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クラシックはフォルテシモ! 〜カリスマ指揮者大振拓人が語る大作曲家と名曲達


大振拓人(日:生年月日不明)日本の若手指揮者で最も人気のある指揮者である。その名声は日本だけでなく世界にも轟いている。大振の指揮スタイルはロマン派を全身で体現した熱いフォルテシモなもので、その指揮は情熱的で時に嵐のように激しく、時に煮詰めたジャムのようにトロトロに甘い婦女子や腐女子好みのものである。大振は演奏だけでなくてその若き西城秀樹を思わせるアイドルみたいなルックスでも婦女子や腐女子を魅了し、彼のコンサート会場ではプロマイドを求めて婦女子や腐女子殺到しけんかが起こって会場が破壊されることもしばしばある。自己肯定の塊のような男で自ら天才、二十一世紀最大の芸術家と称しているが、案外間抜けなところがあり、時々取り返しのつかない大失敗をやらかす。大振はよく傲慢。彼を深く知る人からはよく、人を人とも思わない人間と言われ、それは99%事実であるが、実は子供好きでピュアな一面もある。ただそれはその他の部分があまりにも酷すぎ、かつ人と対等にコミュニケーションをとることが出来ないため、彼のそのピュアな一面は全く人に理解されない。得意のレパートリーはベートーヴェンとチャイコフスキー。昔はドヴォルザークをよくやっていたが何故か最近全くやらなくなった。


 現在日本で一番注目されている指揮者大振拓人。あらゆる名曲をフォルテシモに聴かせる華麗なる指揮は観客を魅了してやみません。今回はその大振拓人がバッハから二十世紀までのクラシック音楽の魅力を語りつくします。題して『クラシックはフォルテシモ!』です。皆さんご準備はいいですか?我らがマエストロは最初から飛ばしますよ!最初は音楽の父であるバッハです。


J.S.バッハ

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(独: Johann Sebastian Bach, 1685年3月31日(ユリウス暦1685年3月21日)- 1750年7月28日)は、ドイツの作曲家・オルガニスト

 間違いなく偉大なる作曲家。後の作曲家に与えた影響は計り知れない。モーツアルトやベートーヴェンがどれほどバッハから影響を受けたか。彼らのような偉大な作曲家でもバッハがいなかったらあれほどの名曲が書けたか。それを考えるとバッハなきクラシックなど考えられない。だがなんとそのバッハは死んでから百年近く世間から忘れ去られていたのだ。僕はバッハをバロック時代のロマン主義者だと思っている。彼の数々のオルガン曲や宗教曲はロマン主義なき時代のロマンを求めるフォルテシモな祈りだ。当時の西洋音楽の主流はバロック音楽であり、僕らにとって馴染み深いクラシック音楽はまだ生まれてさえいなかったが、バッハはロマンもクラシックもなき時代でひたすら神という超越したものを求めて曲を作り続けた。彼の己が熱情を押し殺した神への祈りとも言うべき曲にはフォルテシモなまでに熱いロマンが隠されている。先に書いたようにバッハは没後長い間忘れられた存在であったが、ロマン主義全盛時代にメンデルスゾーンによって見事復活を遂げた。メンデルスゾーンきっとバッハの中に己と同じロマンの血を感じたに違いない。僕はバッハの曲に深く感動しながらも、彼がロマン派の時代に生まれたらもっと素晴らしい曲が書けたのにと歯痒くなるのを禁じ得ない。もしバッハがロマン派の時代に生まれたらきっとベートーヴェンを遥かに超えるフォルテシモな交響曲を次から次へと生み出したに違いない。

代表曲『トッカータとフーガ』『G線上のアリア』『ブランデンブルク協奏曲』『フーガの技法』『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』他多数。

G.F.ヘンデル

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル1685年2月23日 - 1759年4月14日)は、ドイツ出身で、イタリアで成功した後にイギリスで長年活躍し、イギリスに帰化した作曲家

 ヘンデル音楽の母と言われている。男であるのに母とはおかしいが、これは彼が音楽史においてバッハと並び称ぶ存在とみなされているからである。だが僕はバロック時代に一流作曲家と呼べる人間はバッハしかいないと思っている。あのロマンの高みに上るような秘めた厳粛な曲はバロック時代にはバッハにしか見られないからだ。勿論ヘンデルは同時代においては抜きんでた作曲家であった。だがバッハにはどうしても劣る。それは僕の考えでは彼がバッハのように己が音楽のためにすべてを捧げていなかったからだ。もしヘンデルがバッハのように己がすべてを音楽に捧げたとしたら彼はバッハと並ぶ真の一流作曲家になれたかもしれない。彼の名曲群はパトロンである王侯貴族の趣味への妥協の産物だ。しかしそれでも彼の曲は決して低俗ではなくフォルテシモな価値を持つバロックの数少ない本物の名曲を生み出している。僕は彼の『水上の音楽』や『王宮の花火の音楽』をフォルテシモに演奏して嵐が轟き大砲が飛ぶ戦場の音楽にしたことがあるが、僕はそうすることで彼を王侯貴族の娯楽という偏見から解き放ち、ヘンデルが本物のフォルテシモを持つ真の音楽家である事を知らしめてやりたかったのだ。

代表曲『水上の音楽』『王宮の花火の音楽』『合奏協奏曲』『メサイア』『サムソン』他多数。

A.L.ヴィヴァルディ

アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678年3月4日 - 1741年7月28日)は、現在はイタリアに属するヴェネツィア出身のバロック音楽後期の作曲家。

 作曲家ストラヴィンスキーはヴィヴァルディを同じ曲を四百曲作っただけと嘲笑していたという。僕はこのことを知って腹が立ち、まるで牧神の午後のニジンスキーのように激しく悶え狂ったが、冷静に考えれば確かにそうかとも思えてくる。たしかに彼の曲はみなどこか似ている。しかしである。僕は彼の曲にバッハにないフォルテシモなロマンチズムを感じるのだ。きっとそれは彼がドイツという北方の厳格な土地ではなく、イタリアという開放的な太陽の降り注ぐ土地で生まれたからだろう。僕は彼の代表曲の『四季』をフルオーケストラでフォルテシモに演奏したことがある。演奏している間僕は何度もフォルテシモな恍惚を覚えた。特に夏の第三楽章のあのすべてをなぎ倒すブレストはフルフォルテシモな台風だった。確かにヴィヴァルディは二流の作曲家と言えるかもしれない。だが僕はこのバロック時代で唯一フォルテシモを表現しえたこの作曲家を愛してやまない。

代表曲『四季』『調和の霊感』『和声と創意の試み』

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732年3月31日 - 1809年5月31日)は、現在のオーストリア出身の音楽家であり、古典派を代表する作曲家。

 ハイドンはよくつまらない作曲家と言われている。まるで教科書のような男と人は陰口を叩く。だが僕らはこのハイドンがいなかったらベートーヴェンやシューベルトが生まれなかったことを忘れてはならない。彼はあの天才モーツァルトを苦しめた極悪人で凡庸極まりない人間のクズのサリエリなどとは違うのだ。彼は性格がよく、自分よりも年下の天才モーツァルトを崇め称えていたが、モーツァルトも同じようにこの年上の友人を深く尊敬していた。音楽史において彼の最も偉大なる功績はクラシック音楽の基本の形を作った事であるが、これがなくては我々が知るモーツァルトやベートーヴェンの輝かしい名曲は生まれなかったかも知れない。彼がクラシックという新しい音楽を気づかなければ我々は今もバロック時代のバッハやヘンデルとさして変わらない曲を演奏していただろう。だが僕にはハイドンの曲は彼自ら築き上げたその規則に忠実に従いすぎているように思う。驚愕を演奏しているとき僕は失礼ながらこんな曲でどうやってびっくりさせられるんだと思ってしまった。だから僕はハイドンの驚愕を本当に聴衆をビックリさせるためにフルを極めたフォルテシモで演奏している。天国のハイドンも僕のフルを極めた大フォルテシモの驚愕を聴いてきっとビックリして心臓が止まっているかもしれない。

代表曲『交響曲第94番 ト長調『驚愕』』『交響曲第100番 ト長調『軍隊』』『交響曲第101番 ニ長調『時計』』『弦楽四重奏曲』『天地創造』他多数。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(独: Wolfgang Amadeus Mozart )、1756年1月27日 - 1791年12月5日)は、主に現在のオーストリアを活動拠点とした音楽家。

 天才の中の天才である。この天才の大振拓人が唯一歯が立たない作曲家である。僕がモーツァルトに対しては偉そうに評するなんて出来ない。僕に出来るのはただ彼の偉大さを延々と称える事ぐらいだ。彼は本当に人間であったのか。もしかしたら神が遣わした天使ではなかったか。この地上に降りた天使の一生は悲劇と言ってよい。彼の天才は呪わしいものとして忌み嫌われ、そしてついにはボロカスのように墓場に捨てられた。ああ!モーツァルトの悲劇を思う度に僕はとっくに地獄落ちしたサリエリをさらなる地獄に突き落としたい衝動に駆られる。この凡庸な極悪人のクズ作曲家は身の程知らずにもモーツァルトの才能に嫉妬し彼を死ぬまでいぢめぬいた。僕は死ぬまでサリエリを許さないだろう。この男はモーツァルトをいぢめることで地上から天使の音楽を奪ったのだから。モーツァルトの曲は天使の曲であるから我々のような地上の人間には解読などできるはずがない。一聴して曲が単純に思えるのはそれは曲の外側しか聴いていないからだ。中身をのぞくとそこには人知では理解できない茫漠とした空間が広がっている。僕はモーツァルトを理解しようと木星を研究したし、彼の疾走する悲しみを理解しようと大学の陸上部で短距離を習った。だけどいくら努力しても彼の羽の先さえ見えない。きっと今頃モーツァルトは天空から地上で自分を必死に解読しようとしている僕を眺めてあざ笑っているだろう。

代表曲『交響曲第四十番』『交響曲第四十一番『ジュピター』』『アイネクライネナハトムジーク』『ピアノ協奏曲第二十番』『レクイエム』『ドン・ジョヴァンニ』『フィガロの結婚』等他多数。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、1770年12月16日頃~ 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家、ピアニスト。音楽史において極めて重要な作曲家の一人であり、「楽聖」とも呼ばれる

