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ホロコースト否定派による「赤十字報告書」のウソの紹介〜"Did Six Million Really Die?"(600万人は本当に死んだのか?)のデタラメを暴く。

追記:この記事は、以下の記事と併せてお読みください。


今回は、戦後の国際赤十字作成の報告書を大胆不敵に悪用した修正主義者による否定論についてです。この赤十字報告書とは、『赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)(Report Of The International Committee Of The Red Cross On Its Activities During The Second World War (September 1, 1939 - June 30, 1947))』とタイトルされた報告書です。

原著はネットにあります。以下画像をクリックすると、原著全文を確認すること自体は可能です。

(画像クリックで原著にアクセス出来ます)

最初に悪用を行った修正主義者は知りませんが、リチャード・ハーウッドの『600万人は本当に死んだのか?』の実例が有名なようです。このハーウッドの記述を元ネタとしているのだと思われますが、たとえば以下のような主張が日本人のネット否定派でもしばしばなされます。

馬券師
5つ星のうち1.0 連合軍によるユダヤ人大量殺戮の全貌と改めるべき
2020年1月3日に日本でレビュー済み
ホロコーストなどありえない。
その理由は、すべての強制収容所で赤十字の監督が許されていたからです。
赤十字の報告書にホロコーストなど書かれていません

書かれているのは連合軍の無差別爆撃でインフラが破壊され物資の輸送が困難になり
病死、餓死者が大量に発生したということです。
ユダヤ人大量死の原因は連合軍による無差別爆撃だとはっきり記されています

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RMTAQZAHSDYST/ref=cm_cr_arp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B00LMB2IZG

「すべての強制収容所で赤十字の監督が許されていた」はもちろんウソです。これはこちらで解説されています。該当部分だけ引用すると、

援助と保護のためのICRCの権限をすべての強制収容所に拡大することはできなかったことを強調しなければなりませんそこには多数の収容所や労働分遣隊があり、彼らは何も知りませんでしたし、敵対行為が終わるまでそこへの立ち入りを拒否されていました

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)、第1巻、p.625

とあるとおりです。「赤十字の報告書にホロコーストなど書かれていない」もウソです。1948年の報告書であり、この時期にはまだ「ホロコースト」の呼び方は普及していなかったので、ナチスドイツのユダヤ人への残虐行為をホロコーストとは表現してはいませんが、たとえば以下のような記述があります。

国家社会主義のもとで、ユダヤ人は、厳格な人種法によって、暴虐と迫害と組織的な絶滅に苦しむことを宣告され、まさに追放された存在となった。彼らは、PWでも民間人抑留者でもないため、いかなる保護も受けられず、条約の恩恵も受けられない別個のカテゴリーを形成していたのである。ICRCが囚人や被抑留者のために行使する権限を与えられていた監視は、彼らには適用されなかった。ほとんどの場合、彼らは、実際には、彼らを支配下に置き、その最高権威に安心し、彼らのために介入することを許さない国家の国民であった。これらの不幸な市民は、政治亡命者と同じ運命をたどり、市民権を奪われ、少なくとも法令の恩恵を受けていた敵国人よりも不利な扱いを受けることになった。彼らは強制収容所やゲットーに入れられ、強制労働にかり出され、ひどい残虐行為にさらされ、死の収容所に送られた。ドイツとその同盟国が自国の政策の範囲内としか考えていない事柄に介入することは誰にも許されなかった。

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月3日)、第1巻、p.641

したがって、この記述だけで、そもそもICRC報告書はホロコースト否定には使えないものだと分かるわけです。これが実際の結論みたいなものですので、以降は読まなくても構わないとも思います。アホらしくなるだけですので。

ところで、このICRCによる第二次対戦中の活動報告書全体はなんと全3巻で合計1610頁もあり、たとえこれが日本語資料だったとしても、当然これを読み通すだけの背景知識も必要ですから、それが英文資料ときては正直、英語に疎い私ではいくら機械翻訳があると言っても分量が多すぎて、そのファクトチェックはめんどくさそうで諦めていました。当然、元ネタを書いたハーウッドも、元資料を当たる人などほぼいないと踏んで出鱈目を書いたのでしょう。伝統的にプロ修正主義者のやり口は大体そんなもんですし。

とりあえずは、リップシュタットの『ホロコーストの真実』(恒友出版)には反論は載ってはいるのですが、それほど詳細な反論説明ではないのでやや不満だったのです。しかし、ネットを探しても『Did Six Million Really Die?』を細かく反論した記事はなかなか見つかりませんでした。

しかし、あまりに上のAmazonレビューのようなデマがネット上で蔓延っていることに鑑み、今回ついにその面倒なファクトチェックをやってみようと思い至りました。そこでとりあえずは元ネタのハーウッドの記述を紹介し、その中でツッコミを入れていくことにします。以前に、『600万人は本当に死んだのか?』を、DeepLに通しただけで一切修正しない翻訳記事(註:こちらのリンク先は既に翻訳を全面的に「丁寧に何日もかけて」やり直しています)を作ったことはあるのですが、今回は他の翻訳記事同様できるだけ丁寧に翻訳します。もちろん赤十字の部分だけです。ただし私によるツッコミは、Holocaust Contreversiesの執筆陣ほどには有能ではないので、私が気が付いた部分、あるいは答えられる部分に限ることをご容赦ください。何せ、ICRC報告書は1610ページもあり、とてもではありませんが全部には目を通せません。

