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noteで見つけたホロコースト否定論の記事を反論してみよう。

たまたまだけど、「ホロコースト」でnoteサイト内を検索して最初に見つかった否定論の記事を反論してみようかなと思いました。対象記事はこちら。

無断で反論するのもなんなので、一応コメント欄に反論するよーと案内しておきました。対象記事の投稿日時は「2023年10月24日 11:32」となっています。noteは投稿以降いつでも編集可能ですが初回公開時点の投稿日時しか表示されないので、投稿日時を明記しておくことにしました。これはこの投稿自身もそうですのでご留意願います(私は記事によっては投稿後でも頻繁に書き直しています)。

では早速。

使用されている参考文献について

前者については「600万人は本当に死んだのか?」(リチャード・ハーウッド著、美浜修訳)を、後者については「アウシュビッツ「ガス室」の真実」(西岡昌紀著)を参考にした。

とあるのをみて、正直に言えばガックリ来たと言うのが本音です。とりあえずまず言っておきたいのは「アウシュビッツ「ガス室」の真実」なる著書名の書籍は存在しないことです。西岡昌紀氏の当該書籍のタイトルには2種類あります。

前者は、マルコポーロ事件の後、2年後の1997年に日新報道から出版されたものであり、後者は2021年に沢口企画なる謎の出版社(笑)から出版されたものです。内容は同じ内容のようですが、タイトルが微妙に違います。前者は「アウシュ【ウ】ィッツ」であり、後者は「アウシュ【ヴ】ィッツ」となっています。しかしどちらも「アウシュ【ビ】ッツ」ではありません。件の収容所の名前は「Auschwitz」と表記されますので、「w」はドイツ語の場合、「ヴ」と濁点付きで表記するのが多いようなので、「アウシュヴィッツ」と書かれることが一番多いようですが、日本語として発音の変わらない「アウシュビッツ」もまぁそれなりに多いようです。それに比べると、西岡氏の最初の版の本にある「アウシュウィッツ」はあまり見ない表記です。


追記:忘れていましたが、2024年現在、当該の西岡本にはもう一冊、正確に言えばもう二冊あります。

上がペーパーバック版、下がAmazon Kindleの電子本版(後述している通りKindle Unlimitedに契約すると無料で読めます)です。どちらも、22世紀アート社によるものですが、こちらは沢口企画版とは異なって、注釈が省略されていない、最初の日新報道版とほぼ同じ内容になっているそうです。


細かい話なのでどーでもいいと言えばそうなのですが、西岡氏の最初の本が出た時には、そのタイトルで結構いじられていたのです。学者先生は「正しくはアウシュヴィッツと表記するのだ!」とうるさいからです。私はわかりさえすればその程度どうでもいいと思うんですけどね。ただ、自分自身が参考にした著書名を間違えるのはマナーとしてあまりよろしくないように思われます。

それで、ガックリ来たのはそのことではなくて、「おいおいたった二冊の本でそう判断するの?しかもその本って…」と思ったからですね。『600万人は本当に死んだのか?』(以降、ハーウッド本と呼ぶ)については、その中の赤十字に関する内容の章を自分で調べてあまりのデタラメ・嘘ばかり書いていることに呆れたわけですし、

西岡本については前述したKindle Unlimitedを契約していた時期にさらっと目を通した程度でちゃんとは読んではおりませんが、西岡氏自身と旧Twitter上で散々バトルしてますし、noteでもいくつか記事も書いています。

追記:この記事を書いた後に、西岡本については、徹底的に反論した記事を以下の通り、アップしています。

これらの内容はさておき、たった二冊でホロコースト否定を知った気になるようなそれってどうなの?って思ってしまいます。せめて、否定論なら歴史修正主義研究会くらいは目を通しておいて欲しいものですが、ホロコーストの基礎知識を、日本では定番の入門書になっている以下の本くらいは読んでおいて欲しいものです。

否定派にはこの本の内容に文句を言う人も多いのですが、この本はあくまでもホロコーストの定説についての入門書という位置付けであり、否定論を信じるにせよ、細かいところまでは覚えなくとも、この本に書かれている程度の基礎知識を身につけておかないと話にならないと思います。

さて、その西岡本は全文を西岡氏が自身のブログで公開されているのですが、リンクがどこだったか忘れました。本と違ってテキストだけなので、ちょっと残念ではありますが、読めないことはないので見たい人は自分で探すか、AmazonのKindle Unlimitedのサブスクを契約すれば無料で読めます。

ハーウッド本については、私が翻訳したものがあります。

反論対象記事にある美浜修訳は、Amazonで売ってます。

英語版はAmazonでは、ホロコースト否定に対する商業的規制の流れで、発禁処分になっているのですが、日本は関係ないようです。しかしこの本は私はもちろん読んだことはありませんが、内容は以下のものだと思われます。

このページの作者は、X(旧Twitter)では多分最も熱心なホロコースト否定論者(美浜@lumberwendigo)で、何度かやり取りしたこともありますが、彼は私を非表示にしてしまっており、こちらからリプ等しても相手してくれません。たまーに彼が非表示を外して質問してくることがあるくらいです。私が見る限り、ほとんど狂信的なほどにホロコースト否定論を信じている上に、否定論に反論するような私のような人を完全に見下しています。色んな信者さんにありがちな態度ではあります。

多分、沢口企画の沢口社長が、ネットで見つけて美浜にどうにか連絡を取って許可をもらい自主出版したのでしょう。

さて、では対象記事の内容について具体的に反論していきましょう。なお、あまり細かすぎる反論はしないこと、私が知らない話は単純にすっ飛ばす方針であることは最初に断っておきます。

なお、対象記事からの引用は、その他の引用と区別するため、区切り線(スマホでは区切り線が表示されないことがあるので)▼▼▼▼▼と▲▲▲▲▲で囲って全文強調表示になっている部分とします。

対象記事への反論

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ドイツが意図的なユダヤ人虐殺を検討していた証拠となる文書は1枚たりとも存在しない。

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いいえ。先日やっと完成したヘウムノシリーズの翻訳記事の中に、以下のような文書がありました。

1941年7月16日、ポーランドのヴァルテ管区で、ポーゼンの移住センターの責任者をしていた国家保安本部のロルフ・ハインツ・ヘップナー親衛隊少佐が、当該地区で議論した結果として国家保安本部のアドルフ・アイヒマン中佐に送った文書です。


以下に必要な箇所だけ内容(日本語訳)を抜粋します。強調は私によるものです

親愛なる同志アイヒマン

帝国総督のオフィスで行われた様々な議論の結果についてのメモを同封します。いつかあなたのご意見を伺えれば幸いです。これらのことは、幻想的に聞こえる部分もありますが、私の考えでは徹底的に実現可能です。

親衛隊少佐

L Hö/S

覚書 ポーゼン、1941年7月16日

件名:ユダヤ人問題の解決

帝国総督のオフィスでの議論では、様々なグループがヴァルテ州のユダヤ人問題の解決について話し合いました。次のような解決策が提案されています。

1. ヴァルテ州のすべてのユダヤ人は、30万人のユダヤ人のための収容所に連れて行かれる。この収容所は、石炭管区にできるだけ近い場所にバラック形式で建てられ、経済企業、仕立て屋、靴製造工場などのためのバラックのような施設がある。

2. ヴァルテ州のすべてのユダヤ人は、この収容所に集められる。労働能力のあるユダヤ人は、必要に応じて労働隊に編成され、収容所から集められる。

3. 私の考えでは、この種の収容所は、SS少将のアルバートが、現在必要とされているよりも大幅に少ない警察官の数で警備することができる。さらに、ウッチなどのゲットーでは周辺住民に常に存在する伝染病の危険も最小限に抑えられるだろう。

4. 今年の冬は、すべてのユダヤ人が食べられなくなる危険性がある。最も人道的な解決策は、雇用されていないユダヤ人を、即効性のある薬剤で殺すことではないかと、正直に考えてみるべきだ。飢え死にさせるよりは、その方がいいだろう。

