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ホロコーストにおける「ディーゼルエンジン問題」について(1):ほんとにディーゼルだったの?

註:本記事は2020年11月初公開となっていますが、2022年10月30日に記事翻訳部分、他を修正しました。

ホロコースト否定派は思いつく限りの細かな具体的否定論を編み出し、その種類はかなりの数に上ります。前にあげたTwitterホロコースト否定論の反論シリーズでさえ記事数にして39本もあり、その反論には何万文字も費やさねばならないほどです。それでさえほんの一部でしかありません。「ホロコースト産業」と否定派はホロコーストを揶揄しますが、ホロコースト産業というものがあるのであれば、否定派もその据え膳を食ってると言い得るでしょう。

タイトルに示した、ディーゼルエンジン問題もその一つです。アウシュヴィッツではチクロンBを用いて青酸ガスで殺害を行なったので、多少なりとも知っている人ならば、T院長のようにチクロンBでは人は殺せないなどというような馬鹿なことを言う人はいないでしょう。しかし、ディーゼルは違います。絶滅収容所のガス室で殺された人は多分ユダヤ人にしてざっと300万人くらいだと思いますが、大きくそこからアウシュビッツ分100万人を差っ引けば、ざっと200万人くらいは自動車エンジンの排ガスによる一酸化炭素の毒ガスで殺されたということになります。これはアウシュヴィッツのおよそ2倍に相当します。

一酸化炭素ガスで人を殺せることそれ自体に文句を言う人はいないでしょう。火事で死亡する人の多くは焼け死ぬのではなく、不完全燃焼に伴う一酸化炭素によって死にます(日本では一般家庭火災の死亡者の約四割)。常識ですので詳しく語る必要はないとは思いますが、火事になると酸素が欠乏するため、完全燃焼しない状態が発生して、不完全燃焼のために一酸化炭素が多く発生するわけです。で、一酸化炭素中毒で人が死ぬ、と。容態については青酸ガス同様、濃度で違ってきます。

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という事で、自殺や殺人の一つの方法として、自動車の排ガスに一酸化炭素が含まれることを利用して、その排ガスをマフラーからホースなどに繋ぎ、車内に引き込むという方法が昔から割とあったするわけなのですが、ここで一般的には、自動車には大きく分けて代表的にはガソリンエンジンとディーゼルエンジンの2種類が存在するという事実に気づくわけですが、問題はガソリンエンジンとディーゼルエンジンでは排ガスの成分が大きく異なるということなのです。日本自動車工業会のホームページにあったプレゼンテーション資料を以下に紹介します。

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このように、ディーゼルとガソリンではその仕組み上、排ガス成分が結構違うのです。NOxやPMでも人は死ぬとは思いますが、ここではそれは問いません。ガソリンエンジンはCOをかなりの量、排出するのですが、ディーゼルエンジンは表記の通り、そもそもがCOをあまり排出しないのです。これが否定派の目の付け所となりました。曰く「ディーゼルエンジンでは人は殺せない。なぜならディーゼルエンジンはほとんど一酸化炭素を排出しないからである。故に、ディーゼルエンジンを使ったとされるガストラックや絶滅収容所での大量虐殺はあり得ない。従って嘘・捏造である」と。

もちろん、そんな筈はありません。証拠は豊富にあります。しかし、ディーゼルではほとんど一酸化炭素という毒ガスは排出しないのだから、ディーゼルでは人は殺せない(殺し難い)という理屈には確かに一理あります。そんな非効率・不合理な殺害方法をおよそ200万人ものユダヤ人を殺す方法として用いた、とは不自然です。

過去、日本の反否定派は『対抗言論』サイトなどで「ディーゼルでも人は殺せる」として反論していた(以下に引用)のですが、私自身はどちらかと言えば、その反論は無理やりの反論に見え、修正主義者の言う通り不自然な感触を持っていました。

結論から言えば、ディーゼルエンジンによるガス殺は十分可能です。ディー
ゼルエンジンは通常の運転条件下では非常に僅かなCOしか排出しないのですが、例えば吸気孔を部分的に塞いで空燃比を上げる等の処置により、簡単に排気中のCO濃度を致死的レベルにまで高めることができます。

Bergは、CO濃度が十分高くなるほど空燃比を上げると、エンジンがダメージを受けて寿命が縮むと主張していますが、ディーゼルエンジンは独ソ戦で放棄された何千台ものソ連軍戦車から容易に入手できたので、多少寿命が縮んだところで何の問題もなかったのです。(なお、エンジンがダメージを受ける程度に関するBergの主張にはにはごまかしがあります。)

