに応えるという構成だ。これは大振と諸般が強く要望したことだ。その頃まだ互いを嫌っていた二人は前回のコンサートでフォルテシモとロマンティックの意地の張り合いをしてしまいコンサートそのものを完全に滅茶苦茶にしてしまった事を深く悔いていた。だから今回は七色のまばゆいきずなで結ばれた友として本心からの互いを歓迎したいと思い前回のプログラムをやり直すことにしたのである。

 オーケストラの音のチェックが終わってしばらく経ったその時、レインボーたちに背を向けて直立不動で立っていた大振がついに動いた。彼は指揮棒を手に両手を掲げそしてゆっくりと振った。それと同時にオーケストラが静かに甘美な旋律を奏で始めた。レインボーたちはこの大振の家路を聴いてそのあまりの音の暖かさに驚愕した。これがあのフォルテシモなまでに激しい音楽を振っていた大振拓人なのだろうか。今まで大振の音楽に優しさなんてものを感じたことはなかった。そのフォルテシモなまでに厳しい音楽で人を圧倒させ続けていたこの人がこんなにも人間的な音楽を奏でるなんて!この大振が振る「家路」はおばあちゃんのぽたぽた焼きそのものであった。夢を求めて旅立った青年が久しぶりに帰ってきた故郷で甘しょうゆ味のせんべいを食べながら号泣している情景が浮かんでくる涙溢れるものであった。ああ!大振はどんな凄まじい葛藤をへてこの境地にまでたどり着くことが出来たのだろうか。知っての通り大振はイリーナ・ボロソワに振られてから彼女の故国のドヴォルザークを徹底的に避るようになっていた。イリーナにまつわる忌まわしい記憶として彼の名曲たちを演奏するどころか、作曲家の名さえ口に出すのを避けていた。彼はきっとこの曲を演奏する中で過去のつらい記憶に何度も苦しめられただろう。そののた打ち回るほどの葛藤に結果大振はこれほど温かみのある音を作り出すことが出来たのだ。しかしそれは決して大振一人でなしえたものではない。彼の、そう彼の、あの諸般リストという音楽の兄弟であり、七色の深い絆で結ばれた友の助けがあってこそ成し遂げられたものだ。今大振はその七色の友の帰還を祝ってこの「家路」を振っていた。過去のトラウマを乗り越えた大振は今ただ諸般の為に演奏していた。大振は演奏中に久しぶりに帰ってきた孫を全身で抱きしめるような身振りをしたが、それは諸般への思いをそのまま表現したものであった。諸般はステージの袖で大振の振る「家路」を聴いて涙を流した。ああ!タクトなんて素晴らしいんだ!君の想いが曲からロマンティックに伝わってくるよ!僕も全身で君への感謝を伝えなければ!

 大振の「家路」が終わると客席から割れんばかりの拍手とブラボーが起こった。大振はその拍手に対して深いお辞儀をしそれから客席のレインボーたちに向かって笑顔で手を振りながらオーケストラと共にステージから去った。大振ファンのレインボーたちはこのいつもだったらありえないほど愛想のいい大振に諸般の影をみた。あの皇帝のようにフォルテシモに尊大だった拓人をここまで変えたのは諸般がいるからだ。ああ!愛は人をこんなにも変えてしまう。もう私たちの完敗よ。リスト君、拓人はあなたに譲ってあげる。だから絶対に幸せになってね。

 大振がステージから去った後スタッフによるステージのチェックが始まった。やがてそれが終わると再びステージが暗くなった。レインボーたちは諸般の登場をひたすら待っていた。あの大振の「家路」の感動的な歓迎に彼はどう答えるのか。諸般ならきっと大振へ最大の感謝を表すに違いない。なぜなら二人は七色の絆で結ばれた選ばれし神なのだから。そうそれぞれそんな風に期待しながら暗闇のステージを見ていつ諸般が登場するのか待っていたが、その時突然ピアノの音が鳴った。一瞬スタッフが間違って鍵盤を叩いたのかと思ったが、ピアノはそのまま調べを奏で始め、そしてその最中に再びステージにライトが点いたのだった。レインボーたちはステージのグランドピアノに純白のドレスのようなタキシードを身に纏った諸般リストその人が、ロマンティックに髪を振り乱してピアノを弾いているのを見たのである。