5. それ以外の人たちには、この収容所で、まだ子供が期待できるユダヤ人女性はすべて不妊手術をして、この世代でユダヤ人問題を完全に解決しようという提案がなされた。

<後略>

ヘウムノ絶滅収容所(1):ヘウムノ絶滅収容所の始まりと基礎より

1941年7月は、定説的にはまだユダヤ人絶滅が決定した時期ではないとされていますが、このようにユダヤ人問題の解決としてユダヤ人を殺すことをナチスドイツが検討していたとしか読めない文書が残っているのです。これはどう読んでも「ドイツが意図的なユダヤ人虐殺を検討していた証拠となる文書」です。他にもまだあると思いますが「1枚たりとも存在しない」と仰っておられますので、一枚示せば反論として事足りると思います。

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当然、ヒトラーからの命令書もない。

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これについては今まで何度もあちこちで私は言ってきたのですが、ホロコースト否定派の主張は「ホロコーストは捏造だ!」なので、命令書が存在しないことは捏造説に反しているので、むしろ否定説にとってこそ極めて不可解なことである、と考えます。なぜホロコーストの捏造者は決定的な証拠となるはずのヒトラーの命令書を捏造していないのでしょう? これについて否定派から説明があったことは一度もありません。

よく知られている、否定派が捏造と主張する文書には、例えばヴァンゼー議定書がありますが、ヴァンゼー議定書には明示的なユダヤ人殺害の文言はなく、修正主義者の中には捏造とは考えない人もいるくらいの文書なのに、それでさえ捏造ならば、どうしてヒトラーの命令書のようなはっきりした証拠としてのユダヤ人絶滅の命令書が捏造されていないのでしょう? ホロコースト捏造説が正しいのなら、ヒトラーの命令書がないことは考え難いことなのではないのでしょうか?

定説側としては、ヒトラーのユダヤ人絶滅は口頭でなされた、と考えているので命令書がないことは不可解でも何でもありません。ユダ人を何百万人も殺すだなんて前代未聞の大犯罪ですから、証拠を残すわけにはいかず、命令書は作らなかったとして当然でさえあります。ばれると不味い命令を文書で残さないなんて、当たり前の話に過ぎません。

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ドイツのユダヤ人問題に対する基本方針は、意外なことに「国外移住による解決」である。
最初の移住先候補地は、当時はフランスの植民地だったマダガスカル島だった。
この方針を最初に出したのはドイツではなくポーランド政府である。

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「意外なことに」とありますが、少し学ぶだけでわかりますが、前述した柴氏の本にも書いてある当たり前の知識でしかないのです。「マダガスカルへユダヤ人を放逐してしまえ!」というアイデアは古くからあり、反ユダヤ主義者のドイツの思想家パウル・ド・ラガルドは、1885年に著した『ドイツ論』の中で、すでにマダガスカル計画を書いているそうです(芝、前傾書)。ポーランド政府は確かにドイツよりも先んじてマダガスカル計画を考えていたようですが、国家としてはポーランドが最初かもしれませんが、それよりも先に、イギリスの反ユダヤ主義者(ヘンリー・ハミルトン・ビーミッシュ)が計画していたりします(芝、前傾書)。

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この頃、同時に存在した計画は、シャハト計画と呼ばれるもので、ドイツ内のユダヤ教徒の資産を、ユダヤ教徒によるパレスチナ移住の資金調達のための国際的借款の保障として凍結するものであった。
これは1939年にドイツ帝国銀行の総裁ヒャルマル・シャハト博士がヒトラーに報告したが、英国の協力が得られずに失敗している。

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これはハーウッド本からの丸写しなだけですが、シャハトプランなんて知らなかったので、自分自身の勉学のために以下から翻訳してみましょう。

シャハト計画(SCHACHT PLAN)、ナチスがドイツからのユダヤ人移民に資金を提供する計画で、経済大臣でライヒスバンク総裁のヒャルマル・シャハトと大蔵省事務次官のハンス・フィッシュボエックによって、水晶の夜事件をきっかけに考案された。この計画は、「最終的解決」以前のドイツ政策の2大目標、ユダヤ人の強制移住と財産の収用と一致していた。この計画は、ドイツ国家にとってもユダヤ人にとっても有益であり、その程度はかなり低かったが、ナチスが長期政権になればなるほど、移住の可能性は計り知れない価値を持つものだった。1933年、ハーヴァラ協定が結ばれ、ユダヤ人は少なくともいくらかの資産を持ってドイツを離れ、パレスチナに行くことができるようになった。シャハト計画では、移住を希望するドイツ系ユダヤ人は財産を持ち出すことができなかった。財産は帝国当局によって没収されていたからだが、シャハトは最低金利の国債で補償した。計画者たちは、外国のユダヤ人団体や国際難民組織が示した懸念を利用し、ユダヤ人資産の移転機能をドイツの輸出促進に結びつけようとした。彼らは、移住者の定住を可能にするため、外国のユダヤ人団体に150万ライヒスマルクの外貨(当時60万ドル相当)の融資を要請した。この計画の他の要点は、ドイツとオーストリアにあるユダヤ人の財産の25%を信託基金に預けることであった。資産は徐々に現金化され、ドイツの外貨が許せば、あるいは「補完的」輸出という形ですぐに譲渡されることになっていた。残りの75%はドイツの自由裁量に委ねられ、移住前のユダヤ人や移住できないユダヤ人の維持に使われることになっていた。この基金は、3年間で15万人の健常なユダヤ人と25万人の扶養家族の移住に充てられることになっていた。シャハトは、ヒトラーゲーリングが彼の計画に同意したと主張した。リッベントロップは個人的、政治的な理由からこれに反対し、これを阻止するために全力を尽くした。シャハトはこの計画を実行するために、難民政府間委員会の責任者ジョージ・ルブリーと交渉した。ルブリーは以前、ドイツ国外への移民をドイツの輸出に結びつけるという独自の計画を考えており、帝国は対外貸付の債務者であったが、移民を債務者とすることに同意した。ルブリーの委員会は、政府レベルの委員会と民間人による委員会の2つで進める計画だった。ルブリーに接触したユダヤ人指導者たちは、世界ユダヤ金融機関というナチスの宣伝がウソであると示すために、第二委員会に反対した。彼らは、すべての問題は政府だけで考えるべきだと考えていた。ユダヤ人移民に関係する政府の専門家たちは、没収されたユダヤ人の財産をドイツの輸出増加の根拠とすることに反対した。ルブリーは、ユダヤ人移民を大量に受け入れる用意のある政府を見つけるのに、さらなる困難にぶつかった。シャハトは1939年初めに解任されたが、ナチスは交渉を継続した。ユダヤ人救済の手段としてこの計画を心から信じていたルブリーは、困難に直面して辞任した。後継者たちとナチス政府との交渉は長引き、第二次世界大戦の勃発によって交渉が決裂し、移住が不可能になった。

なんか、ハーウッドが書いてることと違うと思うんですが、あんまり主題に関係ない話なので飛ばしましょう。

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1939年までに、ドイツ国内の合計約60万人のユダヤ人の内40万人を移住させ、オーストリアとチェコスロバキアからは両国のユダヤ系人口のほとんどに当たる48万人の移住に成功している。

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それら「移住」者の数が正しいかどうかはさておき(ハーウッドはそのデータの出典を示していないという問題もあります)、ハーウッドが無視しているのは、じゃぁどこへ移住したか?です。ハーウッド本ではあたかも出国したユダヤ人全員がパレスチナに移住したかのように書いていますが、実際にはそうではありません。フランスやポーランド、ハンガリーなど周辺諸国へも多く移住していたのです。参考として、コルヘア報告の「IV. ドイツからのユダヤ人の移住」では、1943年1月1日までで、旧帝国(ズデーテンランド含む)からの移住者352,543人のうち、約144,000人がヨーロッパ諸国へ移住したとあり、「39,000人がポーランドまたは総督府へ、18,000人がフランスへ、8,000人がイタリアへ、7,500人がオランダへ、6,000人がベルギーへ移住した」とあります。コルヘア報告には「これらの移民の大部分は、これらの国から海外に向かったと考えられる」ともありますが、その数字・比率等は書かれていません。仮にその半数がそれらの国に残ったとすればおよそ4万人は結局はドイツ支配圏にいたことになります。