また、通常の運転条件下でのディーゼル排気では殺人ができないのかという
とこれも嘘で、排気中に含まれる窒素酸化物(NOx)等の毒性物質により、
排気管が接続されたガス室に詰め込まれた人々はやはり死ぬのです。その他、少なくともソビブルではディーゼルではなくガソリンエンジンが使われていたこと[1]も考慮しておく必要があります。

トレブリンカを始めとする、ラインハルト作戦の絶滅収容所でユダヤ人達が
どのように殺されていったのか、その正確な死因(一酸化炭素中毒か、窒素
酸化物中毒か、それとも酸素欠乏による窒息か)は、これらの収容所が完全
に破壊され、ガス室やエンジンの運転条件を再現する資料が残されていない
以上、もはや知ることはできません。しかし、ディーゼルエンジンを使った
ガス殺が可能であり、実際にそれが行われたことは厳然たる事実
であって、
Bergのような似非科学的「理論」によって否定できるものではないのです。

ラインハルト作戦でもっぱらディーゼルエンジンが使われたのは、それがタ
ダ同然のコストで大量に入手でき、燃料の軽油もガソリンより安価と、まさ
に民族絶滅の手段として適切だったからにほかなりません。アウシュヴィッ
ツでそれが使われなかったのは、チクロンBという、「より適切」な手段が
発見されたからに過ぎないのです。

『対抗言論』サイト上でのメーリングリストにおける議論の公開ログ(ウェブアーカイブより)、強調は私。

述べた通り、殺人にディーゼルエンジンの排ガスを用いるのは不合理なのです。ただし、よく持ち出されるゲルシュタイン報告などを含め、多くの証言が嘘だとするのはもっと不合理です。これはディーゼルエンジン問題よりもはるかに大きい問題で、殺害方法の誤った内容が全てを否定するというのは、辻褄の合わなさとして理解不能なレベルに達するからです。トレブリンカなどのいわゆる絶滅収容所に大勢のユダヤ人が送られたことを否定する修正主義者はいません。修正主義者が言っているのはそれら絶滅収容所と呼ばれる場所は「通過収容所」であり、そこを通じてユダヤ人はどこかへ移送されたのだ、としているのですが、そんなユダヤ人は確認されていません。証言を含めた多くの根拠はユダヤ人の大量虐殺が行われたことしか示していません。

では、一体「ディーゼルエンジン」問題の本質はどこにあるのでしょうか? 結論を先に言えば、これまで定説的に広く説明されてきた「ディーゼルエンジン説」それ自体が間違っていた(可能性が高い)のです。歴史家の多くも、多数の文献資料を調べるとは言っても、何でもかんでも一次資料に当たるわけにもいかず、実際には他の研究者の研究を使用していることが多く、エンジンの種類を厳密に特定するような研究など誰も行ってこなかったようなのです。故にゲルシュタイン報告などにあるディーゼルエンジンという記述を単純に受け入れた説が広まってしまっただけのようです。そして、その「修正」は行われなかった。

おそらく、今後もしばらくは通説的に流布されるのはディーゼルエンジン説でしょう。一度広まった通説はなかなか回収できません。しかし、Holocaust Controversiesブログサイトの執筆陣によると、正しくは殺害に用いられたエンジンはガソリンエンジンであった可能性の方が高いそうです。

▼翻訳開始▼

ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ。ホロコーストの否定とラインハルト作戦 第5章 ラインハルト作戦収容所のガス室(5)。ガス処刑のエンジン。ディーゼルかガソリンか?

ガス処刑するためのエンジン:ディーゼルかガソリンか?