註:2023年4月現在、確認したところ、以下のリンク先資料がIHRのサイトから削除されているようです。取り急ぎ、Webアーカイブにはあるので、こちらを参照して下さい。

▼翻訳開始▼

9.ユダヤ人と強制収容所:赤十字による事実の評価

第二次世界大戦中のヨーロッパにおけるユダヤ人問題とドイツの強制収容所の状況について、その誠実さと客観性において、ほぼ唯一と言ってよい調査がある。それは、『赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告』(3巻、ジュネーブ、1948年)である。完全に中立的な立場からのこの包括的な記述は、過去に発表された2つの著作である、『ドイツの強制収容所に収容された民間人のためのICRC活動に関する文書 1939-1945年』(ジュネーブ、1946年)、 および『インター・アルマ・カルタス: 第二次世界大戦中のICRCの活動』(ジュネーブ、1947年)の調査結果を取り入れ、さらに発展させたものである。フレデリック・シオデを筆頭とする執筆陣は、報告書の冒頭で、赤十字の伝統に則り、その目的は厳格な政治的中立性であり、ここにその大きな価値があると説明している。ICRCは、ドイツ当局が中欧や西欧で拘束していた民間人被抑留者との面会を実現するために、1929年のジュネーブ軍事条約を適用することに成功した。一方、ICRCは条約を批准していないソビエト連邦には全くアクセスすることができなかった。ソ連に収容された何百万人もの民間人、軍人の被抑留者は、その状況が圧倒的に悪いことが知られていたが、国際的な連絡や監督から完全に切り離された。赤十字報告は、ユダヤ人が強制収容所に収容される正当な状況、すなわち敵性外国人として収容される状況をまず明らかにした点で価値がある。報告書は、民間人被抑留者の2つのカテゴリーを説明する中で、2番目のカテゴリーを「行政上の理由(ドイツ語で「Schutzhäftlinge」)で追放された民間人で、その存在が国家または占領軍にとって危険であると考えられたために、政治的または人種的動機で逮捕された者」(第111巻(註:IHRの原文ママだが、これは「第Ⅲ巻」の間違い)、p.73)と区別している。これらの人々は、「治安維持のために一般法の下で逮捕・投獄された人々と同じ立場に置かれた」(P.74)と続く。報告書は、ドイツが当初、治安に関する理由で拘束された人々の赤十字による監督を許可することに難色を示していたことを認めているが、1942年の後半には、ICRCがドイツから重要な譲歩を得た。1942年8月からドイツの主要な強制収容所に食料小包を配給することが許され、「1943年2月以降、この譲歩は他のすべての収容所と刑務所に拡大された」(第Ⅲ巻、p.78)。


翻訳者によるツッコミ:これ、リップシュタット本にもありましたが、明らかに意図的にハーウッドは省略してます。原文はこうです。

From February 1943 onwards, this concession was extended to all other camps and prisons in Germany.
1943年2月以降、この譲歩はドイツ国内の他のすべての収容所と刑務所に拡大された。

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)
、第3巻、p.78

引用文からそこに含まれている単語を省くのですからかなり悪質です。「1943年2月以降」ですから、当時のナチスドイツは欧州の相当広い範囲を支配下に収めており、ハーウッドはその全地域の強制収容所に食料小包の配給をICRCに許可したのだと誤認させたい意図があるからこそ省略したと判断せざるを得ません。


ICRCはすぐに収容所の指揮官と連絡を取り合い、食糧援助プログラムを開始した。このプログラムは1945年の最後の数ヶ月まで機能し、ユダヤ人被抑留者から感謝の手紙が殺到するほどだった


翻訳者からのツッコミ:そんな記述は少なくとも原著の第3巻p.78周辺を見てもありません。p.81にこうあるだけです。

As one of the men wrote: "Your parcels were inestimable; in some cases the arrival of a single parcel gave new life to those on whom starvation had nearly finished its work ".
ある人は、「あなた方の小包は計り知れない。小包が届いただけで、飢えが終わりかけていた人たちが新しい命を得たこともあった」と書いている。

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)
、第3巻、p81

まさか、これが「ユダヤ人抑留者」からの「殺到」を意味するのでしょうか? もちろん「ユダヤ人抑留者」などともどこにも書かれていません。


赤十字の受給者はユダヤ人


翻訳者のツッコミ:「受給者はユダヤ人」と記述して、あたかも全収容所の全ユダヤ人にICRCの小包が配給されたかのように書いてますが、そんなことどこにも書いていません。続く部分で未だ無知な翻訳者なりに気づいた部分を少しだけ説明します。