 僕は師というものを一度も持ったことはないが、それでもあえて師と呼べる人間を探すとすればそれはベートーヴェンをおいて他にない。僕は幼いころよりずっと彼の交響曲に夢中になり彼を心の師として慕っていたが、成長するにしたがって彼の存在が倒すべき巨大な壁だと思うようになった。確かにベートーヴェンは素晴らしい。まさに楽聖と呼ばれるにふさわしい音楽を書いている。だが僕はいつまでもその音楽に囚われたままでいたら自分は音楽家として成長できないのではないかと考えるようになった。それから僕はベートーヴェンを敬愛の対象から倒すべき敵だと思うようになったのだが、それは弟子が師を乗り越える過程そのままだ。ベートーヴェン自身が師匠のハイドンを乗り越えたように僕も彼をリングに沈めて勝利宣言をするつもりであった。だが僕はいまだにベートーヴェンを乗り越えられない。今僕が彼に出来ることはそのモジャモジャの髪の毛を引っ張ることぐらいだ。前置きが長くなったが本題に入ろう。人はベートーヴェンはロマン派ではなくて古典派の作曲家だという。だが僕はそんな意見には与しない。はっきりというがベートーヴェンこそロマン派の真なる始祖なのだ。彼は確かにモーツァルトほどの才能はない。あの天使ほど無邪気に曲と戯れることはできない。モーツァルトが天使なら彼は地上の王だ。王ではあるが我々と同じ人間だ。だが彼は王として新たな時代を切り開くための勇気があった。彼はハイドンが作り上げたクラシックにロマンとフォルテシモを融合させ全く新しい芸術を作り上げた。これはあの天使モーツァルトにさえ出来なかったことだ。彼によって交響曲やソナタはハイドンやモーツァルトとは比べ物にならないほど巨大なものになった。僕はベートーヴェンの登場によって初めて正々堂々とフォルテシモできる曲が生まれたのだと思っている。僕は彼の運命で初めてフォルテシモしたあの演奏会を今もはっきりと覚えている。指揮をしている最中僕はベートーヴェンが何度も早くフォルテシモしろと言っているのを聞いたのだ。恐らく彼も生前耳が聞こえない中音の感触を確かめるために必死でフォルテシモしていたのだろう。そのフォルテシモをしろと僕に迫って来たのだ。僕は彼に言われるがままにフォルテシモと絶叫した。そのベートーヴェンがフォルテシモに切り開いた道をシューベルトやそれ以降のロマン派の作曲家が続いて行ったのだ。

代表曲『交響曲第五番『運命』』『交響曲第九番『合唱』』『交響曲第三番『英雄』』『交響曲第六番『田園』』『ピアノソナタ 第14番 『月光』』『クロイツェルソナタ』他多数。

フランツ・シューベルト

フランツ・ペーター・シューベルト(ドイツ語: Franz Peter Schubert 1797年1月31日 - 1828年11月19日)初期ロマン派の作曲家。

 シューベルトの事を思い浮かべると僕はどうしてもモリエールの喜劇『いやいやながら医者にされ』のタイトルを連想してしまう。想像の赴くままに歌曲を次々と書きながら、一方でベートーヴェンに続かんと交響曲やピアノソナタ等膨大な楽曲を書いていた。だがそれらの殆どは発表される死ぬまで引き出しの中にしまってあったという。シューベルトはベートーヴェンが死んでまもなくチフスにより若くして亡くなった。もし彼が死なずに引き出しの中の膨大な楽曲を出版することができたら恐らく彼はベートーヴェンの後継者として大作曲家と世間にもてはやされたであろう。しかしそれは彼が本当に望んでいたことなのか。シューベルトは勿論ベートーヴェンを深く尊敬していたが、同時にベートーヴェンの存在を疎ましいものに感じていた。彼は常日頃ベートーヴェンがもたらした悪影響について語っていたそうだ。シューベルトが真に敬愛したのはモーツァルトであったという。この事実は彼の歌曲を聴けば即座にわかることであろう。そのメロディはモーツァルト直伝の天使メロディーだ。だが時代はすでにベートーヴェンのものであったのが彼の不幸だった。シューベルトは次代の作曲家として成功するためにいやいやながらベートーヴェンの王太子になったのである。彼は己の中のモーツァルトを歌曲に封じ込め、ベートーヴェンの後継者として交響曲やピアノソナタを書き続けた。僕はシューベルトの生き様にロマン派がいかにモーツァルトを求めていたのかを痛切に感じる。決して届かぬ理想を追い求めてこの世界から飛び立とうと思うが、しかし翼のない自分たちには空など飛べずこの現実の中で夢を見るしかない。その夢とは勿論モーツァルトである。ああ!もしかしたらあのベートーヴェンでさえもモーツァルトを夢見ていたのかもしれない。僕はシューベルトの未完成交響曲を演奏するときいつもモーツァルトを思い浮かべている。時折混乱して間違ってモーツァルトの第四十番を振ってしまうことがあるがシューベルトはきっと笑って許してくれるだろう。

代表曲『交響曲第八番『未完成』』『交響曲第九番『グレイト』』『アヴェ・マリア』『弦楽四重奏曲第十四番『死と乙女』』『ピアノ五重奏曲『ます』』『歌曲集『冬の旅』『美しき水車小屋の娘』『白鳥の歌』』歌曲『魔王』『野ばら』他多数。

エクトル・ベルリオーズ

ルイ・エクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz、1803年12月11日 - 1869年3月8日)は、『幻想交響曲』でよく知られているフランスのロマン派音楽の作曲家である。

 ベートーヴェンが築き上げたドイツクラシック帝国にフランスから攻め入った成り上がりのナポレオン。それが僕のベルリオーズの印象だ。しかしこんなことを書いているが、僕はベルリオーズは嫌いではない。それどころか僕はベルリオーズを深く尊敬し愛している。このシューベルトと同世代のフランスの作曲家はシューベルトよりもはるかに果敢にベートーヴェンが切り開いた道を突き進んだ。僕は彼の『幻想交響曲』をロマン派史上最も奇想に満ちた交響曲だと考えている。この曲はベルリオーズのフォルテシモのビッグバンだ。恋に破れた挙句阿片に取り憑りつかれ破滅してゆく芸術家を描いたこの曲は、今聴いてもなお、いや今聴いたほうがはるかにリアルだ。僕はこの曲を演奏している最中にマネージャーに命じて阿片を持って来させようとした事がある。天使の翼で遠い彼方へ旅立ってしまったあの人。一人取り残された僕はいつの間にか交響曲の主人公のような気分になってしまい、やけのヤンぱちになってしまったのだ。あの人が二度と戻らぬのなら人生などいらぬ。阿片で幻想を夢見て死んだ方がマシだ。そんなこそさえ思った。だが、僕は生きねばならぬと自分を叱咤した。全てを失っても僕には芸術がある。そして僕は死の誘惑に抗するために張り裂けんばかりに叫んだのだ。「フォルテシモぉ〜!」と。

代表曲『幻想交響曲』『死者のための大ミサ曲』『ロメオとジュリエット』『イタリアのハロルド』等。

ロベルト・シューマン

ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 - 1856年7月29日)は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。

 クラシックで初めて狂気を表現したのはシューマンではなかったか。僕は幼少の頃初めてシューマンを聴いた時、一瞬にして彼の狂気に侵され、三階建ての家の屋上で我は狂人なりと叫びまくってしまった。今までのクラシック人生であれほど我を見失ったことはない。全く恐ろしい体験であった。僕は冒頭に狂気を初めて表現したのはシューマンだと書いた。だが、この僕の主張に疑問を持つ人もいるだろう。ではベルリオーズはどうなのだ。彼の『幻想交響曲』をはじめとした作品は狂人の夢ではないか。またその他の作曲家の狂気を扱った作品を挙げる人もいるかもしれない。しかし彼らの描いた狂気とシューマンの狂気はまるで別物だ。ベルリオーズをはじめとした作曲家の狂気は演じられた狂気である。いわばロマン派の大舞台で繰り広げられる豪華な大芝居なのだ。対してシューマンの狂気は内なるものから出た本物の狂気である。例えばゴッホの描く夜空を見るがいい。あれは狂気に侵されていたゴッホがそのように見た夜空なのだ。彼には実際に星が暗闇の中をとぐろを巻いているのを見たのである。シューマンの音楽もこれと同じである。彼の音楽は狂気の調べであり、彼の歌は狂気の歌である。このかくも繊細なる男はその繊細さゆえに狂気に侵されたと言える。シューマンも昔は評論家としてシューベルトのあの第八番『グレート』を発見したりして旺盛な活動をしていた。だが、その間にも狂気は彼の頭を蝕んでいたのだった。ああ!いつの間にか彼もゴッホと同じように芸術家の病に侵されてしまったのだ。僕は彼が狂気に侵されたのは見果てぬフォルテシモにな夢を見てしまったからだと思う。彼の交響曲やピアノ協奏曲。そしてあの美しい『クライスレリアーナ』。それらすべての曲に共通するのは見果てぬ夢への憧憬だ。ああ!シューマンは意図せずしてロマン派の地獄に迷ってしまったのだ。同国の偉大なるロマン派詩人ヘルダーリンのようにフォルテシモな夢を追っているうちにいつの間にか地獄に入ってしまったのだ。繊細な彼にはこの地獄から脱出するすべはありようがなかった。シューマンが狂気に侵されてしまったのはロマン派の一大悲劇であるが、しかしシューマンはロマン派のために自らを犠牲にしたとも言える。僕はこの悲劇の作曲家の曲を命が続く限りフォルテシモに演奏して彼を悼み続けるだろう。

代表曲『交響曲一番『春』』『ピアノ協奏曲』『クライスレリアーナ』『謝肉祭』『幻想小曲集』等多数

フェリックス・メンデルスゾーン

ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809年2月3日 - 1847年11月4日)は、ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニスト。