 諸般は大振への感謝をピアノにロマンティックなまでに込め雪崩のようにピアノを弾き倒していた。ああ!なんて奔放なピアノなのだろう。このキューティクルに髪を靡かせてロマンティックに鍵盤を叩く諸般には作曲者のヴィルトゥオーゾ中のヴィルトゥオーゾ、フランツ・リストでさえ降参しただろう。彼が諸般のこのピアノを聴いたら曲を諸般に譲り渡していたかもしれない。このロマンティックに鍵盤を叩く諸般を見て誰も半月前は死ぬ寸前の病人だったとは思わないだろう。諸般は今生きていることに、そして大振という七色の友を得たことに今までに感じたことのない喜びを感じていた。彼はこの地に自分を呼び、そして自分を死の危機から救ってくれた大振に深く感謝していた。大振がいなかったら今の自分はなかった。大振は自分にとって兄弟よりもかけがえのないものだ。大振は先ほど指揮した「家路」で日本に来た僕を故郷のグランドパパみたいに歓迎してくれた。ここはおじいちゃんの家じゃ思いっきり羽を伸ばしてよいぞ。ああ!おじいちゃん羽ならいくらでも伸ばすさと諸般は天使の翼をはためかせて鍵盤に華麗に指を滑らせながら椅子に上った。そしてそのまま鍵盤の上に逆立ちして弾き始めたのだ。この諸般のあまりに奔放でロマンティックな弾きっぷりに客席は驚愕した。諸般はまるでおじいちゃんの家に帰った孫であった。このわんぱく坊主はおじいちゃんに思いっきり甘えてロマンティックにそのわんぱくぶりを発散したのである。客席のレインボーたちはこの諸般のロマンティックなまでのわんぱくぶりにため息をついた。ああ!なんて美しいの!まさかコンサートでこんなピュアな気持ちになるなんて!レインボーたちは諸般に自分たちがとうになくしてしまった純粋さを見た。ああ!私たちがなくしてしまったピュアをこのマイボーイは思い出させてくれた。私たちも彼のように純粋に誰かを愛することが出来たら。ステージの袖では大振がその諸般の演奏を見ていた。彼は諸般のそのはしたないロマンティックぶりを兄か親のようにハラハラドキドキしながら見ていた。ああ!なんて躾のなってない坊主なんだろう!だけどそのわんぱくぶりがどうしようもなく愛しい!諸般はそのまま逆立ちして鍵盤の間を綱渡りの芸人よりはるかに優雅に往復した。ああ!まるでサーカス芸人が突然王女様になったかのようなエレガントさ。大振はこの諸般の彼に甘え切った奔放ぶりに涙を流した。全くお前ってやつはどこまでわんぱく坊主なんだ!こんな奴は俺がちゃんとしつけてやらなくちゃやらなくちゃいかん!

 諸般の演奏が終わると大振の時と同じく、いやそれ以上に大きな拍手が起こった。それは諸般への演奏の賛美と、いよいよ始まる第二部での『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』への期待を込めた拍手であった。諸般はその拍手とブラボーにロマンティックに髪を靡かせてにっこりとほほ笑んで退場した。諸般ファンのレインボーたちは彼のロマンティックな奔放さに酔いしれため息とともにオーマーガーの叫びをあげていた。だが同時にレインボーたちはこのロマンティックが自分たちに捧げられたものではないことも知っていた。ああ!悔しいけど諦めるわ!だって神と結婚するなんてできるわけないじゃない。神と結婚していいのは神だけよ!そしてその神は今彼のそばにいるんだから!

第二部『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』上演!