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1939年9月5日に、シオニストの主要指導者であるハイム・ヴァイツマンは世界のユダヤ教徒のためにドイツへと宣戦布告し、ドイツ国内のユダヤ人が明確な敵対勢力となった。

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この訳のわからないハーウッドの難癖は、ナチスドイツが政権獲得以来、ユダヤ人を徹底的に政策的に迫害してきた事実を無視するというとんでもない暴論になっている訳ですが、それよりもおかしなことは「宣戦布告」とは国が国に対して戦争を行うときにするものであって、国を持たない単なる一指導者であるに過ぎないワイツマンがドイツに宣戦布告的な主張をしたところで、宣戦布告にはなりません。たとえ、ワイツマンがどんなにドイツに敵対的な主張をしたからと言って、ユダヤ人の全てを拘束する理由にもなりません。

なお、ハーウッド本ではワイツマンが「ユダヤ人は英国に味方し、民主主義国家の側で戦う。ユダヤ人機関は、ユダヤ人の労働力、技術力、資源などを活用するための取り決めを直ちに行う用意がある」と述べたと書いてありますが、「英国」はハーウッドが勝手に付け加えたものであって、原文にはそんなこと書いていません(リップシュタット、『ホロコーストの真実(上)』、p.230)。ハーウッドは書いてないことを書いてあると言い、書いてあることを書いてないと平然と嘘をつくので本当に悪質なのです。元々それをやったのはポール・ラッシニエらしいですが、そのうちラッシニエも調べようと思っています。

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戦時中において、ユダヤ抑留者は労働者として使われるようになった。
考えれば当たり前のことで、抑留者を大虐殺することは労働力、時間、労力の完全な無駄であり、強制労働させた方が戦争遂行に有利であることは明白だ。

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……あのぉ、じゃぁどうしてユダヤ人を移住させようとしたのですか? 労働力として必要なのに移住させてユダヤ人をいなくするって、めちゃくちゃ論理が矛盾してるんですけど? 素人的ホロコースト否定者って、どうしてこれれほど明らかな誰にでもわかる単純な矛盾した論理を平気で主張するのかわけがわかりません。

ユダヤ人労働力確保説に一理もないとは言いません。実際に、ナチスドイツはユダヤ人の一部を労働力として使ったことは事実だからです。ですがそれは、どうせ死んでもらうんだから、もったいないと考えて、死ぬ前に少し使っておこうとしただけの話です。国家保安本部(RSHA)はユダヤ人をできるだけ殺そうとしましたが、経済管理本部(WVHA)は労働力を確保したがっており、RSHAとWVHAは対立する関係にありました。とは言え、WVHAは別にユダヤ人絶滅に反対してなどいません。平たく言えばRSHAが殺そうとして収容所に集めてきたユダヤ人の一部をWVHAが労働力として使わせてもらっていただけのことです。

それに、何百万人ものユダヤ人を労働力としてもし使おうとするのであれば、その規模の収容施設も必要だし、食料などの維持コストも莫大なものになってしまいます。ナチスドイツが東方地域へ侵略したのも、そもそも食料確保が大きな課題の一つだったからです。それほどドイツ自身が逼迫しているのにどうして大勢のユダヤ人を食わせなきゃならんのでしょうか? ユダヤ人を労働力にするってそういうことなのですよ? しかし、何百万人ものユダヤ人を収容して養っていく能力などナチスドイツにはありませんでした。労働力にできたとしても、せいぜい数十万人くらいが限度でしょう。最大の収容施設・ゲットーであったワルシャワゲットーでさえもせいぜい45万人程度しかユダヤ人を置いておけず、その大半は労働力としても使えず(詰め込みすぎによる酷い衛生状態と悪すぎる食料事情など)、全てのゲットーだけでもトータルで百万人以上の疫病・餓死者(他、処刑も含まれる)が出ているくらいだったのです。

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それでもなお、ドイツは1944年5月の時点で100万人の欧州ユダヤ教徒に欧州外への移住を認める準備ができていた。

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この人、ハーウッドよりもさらに酷いですね。これは、ハーウッド本ではこう書かれています。

1944年5月の時点でさえ、ドイツ軍はヨーロッパから100万人のユダヤ人の移住を許可する用意があった。 この提案については、スターリン粛清の際に国外追放されたソ連の著名なユダヤ人科学者、アレクサンダー・ワイスベルクが著書『ジョエル・ブランドの物語』(ケルン、1956年)の中で語っている。ドイツ軍に強制収容所に収容されると思っていたにもかかわらず、クラクフで戦争を過ごしたワイスベルクは、アイヒマンがヒムラーの個人的な許可を得て、ブダペストのユダヤ人指導者ジョエル・ブランドをイスタンブールに派遣し、戦争のさなかに100万人のヨーロッパ・ユダヤ人の移送を許可するよう連合国に申し入れたと説明している(『絶滅』作家の言葉を信じるなら、1944年5月までに残っていたユダヤ人は100万人足らずであった)。 ゲシュタポは、この輸送がドイツの戦争努力に大きな迷惑をかけることを認めたが、ロシア戦線専用トラック1万台と引き換えに、それを容認する用意があった。残念ながら、この計画は失敗に終わった;

この話、私もそんなに詳しくは知らないのですが、要するにアイヒマンがブダペスト援助救済委員会のメンバーの一人であった、ハンガリー系ユダヤ人のジョエル・ブランドに取引を持ちかけたという話なのです。簡単に言えば、1944年の春頃にハンガリーを占領したナチスドイツでしたが、この頃すでにドイツは物資が不足しており、ユダヤ人を取引材料にしてユダヤ人を何万人も助けてやるからその代わり、たくさんの軍事トラック(その他物資)を連合国から仕入れてこい!とブランドに持ちかけたのです。ヒムラーの発案だったようで、ユダヤ人の命と引き換えに軍事物資を入手しようという魂胆です。要するに、アイヒマンはブランドを脅迫したのです。なぜそんな脅迫が通用したかと言えば、この時期、もうすでに知ってる人は知ってたからです、ユダヤ人がナチスドイツによって大量絶滅させられていると。ブランドは「気が狂いそう」な気分でアイヒマンと交渉していたホテルを出て、イスタンブールへ飛んだのです。当たり前です、自分の交渉に何万人ものユダヤ人の命がかかっていたからです。しかし交渉の窓口になったイギリス軍人はブランドの取引を怪しいと見抜いたため、失敗に終わったのです。

ハーウッドは上の引用の最後で「ロシア戦線専用トラック1万台と引き換え」とチラッとは書いていますが、ブランドがイスタンブールに飛んだのはそれを連合国と交渉するためであって、ゲシュタポの容認なんか関係ありません。アイヒマンはブランドとの面談でこう言ってのけたそうです。

私はすでにあなたとあなたの仲間について調査を行い、あなたの取引能力を確認した。では、100万人のユダヤ人を売る用意がある……血のために商品を――商品のために血を。ハンガリー、ポーランド、オストマルク、テレージエンシュタット、アウシュヴィッツ、好きなところから、好きな国、好きなところから連れて行けばいい。

Wikipedia

交渉失敗の結果、ハンガリーユダヤ人は40万人以上アウシュヴィッツに送られ、そのうち7割以上がガス室で絶滅させられました。

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チェンバーズ百科事典によれば、戦前に欧州で暮らしていたユダヤ教徒は650万人だった。

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これはとっくに否定されている説ですね。チェンバース百科事典に書いてあるのはこうだからです。