 ロマンティックな才人。これが僕のメンデルスゾーンの正直な印象だ。メンデルスゾーンはかつてのモーツァルトのように幼き頃から神童ぶりを発揮してたくさんの名曲を書き続けてきた。その口当たりのよい彼の曲は同時の人に愛されれ、今もなお聴かれているが、僕は残念ながら彼をあまり好まない。彼は確かにモーツァルトのように次から次へと名曲を書いたであろう。だが彼の曲にはモーツァルトのようなフォルテシモの恐ろしさはない。あのいつのまにか空に放り込まれてしまうような果てしなきフォルテシモの広がりはまるでない。彼の曲は譜面に書かれている通りのもので底知れぬ深淵を感じさせるようなものはない。僕とて彼の美しきメロディに時として情感を掻き立てられるが、しばらくするとそれはすぐに消えてしまう。メンデルスゾーンはバッハを復活させた事でも知られるが、それはもしかしたら彼自身が自分が真の天才でないのを理解し、その天才性に憧れて演奏会でバッハを取り上げたのかも知れない。僕はもしタイムスリップ出来るなら彼の指揮による『マタイ受難曲』の演奏会を聴きたいと思う。確かな才を持ちながら天才になれなかった男が憧れを込めてフォルテシモに指揮するバッハのマタイ受難曲。これほど魅惑的なものはないではないか。

 代表曲:『交響曲第三番『イタリア』』『劇伴音楽『真夏の夜の夢』』『ヴァイオリン協奏曲』『無言歌集』等多数。

フレデリック・ショパン/フランツ・リスト

フレデリック・フランソワ・ショパン(仏: Frédéric François Chopin 、ポーランド語: Fryderyk Franciszek Chopin、生年未詳(1810年3月1日または2月22日、1809年説もあり) - 1849年10月17日)は、ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。
フランツ・リスト(独: Franz Liszt)、もしくはリスト・フェレンツ(ハンガリー語: Liszt Ferenc、1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリー王国出身で、現在のドイツやオーストリアなどヨーロッパ各地で活動したピアニスト、作曲家。

 まず最初にこの二人を同じ項目で語ることについて弁明したい。ともに大作曲家である二人を何故個別に項目を立てずセットで語るかというと、それは勿論この二人が個別で語るに値しないということではなく、逆に同じ項目で二人を語れば彼らの偉大さがよりはっきりと語ることが出来ると思ったからである。この二人は共に偉大なピアニストであり、ともに偉大なる作曲家であったが、二人の目指した方向は見事なまでに真逆であった。この二人の曲は小宇宙と大宇宙に例えられるだろう。ショパンは小宇宙で、リストは大宇宙である。だが決して小宇宙は大宇宙には劣るわけではない。二人はそれぞれの宇宙で等しく輝いているのだ。ショパンのピアノの小宇宙はあらゆる元素が凝縮されたダイヤモンドの宇宙である。その宇宙は甘美であり、濃密であり、甘いフォルテシモに満ちている。僕は演奏会で自分でオーケストラに編曲した彼の名曲『革命』を演奏するのだが、そうして演奏すると彼の曲がどれほどフォルテシモであるかがわかるのだ。彼は他の作曲家のように管弦楽曲を書かず、ピアノでも大曲をあまり書かずもっぱら『革命』や『雨だれ』のような小曲を書き続けたが、その小曲こそが彼の最もフォルテシモな宇宙を形作っているのだ。対してリストはピアノや管弦楽曲でひたすら大曲に取り組んだ。その恐ろしく技術を要する楽曲は音楽家を志す子供たちを散々に苦しめただろう。僕は幼き頃、三階建ての自宅の屋上に閉じ込められて、幽鬼のような老人に鞭でしごかれて泣きながら彼の曲を演奏していた。そんなこともあってか僕はずっとリストに対してテクニックだけの薄っぺらな作曲家という偏見を持っていた。だがこうして指揮者になってから改めて彼の曲に向き合ってみるとそのテクニックの裏には豊饒な宇宙があることが分かったのである。僕はそれまでずっとショパンを評価し、リストを軽蔑さえしていたが、それがわかってからリストを尊敬する大作曲家のリスト、いやこう書くとただのダジャレになってしまうが、に加えることにしたのである。彼はピアノだけでなく管弦楽曲にも数々の名曲を残しているが、やはり彼の最高の楽曲はピアノによるものだろう。彼はその果てしなき豪雨のごとき連打でピアノ曲の可能性をフォルテシモなまでに広げたのであった。

ショパン 代表曲:『練習曲集(革命、雨だれ等多数)』『ボロネーゼ集』『ワルツ集』『マズルカ集』

リスト 代表曲:『ピアノソナタ』『ピアノ協奏曲第一番』『死の舞踏』『巡礼の年第一巻~三巻』

ジュゼッペ・ヴェルディ

ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、1813年10月10日 - 1901年1月27日)は、イタリアの作曲家。19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作した。「オペラ王」の異名を持つ。

 昔、といっても二年ぐらい前か。僕はテレビ局の連中にとある居酒屋に連れていかれたことがある。私は普段居酒屋などにいかない人間だが庶民の生活というものに少し興味があり、とりあえず庶民というものを観察しようと思って居酒屋に行くことに同意したのである。しかし私は居酒屋に入った途端店とその客を見て急に不愉快になった。店はもう音楽ともいえぬ騒音を垂れ流し、しかもテレビまでつけているのだ。僕はふざけるなとその場で帰ろうとしたが、しかしいきなりテレビ局の連中に肩を掴まれて大振さん座ってと無理矢理椅子に座らされたので僕はそのまま店い続けるしかなかった。客どもはテレビから流れるサッカーなる庶民のスポーツを見て興奮し、何が面白いのかあほみたいにわめいてみた。テレビ局の人間もまた同じようなもので、アホ面下げて僕に次のワールドカップ日本が優勝するとといいですねぇ~などと何が面白いのかゲラゲラ笑いながら僕に声をかけた。僕はこんな庶民的なスポーツで我が国が優勝なんぞしてもなにも面白くない、かえってこんなバカスポーツに皆が熱狂したら日本はお終わりだと恐ろしくなる。ああ!我が国にもはや芸術はないのか。僕がそう憂いていた時、バカ客の一人がこんな事を喚いたのだ。「ヴェルディ全然ダメじゃん!この万年ビリッケツが!そんなんだからいつもバカにされるんだよ!」僕はこのイタリア最大のオペラ作曲家に対する侮辱に大激怒した。「貴様!無礼にもほどがあるぞ!イタリア国民の魂を捕まえて何がダメじゃんだ!おい貴様ヴェルディのオペラのどこがダメで、どこが万年ビリッケツで、どこがいつもバカにされるのか言ってみろ!」と怒鳴りつけた。テレビ局の人間は僕に対して誤解だと言って僕を宥めたが、どこが誤解なのだ!あからさまにヴェルディを誹謗中傷しているではないか!ろくにクラシックも知らぬのに一方的に誹謗中傷するとは!これだから庶民はダメなのだ!僕はそれから二度と居酒屋なるものに行ったことはないが、今になってもこの事件を思い出すたびに激しい怒りに駆られる。というわけでいささか前置きが長くなったが今回はイタリアのオペラ王ジョゼッペ・ヴェルディである。ヴェルディは次の記事取り上げるワーグナーと同い年に生まれた。この二人は共に巨大な才能を持ちイタリアとドイツのオペラを飛躍的に発展させている。彼らのオペラはイタリアとドイツでともにあった国民的なナショナリズムの高揚と共にあったといえるだろう。さてヴェルディはオペラ作曲家なので当然彼のオペラについて語らなくてはいけない。だがヴェルディのオペラについて門外漢の僕が一体何を語ればいのか。僕は思わず言葉を失う。彼はあらゆる意味で偉大な人物であり、生涯イタリアと共にあった。彼のオペラはワーグナーのように貴族のために書かれたものではなく、庶民のために書かれたものであった。ああ!そのイタリアの庶民とは彼に対してダメ出しとか、万年ビリッケツとか、いつもバカにされてるとか言わぬ人間であったろう!彼のオペラに出てくる登場人物はたとえ外国人の役であろうと、みなイタリアの魂をもっている。彼の登場人物はフォルテシモの本場でフォルテシモを迷いなく叫ぶことが出来る人間たちだ!そんなヴェルディの中で僕が一番好きなのは実はオペラではない。そう、あの『レクイエム』である。僕はこの宗教曲にオペラの形式から解き放たれたヴェルディの真のフォルテシモの声を聴くのである。この曲をくさす人はこれはレクイエムじゃなくてただオペラだという。だが違うのだ。ヴェルディはオペラもレクイエムも人間の声をそのままに響かせていた。彼はレクイエムでオペラよりももっとダイレクトに人間の声を響かせようとした。たしかにその声は宗教曲としては厳粛さがなく、また騒々しすぎる。だがそれはヴェルディがあくまで人間のあるがままの声を響かせようとした結果なのである。

代表曲:『マクベス』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』『仮面舞踏会』『運命の力』『ファルスタッフ』『レクイエム』等多数

リヒャルト・ワーグナー

ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(独:Wilhelm Richard Wagner, ドイツ語: [ˈʁɪçaʁt ˈvaːɡnɐ] 、1813年5月22日 - 1883年2月13日)は、19世紀のドイツの作曲家、指揮者、思想家。名はワグナーやヴァ(ー)グナーとも書かれる。