報告書には、「毎日9,000個もの小包が梱包された。1943年秋から1945年5月まで、総重量4,500トン、112万個の小包が強制収容所に送られた」と書かれている(第Ⅲ巻、p.80)。食料品だけでなく、衣料品や医薬品も含まれていた。「小包はダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザンガーハウゼン、ザクセンハウゼン、オラニエンブルク、フロッセンビュルク、ランズベルク・アム・レヒ、フレーハ、ラーフェンスブリュック、ハンブルグ・ノイエンガム、マウトハウゼン、テレージエンシュタット、アウシュビッツ、ベルゲン・ベルゼン、ウィーン近郊と中央・南ドイツの収容所へ送られた。主な受領者はベルギー人、オランダ人、フランス人、ギリシャ人、イタリア人、ノルウェー人、ポーランド人、そして無国籍のユダヤ人だった」(第Ⅲ巻、p.83)。戦争中、「委員会は世界中のユダヤ人福祉団体、特にニューヨークのアメリカ合同配給委員会から集められた2000万スイスフラン以上を救援物資として移送、配給できる立場にあった」(第Ⅰ巻、p.644)。


翻訳者のツッコミ:ハーウッドは、これも修正主義者が頻繁に使うテクニックの一つですが、この直後の記述をトリミングしました。修正主義者は自己の主張に合わない記述の処理に困ると、すぐに隠そうとするのです。ではその続きを以下に。

This relief work could not unfortunately be extended to all concentration camps, because a great many remained unknown to the ICRC until the end of the war. Moreover, the ICRC was long prevented by the blockade from procuring sufficient funds and goods.
この救援活動は、残念ながらすべての強制収容所に拡大することはできなかった。戦争が終わるまでICRCに知られていなかった収容所が非常に多かったからである。しかも、封鎖によって、ICRCは十分な資金や物資の調達ができない状態が長く続いていた。

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)、第1巻、p83

リストにアップされていない強制収容所の数をここでいちいち調べ上げて紹介はしませんが、ともかくICRCは「知られていない収容所が非常に多かった」と書いており、ハーウッドは明確には書いていないものの、錯誤させようとしたであろう「全てのユダヤ人」ではないことは明らかです。それにICRCの記述もよくわからないのですが、「そして無国籍のユダヤ人」とはいったいどういうことなのでしょうか? この辺はもう少しICRC報告書を精査する必要があると思いますが、今回はそこまではしません。


この後者の組織は、アメリカの参戦まで、ドイツ政府からベルリンに事務所を維持することを許されていた。国際赤十字社は、ユダヤ人被抑留者に対する膨大な救援活動の妨害は、ドイツ軍ではなく、連合軍の厳しいヨーロッパ封鎖にあると訴えた。


翻訳者のツッコミ:この「救援活動の妨害は、ドイツ軍ではなく、連合軍の厳しいヨーロッパ封鎖」ですけれども、ハーウッドはその記述がどこにあるのか書いていないので、どこにそんなことが書いてあるんだかわかりません。ただ、上で引用した部分の直後にこうあります。

When it could do so at the very end of the war, transport had been seriously curtailed by the destruction of roads and railways.
戦争末期になると、道路や鉄道が破壊され、輸送が著しく制限された

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)、第1巻、p83

戦争末期ですから、ドイツ軍は敗走の一方ですし連合軍の攻撃が酷くなっていたのも当たり前かですし、その上、別にICRC報告書は「連合軍のせいだ!」とは言ってませんし、「妨害された」とももちろん言ってません。少し脇道にそれますが、ネットの素人否定派はこれをよくいいます。曰く「強制収容所でユダヤ人が餓死したのも、連合軍が交通網を破壊したからだ!」などと。もしかしてハーウッドが赤十字報告書から創作を加えたこの部分が元ネタなのかもしれません。しかしそれはドイツ軍が戦局を有利に進めていたら、あり得なかったかもしれないことではないのでしょうか? いずれにせよこれは戦争状態にあったからであり、少なくともどちらのせいだとははっきりとは言えないことは確かです。連合軍が収容所の囚人を餓死させようと企んだのでない限りは(そんな説聞いたことありませんし、さっさと降伏させたかっただけでしょう)。ともあれ、最近のウクライナ・ロシア戦争でもウクライナがよくやってるように、補給路を断つのは戦争では当たり前のよく使われる戦術でしかありません。素人否定派は無茶苦茶なことばっかり言うという一例です。


ICRCは、1945年4月の最後の訪問まで、テレージエンシュタットに広がっていた自由な状況を特に賞賛していた。この収容所は、「各国から強制送還された約4万人のユダヤ人がいる、比較的恵まれたゲットーだった」(第Ⅲ巻、p.75)。報告書によると、「委員会の代表は、ユダヤ人専用で特別な条件によって管理されていたテレージエンシュタット(テレジン)の収容所を訪問することができた。委員会が収集した情報によると、この収容所は、ドイツ帝国のある指導者が実験的に始めたものである…彼らは、ユダヤ人たちに、自分たちの管理下にある、ほとんど完全な自治権を持つ町で共同生活を営む手段を与えたいと考えていた。…1945年4月6日、二人の代表団が収容所を訪れることができた。最初の訪問で得た好意的な印象を確認することができた」(第Ⅰ巻、p.642)。


翻訳者のツッコミ:えーと、テレージエンシュタットは偽装ゲットー(及び収容所)として有名で、ユダヤ人がナチスドイツに手厚く保護されているかの如くに見せかけていただけなのです。しかしま、ここではICRCが実際にどう記述しているのかを見ていきましょう。