ロシアは西部域がおそるべき災厄をこうむったが、そのロシアは別としてヨーロッパ大陸では、数的にはとるに足りぬ中立国のユダヤ人社会がほんのひと握りだけ、難を逃がれただけであった。そして、一九三九年時点で、ナチ支配地に居住していたユダヤ人六五〇万のうち、六年後に戦争が終った時点で生き残っていたのは、わずか一五〇万にすぎなかった。

デボラ・E・リップシュタット、『ホロコーストの真実(上)』、恒友出版、1995年、p.244:強調は私。

チェンバース百科事典に記載されているこの数字が正確なのかどうかは関係なく、ロシアが除外されていることをハーウッドが隠し、「六五〇万」を欧州全体のユダヤ人の人数としたことは単純にウソです。

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例えば中立的なスイスの出版物「Baseler Nachrichten」は、1933年から1945年の間に150万人のユダヤ教徒が英国、スウェーデン、スペイン、ポルトガル、オーストラリア、支那、インド、パレスチナそして合衆国へ移住したと立証している。
そうした移民のうち、およそ40万人が1939年9月以前にドイツから出ている。

様々なデータから検証した結果、ナチ統治下のユダヤ合計人数は200万人以下とこの本では見積もっている。

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『Baseler Nachrichten』が本当はどう書いていたのかは知らないし、その数字が仮にそう書いていたからと言って、それが正しいかどうかも何も証明されていません。しかし、ハーウッドは『Baseler Nachrichten』に関し、次のようにも書いています。

したがって、後者の推定を受け入れたとしても、戦時中のユダヤ人死亡者数は150万人を超えることはなかったであろう。中立国スイスの評判の高い雑誌『Baseler Nachrichten』は、まさにこの結論に達した。

しかしこれもウソだと暴かれており、『Baseler Nachrichten』はその後に犠牲者数を580万人だと訂正しているそうです(リップシュタット、前掲書、p.245)。これらのことから見ても、ハーウッドの記述は信用するに値しません。

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1938年のWorld Almanacは世界のユダヤ人口を1658万8259人としている。そして1948年2月22日のニューヨーク・タイムズでは世界のユダヤ人口を最小1560万人、最大1870万人としている。

これでどうやって600万人を殺せるだろう?

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私の過去記事を読んで来られた方ならば当然知っておられると思われますが、このニューヨーク・タイムズ紙に書かれたハンソン・ボールドウィン氏の記事が起源・発端となっているデマであるアルマナック・デマの解説は、わざわざ私自身で近所の図書館まで出かけて調査した結果として以下で示しています。

なお、ハーウッド本には「1938年の世界年鑑によれば、世界のユダヤ人の数は16,588,259人」と確かに書いてありますが、確認は取れていませんが16,588,259人はハーウッドの間違いのように思われます。その時期のワールド・アルマナックのユダヤ人人口表に書かれていたとされるユダヤ人世界人口で、1600万以上は見たことがないからです。例えば適当にググって引っかかったこのページには「15,748,091人」とあります。ただし、上の私の記事内にある通り、ユダヤ人の世界人口についてはアルマナックには二つの表がありどちらの値なのかがわからないので、断定はしかねます。

いずれにしても、そのニューヨークタイムズの記事やワールド・アルマナックにあるユダヤ人世界人口の人口値を使うのは詐欺でありデマなので、どうでもいい話です。終戦直後の当時に推計されていたユダヤ人人口がアルマナックとは別に存在していることは、以下の記事にあります。

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戦時中、赤十字委員会はユダヤ系福祉団体などから集めた資金で救援物資をユダヤ教徒に届にあった。
その委員会報告で、大戦の最後の数ヶ月間、収容所は全く食糧物資を受け取れず、飢餓により犠牲者が益々増えていったこと、ドイツ政府は何とかして食糧供給を確保しようと努力していたことが報告されている。

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ハーウッドが、その本の第9章である赤十字に関する内容で嘘をつきまくっていることは調べているので、既に示していますが以下を参照ください。

上の記事内では紹介していませんが、ハーウッドは「戦時中、赤十字委員会はユダヤ系福祉団体などから集めた資金で救援物資をユダヤ教徒に届ける立場にあった」について以下のように書いています。

戦争中、「同委員会は、世界中のユダヤ人福祉団体、特にニューヨークのアメリカ合同配給委員会によって集められた2,000万スイスフラン以上の救援物資を、救援物資の形で移送し配布する立場にあった」(第I巻、p.644)。この後者の組織は、アメリカの参戦までドイツ政府からベルリンに事務所を置くことを許されていた。

ところが、その赤十字の報告書のp.644にはこう書いてあるのです。

In its capacity as a neutral intermediary, the Committee was in a position to transfer and distribute in the form of relief supplies over twenty million Swiss francs collected by Jewish welfare organizations throughout the world, in particular by the American Joint Distribution Committee of New York. Without the help of the ICRC, this concerted effort made by a whole community would have doubtless been vain, as no Jewish organization was allowed to act in countries under German control. A detailed account of this important relief scheme will be found in Vol. III.
<翻訳>
中立的な仲介者としての立場から、同委員会は、世界中のユダヤ人福祉団体、特にニューヨークのアメリカ合同配給委員会から集められた2千万スイスフラン以上の救援物資を移送し、配給する立場にあった。ICRCの援助がなければ、地域社会全体が一丸となって行ったこの努力は、間違いなく無駄に終わっただろう。というのも、ドイツの支配下にある国々では、ユダヤ人団体が活動することは許されていなかったからだ。この重要な救済計画の詳細については、第3巻を参照されたい。

Report Of The International Committee Of The Red Cross On Its Activities During The Second World War (September 1, 1939 - June 30, 1947) Volumes 1

「この後者の組織は、アメリカの参戦までドイツ政府からベルリンに事務所を置くことを許されていた」だなんて赤十字報告書の当該ページ周辺を見渡してもどこにも書かれていませんが、ドイツ支配下ではユダヤ人団体は活動できなかったと書いてあるのですから、ハーウッドの嘘である確率は高いですね。

ともかく、示した通り、赤十字の章もハーウッドの嘘ばっかりなのでその記述は信用に値しません。

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・戦争末期にヨーロッパ各地でナチスの収容所に足を踏み入れた連合軍が夥しい死体を調査した結果、チフスなどによる病死者の死体は多数確認したものの、毒ガスで殺された死体は一体も確認できていない。

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これ、西岡氏がずっと使い続けている呪文の一つです(「毒ガスで殺された死体は一体も確認できていない」)が、私は何度もそれは違うと言ったのに聞き入れてくれませんでした。ガス殺死体自体の法医学的報告はあるんです。一体どころではなく、「死体遺棄者623人中523人」です。

多分、欧米のプロレベルの修正主義者ならもう「ガス殺死体の報告は一つもなかった」とは言わないはずです。否定派お決まりのように上記報告が捏造であると主張するのは別として。しかし、冷戦時代ならともかく、冷戦崩壊後になってもこれを疑うのは無理があると思われます。かなりロシアの公文書館を自由に調べることができるようになってなお、ソ連がホロコーストの件を捏造していただなんて証拠は一切出てきていないからです。

なお、アウシュビッツやトレブリンカなど、固定式ガス室でのガス殺遺体に関しては、確かにガス殺が証明された遺体は一体も見つかっていません。もちろんそれは、少なくともアウシュヴィッツでは、その遺体の全てが火葬されてしまったからであり、トレブリンカなどの他の絶滅収容所でも大半が火葬処分されているようであり、一部は遺体がまだ埋まっているようですが、それが掘り起こされて検死されたという報告は全くないようであり、いわゆる絶滅収容所で遺体として検死を受けてガス殺死体だと断定されたものはありません。

ですが、純粋に論理として、検死されて証明されたガス殺死体がなかったからと言って、ガス殺がなかった、にはなりません。またその推定を否定するものでもありません。証拠は膨大にあります。その一部は以下で紹介されています。