 やがて休憩を知らせるアナウンスが鳴った。しかし誰も席から立とうとはしなかった。レインボーたちはこの奇跡を見逃すまいと膀胱の緩いものはおむつまで履いていたのだ。このWキリストのためなら尿意も便意も全然平気、むしろ漏らしたら漏らしたで本望だ。そんな凄まじい覚悟で第二部の開始を待っていた。場内の所々で紙をめくる音がする。レインボーたちは第二部を待ちきれなくてそれぞれ何度もプログラムや先行発売のダウンロードサービスの楽譜を印刷したものを読んでいた。来るべき第二部。きっと自分たちはそこで七色の光の奇跡を見るだろう。ああ!待ちきれない!二人のイエス・キリストが今揃って私たちの元に降臨する。レインボーたちは再び無人となったステージを見る。そこに輝いているのは七色の光。もうすぐその光は音楽となって世界に広がっていくだろう。

 さてその二人のイエス・キリストは今楽屋で静かに出番を待っていた。大振と諸般は今目を瞑って精神を集中させていた。もはや迷いはない。後はもう突き進むだけ。二人はここまで幾多の苦難を共に乗り越えてきた。あとはフォルテシモ&ロマンティック協奏曲を演って成就させるだけだ。二人の頭の中で走馬灯のように過去の思い出がよぎった。大振はイリーナとの叶わなかった恋を思い出し、諸般はホセとの堕落した愛欲生活を思い出した。だがそれはもうすべて過去の話だ。諸般は目を開けて未だ目を閉じている大振に向かっていたずらっぽい笑みを浮かべてこう尋ねた。

「タクト、今誰かの事を思ってるよね?」

 大振は突然の質問に驚いて目を瞬かせて諸般の方を向いた。

「な、なぜそんなことを聞く。俺は誰の事も思っておらん。ただ遠い過去の事をちょっと思い出しただけだ」

 諸般はその大振の答えを聞いて微笑んでこう言った。

「僕もそうさ」


 そしてとうとう第二部が開幕した。アナウンスが第二部の開始を告げた時、現代のWキリスト大振拓人と諸般リストの奇跡を見逃すまいと尿意にも便意にも耐えていたレインボーたちはこのアナウンスを聞いて狂喜した。いよいよあの二人がそろってここに降臨する。七色の光を指揮棒とピアノから放って私たちを七色に輝く未来へと導いてくれる。ああ!今その二人のキリストの従者であるフォルテシモ・タクト・オーケストラの面々が揃って入ってきた。半部ぐらい一日四回シャワー浴びているのに清潔感の抜けてなさそうな不細工なオヤジたちばかりで、一体こんなスメハラ一直線のオヤジたちが大振と諸般の従者を務められるのかわからないけど、でも今は彼らの存在を我慢するしかない。だってこの不細工なオヤジたちがいなかったら二人の七色の愛の『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』は成り立たないのだから。オーケストラがそれぞれの自席に着席し、あとは二人を待つだけとなった。会場は異様な沈黙に包まれた。もうすぐ降臨する現代のWイエス・キリスト。ああ!早く奇跡を見せて!

 その時突然ステージからまばゆい七色の光が発せられた。それを見てレインボーたちは一斉に絶叫した。とうとう降臨したのだ。現代のキリスト、現代の現人神が!漆黒の燕尾服を着た大振拓人と純白の上着がドレスのように広がっているタキシードを着た諸般は仲睦まじくステージに現れ、いや降臨した。レインボーたちは全員起立して二人の名をコールした。

「大振拓人、諸般リスト、偉大なる七色のWキリスト。そのお力で今こそこの汚れ切った地上を七色の光で照らしたまえ!」

 七色のWキリスト大振拓人と諸般リストはこの大歓迎に顔を赤らめて苦笑した。レインボーは黒と白の結婚式に似つかわしい衣装を着た二人が恥じらう姿を見て、まるで二人の結婚式に参加したような錯覚を味わった。ああ!幸せになってね!幸せになって私たちを永遠に七色の光で照らしてね。二人の救世主はレインボーたちへの感謝を込めて客席に深く一礼し、そしてそれぞれの場所へと向かった。