Bohemia and Moravia. — In the summer of 1942, the German Red Cross informed the ICRC that the occupying authorities in Prague had given permission for the despatch of medical supplies to Theresienstadt (Terezin), the largest camp for Jews in the country. A trial consignment of a few parcels was sent to the address given, Lagerkommando Theresienstadt, but no receipt was ever returned to Geneva. Theresienstadt, where there were about 40,000 Jews deported from various countries, was a relatively privileged ghetto, and the visit of a delegate of the ICRC in Berlin was permitted, in June 1944, as a special concession.
ボヘミアとモラヴィア - 1942年夏、ドイツ赤十字は、プラハの占領当局が国内最大のユダヤ人収容所であるテレージエンシュタット(テレジン)への医薬品派遣を許可したことをICRCに伝えた。Lagerkommando Theresienstadtという住所に、数個の小包の試送が行われたが、ジュネーブに受領書が戻ってくることはなかった。各国から強制送還された約4万人のユダヤ人がいたテレージエンシュタットは、比較的恵まれたゲットーで、1944年6月にはベルリンのICRC代表の訪問が特例で許可された。

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)、第3巻、p.75

「受領書が戻ってくることはなかった」で「え?どういうこと?」ってなりませんか。小包がちゃんと届いたかどうか不明だという意味に取れますしね。もしかしてこのICRCの訪問は、そうとは書いていないものの、受領書が返ってこなかったのが原因かもしれません。「比較的恵まれたゲットー」は当然そうでした。だって偽装ゲットーですからね。つまり、この訪問時にSSはICRCを騙したのです。ただしそれはICRCの報告書には書いていないことであり、後に判明したことです。

During the last year of the War, the Committee's delegates were able to visit the camp of Theresienstadt (Terezin), which was exclusively used for Jews, and was governed by special conditions. From information gathered by the Committee, this camp had been started as an experiment by certain leaders of the Reich, who were apparently less hostile to the Jews than those responsible for the racial policy of the German Government. These men wished to give to Jews the means of setting up a communal life in a town under their own administra- tion and possessing almost complete autonomy. On several occasions, the Committee's delegates were granted authority to visit Theresienstadt, but owing to difficulties raised by the local authorities, the first visit only took place in June 1944. The Jewish elder in charge informed the delegate, in the presence of a representative of the German authorities, that thirty-five thousand Jews resided in the town and that living conditions were bearable. In view of the doubt expressed by the heads of various Jewish organizations as to the accuracy of this statement, the Committee requested the German Government to allow its delegates to make a second visit. After laborious negotiations, much delayed on the German side, two delegates were able to visit the camp on April 6, 1945. They confirmed the favourable impression gained on the first visit, but ascertained that the camp strength now amounted only to 20,000 internees, including 1,100 Hungarians, 1,1050 Slovaks, 800 Dutch, 290 Danes, 8,000 Germans, 8,000 Czechs and 760 stateless persons. They were therefore anxious to know if Theresienstadt was being used as a transit camp and asked when the last departures for the East had taken place. The head of the Security Police of the Pro- tectorate stated that the last transfers to Auschwitz had occurred six months previously, and had comprised 10,000 Jews, to be employed on camp administration and enlargement. This high official assured the delegates that no Jews would be deported from Theresienstadt in future.

戦争末期、委員会の代表団は、ユダヤ人専用で特別な条件によって管理されていたテレージエンシュタット(テレジン)収容所を訪問することができた。委員会が収集した情報によると、この収容所は、ドイツ政府の人種政策の責任者よりもユダヤ人に敵対的でない、ある種の帝国指導者によって実験的に始められたようである。彼らは、ユダヤ人に、自分たちの管理下にある、ほとんど完全な自治権を持つ町で共同生活を営む手段を与えようと考えたのである。何度か委員会の代表団にテレージエンシュタットを訪問する権限が与えられたが、地元当局の問題提起により、最初の訪問は1944年6月に行われただけであった。担当のユダヤ人長老は、ドイツ当局の代表の立ち会いのもと、この町には3万5千人のユダヤ人が住んでおり、生活条件は我慢できるものであると代表団に伝えた。この声明の正確さについて様々なユダヤ人団体の長が疑念を表明したため、委員会はドイツ政府に対し、代表団の再訪問を許可するよう要請した。ドイツ側の交渉が大幅に遅れたため、1945年4月6日、2人の代表が収容所を訪れることができた。彼らは、最初の訪問で得た好意的な印象を確認したが、収容所の収容者は現在、ハンガリー人1100人、スロバキア人1150人、オランダ人800人、デンマーク人290人、ドイツ人8000人、チェコ人8000人、無国籍者760人を含む2万人に過ぎないことが分かった。そこで、テレージエンシュタットが通過収容所として使われているかどうかを知り、東方への最後の出発がいつ行われたかを質問したのである。保護領の治安警察の責任者は、アウシュヴィッツへの最後の移送は6ヶ月前に行なわれ、1万名のユダヤ人が収容所の管理と拡張に従事するために移送されたと述べている。この高官は、今後テレージエンシュタットからユダヤ人が追放されることはない、と代表団に確約した。