これでもほんの一部に過ぎません。

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ガス室の設計図は一枚も発見されていない。アウシュビッツ=ビルケナウでガス室として公開されている地下室の設計図を見ると、「死体安置所」と書かれている。
「後からガス室に転用したのだ」との主張もあるが、2つに分かれたアウシュビッツ収容所の内、後から建設された第二アウシュビッツ(別名ビルケナウ収容所)は最初から「ユダヤ人絶滅」の目的で作られたとするのが定説側の主張であるのにも関わらずだ。

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ガス室と書かれていないからガス室の設計図ではないとは言えません。そもそも、害虫駆除剤は基本的に密閉可能ならばどこででも使用できました。害虫駆除剤なんだから、そうでなければ困ります。殺人ガス室のような秘匿性の高いものを、「人殺し用ガス室(Menschengaskammer?)」と図面に書いて残す方がバカです。

ビルケナウでは、最初こそ死体安置室として使おうと考えていた部屋の一つを、殺人ガス室として使いやすいように少しだけ設計変更しました。その詳細については以下のプレサックの本を入念に読み込む必要がありますが、

プレサックはその図面の変化を読み取って例えば以下のように考察しています。

クレマトリウムIIのLeichenkellerを「特別処置」という新しい役割に適合させるために、次のような改造が行われた。

1 . 脱衣室(Leichenkeller 2)への外部からのアクセス階段が建設された。一方、クレマトリウムの庭に建てられた小屋は、1943年3月後半には、臨時の脱衣室として使われた。
2. Leichenkeller 1の二重扉の開く方向が逆になっていた(1942年12月19日付の図面2003、デジャコ作画)。
3. この二重扉は、その後、ガス気密性の高い一枚の扉になった。
4. Leichenkeller 1の排水設備は、建物の西側で他の排水設備から分離され、建物の外の下水道に直結していた(1942年6月18日の排水図面1300)。
5. 1943年3月にチクロンBを導入した後、Leichenkeller 1の換気システムの効率が試された。
6. Leichenkeller 2からLeichenkeller 1への通路に問題が生じたので、死体シュートの前に木の壁が作られた(クレマトリウムIIの1943年3月18日のオーダー204、DAW作業場に送られた)。
7. Leichenkeller 1には、チクロンBを注ぐための蓋付き煙突が屋根の上にある4本の重い金網の柱が設置されていた(PMOファイルBW 30/43。12ページ)。
8. Leichenkeller 1の天井に24個の木製ダミーシャワーが設置された(PMO file BW 30/43, page 24 for Krematorium III)。
9. Leichenkeller 1の3つのウォーターテープが取り外された(図面2197[b](r))。
10. Leichenkeller 2には、上部の壁に洋服掛けが付いたベンチが設置された。
11. Leichenkeller 3の面積が縮小され(14/5/42の図面1311)、その後、この死体安置所はクレマトリウムⅡの犯罪関連では使用できないので、完全に撤去された(1942年12月19日の図面2003)。

この全てが正しいとは私自身は考えていませんが、以上のようなプレサック本の内容と、その他の文書や証言証拠などを組み合わせれば、殺人ガス室であったとしか解釈の他はありません。

なお、「後から建設された第二アウシュビッツ(別名ビルケナウ収容所)は最初から「ユダヤ人絶滅」の目的で作られたとするのが定説側の主張」だったこともあるようですし、今もそう考える人もいるようですが、修正主義者が嘘つきとするアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスはこう書いています。

 さて、戸外での最初の屍体焼却の時、すでにこのやり方は、長く続けられないことが明らかになった。悪天候や風の強い時など、焼却の匂いはあたり数キロにひろがり、周辺の住民全部が、党や行政当局の反対宣伝にもかかわらず、ユダヤ人焼却のことを話題にしたからである。

 一方、この虐殺作戦に加わった全てのSS隊員は事態について沈黙を守るよう、特に厳しく義務づけられていた。しかし、後のSS法廷での審理でも示されたことだが、関係者はこれに関し沈黙を守らなかった。重い処罰も、このおしゃべりを封じることはできなかった。

 さらに、防空隊も、夜陰にも空中で見えるこの火に対して抗議を申し入れてきた。しかし、つぎつぎ到着する移送者をとどこおらせぬためには夜も焼却をつづけねばならなかった。輸送計画会議で、交通省によって正確にきめられた輸送計画は、関係路線の渋滞と混乱をさけるためにも(特に軍事的理由からして)、無条件に厳守されねばならなかった。

 こうした理由で、全力をあげて計画を推進する一方、結局、大きな火葬場が二つ建てられ、ついでは一九四三年にはそれより小規模のもう二つが追加された。さらに後になって、規模の点では既存のものを遥かに凌ぐような火葬場が一つ計画されたが、これはもはや実現の運びに至らなかった。というのは、一九四四年秋、ヒムラーはユダヤ人虐殺の即時中止を命令したからである。

ルドルフ・ヘス、『アウシュヴィッツ収容所』

戸外での野外焼却とは、ビルケナウに最初にあった二つのブンカーでのユダヤ人絶滅の際に実施された遺体の焼却作業のことです。上の文章は、このブンカーでのユダヤ人絶滅・焼却の後で火葬場が建てられるようになったと読めますが、そうではありません。ブンカーでのユダヤ人絶滅の最中にビルケナウの火葬場は建設が始まっており、その建設の開始後に遺体の野外焼却が始まっているので、これは建設の最中に計画変更及び設計変更が行われたと読まねばなりません。

つまり、ビルケナウでの火葬場が建設されている最中に、ユダヤ人のガス室による絶滅を、火葬場の死体安置室の一つをちょっとだけ設計変更して、火葬場の建物自体でガス殺と火葬処理の両方を行えるように変えたのです。それは既に前年からアウシュヴィッツ第一収容所でやっていたことでした。

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・アメリカやイギリスが戦後、ニュルンベルク裁判でドイツを裁いた際、アウシュビッツについて、何の実地検分もしていない。

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ニュルンベルク裁判ではそうかもしれませんが、現地ポーランド当局はポーランドでの刑事裁判のため、アウシュヴィッツ収容所を「実地検分」してます。プレサック本にはその時の写真が何枚か載ってますが、自分で翻訳しておきながらこんなこと言うのもあれですけど、あまりにもでかい本なので探すのがめんどくさ過ぎて、ご自身で読んでみてください。一応一枚だけ実地検分時の写真を以下に。

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0553.shtml

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・定説ではナチスが建設した多数の収容所のうち、ポーランド内の6つだけが「絶滅収容所」として建設され、ガス室があった」とされている。しかし、「ガス室」とされるものが現存するのはアウシュビッツ(ビルケナウを含む)とマイダネックの2か所だけだ。仮に後で隠滅されたとしても、ガス室が現存しないのであれば、そこにガス室があったと証明することはできない。

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同様に、戦後に存在していなかったとしても、書いてある通り証拠隠滅された可能性があり、少なくとも「なかった」とも証明することはできません。

私は、アウシュヴィッツ以外はあんまり知らないのですけれど、ヘウムノ、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカでユダヤ人がナチスドイツによって大量虐殺されたことは間違いなく証明されています。その一つは、当然コルヘア報告です。

ここには以下のような記述があります。

4 . 東部地方からロシア東部へのユダヤ人の輸送
.........................1,449,692人のユダヤ人
 総督府の収容所を通過した数字は以下の通り
 .................1,274,166人のユダヤ人
 ヴァルテガウの収容所を通過
 .................145,301人のユダヤ人

この総督府の数字については、イギリスによって暗号が解読されていたヘフレ電報がそれを裏付けています。

合計 1942年12月31日現在,
L 24,733
B 434,508
S 101,370
T 71,355[read- 713,555]
合計 1,274,166
ルブリン親衛隊・警察幹部、ヘフレ親衛隊少佐