 異様なまでの緊張感が漂う沈黙の後の一撃だった。指揮台の大振が掘る手下なまでに激しく指揮棒を振り下ろした瞬間、諸般のロマンティックなピアノが鳴り響き、その二人の周りからオーケストラがけたたましくなりだしたのである。ああ!とうとうフォルテシモ&ロマンティック協奏曲が始まったのだ。レインボーたちは最初の一音から二人のフォルテシモとロマンティックのものすごいアッパーカットを浴びた。頭がグラグラするほどの衝撃。フォルテシモとロマンティックで心も体も七色に焼かれて蒸発しそう。第一楽章で展開される二人の宿命的な出会いを奏でた楽想。それはレインボーたちが二人がそれぞれ作っていた『交響曲第二番:フォルテシモ』と『ピアノソナタ:ロマンティック』で耳にしたものだった。大振は元々作っていた交響曲の第一楽章ではイリーナとの出会いをテーマにしていた。諸般もまた彼のピアノソナタの第一楽章はホセとの出会いをテーマにしていた。だがそれは今となってはもはや仮初のものでしかなかった。二人は共作している時に知ったのだ。今まで互いが恋愛感情を持っていた相手の為に作っていたと思っていた曲はこの『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』の為に書かれたのだという事を。二人は互いに初めて出会ったときに感じた狂おしいほどの憎しみと、そして憎しみの中にほのかに目覚め始めていた愛を全身で表現していた。大振は指揮台から飛びだして諸般に体全体で憎しみと愛を過剰なまでのフォルテシモで表現し、諸般もまたロマンティックに髪を振り乱し鍵盤の上であん馬をしてかつて大振に抱いていた嫌悪感と愛を表現したのであった。やがて二人は己の中隠されていた互いへの愛に気づく。嵐は止み七色の光が二人に注いだ。大振のオーケストラと諸般のピアノは激しく互いの思いをぶつけ合い、そしてすべてを分かち合った恋人の如く一つの旋律となった。

 嵐のような第一楽章であった。レインボーたちはこの猛烈なラッシュにもうノックダウンしてしまいそうであった。殺し合いを始めそうなほどいがみ合っていた二人の演奏が最後に分かち合って一つになるまでのあまりにフォルテシモでロマンティックな演奏。見事すぎるぐらい見事であった。クラシックの名曲たちの中でここまで人間の感情をむき出しにしたものがあるであろうか。二人がこれまで演奏していたクラシックの名曲たちでもここまで深く人間というものを突き止めてはいなかった。大振と諸般はこのピアノ協奏曲でクラシックの限界を超えてしまったのだ。だがこれはあくまで二人の曲が一つになったからこそなしえた事。実際この曲の下であるそれぞれの交響曲とピアノソナタはここまでの境地には到底達していなかったのだ。

 しばしの休息を得て第二楽章が始まった。この第二楽章こそ例のマッシュアップ動画と瓜二つと呼ばれている楽章である。あのマッシュアップ動画は大振拓人の『交響曲第二番:フォルテシモ』と諸般リストの『ピアノソナタ:ロマンティック』の第二楽章を合わせたものだが、大振と諸般はそのマッシュアップ動画の音源を元に改めて曲を作り直しブラッシュアップしたものなのだ。実際この第二楽章がなかったらこの『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』は生まれなかったであろう。いわばこの第二楽章は『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』の大元である。しかしこれはなんと素晴らしいものか。この甘い、まるで歌謡……いや、バカにでもわかる偉大なる芸術作品はすべてが砂糖菓子で覆われた惑星のようだ。そのフォルテシモなまでに甘い惑星にはチョコレートの雨が降り注ぐ。オーケストラとピアノによって綴られる大振と諸般の甘い恋のアンダンテ。ゆっくりと、アダージョまで堕ちそうなほど甘い演奏は客席のレインボーたちの悶えさせてしまう。大振と諸般はステージで危険なほど見つめ合い互いの官能的なまでに身をよじらせる。だけど純粋なる二人は蜜になる前に立ち止まる。まだその時じゃない。甘さで溺れ死にそうなほどのメロディの中もだえ苦しむ二人。ああ!官能の喜びを知らぬ二人は自分の思いを持て余したままだ。だがその二人の思いを代弁するオーケストラとピアノは自然と二人を結びつけてしまう。客席のレインボーたちはあまりにじれったくなってため息をついた。ああ!拓人、リスト。あなたたちはここで結ばれるべきなのにどうして踏み出さないの。一歩、そうだった一歩であなたたちは体を寄せ合うことが出来るのよ。ほら踏み出して私たちが見守ってあげるから。だが、ここで第二楽章はフィナーレを迎えてしまう。オーケストラはピアニッシモとなり、ピアノは最後の和音を鳴らして間もなくして消えてしまった。