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)、第1巻、p642

えー、強調部分はハーウッド本に引用された箇所だけを抜き出していますが、それ以外の部分を読んで「あれ?」ってなりませんか。ハーウッドの記述では、ICRCが2回目に訪問した理由が消されています。そして上の引用冒頭であたかも、1回目の訪問から2回目の訪問まで「自由な状況」だったかのように錯誤させているのです。もちろんICRCは「賞賛」などとは一言も書いていません。そして消された部分を読めば、2回目の訪問は「担当のユダヤ人長老は、<中略>生活条件は我慢できるものであると代表団に伝えた。この声明の正確さについて様々なユダヤ人団体の長が疑念を表明したため」であり、要するに1回目の訪問時は騙されてるんじゃないのか?と疑うことになったからなのであって、「自由な状況」だと信じていたわけではないのです。そして2回目の訪問時に1回目の訪問時よりユダヤ人が減っていることに気付いたと書いてあります。で、どうして減っているんだ?となって、アウシュヴィッツに一万人ほど移送したんだ、とSSは白状せざるを得なくなったのです。もちろんそこには収容所拡張のためだと書いてあって、処刑されたなどとは書いてありませんが、テレージエンシュタットのユダヤ人がアウシュビッツに移送されてガス室で処刑されたことは今では史実です(このICRC報告書作成の時期は1948年であり、当時はまだ詳しいことは不明だったのでしょう)。ただし、この時期にアウシュヴィッツに送られたユダヤ人に限っては処刑されていないようです。1944年11月ごろにはヒムラーの命令でガス処刑は中止されているからです。しかしながら、それ以前にテレージエンシュタットからアウシュヴィッツに移送されたユダヤ人はガス室で絶滅させられています。

ともかく、ハーウッドは修正主義者よろしく、見事なトリミングテクニックをここでも使ったのです。目的は明らかに、ナチスドイツはユダヤ人を厚遇していたように見せかけるため、です。SSがICRCを騙したのとそっくり同じことをやっているわけです。


また、国際赤十字社は、ファシストであるルーマニアのイオン・アントネスク政権を高く評価し、ソ連占領期まで18万3千人のユダヤ人を特別に救済した。その後、援助は打ち切られ、ICRCは「ロシアに何一つ送ることができなかった」(第II巻、p.62)と苦言を呈している。ロシアに「解放」された後のドイツの多くの収容所も同じ状況であった。ソ連占領下、多くの被抑留者が西方に避難する時期まで、アウシュビッツから大量の郵便物が届いていた。しかし、ソ連の支配下にあるアウシュビッツに残された被抑留者に赤十字が救援物資を送る努力は無駄になってしまった。しかし、西側のブッヘンヴァルトやオラニエンブルクなどの収容所に移送されたアウシュビッツの元収容者には、引き続き食料小包が送られた。


翻訳者のツッコミ:これもハーウッドの細かいデタラメテクニックが使われています。ちなみにこれ、「第II巻」とありますが「第III巻」の誤りです。以下長いですが、当該箇所を引用します。ここは長いので英文は省略します。

c) ロシアにおけるドイツ、フィンランド、ハンガリー、イタリア、スロバキア、ルーマニアの PW。(註:PWとはPOWすなわち戦争捕虜(Prisorer of war)のこと)
特に戦争末期、ロシア軍がスターリングラードで全部隊を包囲し、ドイツ軍がレニングラード、モスクワ、コーカサス、ウクライナから退却したとき、ソビエト軍は非常に多くの敵兵を捕虜にした。
PWの大部分はドイツ軍だったが、東部戦線で戦っていたルーマニア、ハンガリー、スロバキア、イタリア軍の兵士も含まれていた。また、ドイツに併合された国の国民、特にドイツ軍に徴用されたアルザス人やルクセンブルク人、さらに遠征軍に志願したスペイン人やフランス人、東部戦線の北部で捕らえられたフィンランド人などもいた。1941年秋、ロシアで負傷者や病人のために介入して成功したICRCは、これらの人々のために集団救済を組織する最初の試みを行った。8月12日の委員会の申し出に対し、赤十字・赤新月社連盟は9月20日、医薬品、手術用具、包帯、その他の病院用品を受け入れる意思があること、寄付者は自国のソ連の商業代表者との取り決めによりこれらの委託品を送るべきことを表明していた。ICRCは、10月1日に電報で同盟国に対し、関係赤十字社に要望を伝えたことを伝え、この機会に、ハーグ第4条約第15条2に従い、小包を送ることができることを希望すると表明した。また、ハーグ第4条約第15条に基づき、同盟を通じてドイツ国内のロシア人労働者及びロシア国内のドイツ人労働者に小包を送付することができるようになるとの希望を述べた。委員会はまた、外務省人民委員会に対し、同盟と協力してすべての未解決の問題を解決する2名の代表を承認するよう要請した。1942年3月、ICRCは再び委員会に働きかけ、ドイツのPWに小包を送る許可を求めた。これは、ドイツ赤十字が試験的に渡した菓子とタバコの2ケースからなる少量の救援物資を持っていたためである。
残念ながら、ソ連当局はこれらの提案に何の反応も示さず、ICRCは再三の努力にもかかわらず、代表団を認定することも、ロシアに何かを送ることもできなかった。さらに、ソ連軍に捕らえられたドイツ人およびその他の軍人に関する情報がまったくないため、ロシアとその戦争状態にある国が署名した1907年のハーグ条約で規定された家族小包さえも、これらのPWは受け取ることができないのであった。同様に、フィンランドを除くこれらの国は、ロシア人捕虜の拘留場所を明らかにしなかった。