全く同じ総数が書かれています。日付も同じです。つまり、RSHAはラインハルト作戦の責任者の一人であったヘフレ少佐からこの電報により数字を受け取ってベルリンでまとめ、コルヘアに伝え、それがコルヘア報告記載の数字になっているとしか考えられません。それぞれアルファベットは、Lはルブリン(マイダネク)、Bはベウジェツ、Sはソビボル、Tはトレブリンカになります。

否定派は、コルヘア報告には処刑や殺害等の直接的記載はなく「疎開」としか書かれていないことから、これは書いてある通りそれら収容所が通過収容所であったことの証明であると主張します。ところが、そのように解釈することはできません。なぜなら、その書いてある四つの収容所+ヴァルテガウの収容所を通過して東部へ送られたユダヤ人など、ただの一人も存在しないからです。それら五つの収容所へユダヤ人が送られていたこと自体は否定派も否定しないのですから、東部へ送られたユダヤ人が存在しないことは、それら収容所が通過収容所ではなく、絶滅収容所であったとしか考えようがありません。

しかも、コルヘア報告は草稿があり、草稿自体は見つかっていないものの、ヒムラーによる文言変更の指示があったことが判明しています。そして、コルヘアは戦後に余計なことを述べており、それらのことから、コルヘア報告に記載された「東への疎開」とは、ユダヤ人絶滅に他ならないことが判明しています。

ヒムラーが第5章4項を書き換えさせたのは、その項目が絶滅収容所であったからであり、ヒムラーはコルヘア報告を有用なユダヤ人絶滅をカモフラージュするための資料と考えていたので、そこに「特別処置」と書かれては困ると考えたからに違いありません。なぜなら、ヒムラーは当然「特別処置」の意味を知っていたからです。自分でそう言っているのです。

Bekämpfung der Diziplinwidrigkeit
(4) In besonders schweren Fällen ist beim Reichsicherheitshauptamt Sonderbehandlung unter Angabe der Personalien und des genauen Tatbestandes zu beantragen.
(5) Die Sonderbehandlung erfolgt durch den Strang.
[翻訳]
逆境に立ち向かい、規律を守る
(4) 特に深刻な場合は、事件の詳細と正確な事実を伝えることによって、帝国本保安局に特別処置を申請する。
(5) 特別処置は絞首刑で行われる。

Nuremberg Document 3040-PS

ガス室の物的証拠が残っていなくとも、証言証拠を含む全ての証拠はそれら収容所が絶滅収容所であったとしか考えられないことのみを示しており、ガス室があったとする証言はこれらの事実に矛盾していません。

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・定説では毒ガスとしてアウシュビッツとマイダネック以外の4か所では一酸化炭素が使われ、それはディーゼルエンジンで発生させたとされているが、ディーゼルエンジンはガソリンエンジンと違って一酸化炭素を極微量しか排出しない。さらに、ディーゼル・ガス室の実物が現存しない。

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ディーゼルエンジンで殺人が出来ないわけではありません(空気吸入量を不十分にするなどの方法で不完全燃焼させれば十分な濃度の一酸化炭素を排出する)が、現在は既に毒ガス発生用に使われたのはガソリンエンジンだろうとの説に変わっています。その主たる理由は、ガソリンエンジンだったとする証言がそこそこ存在するからです。トレブリンカ等の絶滅収容所のガス室用のエンジンが置いてあった場所には、発電用のディーゼルエンジンも併置されていたようであり、エンジンに直接関係ない人たちにとってはエンジンの種類を誤解しやすかったのではないかと考えられています。なお、少なくともソビボル絶滅収容所では、以前から使われたエンジンはガソリンエンジンだとされていたことを付け加えておきます。

なお、殺人ガス室自体もそうですが、たとえエンジンの現物が残っていようとも、否定派はアウシュヴィッツのガス室と同様、必ず「捏造」と主張するに決まっているので、現存していようとそうでなかろうと関係ありません

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・アウシュビッツではガス室の天井の穴からチクロンBの入った缶を投げ込み、そこから青酸ガスを発生させたとされているが、ガス室の目の前20メートルの距離にドイツ人用の病院がある。
ガス室での処刑後に内部を換気して青酸ガスを排気すれば真向かいの病院にいるドイツ人たちが命の危機に晒されるはず。

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ロイヒターだか、フォーリソンだか知りませんが、そんな古臭い否定説に意味はありません。シアン化水素ガスを含む有毒ガスの危険度の判定基準は「濃度」です。シアン化水素ガスが排気などによりガス室の外に漏れ出しても、少し離れる程度でほとんど無害になります。大気と混ざり合って濃度が低下するからです。

オナラを考えれば分かりやすいかもしれません。電車のような閉鎖空間内でオナラをされると数メートル以内の乗客にとっては少しの間臭いを我慢しなければならない状況になりますが、普通の街中などの開放空間では、たとえ真隣を歩いている人がオナラをしたところでほとんど臭わないか、全く臭わないはずです。

あるいは、塩素ガスが第一次世界大戦で非常に効果的だったのは、空気の2倍以上の比重だったからで、地表面に留まりやすく、大気中に拡散しにくかったからです。シアン化水素はそれに対し、空気とほとんど変わらない少し軽い程度の比重なので、すぐに大気中に混ざり合って拡散してしまいます。だから、害虫駆除剤としてのシアン化水素ガスは閉鎖空間内でしか使えないのです。樹木などの害虫駆除としてもシアン化水素ガスは使われていましたが、気密性のそこそこある分厚い大きな布を使って樹木を囲ったりして使っていたのです。

こんな簡単な「科学」すら、ロイヒターやフォーリソンにはわからないのですが、はっきり言って恥ずかしいのでこの程度は「何をおかしなことを言ってるんだ?」程度に気付いてもらいたいものです。

なお、第一収容所の第一ガス室(第一火葬場)の近くにあった病院建物は確かに近かったので、しっかりそこにいた囚人にガス処刑を目撃されています。

1942年、私の記憶が間違っていなければ、1943年かもしれませんが、秋の終わりか初めに、私は、コッホが、火葬場の開口部からガスを流して、約200名のユダヤ人のガス処刑に積極的に参加しているのを見ました。ガス処刑は古い火葬場(註:基幹収容所のクレマ1のことだと思われるので稼働時期を考慮すれば1942年だろう)で行われました。私は、道路の反対側の建物に設置されたSSの診療所からその様子を見ていましたが、すべてをはっきりと見ていました。火葬場の前に停車していた2台の車は、SS隊員によって降ろされました。荷降ろしは、オーマイヤー、グラブナー、キシュナー、その他、今はこの部屋にいない政治部の多くの人たちが立ち会って行われました。囚人は服を脱がされた後、火葬場に運ばれました。コッホは2人のSSを伴って中に入りました。ヴォースニッツカと、私の記憶が間違っていなければ、テューア親衛隊伍長です。全員がガスマスクをつけて火葬場に入りました。彼らはガス缶を開けて中にガスを注入し、火葬場の開口部を閉めて階下に降りていった。火葬場の中からは、ガスをかけられている人たちの耳を疑うような悲鳴が聞こえてきた。火葬場の横に停めてあった車のエンジンをすぐにかけて、叫び声を消した。数分後、ガス室のガスを除去し、遺体を取り出すために換気装置が開けられた

エドワード・スタイシュの証言

私が調べた限りでは第一ガス室のガス処刑の目撃者はもう二人(BBC制作のドキュメンタリーに登場する証言者を含めれば三人、他に火葬場作業に従事していたゾンダーコマンドが3名程度、あと加害者側となるルドルフ・ヘスやペリー・ブロードなどの親衛隊員も複数名います)ほどいます。とりあえず今回は覚えていたのだけ。

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・チクロンBの投入口には気密性が全くない。

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西岡氏は本当にダメダメで、そこで示されている写真の「チクロン投入口」は、当時のものではありません。戦後にポーランド当局によって復元された時に、穴を再度開けて煙突もその時に作ったものであり、蓋もおそらくその時に作ったのでしょう。そんなこと今時、この話題をするならば多くの人が知っているでしょう。誰でも知ってるとまでは言いませんが、なぜそんな意味のない写真をわざわざ撮ったのでしょうね?

