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盛り上がるコミュニティの共通点 ティーンズ応援団長シンマ先生

 エンタメって一言でいったら何ですか?
 無限の力
 EXILE AKIRA
 NHK「五郎丸歩×EXILE AKIRA」スイッチインタビュー

20年来の親友、小中一貫校の中学講師(理科・数学)をしながら自らを「教育芸人(エデュケーショナル・エンターテイナー)」と名乗っているシンマさん。彼とは社会人になってから繋がって偶然にも同級生。最初、「教育・芸人」だと思っていたが、「教育芸・人」らしい。それは、彼が「演芸の世界に伝承する技術があるように、教育にも学生や生徒を惹きつけ、知識や技術を分かりやすく伝える技がある。それが『教育芸』であり、その伝承者こそが 『教育芸人』だ」と考えているからだ。

2002年〜2004年のメルマガブームに乗っかって「自他共栄」を理念に熱い異業種交流会があった。シンマさんが主催した「21時から倶楽部」、俺が代表幹事を務めた「東京非凡塾」だ。今年voicyラジオで対談したオバタさんもターレス今井も島田園長も、その頃からの仲間だ。

「おもしろい人が集まると、さらに相乗効果で面白くなる」を実感してきた。40代から50代にかけての20年間を走り続けてきた2人。たまには、立ち止まって「やってきたことの意味」を語り合おうと、シンマさんの持ち込み企画で「生放送」。voicyを始めて4年、生放送は初めての挑戦だった。「盛り上がるコミュニティとは?」をテーマに、それぞれの異業種交流会の立ち上げから解散までを振り返り、シンマさんの漫画『ONE PIECE』ウソップなどの声優、山口勝平さんとの出会いやAI特許を18件持つAI Artistであり、日本一のウェブ解析士、窪田望さんのイベント開催の話などの近況を聞き、これからやっていきたいことを語り合った。何かが始まる予感しかない。また、お互い新たなコミュニティをつくって、そのコミュニティが交差して、さらに面白い展開が生まれると確信できた。ずっと前面に出てきたが、お互い還暦過ぎて立ち位置も変わった。「君臨すれども統治せず」「一隅を照らす」そんな心境だ。

数々のピンチを仲間に救われてきた2人。人生の岐路に立った時、「自分は一人じゃない」って思える仲間をつくりたいから、「大きくよりは小さく、広くよりは狭く、浅くよりは深く・・・遠く離れていても、滅多に会えなくても、心は繋がってる」そんなコミュニティをつくっていきたい。

何より子育てを優先してきた俺の4年間。社会と繋がっていたいという思いは強くなってきた。多くの仲間と考えてコラボしてアクションしていきたい。

還暦過ぎて、「ずっと一緒に楽しく過ごしてきたね」って言える友達がいるって、改めて凄い大事なことだと思う。


子育てでいっぱいいっぱいだった2年前。voicyラジオの放送は毎日続けていたが、一人もnoteにまとめることができなかった。シンマさんも、その1人。2年前に語った放送を、この機会にまとめたい。午前10時から自宅で缶ビール飲みながら2人で話してたから、居酒屋でのぶっちゃけトークみたいになった。シンマさん、こういうイタイ話を笑いながら話せるだけ自分を客観視できてるのが、いい。笑いの絶えない放送になった。フォローして聴いてほしい。

シンマさんとの出会いは、2002年。当時メルマガ起業ブームの中、「わらし仙人のセミナー交流会」だった。わらし仙人のメルマガで紹介されていたシンマさんと俺。交流会で心理劇をやった時、集まった人から、お互いがリーダー役に推薦された。だから、シンマさんの第一印象は「声の通る目立つ人」だった。

そんなシンマさんの知られざる幼少時代を聞いた。愛知県名古屋市出身。
俺と出会った頃の彼は卓越した発想力と行動力で頭角を現すタイプだったが、驚くことに幼少時代は自分に自信が持てず中途半端に太っていてイジメられていたという。そんなシンマさんには小4の時、算数(分数)を友達に教え、「教えるのは面白い!」と初めて感じた古い記憶があった。「脂肪ダルマ」とあだ名を付けられた中1の時、生徒会の書記を務めたが中2で落選。モテたい一心でテニス部に4月に入部するも夏に辞めた。体育の成績は「2」で持久走が一番嫌いだった。何をやっても中途半端に終わった。中2から中3までは仮死状態だったという。新設の公立高校、愛知県立国府高校(こうこうこう)の校長先生が母の恩師だった縁で入学した。

中学の時、テニス部を3ヵ月で辞めた彼は、「テレビで見た、憧れの高校球児のようにモテたい!」と、入学と同時に野球部に所属。スパルタコーチに鍛えられた。母の恩師が校長先生で、辞めたいのにやめられない。監督に辞めたい意思を伝えると「ダメだ!今のお前に必要なのはやり切ること」とキッパリ。強豪校の多い愛知県の中で創設3年でベスト8に入る快挙を成し遂げた野球部。監督の熱量がわかる。数学が好きだったシンマさんは、スコアラーを務めた。絵を描くことが好きだった彼は、高1の時、美術部に行きたかったが、監督の「駄目だ!」の一言で野球部を辞められず3年所属した。