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)
、第3巻、pp.61f

もうわかりますよね。この箇所、戦争捕虜に関する記述の部分であり、ユダヤ人にも強制収容所にも何ら関係ないのです。他のハーウッド自身の記述部分はどこにそんなことが書いてあるのかを示していないため、内容を確認できません。


大量虐殺の証拠はない

赤十字報告書の最も重要な点は、戦争末期に収容所で間違いなく発生した死者の真因を明らかにしたことである。報告書にはこう書かれている。「戦争末期の侵攻後の混乱したドイツでは、収容所には全く食料が供給されず、飢餓による犠牲者が増えていった。このような状況に危機感を持ったドイツ政府は、1945年2月1日、ついにICRCにこう通告した…1945年3月、国際赤十字社総裁とS.S.カルテンブルンナー元帥との話し合いで、さらに決定的な結果が出た。救援物資は今後、ICRCが配給することになり、代表者一人が各収容所に滞在することが認められた......」。(第III巻,p.83)。ドイツ当局は、この悲惨な状況を少しでも和らげようと苦心していたことは明らかである。赤十字社は、連合国によるドイツの輸送機関への爆撃のため、この時期に食糧供給が停止したと明言しており、抑留されているユダヤ人のために、1944年3月15日に「連合国の野蛮な空中戦」に対して抗議している(Inter Arma Caritas, p.78)。


翻訳者のツッコミ:この最後の「Inter Arma Caritas」がよくわかりません。どうやらこれらしいのですが、ネットには読めるものがないようなので、確かめようがありません。

追記:ありました。こちらです。以下に当該箇所をやや長めに翻訳引用します。

 民間人が受けた苦痛の話は、何巻もの本を埋めるほどで、どのページにも同じ言葉が繰り返される。「迫害・砲撃・飢餓・病気・死」
 我々はユダヤ人であろうとなかろうと、迫害された者のためになされたことを見てきた。では、残りの部分について、何ができたか、あるいはできなかったかを見てみよう。
 砲撃...空襲は、多くの国々で、各国協会の任務への献身をいかに試したかはよく知られている。死傷者の数はどんどん増え、彼らを助ける手段も同時に破壊されることがしばしばあった。
 赤十字もまた、苦しみを和らげることを使命としているのだから、予防は治療に勝るとも劣らない。1934年の時点で、赤十字は空爆に対する法的保護の問題に関心を持っていた。1934年の東京での国際赤十字会議では、国際委員会と国内協会が各国政府に働きかけ、「傷病兵と民間人の双方を保護するためのあらゆる措置を早期に実施するよう、政府の努力を促す」よう要請された。
 1938年にロンドンで開催された国際会議で更新されたこの指示に従い、委員会は2つの専門家委員会を召集した。この最初の会合で、予備草案が作成された。しかし、この問題が提起する茨の道のような軍事的問題と、各国政府の無関心とが相まって、急速な進展は望めなかった。負傷者や病人を優先して、段階的に進める必要があることがわかった。この予備的措置がとられていれば、条約による保護を民間人の一部にまで拡大することへの同意を得ることが容易になる。こうして、1938年10月に第2次委員会が作成した新しい草案が、国際委員会から各国政府に提出された。検討するはずの外交会議が開かれる前に戦争が始まってしまった。
 この計画は、依然として陸軍医療部のために確保された病院区域の設定と、赤十字が与える特別な保護(本来は限られた区域内での戦闘に適した医療部隊と施設のために設計された)を、敵の領土内のあらゆる地点で戦闘を行う現代戦の割合に適合させることに限定されたものだった。
 しかし、1939年9月9日、委員会は交戦国に1938年の草案に過ぎないものを実施するよう求めたとき、当初からかなり踏み込んだ内容になっていたのである。それは、ある種の民間人を保護するために、地域や安全地帯を設定することを問題視した。その1カ月後にこのテーマに戻ってきた。1940年、委員会は国際法の原則を想起させた。しかし、その努力もむなしく、関係各国の政府は無関心な状態から脱することができなかった。
 1944年3月15日、航空戦が殺人的なピークに達した時、委員会は交戦国に対して最後の訴えを発した。このアピールは、負傷した戦闘員や病人のため、また、子供や老人、妊婦や授乳中の母親など、民間人の負傷者や病人のための保護区域を作るという具体的な提案も伴っている。この時も、列強の態度は全体的に否定的であった。数カ国の政府から出された回答は、原則的には好意的であったが、委員会の提案を実現するためにわずかな一歩も踏み出すことはなかった1。総力戦の「軍事的必要性」に比べれば、数十万人程度の命などたいしたことはないのだ。