 いよいよこのロマン派最大の怪物について書くときが来た。この怪物はベートーヴェンと同じ事を彼が苦手としたオペラで成し遂げた。この小男ワーグナーは若き頃からとんでもない誇大妄想狂だったが、妄想が先走り過ぎてなかなか傑作を書く事が出来なかった。彼のライバルであったヴェルディはいち早く人気ものになったが、その間ワーグナーは自分の背を伸ばすことを諦めて自分の音楽を際限なく大きくしようと考えようとした。まず彼の試みは出世作『さまよえるオランダ人』で試みられた。それから『タンホイザー』や『ローエングリン』がそれに続き、第四作目にあの『トリスタンとイゾルデ』がくるのだが、僕はこのワーグナーの最高傑作と言われる作品に対して今は何も語れない。本当は何も書きたくはない。だが編集者はワーグナーでトリスタンを語らなかったら意味はないでしょう。大体あなたは最近トリスタンを演奏しているじゃないですかと僕にトリスタンについて書くのを迫るのだ。確かに書かなければいけないだろう。この曲の溢れんばかりの官能性について大量の文字を費やさなければいけないのだろう。だがそれは今の僕には出来ないのだ。書こうとするとあの痛ましい悲劇を思い出してきてどうしても心が乱れてしまう。ああ!まさかかつてオペラ史上最高傑作と思っていた作品に対してこんな気持ちで向き合うとは思わなかった。僕もできるならトリスタンとイゾルデのように許されぬ恋の彼方に一糸まとわず二人でに旅立ちたかった。だけどあまりに凡庸なこの現代は僕らを残酷に引き裂いてしまったのだ。こんな曲と全く関係ない事を書いて非常に申し訳ないが、やっぱり書かなければ僕の気が治らないのだ。いっそトリスタンとイゾルデがこの世から消え去ってしまえばいいと思っている。だが消えはしないだろう。僕の恋の炎が散々水をぶっかけたり、氷漬けにしたりして消そうとしても今もなお燃え盛っているように。もういい加減トリスタンを忘れて次に移ろう。さてワーグナーはトリスタンの後にも『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を書き、そして遂に彼の音楽家人生を費やした超大作『ニーベルングの指輪』を書き上げる。この天地を揺るがすような大傑作について語ることが山ほどありすぎる。ゲルマンの猛々しい神々や巨人族や小人族の巨大にも程がある四日間をかけて上演される巨大なるセレブレーション。もうすべてがフォルテシモの塊と言っていい。僕は一度だけバイロイト音楽祭で『ニーベルング指輪』を観たがその最終日の『第三夜:神々の黄昏』のクライマックスで歓喜のあまりたまらず我こそ神なりと叫んで指揮棒をもって舞台に上がってしまった事がある。あの時はすぐに取り押さえられて残念ながら指揮することが出来なかったが、僕が指揮をしたらあの舞台よりもはるかにフォルテシモな『ニーベルングの指輪』を観客に聴かせることが出来ただろう。今の僕はあの痛ましい思い出しか残さなかった『トリスタンとイゾルデ』なんかよりよりこっちのほうがはるかに素晴らしいと思う。何が恋愛だ。何が永遠の誓いだ。そんな噓だらけの薄っぺらなものよりはるかに大事なのは英雄と神話と民族の団結だ。『ニーベルングの指輪』は今の僕にそれを教えてくれた。ワーグナーの最後の楽劇『パルジファル』で一転して崇高な宗教劇を作り上げた。前作『ニーベルングの指輪』が巨大な宮殿なら『パルジファル』は小さな教会だ。しかしこの教会はなんと崇高なのであろうか。僕は『パルジファル』を聴くたびにいつも眼が眩むような錯覚を覚える。ワーグナーはここでトリスタンのような人を苦しめるだけの恋や愛より大事なものがあると語っているのだ。この作品も今の僕にとって『トリスタンとイゾルデ』よりはるかに重要な作品だ。僕は早くトリスタンの迷妄から覚めて『ニーベルングの指輪』の壮大さや『パルジファル』の崇高さを会得したいと思う。

代表曲:『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『ニーベルングの指輪』『パルジファル』『交響曲ハ長調』『ピアノ曲:エレジー』等

ヨハネス・ブラームス

ヨハネス・ブラームス(独: Johannes Brahms、1833年5月7日 - 1897年4月3日)は、ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者。

 ブラームスはバッハ、ベートーヴェンとともに三大Bと称され、ドイツクラシックの偉大なる伝統を受け継ぐ作曲家として知られている。彼は前回扱ったワーグナーとは十歳以上年下であり、また楽曲の傾向も純音楽とオペラで激しく異なるにも関わらずライバル扱いされていた。だがその理由は明白である。ワーグナーの楽曲のあまりの革新ぶりにおびえた保守派が自分たちの信ずるドイツクラシックを守るために、それまで地味に玄人向けの楽曲を書いていたこのブラームスをクラシックの救世主のごとく担ぎ上げたのである。ブラームスは彼らの期待に応えようとベートーヴェンの伝統を受け継いだ交響曲を書いた。だがそれはベートーヴェンから革新的な部分を排除し、安全な部分のみを取り出した代物であった。その決して冒険に走らない安全第一の交通看板のようなこの作曲家は保守派の代表となり、いつの間にかバッハやベートーヴェンと並び称されるようなドイツ音楽の代表的な巨匠になったのである。ここまで読んでブラームスのファンはきっとお怒りだろう。大振はなぜにそこまでブラームスを嫌いなんだと思われているかもしれない。しかし僕はブラームスが嫌いではない。むしろ彼の音楽を聴いてハンカチを四枚使って激しく泣く人間だ。僕はこのブラームスかワーグナーかどっちを取れと言われたら勿論フォルテシモにロマンを体現したワーグナーを取る。だがブラームスもフォルテシモできないような安全第一のつまらない作曲家ではないのだ。僕はブラームスの曲を聴くとそこに成功するためにあえてフォルテシモを自分の胸に封じた男の悲しみを見る。去ってゆく女を涙を耐えて見送るそんな男のロマンを感じるのだ。彼は若き頃に『ドイツ・レクイエム』を書いているが、その曲は僕にロマン派以前の時代を生きたバッハがロマンへのフォルテシモな感情を神への祈りに変えて書いた曲たちを思い出させる。ブラームスはバッハと同じように己が心にフォルテシモなほどのロマンを神への祈りへと変えてあのレクイエムを書いたにちがいない。それ以降の作品も同じである。ベートーヴェンを安全第一的な代物に変えてしまったあの交響曲群も、よく聴けば彼の秘められた濃密なフォルテシモが漂っている。彼の曲達は今の僕に熱く訴えかけてくる。ああ!ブラームスよ!あなたは世界中の人間から何枚ハンカチを水浸しにしたのだ!

代表曲:『交響曲第一番』『交響曲第二番』『交響曲第三番』『交響曲第四番』『ピアノ協奏曲第一番』『ヴァイオリン協奏曲第二番』『前奏曲集』『ハンガリー舞曲集』『ドイツ・レクイエム』等多数

アントン・ブルックナー

ーゼフ・アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner, 1824年9月4日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家、オルガニスト。交響曲と宗教音楽の大家として知られる。

 震えるほどの歓喜を。僕はブルックナーの名を見るたびにそんな言葉を思い浮かべてしまう。いささか駄洒落じみてくだらないと思うが、本当の事だから仕方がない。それにブルックナーもまたブルっと震えるような歓喜と共に生きてきた。まず彼を震わせたのは宗教であり、それからベートーヴェンやシューベルトの交響曲であった。しかし彼を最も震わせたのはやはりロマン派最大の怪物ワーグナーの僕の個人的な事情のためその名を口にできないケルト神話を題材にしたテキストを元にしたオペラである。この楽曲にフォルテシモに震えたブルックナーは熱烈なワグネリアンとなり生涯ワーグナーを信奉し続けた。ブルックナーの楽曲は先に挙げた作曲家たちや幼き頃より親しんでいた聖歌の影響を素直に反映したものであるが、その楽想はアルプスの山々を思わせるような清廉で壮大なものである。口の悪い人はブルックナーの交響曲を同じことの繰り返しと嘲笑する。だがブルックナーはひたすら自らのブルッと震えるような歓喜を楽曲にしていたわけであり、生涯ひたすら山を積み上げるように交響曲を書いていたのである。遠くから見れば山々の景色は皆同じに見える。だが近くによれば山にもそれぞれに特色があり、その風景はどれも違う。ブルックナーの交響曲もそれと同じである。僕はブルックナーを指揮する時はいつもブルっと歓喜震えながら振っている。ドキドキ歓喜のあまりブルっとしすぎてフォルテシモに倒れてしまうことがあるが、多分ブルックナーはそんなブルッとしながら心配しているだろう。

代表曲:『交響曲第四番『ロマンティック』』『交響曲第七番』『交響曲第八番』『交響曲第九番』『荘厳ミサ曲』等多数。

モデスト・ムソルグスキー

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキー(Моде́ст Петро́вич Му́соргский ラテン文字転写:Modest Petrovich Mussorgsky, 1839年3月21日 - 1881年3月28日)は、ロシアの作曲家で、「ロシア五人組」の一人。

 世界一野蛮なフォルテシモを持つ男。それが僕のムソルグスキーの印象だ。ムソルグスキーはドイツ音楽に反発しロシアの民謡などから創意を経て民族主義的な音楽を作曲するようになった。その音楽は写実的ともいわれ当時のロシア国民の姿をリアルに表しているといわれている。だが僕はこのムソルグスキーはあまり好みではない。確かに彼には大量のフォルテシモがあるが、それはあまりにも野蛮でありエレガントに著しく欠けている。彼の代表作の『はげ山の一夜』等全く野蛮で到底演奏する気にはなれない。一度僕はこの『はげ山の一夜』を演奏したが、その時僕は演奏中に自分が禿げてしまうことを恐れて自分の頭に大量の植毛剤をふりかけ、さらに念のためには念と楽団全員の毛も抜けないように植毛剤をかけて演奏に臨んだことがある。その演奏は僕の脱毛への心配がたたったのかまるでうまくいかず、それ以降僕は『はげ山の一夜』は演奏していないが、もし演奏が成功し、僕の演奏レパートリーに入っていたら自分の頭はどうなっていたかと考えると恐ろしくなる。この美男子で天才でアポロンのような男の頭が禿山になっていたとしたら……。

代表曲:『はげ山の一夜』『展覧会の絵』『オペラ:ボリス・ゴドゥノフ』『歌曲:死の歌と踊り』等多数

ピョートル・チャイコフスキー

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(露: Пётр Ильич Чайковский [ˈpʲɵtr ɪlʲˈjitɕ tɕɪjˈkofskʲɪj]Ru-Pyotr Ilyich Tchaikovsky.ogg.ラテン文字表記の例:PyotrあるいはPeter Ilyich Tchaikovsky、1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日))は、ロシアの作曲家。