終演

 この甘さとじれったさの第二楽章が終わって、後は最後の第三楽章を残すのみとなった。プログラムの演奏時間には第三楽章の演奏時間は一時間十五分と書かれている。これは第一楽章と二楽章のそれぞれ三十分以上というピアノ協奏曲としては破格に長い演奏時間に比しても異様なまで長いものである。今までの楽章はあくまで前哨戦、『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』の本番はこれからだ。レインボーたちの誰もがそう思った。七色の奇跡はこの最終楽章で現れる。大振と諸般、この二人が真に結ばれる瞬間を見逃すな。レインボーたちは自分にそう言い聞かせただ奇跡の到来を待った。

 それはふいに始まった。レインボーたちはこの突然始まった第三楽章に慌ててすぐに姿勢を正して目と耳を集中させた。レインボーたちはこのせっかちなWキリストにいつも突然なんだから!あなたたちはそんなに早く結ばれたいわけ?そんなに慌てなくてもいいのに。だがレインボーたちもまた二人が結ばれるのを早く見たがっていた。逸る心は皆同じ。レインボーたちは一心に大振と諸般を見つめてその時を待ったのである。第三楽章は変奏曲の形をとっていた。変奏曲とは一つの主題を様々に変形させていくものであるが、この『フォルテシモ&ロマンティック協奏曲』においてそ主題とは勿論大振と諸般の七色の愛である。じれったく待たされた愛が今この三楽章で見事成就したら世界は七色の光で満ち溢れるだろう。会場のレインボーたちも、会場の外のレインボーたちも、世界のレインボーたちもみんなその奇跡を待っていた。

 第三楽章は大振の『交響曲第二番:フォルテシモ』のアダージョから始まった。このイリーナ・ボロソワとの失恋をテーマにした沈痛なアダージョは今は諸般との七色の愛のプロローグであった。一人孤独に北酒場通りをさまよう大振拓人。長い髪の女にも興味は惹かれず、お人よしの女にもうんざりした大振。酒さえ心の慰めにはならず、通りを抜けて氷河の方へと歩んでゆく。そこにあるのは間違いなく死だ。このまるで演歌……いやバカでも泣ける大芸術を聞いてレインボーたちは感激のあまりハンカチで涙をぬぐった。だがその大振を諸般はピアノで呼び覚ます。ロマンティックに透き通るピアノで彼は大振に死ぬなと呼び掛ける。大振はハッとしてその呼び声の方を向く。そこにいるのは北国の風を浴びてロマンティックに髪を靡かせた諸般リストの姿。大振は諸般のピアノに驚嘆して指揮台に膝間づいて祈る。諸般はピアノを弾きながらその大振を慈しむように見て彼の為にロマンティックにピアノを書きならす。ステージで繰り広げられるWキリストの七色に満ちた神聖な戯れにレインボーたちはため息をつく。もうあまりに美しくて言葉すら思い浮かばない。ああ!このまま二人を七色に成就させてあげて!