インター・アルマ・カリタス : 第二次世界大戦中の赤十字国際委員会の活動 / フレデリック・シオルデ、pp.77ff

これの一体どこに「抑留されているユダヤ人のため」などと書いてあるのでしょうか? ハーウッドの文章だけを読めば、「赤十字社は、連合国によるドイツの輸送機関への爆撃のため、この時期に食糧供給が停止したと明言」(これ自体一体どこにそんなことが書いてあるのかさっぱりわからないが)、と「連合国の野蛮な空中戦」が結びついて、ユダヤ人が赤十字の食糧救援を受けられなかったのは連合国の空襲・空爆のせいだ! のように読めますが、インター・アルマ・カリタスに書いてあるのは、「保護区域を作るという具体的な提案」でわかるように、戦禍から民間人を保護すべき、ってことだけです。少なくともこの部分は食糧供給とは無関係です。

また、ネットではしばしば、「強制収容所には赤十字の職員が滞在していた」のような主張が否定派からなされることがあるのですけれど、もしそれら主張がここの記述を元にしているのであれば、明らかにこれは戦争末期(1945年3月以降)だけの話です。もちろんこの時期はすでに、あのアウシュヴィッツはとっくにソ連によって解放されていますし、ドイツ国内だけの話だということがはっきりしています。したがって、「ユダヤ人絶滅」を赤十字職員が把握できたわけがありません。ただし、それ以前にICRCはユダヤ人絶滅を知っていました。


1944年10月2日までに、ICRCはドイツ外務省にドイツの輸送システムの崩壊が迫っていることを警告し、ドイツ中の人々の飢餓状態が不可避になりつつあることを宣言している。この3巻からなる包括的な報告書を扱うにあたって、国際赤十字の代表団が、枢軸国占領下のヨーロッパの収容所で、ユダヤ人を絶滅させるための意図的な政策が行われた証拠を何一つ発見しなかったことを強調することが重要である。全1,600頁におよぶ報告書の中には、ガス室などというものはまったく出てこないのである。この本は、他の多くの戦時民族と同様に、ユダヤ人が過酷で窮乏したことを認めているが、計画的な絶滅というテーマについては完全に沈黙しており、600万人伝説に対する十分な反論になっている。


翻訳者のツッコミ:すでに、この件については冒頭で示した通りです。また、「ガス室」も1610ページのICRC報告書の中に一箇所だけですが、確かに書いてあります


赤十字は、バチカンの代表者と同じように、大量虐殺という無責任な言いがかりをつけることができないでいた。本物の死亡率に関して言えば、報告書は、収容所のユダヤ人医師のほとんどが東部戦線でチフスの対策に使われており、1945年に収容所でチフスの流行が始まったときには、彼らが使えなかったことを指摘している(第Ⅰ巻、pp.204ff)。


翻訳者のツッコミ:これって一体どこに書いてあるの? と思うほどめちゃくちゃです。同ページから翻訳します。

ドイツでは、協定にもかかわらず、非常に多くのフランス人医療関係者が、そのサービスが使われることなく、収容所に無期限で拘束された。実際、その多くは、病人や負傷者の看護以外の職務を不当に強制された。これらの措置を正当化するために、ドイツ当局は、空襲の影響やPWの突然の流入、収容所での疫病の発生など、あらゆる事態に備えるために「予備軍」の形成が必要であると主張したのである。ICRCは、これらの措置が第12条に反していることを指摘した。12条、さらには交戦国間で結ばれた特別協定にさえも反していると指摘した。委員会の数々の措置と抗議にもかかわらず、1944年には、ドイツに2万人近くのフランスの余剰医療関係者がいたのである。ベルギーとオランダの医療関係者も同じような状況にあった。

ドイツ当局は、ポーランドやユーゴスラビアの医療関係者の送還にも反対した。彼らの出身国が占領下にあり、占領当局が安全保障上の理由から、解放されたPWの帰国を認めないからである。

イタリア降伏の後、一定数のイタリア人医療関係者がイタリア、ドイツ、またはバルカン半島でドイツ軍によって抑留された。イタリアの戦闘員はPWと見なされていなかったので、この医療関係者は条約の恩恵を受けることができなかった。そのためにICRCが行った努力は必ずしも成功しなかったが、それでも彼らの一部は本国送還され ることになった。

ドイツでは、ユダヤ人出身の医療関係者は必ず留任させられ、すでに述べた「予備」部隊に入れられ、このために別の収容所が設けられたほどである。さらに、彼らの多くは、委員会の頻繁な介入にもかかわらず、他の職務に従事することを余儀なくされた。敵国人やユダヤ人の医者が、部隊の発疹チフスの患者を治療するために東部戦線に派遣されたこともあった

ドイツ当局はまた、医療関係者は PW ではないという口実で、健康上の理由で送還するために混合医療委員 会の診察を受ける権利を病気の医療関係者に拒否しようとした。しかし、ICRCは、医療関係者はPWと比較して特権的な地位にあるのだから、少なくともPWのすべての権利の恩恵を受けるべきであるという立場を堅持し、その主張を通したのであった。