 チャイコフスキー。こう口にするだけで涙が出てくる。そのまるでロシアの大地のような巨大な憂愁が僕を号泣させてしまうのだ。僕は幼い時からずっとチャイコフスキーに親しんでいた。幼い僕の耳を引き付けたのは彼のバレエ曲だった。僕は彼の三大バレエに夢中になり、二階の自分の部屋で彼のバレエ曲をかけながらつま先を立ててくるくる回った。だが一階の居間にいた両親はうるさいと僕の部屋に怒鳴り込んできて僕からチャイコフスキーのCDを取り上げてそのまま持ち去ってしまったのだ。僕はこの大事件で凡庸な人間には徹底的に芸術が理解できないと言うことを学んだ。息子にピアノを与えておきながら音を立てるなと怒鳴りつける親という名の凡庸な人間たち。彼らは子供たちの可能性を徹底的に押しつぶすのだ。フォルテシモにくるくる回りすぎてまるでドリルでアスファルトを砕くような騒音が出したからってどうしたというのだ。フォルテシモに興奮したあまりバレエのジャンプで二階から真っ逆さまに落ちたからって何だというのだ。それらはすべて芸術のためではないか。チャイコフスキーは僕をが真の芸術家であることを気づかせてくれた恩人である。彼がいなかったら僕は指揮を目指さなかったし、世間はこの天才指揮者大振拓人の誕生を見ることもなかったのだ。そのチャイコフスキーはクラシックの専門家の受けが非常に悪い。曰く彼はあまりにも情緒過多。構成力がなく、ただ甘ったるいメロディーだけの通俗音楽。ああ!いい加減にしてくれ!何が情緒過多だ!情緒過多こそロマン派の神髄じゃないか!何がメロディーだけで構成力がないだ!そんなものはメロディーの書けない能無しどもの嫉妬でしかない!チャイコフスキーはモーツァルトを真に尊敬し、彼のようなメロディーを書くことを目標としていたのだ!チャイコフスキーにとって構成力とはすなわちメロディーである。彼はフォルテシモな衝動のままに次から次へと甘美極まるメロディーを紡ぎ出していったが、いざ彼の曲を聴くと全く不思議なくらい曲が完璧につながっているのだ。もう一つ彼はこうも罵倒されている。深みもなくただ悪臭をまき散らす芸術を気取ったただのゴミ音楽。僕はこの文章を書いた人間を一生許さないだろう。死んでもし天国にいたら、僕は天国の神に向かってこいつがあの偉大なるチャイコフスキーを中傷していたと訴えて彼を地獄に突き落とさせるだろう。こういう連中はチャイコフスキーの表面しか見ないのだ。彼の書く甘美なメロディーに嫉妬し、嫉妬のあまり彼の本質を見ようともせず、一方的に彼を通俗作曲家と罵るのだ。僕の通っていた高校にはそんな奴らがたくさんいた。僕が連中の前でチャイコフスキーの偉大さをフォルテシモに讃えたら、連中は素人さんはいい趣味してるねと半笑いで僕にのたまったのだ。僕がそのあと連中をどうしたかはここでは語らないが、コイツラがしばらく椅子に座れることが出来なかったことだけは書いておく。どうやら自分の思い出話ばかり書いてしまったが、やはりここでチャイコフスキーについて書いておかねばならないだろう。彼を批判する人間が書いているように確か一聴して情緒過多の甘いメロディーで覆いつくされた通俗音楽のように聴こえるところがあるかもしれない。僕は上に書いたようにそれを良しとして積極的に支持するが、それを嫌う人間がいる事もまたよく知っている。だから僕はその人たちに向かって言いたいのだ。チャイコフスキーは甘ったるいだけの通俗音楽ではないのだ。彼のその甘さで覆いつくされたメロディーの奥には底知れぬ憂愁が覗いている。僕がそれを知ったのは中学時代である。当時原語で読んだ『若きウェルテル』の影響を受けすぎて死の誘惑に駆られていた僕はたまたまだが、久しく聴いていなかったチャイコフスキーの第六番の『悲愴』を聴いたのだ。こうして年月を経て改めて『悲愴』聴いて、僕はそれまで甘美な音楽として聴いていたこの交響曲の中には、実にフォルテシモなほど憂愁の荒野が広がっていることに気づいたのである。果てしなく広がるロシアの大地にただ一人苦悩に打つひしがれるチャイコフスキー。迫りくる死に抗して男はただ泣き叫ぶ。しかし彼はふと現実から逃れて過去の幸福だった時代の夢を見る。そして生きんとして激しいマーチを鳴らすのだ。だが、それもむなしい抵抗でしかない。男を待っているのは約束された死であった。フォルテシモなほどに陰鬱なアダージョは死にゆく男への一早い葬送行進曲だ。だが男は再び生を願わんとして最後の抵抗を試みる。しかしそれもむなしく死はとうとう男を完全に覆いつくしてしまった。最後に奏でられるのは男への鎮魂歌である。弦楽器の音はフォルテシモからピアニッシモへと小さくなっていきやがて消えてゆく。ああ!偉大なる芸術家チャイコフスキーよ!なぜおまえは死にゆくのか!僕はこの曲を聴いて自分の死への誘惑が酷くちっぽけなもののように感じた。このフォルテシモなまでの憂愁を誰かに教えなければならぬと思ったのだ。僕はこの時指揮者として目覚めたのだ。天才指揮者大振拓人はこの時に目覚めたのだ。僕はそれ以来ずっとチャイコフスキーを演奏している。僕の天才はもはや彼を完全に超えてしまったが、それでもチャイコフスキーを演奏するのは天才の僕を指揮者として目覚めさせてくれた彼に対する恩返しだ。

代表作:『交響曲第四番』『交響曲第五番』『交響曲第六番『悲愴』』『ピアノ協奏曲』『ヴァイオリン協奏曲』『弦楽セレナーデ』『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『眠れる森の美女』『オペラ:エブゲニー・オネーギン』など多数。

アントニン・ドヴォルザーク

(チェコ語: Antonín Leopold Dvořák [ˈantɔɲiːn ˈlɛɔpɔlt ˈdvɔr̝aːk] Cs-Antonin Dvorak.ogg 、1841年9月8日 - 1904年5月1日)は後期ロマン派に位置するチェコの作曲家。

 ドヴォルザークはブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となりました。音楽史においてドヴォルザークは先輩作曲家のスメタナとともにボヘミア楽派の一人とされています。ヨーロッパ中に名声が広がり、アメリカでも知られるようになったドヴォルザークはニューヨーク・ナショナル音楽院に招聘され、音楽院院長としてアメリカの音楽教育に貢献しました。彼はその音楽院院長の職務の傍らでネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌の研究に勤しみ、作曲の幅を広げてより多彩な曲を描くようになりました。代表曲の『交響曲第九番『新世界より』』はアメリカに住んでいたころに書かれた曲ですが、この曲にはドヴォルザークがアメリカで研究したネイティブアメリカンの音楽や黒人霊歌の影響が感じられ、それまでの彼の交響曲に比べて開放的なものになっています。

※編集部注:このドヴォルザークの項目は大振拓人氏が頑として執筆を拒否したため編集部が代わりに執筆しました。

代表作 『弦楽セレナード』『管楽セレナード』『交響曲第7番』『交響曲第8番』『交響曲第9番『新世界より』』『スラヴ舞曲集』『チェロ協奏曲』等多数。

エドヴァルド・グリーグ

エドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ(Edvard Hagerup Grieg [ˈɛdʋɑɖ ˈhɑːɡərʉp ˈɡrɪɡ]、1843年6月15日 - 1907年9月4日) は、ノルウェーの作曲家である。現地語での発音は「エドヴァル・グリッグ」に近い。また語末のgが無声化してしばしば/k/と発音されるドイツ語読みの影響で「グリーク」と表記されることもある。

 十九世紀の後半北方の国ノルウェーから一人の巨人が現れた。ヘンリック・イプセンなる名のその巨人は戯曲家であり、『人形の家』『民衆の敵』『ペールギュント』等数々の戯曲で当時ヨーロッパに広まっていたヴィクトリア朝的な道徳的な価値観に反旗を翻し人間とは何かを観客に突き付けた。このイプセンの活躍により、それまで文化的辺境であったノルウェーの芸術はヨーロッパの国々から注目されることになるが、その巨人イプセンの肩にちょこんと座っていた小さな妖精。それが今回の主人公であるグリーグである。実際のグリーグも妖精と呼ばれるほど小さかったと言われる。彼は自分が小さいからか自分よりも小さいものを愛したそうで、手のひらサイズのカエルや豚の置物を愛し、寝るときもそれを抱いていたという。また小心者であった彼はステージでの緊張を和らげるために、時にそれらの置物を手で握りしめていたそうである。全く僕のような背がアポロンのように高く、勇気はヘラクレス以上にある人間にはわからない事である。僕がグリーグの親だったら真っ先にその幼児癖を叩きなおしてやったのに。こんな人間であるから曲もまた大半が小ぶりである。大半は抒情的なピアノ曲か室内楽であまりフォルテシモできるものではない。しかし代表曲の『ピアノ協奏曲』は違う。この曲には圧倒的なまでのフォルテシモがある。僕はこの曲あの有名なイントロのピアノのフレーズを聴いて思わず泣いてしまった。ここには恋に破れた悲劇的な瞬間がピアノでフォルテシモに奏でられているのだ。僕は度々このイントロをピアノで弾くがいつも泣いてしまう。特に最近はそうだ。僕はあまりにもこのピアノ協奏曲を愛するあまり、思わずオーケストラ版を作ってしまったほどだ。僕はそのオーケストラ版を演奏する時最初からフォルテシモに打ち鳴らし、フォルテシモの絶叫をするのだが、時々興奮のあまりフォルテシモの絶叫しすぎて指揮をするのを忘れてしまうことがある。もう一つの彼の代表作『劇伴音楽:ペールギュント』もまた素晴らしい。イプセンの名を最初に出しておいて今になって紹介するとは何事かとお叱りの声があるかもしれないが、僕は元々なんでもフォルテシモな霊感に導かれて行動を起こす人間なので、この文章も思いのままに書いているので許してほしい。このイプセンの戯曲『ペールギュント』のために作られた音楽はグリーグの持てる限りの全フォルテシモが表されているといっていい。ピアノ協奏曲ではそのすべてはイントロに込められていたが、このペールギュントではそれが全般に渡って表現されている。官能的な夜明けを奏でる『朝』、妖しき官能性さえ感じさせる『山の魔王の宮殿にて』、死者へのなぐさみの歌である『ソルヴェイグの歌』。ここには小さき妖精グリーグが巨人イプセンの肩を借りて表現したなけなしのフォルテシモがある。僕にとってグリーグはこの二曲で十分だが、しかしそれでも彼は僕にとって貴重な作曲家の一人であることは変わりはない。