 大振は諸般の優しさにたまらず涙を浮かべた。彼に対する思いが体中を駆け巡ってもう抑えられそうにない。どんなに指揮棒を振っても、どんなに愛を体全体で表現しても、まだそれじゃ足りない。彼は指揮棒を握りしめそして歌った。

「抱きしめた~い♬世界中のぉ~誰よりもぉ~♬あなたをぉ~♬はなしたくない~♬」

 再び聴けると思ってもなかった大振の抱きしめたいを耳にしてレインボーたちは一斉に歓喜の声を上げた。大振はまるで昔の布施明のように……いや三大テノールでさえはるかに及ばない絶唱で抱きしめたいを歌っている。レインボーたちは一つ一つ言葉を噛みしめるように歌っている大振を見て号泣した。大振は歌っている最中に我に返って愕然とした。なんてことだまた自分は大失敗をしてしまった。もうこれで全て終わりだ!と彼は髪をくしゃくしゃにして歌をやめようとしたのだが、その時なんとピアノを弾いていた諸般も一緒に歌い出したのだ。レインボーたちはこのサプライズに絶叫した。ああ!Wキリストが私たちのアンセムを二人で一緒に歌ってくれるなんて!もう世界は完全に七色に染まっていた。しかし大振と諸般の抱きしめたいはなんと素晴らしかっただろう!大振のテノールと諸般のソプラノが重なった七色のハーモニーはどんな歌よりも素晴らしかった。二人は何度も何度も抱きしめたいを唱和した。まるで愛を確かめるように。

 抱きしめたいの絶唱が二人に力を与えた。二人にはもう前しか見えなかった。このままいけば七色の光に満ちた約束の地にたどり着くことが出来るだろう。クラシックの天才、新時代のWキリスト。今約束の地へとまっしぐらに駆けてゆく。大振と共に歌った抱きしめたいは諸般に勇気と力を与えた。もう過去は振り返らない。ホセの影を振り切って今僕は拓人の胸に飛び込んでゆくんだ。拓人とみる七色の未来。きっとそこが僕らの約束の地。アダージョから一転してならされるブレスト、ロマンティック弾かれる鍵盤。その彼を熱く追ってくる大振のオーケストラ。鬼さんこちらここまでおいで。ああ!いたずらっ子の諸般、この躾の悪いヤンキーガールはまた大振に我儘を働いた。そのヤンキーガールを抱きしめようと大振は全力でフォルテシモに指揮棒を振って追いかける。壮絶な鬼ごっこ。ピアノを弾きながらグランドピアノを所狭しと這いまわって大振から逃げる諸般。逃げながら無理やりピアノの蓋を取って弦を直接弾く。意図せずにジョン・ケージじみた事をする諸般。大振はその諸般を捕まえて叱ろうと指揮棒を振りながらその諸般を捕まえようとする。ああ!なんと美しい愛の戯れなのか!ここまで人は無邪気になれるのか!七色の現人神の無垢な戯れ。ロマンティックに逃げようとする諸般。それをフォルテシモに捕まえようとする大振。演奏はもうクラマックスに達しようとしていた。諸般は突然空中に飛び上がってムーンサルトをした。そしてステージに降りた瞬間「ロマンティック!」と叫んだ!大振はその諸般を全力で抱きしめてついにあの言葉を叫んだ。

「フォルテシモぉ~!」

 これを聞いてレインボーたちは一斉に歓喜の叫びをあげた。とうとうこの時が来たのだ。二人は今七色の未来へと旅立つ。そしてそこから私たちに光を注ぐだろう。ほら、今二人の顔が近づいている。二メートル以上もある諸般の顔を見上げる大振。その大振を見下ろす諸般。今二人の口が重なってゆく……

「ちょっとマッタぁ~!」

 と、誰かが片言の日本語で昔のお見合いバラエティ番組みたいな事を叫んだ。会場のすべての人間が何事かと声のした方を向いた。するとそこにはむせかえるような臭いを放つたくましいラテン系の男がいるではないか。ステージの諸般はその声を聞いた途端震えあがった。大振は諸般を心配してどうしたのだと聞いた。しかし諸般は震えたまま何も答えなかった。ラテン系の男はそのたくましい体で自分に組みかかってくる警備員をことごとく吹っ飛ばしそのままステージに上がってしまった。レインボーたちはもうただこの行く末を見守ることしかできなかった。突然現れたラテン系の男を見て大振は一瞬にして彼が何者であるか悟った。ホルスト・シュナイダー!いやホセ・ホルスか何故、何故お前がここに!大振はこの邪魔者を叩き出さんとして指揮棒を掲げて突進した。だがその時諸般が甘い声でこう叫んだので衝撃のあまり足を止めた。