思春期の反発から地元(中京圏)から離れたいと上京。モテるイメージのあった青山学院大学理工学部に進学。サークルは1年から3年までアナウンス研究会に所属、俺と出会った頃の「MCシンマ」に繋がった。家庭教師のバイトもやっていたことから、「オレが日本の教育の救世主になってやる!」と、教育実習を4年から始め大学院に進んだ。教育実習が終わった時、厳しくて怖かった恩師のM先生に「お前は先生に向いている。最後まで頑張れ!」とエールを送られた。

ところが彼は教員採用試験の勉強をしていなかった。空きがあったら採用されるB採用に受かって就職が決まった。プライベートでは11月に子供が生まれる予定で4月21日に入籍、24歳の若さで結婚した。「日本の教育を変える!」と志高く就職したが、「金八先生」のモデルになった人をはじめ、すでに先輩たちが頑張っていて「自分の出番などない」と打ちのめされた。保守的な先生から止められることも多かったが、「やっちゃえ!」と背中を押してくれる先生もいて6年間、中学の正教員を勤めた。

父はタレントで20年以上続くラジオパーソナリティ、「新間ちゃん」の愛称で知られた新間正次氏。中日ドラゴンズ私設応援団連合会長も務めていた。父の朝のCBSラジオは当時、ギネス記録を達成し、子どもたちも巣立ち、父は60歳の還暦を前に新たな目標を模索中だった。時代はタレント議員ブーム。参議院選挙に出馬、当選した。ところが当選3日後、「M大学中退」の記述が虚偽と判明し、学歴詐称が発覚、「M大学の入学の事実なし!」と大炎上した。祖父が敷いたレールは政治の世界、それに反発するように父は芸能界の道を自ら切り拓いた。還暦を目前に、祖父の期待に応えようと覚悟したことが裏目に出たのだ。ワイドショーでも取り上げられて大騒動の中、「新間ちゃん、黙っとれ!」となった。市民団体から「当選を得る目的で学歴詐称し自分の経歴を偽った」と告発され、刑事事件となって最高裁までいった。2年後、当選無効となった。シンマさんの61年の人生で、これ以上の一大転機はない。

学校や塾の講師をしたり、「MCシンマ」として司会業をしたり、友人の会社のアミューズメント採用を手伝ったり、複数の事業に関わった。自ら立ち上げた会社で引き受けたDVDの事業が大きなトラブルに発展、それが原因で友人の会社を辞めた。シンマさんに電話で相談された時、「直感的に嫌な予感しかない」とアドバイスした。

恋愛と同じで渦中にいると見えなくなることがある。俺も人のアドバイスを聞けない時期があった。会社設立15周年を機に、10年来の夢だった「旅するカフェバー」をOPENさせた。2011年3月11日東日本大震災直後、自粛ムードのあった4月だった。多くの友人・知人から「素人が簡単に参入できるほど飲食業は甘くない」と言われたが、「誰かの背中を押して『行く場所』ばかりつくってきたから、リピーター隊員のために『帰る場所』をつくるんだ。大丈夫!お客さんいるから」と聞き入れなかった。それがきっかけとなって22年経営した旅行会社が2018年10月、会社倒産・自己破産となった。

だから、大きな失敗をしたシンマさんと俺には共通の思いがある。自分にできることを追求して人生を切り拓くことができた。年を重ねていくと思い出が増えていく。
「いろいろな人がきっかけをつくってくれて今がある。何でも思い通りになる人生なんてつまらない。それが起きたのは、そこから変わるため」。
「どん底の時にほしいのは、慰めの言葉や同情ではなく、再び立ち上がるためのきっかけ・機会だ」。良いこともある。大きな失敗をすると寛容になり、人に優しくなれる。シンマさんは利他の心を持つ優しい人だ。

彼は今、高校の講師を経て小中一貫校の中学講師、教育業一本に絞っている。

俺も講師として関わった、「キラキラ輝く大人の見本市〜十代を真剣に考える1日〜」では、東京大井町「きゅりあん大ホール」を貸し切って1,000人の一大教育イベントを仕掛け主催したイベンターでもある。

そんな彼が2021年11月大須演芸場で、父・新間正次の米寿(88歳)を祝うため、親孝行イベント「きっかけ文化祭」を開催した。新日本プロレス専務やスポーツ平和党幹事長を務めた新間寿氏は従弟叔父。新間寿氏も会場に駆け付けたらしい。そのイベントの直前に、イベントを開催するシンマさんの思いを収録・放送した。今年の放送と2年前の放送を新旧合わせて聴いてほしい。

 本なんですが「まともがゆれる」という
 京都のNPO「スウィング」の木ノ戸昌幸さん
 という人が書いた本の中で出てくる
 「ギリギリアウトを狙う」という言葉が
 すごく好きになって、
 結構いろんなところで話しています。
 どういう意味かというと、
 私たち「アウト」と「セーフ」のゾーンがある。
 だけど普通は失敗をしないように
 セーフゾーンを狙ったり、
 人に迷惑をかけないようにセーフゾーンに
 納めようとしてしまう。
 だけど木ノ戸さんたちはそこじゃなくて
 「ギリギリアウトのところにボールを
 落とすことで世の中のセーフゾーンが
 広がっていくんだ」っていっている。
 ノンフィクション作家 川内有緒
 LISTEN & LEARN「STEP ONE」FMラジオJ-WAVEより

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