代表曲:『ピアノ協奏曲』『劇半音楽:ペールギュント』『抒情小曲集』『二つの悲しき旋律』『ホルベルク組曲』等多数

カミーユ・サン=サーンス

シャルル・カミーユ・サン=サーンス(フランス語: Charles Camille Saint-Saëns, フランス語: [ʃaʁl kamij sɛ̃ sɑ̃(s)]. 1835年10月9日 - 1921年12月16日)は、フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト、指揮者。

 サン=サーンス。この三月の花粉症で通りの悪くなった鼻音のような名の男はフランスの作曲家である。彼の曲はいわゆるフランス的なエスプリを効かせたものでありロマン派的な激情に欠けているといわれる。僕も彼の曲をいくつか演奏した事はあるが、確かにみなフォルテシモに欠けているように思う。あのオルガン付きの交響曲など何故バッハの『トッカータとフーガ』の如く激しく苦悶しないのか。芸術家とは全てを投げ捨てて狂える感情をそのまま作品にぶつけるものだ。エスプリなんぞにこだわっていたら芸術など出来るはずがない。僕は彼の曲を聴くたびにそう思う。しかしそんな彼の曲でも唯一好きな曲がある。それは『動物の謝肉祭』の一曲である『白鳥』である。このチェロの独奏曲を僕は幼き頃より愛し、愛するがあまり、我もまた白鳥ぞと母が少女の頃に着ていたチュチュをつけて踊ったのである。僕は踊っている最中に死の誘惑に囚われた。この白鳥の僕はやがて死ぬだろう。ああ!己が天才の誕生を見ぬまま!だがそこにとんでもない邪魔が入ったのだ。母がいきなり飛び込んできて「あなた人が子供の頃着ていたチュチュで何してるんですか!そんな事をしていたらみんなから変態だって言われますよ!」母はそう言うなり嫌がる僕からチュチュを剥いでしまったのだが、この大事件で僕は世間とは何か知ったであった。ああ!あの時僕のような芸術家は凡庸な世間には絶対に理解されないのだと悔し泣きに泣いたものだ。だがそれから年月が経ち、僕もまた成長し、この曲の感じ方もまた変わってきた。今の僕は『白鳥』は恋の終わりを奏でた曲だと考えている。ああ!恋の淡さはまるで白くか細い白鳥のようではないか!白鳥は渡り鳥。季節を過ぎれば皆遠くへ旅立ってしまう。あの田舎じみた女も成長しやがて僕の元から去ってゆく。周りにいるのはただのアヒルばかり。僕は今この秋の終わりのように儚いメロディーの曲を聴いてふと遠き昔のあの人の事を思う。あの人は今どこにいるのだ。僕は白鳥一丁目であの人が帰ってくるのを待つしかないのか!

代表作:『動物の謝肉祭(白鳥)』『交響曲第三番(オルガン付き)』『オペラ:サムソンとデリラ』『ピアノ協奏曲第二番』『チェロ協奏曲第一番』他多数

ガブリエル・フォーレ

ガブリエル・ユルバン・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré, フランス語発音: ['gabʁjɛl 'yʁbɛ̃ 'fɔʁe], 1845年5月12日。1924年11月4日)は、フランスの作曲家、オルガニスト、ピアニスト、教育者。フランス語による実際の発音はフォレに近い。

 前回取り上げたサン=サーンスの最も優秀な弟子であったのが今回取り上げるこのフォーレである。この作曲家に関しては正直に言って非常に書きづらい。彼の作品はピアノ曲や室内楽が大半であるが、いわゆるフランス風のエレガントなものであり、フォルテシモが甚だしく欠けている。他の凡庸な作曲家ならフォルテシモできないクズと切って捨てるが、フォーレに関してはそれも難しい。やはり彼には只者ならぬものがあるのだ。しかしそんなフォーレの曲の中でも僕が真に賛嘆してやまない曲が一曲だけある。それはあの有名な『レクイエム』である。四畳半の貧乏アパートで毎日一人両親の帰りを待っていた僕はある日ラジオから聴こえてきたこの『レクイエム』の音にいいしれぬ幸福感に包まれた。そして激しく号泣したのだ。僕が何故このフォルテシモのかけらもない、ただピースフルな祈りとメロディが鳴っているだけの曲に号泣したかというと、それはこの曲に聖母マリアの愛を見たからだ。天から降りてきたイエス・キリストを慈しみ育てた聖母マリア。ああ!何と慈悲深き愛か!僕は愛に恵まれたイエス・キリストを羨んだ。ああ!天才である僕は聖母マリアと似ても似つかぬ俗物の母に忌み嫌われ、毎日四畳半のアパートでベビシュタインのグランドピアノの下で泣いていたのだ。ああ!母よ!あなたは何故聖母マリアのように僕を愛さなかったのか。僕はこの曲を聴くといつも孤独であった幼き日々を思い出して涙してしまう。恐らくフォーレはこの曲を書いた時聖母マリアを母に重ねていただろう。聞くところによると、フォーレはこの曲を書き始める直前に母親を亡くしているという。フォーレは僕と違って母の愛情に恵まれていただろう。その幸福の記憶がこのレクイエムを産んだのだ。だが僕にはそんな記憶などない。だから僕はこの曲を演奏するときは理想の母に向かって愛を叫ぶのだ。「フォルテシモぉ〜!」と。

代表曲:『レクイエム』『ペレアスとメリザンド』『マスクとベルガマスク』『夜想曲』『舟唄』『前奏曲』『ピアノ四重奏曲第一番』等多数。

ジャコモ・プッチーニ

ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ(伊: Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini、1858年12月22日 - 1924年11月29日)は、イタリアの作曲家。

 ヴェルディと並ぶイタリアオペラの巨匠がこのプッチーニである。僕はほとんどオペラの指揮をしたことがなく、そのせいもあってプッチーニをあまり聴いていなかったが、最近になって突然彼のオペラにのめり込んだ。中でも一番のめり込んだのがあの『蝶々夫人』である。正直に言うと僕はこのオペラを最近まで西洋人のバカなアジア趣味と思いっきり軽蔑していた。何がピンカートンだ。そんな奴に靡くほど日本の女はやわではない。大体僕のような真の美貌を持つ日本人がいるではないか。だが最近個人的に不幸な出来事があり、たまたまこの『蝶々夫人』の事を思い出して聴いてみたのである。僕は久しぶりに、いや初めてまともに『蝶々夫人』を聴いてこの悲恋物語が僕の体験したことと瓜二つだということに気づいたのである。ああ!僕らもピンカートンと蝶々夫人のように元違う国に住む者同士であり、そんな二人が出会ってすぐに恋に落ち、そして結ばれようとしていたのに!蝶々夫人が日本の因習にとらわれたように、僕らもまたクラシック界の因習にとらわれて先へと進めなくなってしまい、そして互いの熱情が空回りして切腹にも近い行為で永遠に別れてしまった!プッチーニの楽曲はそんなまるで僕らのようなピンカートンと蝶々夫人の悲恋物語をフォルテシモに熱く謳い上げている。僕はそのフォルテシモな音楽に合わせて、あの有名なアリア『ある晴れた日に』を去りしあの人を思って歌うのだ。涙交じりで「フォルテシモぉ~!」と叫びながら。

代表作:『蝶々夫人』『西部の娘』『トスカ』『ラ・ボエーム』『トゥーランドット』他

ジャン・シベリウス

ジャン・シベリウス(スウェーデン語: Jean Sibelius スウェーデン語発音: [ˈjɑːn siˈbeːliʉs, ˈʃɑːn -], 1865年12月8日- 1957年9月20日)は、後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家、ヴァイオリニスト。

 シベリウス。この北の果てから来た気高きオオカミのような風貌をした男はフィンランドの作曲家である。この作曲家を最初に知ったのは幼き頃両親がクリスマスプレゼントにとチャイコフスキーの『くるみ割り人形』と共にくれたCDからであった。そのCDは交響曲第二番でたしかカレリアも収録されていたと思う。僕は早速自分の部屋で曲を聴いたのだが、その瞬間部屋に冷たい冷気を感じたのだった。それどころか雪が降ってくるのを感じた。しかし実際には全く雪は降っておらず、暖房はしっかり25度だ。僕はこれに我慢が出来ず、フォルテシモに部屋の窓を全開にし雪たちを呼び込んだのである。雪は部屋に入り込んで床に降り積もり僕はその降り積もった雪に寝そべって曲に聴き入ったのだった。その挙句の果てに僕はフォルテシモなまでに凍死寸前になり、ギリギリで両親に助けられたのだが、この芸術のわからない低俗なブルジョワの両親は二人して僕に言うではないか。「そんな事をやっていたら凍死するぞ」と。いかにも芸術のわからぬ低俗なブルジョワらしい意見だ。芸術のために死ぬのがどうして悪いのだ。僕はこいつらの低俗な血が自分の体に一滴でも入っているのが恥ずかしくなり「貴様らには芸術がわからんのか!」と怒鳴りつけてやった。あの時僕は芸術は時に人をここまで狂わせるという事を学んだのである。その狂おしい雪の後遺症はしばらく続き、二度目に交響曲第二番を聴いた時、初めて聴いた時のような冷気がまるで感じられなかったので物足りなく思い、CDを冷やせばあの冷気が復活すると思ってCDを冷凍庫に入れて一日放っといたのだが、翌朝冷凍庫からCDを取り出したらバッキバキに割れていてとてもプレイヤーにかけられなかったので両親に再度CDを買いに行かせたのであった。あれから僕は大人になり、今は指揮者としてシベリウスの楽曲に日々接しているが、流石にあの頃よりは深くシベリウスを聴き込んでいる。こうして大人になった耳で改めてシベリウスの交響曲やその他楽曲を聴くと、その冷たさの中にも暖かみがあるのを感じるのだ。交響曲は後期になるにつれダイヤモンドのように冷たく凝縮されていくが、それと反比例するかのようにホッカイロのような暖かみも増してきているのだ。僕はそこにシベリウスのフォルテシモを見る。彼の交響曲はダイヤモンドの如く凝結させようとする意志と、それらを熱く解き放ちたいという意志が絶えずフォルテシモに衝突している。彼の交響曲を第一級の芸術作品にしているのはその葛藤のフォルテシモさ故だ。伝承によるとシベリウスを生んだフィンランドはサンタクロースが生まれた地でもあるという。僕はその事実に自分とシベリウスの結びつきを感じるのだ。ああ!幼き頃に聴いたシベリウスは確かに最高のクリスマスプレゼントだった!