「ホセ!なんでここに来たんだよ!君は僕を捨ててメキシコでイザベルとよろしくやっているんじゃないか!」

「あんなビッチの名前なんか口に出すんじゃねえ!俺はやっと本当の気持ちに気づいたんだ!お前じゃなきゃダメなんだよ。さぁ、ロマンティックパレスに帰ろうぜ」

「帰ろうぜなんて言われて僕が大人しく変えると思ってるの?君は僕にあれだけ酷いことしてさ!」

「だから言ってんじゃねえか!俺はやっと自分の本当に気持ちがわかったんだよ!俺にはお前が必要なんだよ!お前なしじゃ生きていけないんだよ!正直に言って恥ずかしいよ。自分が捨てた男とよりを戻したいなんてさ。だけどそれでもお前が好きなんだ!」

「ホセ……僕、僕!」

「ショパン……帰ろうぜ」

「ああ!このバカ!もう絶対離さないんだから!二度と僕から逃げちゃダメだよ!今度嘘ついたら針五百万本飲ますから!」

「五百万本だってなんだって飲んでやる!俺はもう二度とお前から離れない!」

 こういうとホセは諸般の手を取ってそのまま熱いキスをした。よく見ると舌まで挿れていた。レインボーたちはこれを見て大絶叫した。その絶叫を浴びながら諸般とホセは手を繋いで結婚式のウェディングロートよろしく会場の中央の通路をかけてステージから立ち去ってゆく。思わぬ事態に会場は阿鼻叫喚をはるかに超えた阿鼻叫喚だった。さっきまでレインボーたちが夢見ていた七色の未来など塵にさえならないほど砕け散ってしまった。大振はホセに連れられて去ってゆく諸般の背中を見て号泣した。ここまで人を思ったことはなかったのに!何故!何故!俺はこんな目に合わなくてはいけないんだ!人生の不条理が頭にのしかかってきた。大振はその重みに耐えられずに床に崩れ落ちた。もう何も見たくなないと大振はうつぶせのまま激しく泣いていた。その大振の耳元で誰かが声をかけた。大振はその声を聞いてハッとした。まさか……。大振は久しぶりに聞いたその声に懐かしきあの人の顔を思い浮かべた。ああ!帰ってきてくれたんだね。天国から僕の元に。ああ!その顔を見せてくれ。そのドヴォルザークの魂を心に宿したその東欧の農民の顔を。再び囁かれた声。何故か南国の香りがする。イリーナ僕を救い出してくれ。僕を救えるのは君しかいないんだ。大振はゆっくりと体を起こしてその人を見た。

「あなたがオオブリタクトって言うのね。ホセみたいにガチムチじゃないけど、あなたも結構たくましいじゃない!それに顔はホセなんかよりよっぷどハンサムよ!ねぇ私ホセに捨てられちゃったの。だから私と付き合って!」

 大振はそこにかつて愛したイリーナ・ボロソワと似ても似つかぬデブ女を見たのだった。彼は女に向かって手を振って近寄るなと叫んだ。だが女はそれでも彼にべったりと近寄ってきて再び口を開いた。

「あら、あなた私がデブだから嫌なの?とんでもないレイシストね。でも男ってみんなそうだからわかるわ。私こう見えても痩せたらすっごい美人なの。ホセも痩せた私にすっごい夢中になってくれたわ。よくヨーロッパのオペラ歌手に似てるって言われるの。ねぇ、あなたが望むならまた吸引手術するから私と付き合ってよ!」

 そういいながらラテン系のこのデブ女は大振に唇を寄せてくる。大振は全身で彼女に抗ってこう叫んだ。

「フォルテシモぉ~!」

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