アウシュヴィッツ第一収容所の第一ガス室(第一火葬場)は、1942年末頃まで殺害に使用された後、1943年中には火葬場も使われなくなり、1944年になるとガス室だった場所は防空壕に改修され、当然天井のチクロン穴は塞がれてしまい、煙突も撤去されてしまっています。

戦後の復元時の記録が残されていないのが残念ですが、1947年か1948年にはアウシュヴィッツ収容所は博物館化されていて、それに合わせる形で第一ガス室・第一火葬場を再現工事をしたものと考えられます。て言うか再現工事をしたとしか考えられません。

これを否定派は、「捏造」したのだと主張します。煙突が建物につながっていないのがその証拠だ!とか。私は本当に否定派はアホだとしか思えません。もし否定派の主張通りならば、なぜそんなすぐバレる捏造をするのでしょう??? ガス室にはガス密閉扉の一つもないし、内壁を一枚ぶち抜きすぎてるので、ガス密閉扉ではあり得ない大きなガラス付きの薄い木製扉をガス気密扉だったと見せかけていると誤解されてしまったり(バレバレすぎて話にならない)、捏造としては杜撰すぎるにも程があります。

しかし、これが単に再現工事が杜撰だっただけ、ならば簡単に説明がつきます。適当に、当時のガス室だったかのように見えたらそれでいい、くらいの考えで再現工事しただけなのでしょう。なお、「建物と繋がってない煙突」は否定派の誤ったクレームで、ちゃんと当時の図面が残っています。煙道を地下経由にしてあり、火葬炉からの煙は、強制通風装置によって一旦下方向に排気させた後で煙突から排煙されるようになっているのです。

私は何度も西岡氏に「火葬場があったこと自体は誰も否定していないんだから、煙突が当時なかったのならおかしいだろ?」と質問しましたが、延々とはぐらかされて答えてもらっていません。防空壕にした時に一旦煙突は撤去したが、当時の再現のために復元しただけなのです。だから位置こそ合っているが、高さも形状も図面とは異なっているそうです。

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・青酸ガスは空気より軽いので、長い煙突から徐々に排気すれば周囲に被害を及ぼさないが、そのような煙突がガス室には存在しない。

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排気煙突があればそりゃより安全ではありますが、今も現存しているチクロンを使っていたであろう害虫駆除室には全て長い煙突などありません。空気より軽いと言っても、その比重は空気を1とすると0.94程度であり、そんなに変わりません。しかし、空気と変わらない比重であることは、簡単に空気と混ざり合うことを意味するので、大気中に放たれたシアン化水素ガスはすぐに大気中に拡散してしまうため、濃度が一気に低下してしまい、少なくとも致死性は無くなってしまいます。但し、ガスが充満していた部屋の扉を開放した直後に、その扉のすぐ側にいるなどの場合は健康への被害はあったでしょう。ヘスがそのために収容所内に注意喚起の書面を配布していたことはよく知られています。これもプレサック本のどっかにあったはずですが、今回は見つけられませんでした。

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・アウシュビッツにおけるガス室での処刑の様子を描いたスケッチでは、作業員たちが半裸で死体を運び出している。
青酸ガスは皮膚からも吸収されるので、死体に触れる際には厳重な防護服を着なければいけないはずにも関わらず。

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西岡は、それを証明できませんでした。ロイヒターがそう言ってるだけなのです。アホらしくて話になりません。ロイヒターレポートではそう書かれた箇所には参照文献の一つとしてありません(レポート全体がそうですが)。そんなもの何の証明にもなりません。

プレサックの本には以下のような記述があります。これ、チクロンによる殺人ガス室の話ではなく、本来のチクロンの用途である害虫駆除作業の話ですから、嘘話である可能性はないと思います。

... これらの部屋には、フックのついた木の枠があり、そこに服をかけていました。窓は、換気扇と同じように、目地に沿って短冊状の紙で密閉されていました。倉庫の鍵を唯一持っていたドイツ人のカポ・マウから、チクロンBを受け取りました。ベズーチャともう1人の囚人とでガス処理をした。ガスマスクをつけて、裸かパンツ一丁で部屋に入りました。シラミがいるからです。衣服にはシラミが非常に多かった。ガス室に衣類を詰めるのに、2日もかかることもありました。 シラミは床に落ち、服の下に50cmほどの層を形成していました。それを広げようと中に入ると、シラミが飛びかかってきて、あっという間に層がなくなってしまいました。缶の開け方は、リング状の歯がついたノミのようなものをハンマーで叩いて開けました。すると、缶に輪っかのような穴が開くのです。シラミに刺されるのが怖いので、あらかじめノミとハンマーとチクロンBの缶を用意しておき、手早く開けて床に投げ捨てました。この作戦の速さにもかかわらず、シラミが足に飛びついてきたので、身を守るために足の周りにチクロンBを少しまきました。すぐに、シラミが死んで落ちていくのがわかりました。時々ガスが蒸発する瞬間に、結晶を扱ってそれを感じようとしました。ベルベットのような感触で、ひんやりと湿っていました。結晶を投げた後、外に出てドアを閉め、隙間に短冊を貼り付けました。24時間後、私たちは再びガスマスクをつけ、換気扇のスイッチを入れ、窓を開けました。換気は2時間続けられました。このガスは私たちにとって非常に危険なものでした。扉を閉めて短冊で密閉する前に、ガスが少し廊下に逃げてしまうのです。ガスマスクで守られていた私たち2人以外は、ガスマスクを持っておらず、フロア全体がガスに覆われてしまったのです。

一度だけ、装着していたマスクのガス密閉が悪く、少しガスがかかったことがあります。その時は何も感じませんでしたが、2時間後にひどい頭痛と髄膜の痛み、肺の焼けつくような痛みがありました。最初はKB(Krankenbau /病院棟)には行かず、ブロックから白樺の小道(ブロック3と捕虜収容所の防護壁の間)に出て、膝の屈伸をしながら深呼吸をしました。頭痛はかなり早く治まりましたが、咳をすると少し血が出ました。ワシレフスキー医師は、喉の炎症と脱水を診断しました。入院後、2ヶ月で完治しました...

プレサック、『技術』

ガスを吸ってしまって二ヶ月入院(「入院後、二ヶ月後」と述べているので入院自体は二ヶ月ではないかもしれない)していますが、裸で害虫駆除作業して、チクロンそれ自体にも触っているのに、特に体の不調は書かれていません。このことから、ダヴィッド・オレールが描いた絵のような作業状況は特に問題ないことがわかります。

西岡が酷いのは、西岡はプレサック本を所有していることです。したがって、プレサック本を持っている(ものすごく貴重な本で今(2023年12月現在)買えば中古でも日本円で10万円以上する本です)のに全然読んでいないのです。呆れてしまいますね。今は自宅の倉庫に眠ってるそうです。勿体無い……。

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・アウシュビッツに存在するガス室付きだったとされる死体焼却棟の破片を化学分析したところ、予想されるような多量のシアン化合物がまるで検出されなかった。

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これもロイヒター・レポートの話ですね。ロイヒター・レポートにはこんなグラフがあります。

右端の値が飛び抜けて高いのは、チクロンを使っていたことがはっきりわかっている害虫駆除室のサンプルです。殺人ガス室は矢印で示されていますが、全然低い感じになっています。よくわかってない人はこの馬鹿げたグラフを見て「なんだ?殺人ガス室からは全然シアン化水素が検出されてないじゃないか!殺人ガス室ではなかったってことだ!」と早合点します。しかし事態はそう単純ではありません。このロイヒターによる調査は戦後43年も経ってから実施されているのです。シアン化水素(あるいは通常のシアンイオン)はいわゆる「風化」に弱く、実際にはそんな長期間も経っているのであれば高濃度で検出される方がおかしいのです。