代表曲:『交響曲第二番』『交響曲第四番』『交響曲第五番』『交響曲第七番』『クレルヴォ交響曲』『カレリア』他多数。

リヒャルト・シュトラウス

リヒャルト・ゲオルク・シュトラウス(Richard Georg Strauss、1864年6月11日 - 1949年9月8日)は、ドイツの作曲家・指揮者。後期ロマン派を代表する作曲家の一人であり、リヒャルト・ワーグナーとフランツ・リストの後継者と言われている。交響詩とオペラの作曲で知られる。ウィーンのヨハン・シュトラウス一族とは血縁関係はない。

 リヒャルト・シュトラウスは度々同国人であり同姓でもある、あのエレガントなワルツ一族との血縁かと勘違いされるが、実際にはワルツ一族とは何の関りもない。しかしリヒャルトはリヒャルトでまた音楽都市ウィーンの栄光と没落を象徴する作曲家であった。リヒャルトは次に紹介するマーラーと共に音楽都市ウィーンの黄昏の時代を生き、ある意味その時代に殉じたと言えるだろう。時代を機敏をいち早く掴むことで彼は人気作曲家となり晩年に至るまで交響詩、オペラ、表題交響曲等で数々の名曲を残した。その中でも僕が気に入っているのはニーチェの同名の著作を音楽化した交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』だが、この曲はニーチェが夢見た超人、つまり僕のような天才を音楽家しているのである。僕はニーチェの著作を5分で理解できたが、その僕から見てもこの曲は僕のような真の天才をうまく描写している。ああ!なんと見事な曲であろうか。僕はこの曲を演奏する時はフォルテシモと共に必ず指揮棒で僕を指してこう叫ぶのだ。「この人を見よ!」と。どうやら世界の中には僕が天才であることが出来ない不幸な者がいるらしい。僕はそんな連中に自分が紛れもない、二十一世紀最大の芸術家であることの名刺代わりとしてこの曲を演奏している。次に僕が好きなのはオペラ『サロメ』であるが、最近はあまり楽しく聴けなくなった。このオペラの主人公サロメがひたすら不愉快なのだ。ああ!男を惑わす宿命の女なんてものはすべて死んでしまうがいい。僕は彼女に首を切られ、挙句の果てにその首を皿に乗せられるヨカナーンを自分の事のように憐れんだ。彼も女ごときに惑わされなければ安穏とした生涯をおくれていただろうに。リヒャルトは晩年に『変容~メタモルフォーゼン』という管弦楽曲を書いている。この楽曲は僕にとってはもういろんなものに裏切られた彼の嘆き節にしか聴こえない。ああ!愛、そして国。純粋なるものは常に裏切られる。だがそれでもなおリヒャルトは音楽家として生を全うしようとする。ああ!僕もこの時のリヒャルトのようにあの酷い裏切りを乗り越えて二十一世紀最大の天才として生を全うしなくてはならぬと改めて思う。

グスタフ・マーラー

グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。

 人は僕を二十一世紀のマーラーだという。指揮者の僕がマーラーのような交響曲を出したからだということだ。世間にはもう周知の事だが、僕が発表した『交響曲第二番:フォルテシモ』は現代クラシック界に一石どころか地球を爆発させるほどの大隕石を投じた曲である。この交響曲で間違いなくクラシックは変わった。僕の交響曲はあのショスタコーヴィチの第五番などよりの遥かにクラシック界に革命をもたらしたのである。僕の交響曲は哲学的であり、文学的であり、絵画的であり、彫刻的であり、それらをすべて含んでなお音楽的である巨大な芸術である。その僕の交響曲を語るのにマーラーなんぞ引き合いに出されてもこちらとしてはいい迷惑である。勿論マーラーは優れた指揮者であり作曲家でもあった。だが僕とは到底比較にならない。僕は天才であり、マーラーは天才にあこがれる秀才でしかない。マーラーを挙げて僕を語るならいっそマーラーを語るのに僕の名を挙げればいいのだ。曰くマーラーは十九世紀の大振拓人だと。僕の交響曲の方が遥かにスケールが大きいし、遥かに深いものである。僕の交響曲はエベレストからマゼラン海峡まで天井の高みから、海底の奥深くまで人間というものを語りつくしているのだ。僕の哲学の壮大さに匹敵するのはベートーヴェンだけであろう。マーラーなど僕からすれば谷底で喚いている変人に過ぎない。僕がエベレストの山頂なら奴は富士山の八合目に過ぎない。だが僕がマーラーに全く影響を受けなかったということはない。ここで影響を受けなかったと言えばそれは嘘になる。やはり誠実に語らねばならぬだろう。なぜなら彼もまた僕が真の天才であることを気づかせてくれた一人なのだから。僕が初めて聴いたマーラーは『第一番:巨人』であったが、当時生真面目な学生であった僕はこの曲の巨人とは何かを一晩中考えたのである。一体巨人とは何者であろうか。僕はどうしてもそれが知りたくてとうとうマーラーは曲の題材にしたジャン・パウルの『巨人』のドイツ語版を買って五分で読み終えたのである。だがそれでもわからず僕は読売ジャイアンツのプロテストまで受けた。僕は完璧すぎるほど完璧な人間なのでプロテストに合格してしまったのだ。その合格発表の日に読売ジャイアンツのオーナーが直々にやってきて僕に土下座して巨人に入ってくれと頼まれたが、僕はもとから玉遊びなど大嫌いであるから申し訳ないと断ったのである。僕はいくら考えても巨人が何者であるかわからず、そのせいで神経症にまでなってしまった。巨人とは何者なのか。なぜマーラーは最初の交響曲に『巨人』なるタイトルをつけたのか。僕は三日三晩寝ずに考えたのだが、突然、悟りを開いたかのように答えが見つかったのである。もうこれは完全に笑い話だが、何のことはない『巨人』とは僕のような天才の事だったのである。マーラーは天才に憧れていた。つまりマーラーは僕に憧れていたのである。僕はそれに気づくとマーラーの憧れである巨人にふさわしくなるために体を鍛え始めた。そうやって体を鍛え上げ完璧な巨人になった僕は、その巨人の眼で改めてマーラーの全交響曲を眺めてみたのである。するとそこに浮かんできたのはどうしても巨人、僕のような天才になり切れない男の刹那のあこがれが浮かんできたのである。音楽史においてマーラーはロマン派の終焉を飾る最後の交響曲作家と呼ばれている。彼の交響曲のほとんどは長大でとてもCD一枚に収まり切れるものではない。その長大さはしばしばワーグナーのオペラに例えられる。だがワーグナーは真の巨人であり、偉大なるオペラ作家である。その楽曲はどこまでも怒張する火山のような激しさを持っている。だがマーラーの交響曲にはその憤怒のような猛りはみられない。マーラーは常に持て余しているのだ。『第二番:復活』も決して噴火は起きない。『第三番』『第四番』もまたしかりである。『第五番』の第四楽章はそのもてあましの頂点である。彼はフォルテシモに限界までイキたいと願いながらヴェニスの浜辺で持て余すしかないのだ。『第六番:悲劇的』『第七番:夜の歌』『第八番:千人の交響曲』と彼はハンマーを楽器として取り込んだり、曲を異様な構成にしたりして自らのマーラーを解放しようとするがどれも成功しなかった。『大地の歌』『第九交響曲』はその嘆きだ。この二曲のあまりに絶望的な世界は自らのマーラーをフォルテシモに解き放つことの出来なかった男の嘆き節だ。マーラーは自らのマーラーを解き放つことが出来なかった。あれほど複雑なスコアを書きながら、あれほど大勢のオーケストラを使いながらついに自らのマーラーを解き放てなかった。もしマーラーは自らのマーラーを解き放つことが出来たら彼は僕のような天才になれたかもしれない。僕は彼の曲を頻繁に演奏するが、その時僕はいつも彼をフォルテシモに激しくドビュッシーの如く解き放ってやっている。マーラーは天国で僕のフォルテシモに迸りまくった演奏を聴いてなんと思っているだろう。いつか天国に行行ったとき彼に是非聞いてみたいものだ。

代表曲:『交響曲第一番:巨人』『交響曲第二番:復活』『交響曲第三番』『交響曲第四番』『交響曲第五番』『交響曲第六番:悲劇的』『交響曲第七番:夜の歌』『交響曲第八番:千人の交響曲』『交響曲第九番』『交響曲:大地の歌』『嘆きの歌』『若き日の歌』『さすらう若者の歌』『少年の魔法の角笛』『リュッケルトの詩による5つの歌』『亡き子をしのぶ歌』等