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)
第1巻、pp.203f

まず、「ユダヤ人医師のほとんど」なんて書いてません。で、この項は、戦争で傷病者が生ずるから、各国が医師を含めた医療関係者を必要とするので、人道的な観点から、ジュネーブ条約第12条や各国間の協定で、たとえば捕虜になった医師がいたら、敵側へ送還するなどの措置をとることなどについて、実態がどうであったかについて記述しているだけなのです。もちろんですけれど、ドイツは国際法をガン無視しして、自分達だけが得するように、結んだ協定ですら全然守らないわけです。

ところがハーウッドは、この箇所の「ユダヤ人の医者が、部隊の発疹チフスの患者を治療するために東部戦線に派遣されたこともあった」だけを用いて、戦争末期に収容所でチフスが流行したが、これのために適切な対応ができず、ユダヤ人たちが結局チフスで大量に死んだ要因にもなった、のように書いているわけです。もちろんそんな記述は、ICRC報告書のどこにもありません。ハーウッドはむちゃくちゃとしか言いようがありません。


ちなみに、大量処刑はシャワー室を装ったガス室で行われたとする説が有力である。報告書では、この主張も無意味なものである。「洗い場だけでなく、風呂、シャワー、洗濯機などの設備も代表団によって検査された。洗い場だけでなく、風呂やシャワー、洗濯機などの設備も代議員によって点検され、原始的でない設備にしたり、修理したり、大きくしたりするために、しばしば行動を起こさなければならなかった」(第3巻、p.594)。


翻訳者のツッコミ:これはすでにリップシュタット本でハーウッドのインチキが暴露されています。とりあえず、当該ページから引用します。なお、「第3巻」とありますが、第1巻の間違いです。

まず第一に、代表団は、衛生上の主要な要素である水が十分な量で入手できることを確認しなければならなかった。乾燥した地域では、水を無駄にしないよう被抑留者に勧告し、合理的な方法で使用計画を立てるよう助言した。サウジアラビアでは、甘い水が全くなかったので、ドイツ人とイタリア人の被抑留者は、海水の蒸発と凝縮によって、それを得る方法を学んだ。Fayed(エジプト)では、水は1日に2、3時間しか使えず、収容所でのすべての必要量に対して1人50リットルの割合で、シャワーを浴びることは不可能であった。
洗い場だけでなく、風呂やシャワー、洗濯機などの設備も、代表者たちが点検した。そして、その設備をより原始的なものにするため、また、修理したり、大きくしたりするために、しばしば行動を起こさなければならなかった。彼らは大量のトイレ用品(リネン、石鹸、ひげそり用石鹸、剃刀、歯ブラシ、歯磨き粉など)を提供した。マンスーラ(エジプト)では、ドイツ人、イタリア人、ギリシャ人の女性被抑留者が悲惨な衛生状態で暮らしていたので、1942年に初めて訪れたとき、代表団はキャンプ司令官に20エジプトポンドを渡し、当面の必要(殺虫剤、消毒剤、リネンなどの購入)に応じさせた。多くの収容所では、便所に関して大いに不満があった。ここでも、代表団は便所の拡大や改良を主張し、清潔さや消毒剤の使用状況を調査した。他の場所でも、狭い敷地のために換気が不十分で、立方体の空気空間も不十分であった。蚊帳やキニーネを提供したり、洪水(モンスーン後のインドやナイル川の増水後のエジプトなど)によって生じた淀んだ水を取り除くために地面の水を抜いたりして、マラリアに対するキャンペーンを始めなければならない地区もあった。

赤十字国際委員会の第二次世界大戦中の活動に関する報告書(1939年9月1日〜1947年6月30日)第1巻、p594

もうこれだけ読めばどういうインチキか明らかすぎると思います。「大量処刑はシャワー室を装ったガス室で行われたとする説」とは何の関係もありません。この項は交戦国の民間人抑留者について書かれた箇所であり、そもそもが強制移送されたユダヤ人には何の関係もないのです。

なお、まだハーウッド本の赤十字報告書に関する項目は一項目残ってますが、ここまで読んだら全部翻訳する価値は全くないことがわかるかと思いますので、確かめたい方はご自身でお願いします。呆れて物も言えないってこのことです。

▲翻訳終了▲

要するに、結局のところは、修正主義者が何と言おうが、リチャード・ハーウッドは実名がリチャード・ベラルであり、当然にリチャード・ハーウッドなる人物は『Did Six Million Really Die?』をばら撒いたときに「ロンドン大学」に在学などしておらず、ベラルはイギリスの極右・ネオナチ組織であるナショナルフロント(国民戦線)の機関紙である「スペアヘッド」の編集長なだけなのです。

そんな人が書いた(リップシュタットによれば、ネタ元はデヴィッド・ホッガンなる米国人修正主義者が書いた『600万人の神話』だそうである)出鱈目本がネタ元のデマは何十年経っても消えずに残っていることにはほんとにガックリするものがあります。

しかも、ファクトチェックもこうやって、いちいち原著を読まないと(外国語に疎いとこうして翻訳しないと)わからないわけです。で、デマは残り続けるのに、ファクトチェックはサクッと忘れられてしまう、どころか読むべき人たちは読まないでしょう。

こんなくだらない、馬鹿馬鹿しいほどの出鱈目に騙される人たちって、一体何なんでしょうね?

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