これについては、「プルシアンブルー」を理解する必要があります。西岡にそんなややこしい話は理解できないと思います(化学の知見に乏しい歴史学者ですらなかなか理解していません)けど、何個もこの件で記事を起こしていますが、例えば以下を参照願います。

この件は、ロイヒターの後釜であるゲルマー・ルドルフの議論や、ロイヒター・レポートに対抗する調査であるクラクフ報告の翻訳も含めてしつこいくらいやってますので十分把握してるつもりです。しかし世間のホロコースト否定派は「化学」を理解してない(理解する気がない)ので、私がどれだけ説明しても理解しないとは思います。

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・マイダネックのガス室は火葬場から最も遠い場所にある。
・マイダネックのガス室には、割られたら大変なことになるガラス窓がある。

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マイダネク収容所については、日本語文献が非常に乏しく、ネットで調べても海外文献でさえ詳細な情報を得るのが難しいので、今の所、詳細なことは知らないので議論できませんが、マイダネク収容所の実態はどうやら絶滅収容所とは言い難い収容所であった(現在の犠牲者数の推定値は7.8万人程度であり、うちユダヤ人は5万人である)ようで、ラインハルト作戦収容所の他の絶滅収容所(ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ)でユダヤ人から奪い取った荷物を一旦集積するための収容所だったのではないか?と思っています。ですから、ラインハルト作戦の収容所の一つではあるが、絶滅収容所としては大して機能していなかったのではないか?と考えられますが、詳細を知らないので、これ以上は何とも言えません。マイダネク博物館のサイトの説明でも、マイダネク収容所のガス室についてはよくわからない点が多いと書かれています。

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4.ドイツ、オーストリア、フランス、スイス等の国々でユダヤ人へのホロコーストやガス室がなかったと主張することが法律で規制または禁じられていることに関して
私はこのことを聞いた瞬間、「ユダヤ人ホロコーストやガス室はプロパガンダなのだな」と直感的に理解した。

それらが動かしようのない事実であるならば、検証されても否定されても痛くも痒くもないはずだ。
それ以前に、そもそもどのような思想を持つことも憲法で保障されているのだから、法律で特定の思想を禁ずることはできるはずがなく、極めて異常なことだ。

これは、今回のコロナ騒動でのYouTubeや Facebook、旧Twitterなどでの投稿削除、ファクトチェック問題と同じ目的で行われていることが明らかだろう。「言論封殺」だ。

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ホロコースト否定の主張を禁止する法律があるのは、欧州の半数程度の国ですが、この件については歴史学者の武井彩佳氏による『歴史修正主義』に非常に丁寧に記述されています。今やこの問題について日本で言及するならば、必須文献と言っていいと思います。少し長くなりますが同著から引用します。強調は私によるものです

 法規制の目的を、「歴史の真実」を守るためと言う人がいる。実際にメディアではそうした言葉が使われている。しかし序章で見たように、一般に私たちが歴史と呼んでいるものは、実際には歴史認識のことであり、「歴史の真実」ではない。ましてや「歴史の真実」は法的に定義できない。定義できないものを守るような法を整備することは、なおさらだ。さらに史実を認めない人間の偏狭さを犯罪化するなど不可能である。このため、否定禁止の真の目的は、「歴史の真実」の保護とは言えないだろう。
「真実」といった抽象的なものではなく、より具体的なレベルで考えるとどうだろうか。ホロコースト否定論や歴史修正主義は、その出来事を経験した当人を確実に傷つける。自分が味わった苦痛や絶望をでっち上げと言われ、なかったものとされて怒りを感じない人はいない。また、その人が負った苦しみを間近で見て、ともに苦しんできた家族も、否定によって同様に傷つけられる。死者は、死そのものを否定される。彼らは二度殺されるとも言える。つまり、歴史の否定はまず歴史の当事者に対する攻撃である。
 加えてこうした行為は、多くの場合、特定の民族・人種・宗教集団に属すマイノリティに対して向けられる。たとえばホロコースト否定論は、ツンデルやアーヴィングの例が示したように、明らかにユダヤ人に対する反感が根本にある。表向きには歴史を問題としているようでも、実際には反ユダヤ主義の表現に過ぎない。アルメニア人虐殺の否定についても同じことが言える。また慰安婦の体験の否定も、朝鮮人に対する蔑視と女性蔑視が混在しているのは言うまでもないだろう。
 つまり、歴史の否定は、人種偏見や民族差別、特定集団への敵意を煽る行為を伴う。したがってこれは、特定の集団に対するヘイトスピーチの一形態であると言える。
 言うまでもなく、第二次世界大戦後の国際社会は、人種や民族に対する差別を許さない姿勢を示してきた。国連は一九六五年に「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」(人種差別撤廃条約)を採択した。人種や民族、宗教集団に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)やヘイトスピーチに対しては、現在ほとんどの欧米諸国が何かしらの形で規制を行っている。
 表現の自由を重視するため、言論の規制に対して消極的なアメリカでさえ、表現に暴力を誘発する明白で差し迫った危険がある場合は、規制の対象とする。日本でも「ヘイトスピーチ解消法」が二○一六年に施行され、自治体による独自の規制が始まっている。つまり歴史の否定は、個人や集団の尊厳を傷つけ、公共の平穏を乱し、暴力を誘発するへイトスピーチであるという理解から、法規制の対象とされてきたのだ。

(武井、『歴史修正主義』、p.182-183)

ホロコースト否定が反ユダヤ主義の一形態に過ぎないことは、かつてはホロコースト否定の中心組織と見られていたアメリカの歴史評論研究所(Institute for Historical Review: IHR)のマーク・ウェーバーが2009年にホロコースト否定論を邪魔だと宣言している以下で明確です。

マーク・ウェーバーは「ユダヤ・シオニストの権力に対抗する現実の世界での闘いにおいて、ホロコースト修正主義は助けになるのと同じくらい邪魔になることが証明されている。」と述べており、彼が反ユダヤ主義・反シオニスト主義者であることは明らかです。米国の人種差別主義者・白人至上主義者に反ユダヤ主義者が多いのは当たり前のことですが、IHRの設立者であるウィリス・カルトは極右団体から追い出されるほどの過激な反ユダヤ主義者であったこともよく知られています。カルトはそのIHRでさえも喧嘩して離反しています。

つまりは、ホロコースト否定の主張を行うことはイコール反ユダヤ主義的ヘイトスピーチに他ならず、ナチスドイツの悪夢を知っている欧州人にとっては、ホロコースト否定の主張を法的に禁じようとする傾向があることは当然なのです。

ただし、フランスのゲソ法に始まった明確なホロコースト否定主張の禁止法の制定は、多くの歴史学者から反対されているという事実があります。理由は様々ですが、基本的には学者は言論表現の自由が自分たちにとって最も大事なものであることをよく知っているからだと考えられます。

何れにせよ、的外れな「陰謀論」は、ホロコースト否定の主張を禁止していることとは何の関係もありません。どんだけ禁止したって、「ホロコースト否定」を止めることはできません。実際に、例えばあのアンネ・フランクの国であるオランダでは、若者の1/4が「ホロコーストを作り話だと思っている」との調査結果が報道されています。

facebookだろうが、Xだろうが、YouTubeだろうが、どんだけ規制しても、その規制をすり抜けた「ホロコースト否定」が実際には存在し続けています。ホロコースト否定論本を禁止しているAmazonでさえ、日本語だとその規制をすり抜けて売ってます。それはこの記事の対象記事の人が知ってるわけです。

ですから、私自身はホロコースト否定の法的禁止には意味がないと思っています。そうではなくって、私たち一人一人が、嘘か本当かを見抜いていく必要から逃れられないのだと思います。それを見抜けない人たちが実際には嘘であるホロコースト否定論を迂闊に信じてしまうだけなのです。

以上。

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