クロード・ドビュッシー

クロード・アシル・ドビュッシー(Claude Achille Debussy  1862年8月22日 - 1918年3月25日)は、フランスの作曲家。

 ドビュッシー。この名前を聞くたびにどうしても僕のフォルテシモがうずいてしまう。このマーラーが持て余したものをドビュッシーしたこの作曲家は間違いなくバッハやベートーヴェンと並ぶ天才の一人である。彼の曲は一聴するとはっきりと輪郭のない曖昧なものでフォルテシモがないように思えるが、よく聴くとそこにありえないほどの濃厚なフォルテシモがあるのだ。音楽史に於いてドビュッシーは印象派と呼ばれ、ロマン主義を否定したとよく言われる。だが真正のロマン派たる僕からしてみればドビュッシーこそ究極のロマン派であり、究極のフォルテシモである。彼はマーラーが欲望の猛りを持て余したものをフォルテシモにドビュっと開放したのだ。ドビュッシーの曲が曖昧、モネなどの印象派絵画のようにぼやけてよくわからないとよく言われるのはそれはドビュッシーした恍惚を表しているからである。このドビュッシーとマーラーは同年生まれで共にワーグナーの影響を多大に受けているが、マーラーはワーグナーの圏内から生涯飛び出せず己がマーラーを持て余すしかなかった。しかしドビュッシーはそこから突き抜けたのである。そのドビュッシーの音楽をわかりやすく表したのが、あのロシアの天才舞踏家であるニジンスキーである。ニジンスキーは『牧神の午後への前奏曲』と『遊戯』でドビュッシーの曲をバレエ化しているが、その『牧神の午後の前奏曲』で彼はフォルテシモにドビュッシーする場面を挿入している。僕もニジンスキーに倣ってこの曲を演奏する時はいつも思いっきりドビュッシーしてしまうのだ。僕はドビュッシーを演奏する時フォルテシモと間違えてドビュッシーと叫んでしまうのだが、それはドビュッシーという存在自体がフォルテシモを体現するので仕方がないと思う。

代表曲:『牧神の午後の前奏曲』『海』『夜想曲』『遊戯』『前奏曲第一巻・第二巻』『月の光』『ペレアスとメリザンド』『聖セバスチャンの殉教』等多数。

モーリス・ラヴェル

ジョゼフ・モーリス(モリス)・ラヴェル(Joseph Maurice Ravel 1875年3月7日 - 1937年12月28日)は、フランスの作曲家。

 ラヴェルはドビュッシーと並ぶ印象派の大家であるが、この二人の作風は極めて似通っており、クラシックをよく知る人でも同じような曲にしか聴こえないといったような事をよく口にする。口の悪い人に至ってはラヴェルをただのドビュッシーの亜流に過ぎないとまで言う。これはラヴェルに明らかに不名誉であり、彼が生きていたら名誉毀損で残らず訴えていただろう。実際ラヴェルは決してドビュッシーの亜流ではなかったのだから。僕はラヴェルをドビュッシーの先を描いた作曲家だと思っている。ドビュッシーはドビュッシーした恍惚の瞬間しか書かなかった。彼の音楽はひたすらその恍惚だけを鳴らしていたのだ。勿論ドビュッシーは人が過程を乗り越えねばドビュッシーなどしないという事を知っていた。だが彼はそれを書くことなどドビュッシーした瞬間の恍惚の瞬間を書く事に比べたらどうでもいい事だと思っていたのだ。だがラヴェルは違かった。彼は恍惚に至るまでの過程にこだわった。それはラヴェルの曲がドビュッシーに比べて古典的な構成を持っていることから明らかである。人はいきなりドビュッシーしたりしない。順序よくまるでラベルを貼り付けるように過程を踏まなければドビュッシーなどするはずがない。それを示すために彼は古典の構築性を取り込みスイスの時計職人(ストラヴィンスキー)の如き緻密さで曲を作り上げたのだ。彼の代表作『ボレロ』その最もわかりやすい実例だ。ラヴェルはこの一定のリズムが刻まれた曲でドビュッシーするまでの過程を書いている。スネアドラムとフルートによる演奏でドビュッシーへのエンジンをふかし、中盤に各楽器がドビュッシーへアクセルを踏み始める。そしてクライマックスはドビュッシーの大爆発だ。今まで我慢し溜めてきた己がドビュッシーがクライマックスでフォルテシモに解き放たれるのだ。小学校の頃、僕は両親が持っていたボレロのバレエのブルーレイを見つけて自分の部屋で穴が開くほど観ていたが、その時下半身に己のドビュッシーが目覚めるのを感じた。僕はテレビの前のジョルジュ・ドンと同じように上半身裸で踊っていた。しかもそれだけじゃ足らなくていつの間にか下半身まで剥き出しにして踊ってしまった。その後は僕は両親にこっぴどく叱られたが、これが僕の芸術家への目覚めであった。僕はこの時知ったのだ。いくらドビュッシーがしたいからといってそこらじゅうでしてはいけないと。さもなくば両親をはじめとした凡庸な連中がドビュッシーごとお前を閉じ込めてしまうぞと。

代表作:『ボレロ』『スペイン狂詩曲』『ダフニスとクロエ』『ラ・ヴァルス』『ピアノ協奏曲ト長調』『左手のためのピアノ協奏曲』『ソナチネ』『クープランの墓』歌劇『子供と魔法』等多数

エリック・サティ

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家。オンフルール生まれ、オンフルールおよびパリ育ち。

 エリック・サティはドビュッシーとラヴェルと並ぶフランス近代音楽の作曲家であり、この二人に多大なる影響を与えたことで知られている。またサティの影響はそれだけにとどまらず現代音楽や現代美術にも及んでいる。と最初に軽く音楽史に書いてあるような事を書いてみたのだが、正直にいって僕はサティをあまり好まない、いやもっとはっきり言えば彼を自分にとってはどうでもいい作曲家だと思っている。僕は現代美術など全く知らないし、現代音楽に至っては地球上から抹殺すべきゴミだと思っているからだ。現代音楽というフォルテシモなきゴミが世界を覆いつくして何十年にもなるが、いまだ世界は現代音楽というフロンガスを除去できないである。僕はロマン派復興を掲げて世界から現代音楽を除去してクラシックの明かりで照らそうと日々フォルテシモに努力しているが、僕の力不足のせいで世界はいまだに現代音楽というフロンガスに覆われたままだ。しかしサティにこのフロンガスをまき散らした責任をすべて着せるのはあまりに気の毒である。サティは別に現代音楽を作ったわけではなく、彼が戯れに鳴らした鼻歌を後の作曲家が真面目に受け取ったがゆえに現代音楽というゴミが誕生したわけなのだから。サティのピアノ曲に『ジムノペディ』というのがあるが、これは僕も嫌いではない。決して偉大な芸術作品ではないが、あのドビュッシーが管弦楽曲化するだけあって悪くない曲である。その他の曲はジムノペディと同系列の『グノシエンヌ』を除いてフォルテシモなき駄曲ばかりである。こう正直に書くといつもサティファンに「サティが理解できないのはお前の感性が古いからだ。今は十九世紀じゃなくて二十一世紀なんだぞ」と文句を言われるのだが、僕はそう言われる度にいつもこう返している。「馬鹿め!二十一世紀は僕の世紀だ!二十一世紀の音楽の価値を決めるのはお前じゃなくてこの僕だ!」と。全くサティがそんなに好きなら彼の音楽を家具の引き出しの中に入れて大事にしまっておけばよいではないか。サティの音楽はロマンにもフォルテシモにもかけており、とても外に出せる代物ではないのだ。とここで僕はこのサティ回を終わらせようとしたのだが、しかしここで終わらせたら読者に後味の悪い思いをさせるかもしれないので最後に学生時代のエピソードを紹介して終わりにしようと思う。僕は音大に入った頃高校時代の友人の誕生日会のピアノの演奏を頼まれたことがある。本来僕の芸術的に過ぎるピアノは無料で聴かせるものでは到底ないが、友人への好意から我慢してこれを引き受けたのだった。僕は友人のためにバッハやらモーツァルトやらベートーヴェンやらショパンやらリストやらとにかくこれら大作曲家のピアノ曲の楽譜を持参して誕生日会に参上したのである。しかし僕がいざピアノを弾いてもみんな聴いていなかったのだ。友人も他の参加者も誰も僕のピアノに耳を傾けず喋りまくっていた。僕は頭にきて抗議したのだが、友人はあくびをしながらクラシックはいいから米津玄師という僧侶かなんかの曲をやってくれとか言い出したのだ。僕は米津などという坊主の曲は知らぬ。と答え、そしてベートヴェンがダメなら、ドビュッシーとかラヴェルはどうか。お前もドビュッシーとラヴェルはよく聴いていたじゃないかと提案したのだが、友人はドビュッシーとラヴェルの名を聞いてあっと声を上げて僕にじゃあサティの『ヴェクサシオン』やってくれないかと言ってきたのだ。僕はサティのその曲を知らなかったのでそんなものは出来んと断ったのだが、友人はそれじゃ今俺が実演してやるからその通りに弾いてくれよと言ってピアノを弾き出したのだ。しかしそれはなんと酷い曲だっただろう。音楽の世界には無数のゴミがあるが、この曲はその中でもゴミ中のゴミであった。最初から最後まで同じフレーズの繰り返しであった。友人はそれを僕に一晩中弾いてくれと頼んできた。今思えば当時の僕はあまりにも世間知らずだったのだ。彼にからかわれていたことも知らずに走れメロスの如く男の友情を信じ切っていたのだ。僕はこの『ヴェクサシオン』なるゴミ中のゴミ音楽を演奏するのをためらったが、友人のために我慢して演奏することにしたのだ。だがこのゴミをただ演奏しては友人の家にゴミをまき散らすことになってしまう。だから僕はロマン派的にフォルテシモに鍵盤を叩きつけて演奏したのである。それから僕はそのまま一晩中フォルテシモにピアノを叩きつけた。僕の『ヴェクサシオン』は先ほど友人が弾いた無味乾燥な題名の通りいやがらせ的な原曲をバラ色のフォルテシモな楽園に変えていた。友人たちは僕の演奏を聴いて感動のあまり「やめてくれやめてくれこんな嫌がらせはもうやめてくれ。耳が壊れそうだ」と泣き叫んでいた。だが僕はもう止められなかった。このヴェクサシオンなる廃水を清澄な水に浄化するまで演奏は止めてはならぬと思った。そして朝が来た。僕はピアノの演奏をやめてゆっくりと部屋の中を見渡した。なんということだろう。僕の演奏によるヴェクサシオン汚染の浄化のおかげで部屋まできれいになっているではないか。友人たちはその部屋の中で満足そうに横たわっていた。僕は友人たちの青白い幸せそうな寝顔を見取り満足して友人の家から退出したが、その時もの凄い数のパトカーと救急車とすれ違った。あれはいったい何だったのだろうか。

代表曲:『ジムノペディ』『グノシェンヌ』バレー『パラード』『本日休演』『家具の音楽』『ヴェクサシオン』朗読劇『ソクラテス』他多数


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