 殺人ガス車とラインハルト作戦収容所に関する修正主義者の議論は、ガス処刑に使われたエンジンの種類にしばしば焦点が当てられてきた。特に、アメリカの否定論者フリードリッヒ・ポール・ベルクは、1980年代から、ディーゼルエンジンは一酸化炭素の発生量が少ないため、大量殺人に有効であったという考え方に反論する技術論文を多数執筆している[1]。ベルクの著作の時点では、ディーゼルエンジンはラインハルトの収容所やガス車に搭載されたとするのが一般的で、ソビボルを例外とする場合もあった。これに対して、反修正派の中には、適切に調整すれば、ディーゼルはそのようなガス処刑に使われた可能性があると主張する者もいる。そのような特殊性を議論する代わりに、いくつかの学者や法廷によって一般的に想定されているこの主張の強さを決定するために、ラインハルトの収容所とガス車内のエンジンの識別の出所をまず再検討することがより効果的であると、われわれは考えている[2]。

ラインハルト収容所とガス車との関連証言を再調査すると、MGK(註:この元記事が対象としている否定派の著書の著者グループである、マットーニョ、グラーフ、クエスのこと)が長い間無視してきた興味深い特徴が明らかになる。実際のガスエンジンに近い経験をした証人は、ガソリン(gasoline/petrol)で作動したという大きな合意を共有しているが、エンジンについて間接的伝聞知識しかない証人は、それをディーゼルと識別する傾向が強かったのである。目撃者が加害者、傍観者、生存者のいずれであるかは問題ではなく、殺人方法の立証に用いるべき証言を特定する上で、直接知見の問題のみが重要であるとしたのである。まもなく見るように、多数の加害者が、ガス処理にディーゼル・エンジンがあったと主張しているが、彼らの証言は、ガソリン・エンジンが使われたと主張する人々の証言よりも必ずしも強力ではない。まず、ガソリンエンジンについて証言した証人を列挙してみよう。

ヘウムノについては、複数の証言が、運転手ヴァルター・ブルマイスター[3]とSS曹長ヴァルター・ピラーのものを含め、ガス車がガソリン・エンジンを使用していたことを示している[4]。ガソリンエンジンは、1940年代にヘウムノのバンを修理した技術者がポーランドにおけるドイツ人犯罪の調査主要委員会に提出した証言にも記載されている[5]。ラインハルト収容所については、ベウジェツとソビボルのガス室建設に参加したSS軍曹エーリッヒ・フックス[6]が重要な例であり、ソビボルについての証言でこう述べている。

私たちはエンジンを降ろしました。それはロシアの重いガソリンエンジン(おそらく装甲車か牽引エンジン)で、少なくとも200馬力(V型エンジン、8気筒、水冷式)でした[7]。

エーリッヒ・フックス(Erich Fuchs、1902年4月9日 - 1980年7月25日)は、T4作戦大量殺戮計画およびホロコーストのラインハルト作戦の段階に従事したSS職員である。 フックスは1963年から64年にかけて行われたベウジェツ裁判で戦争犯罪の嫌疑をかけられたが、無罪となった。より多くの証拠が明らかになるにつれて、フックスは再逮捕され、ハーゲンのソビボル裁判で裁かれた。彼はホロコーストに参加した罪で起訴され、1966年12月20日、少なくとも7万9千人のユダヤ人の大量殺人に加担した罪で有罪判決を受けた。フックスは4年の禁固刑を言い渡された。(Wikipediaより)

ガスエンジンの操作とサービス作業でソビボルの「ガスマイスター」と呼ばれたエーリッヒ・バウアーは、こう述べている。

私はモーターを扱ったことがあります。モーターを操作したことがありますが、私が思うにガソリンエンジンで、大きなエンジン、ルノーだったと思います[8]。

エーリッヒ・バウアー(1900年3月26日 - 1980年2月4日)は、ナチス・ドイツのシュッツ親衛隊の下級指揮官でホロコーストの加害者であった、T4作戦計画に参加し、後にラインハルト作戦に参加し、ソビボル絶滅収容所のガス室オペレーターを担当した。(Wikipediaより)

ソビボルガス室のもう一人のオペレーター、フランツ・ヘドルは、収容所の新しい設備の説明の中で、ガス処分にディーゼルエンジンを使用することを特に否定している。

エンジンルームには、確かに2台のエンジンがありました。おそらくロシアの戦車に搭載されていたガソリンエンジンと、ディーゼルエンジンです。しかし、後者は一度も使われませんでした[9]。

フランツ・ヘドル。1939年4月から1942年1月までハルトハイムの安楽死センターで勤務。その後、東部戦線からドイツに戻る負傷兵に同行した。トラウィニキ訓練所での訓練を終えた後、ソビボルに配属され、ガス室のディーゼルエンジンを操作した。彼は、収容所長のライヒライトナーの運転手でもあった。蜂起の後、彼は収容所の解体に携わった。イタリアでは、元指揮官ライヒライトナーが自分の車の中で殺されるのを目撃した。(出典

したがって、ソビボルでは、エンジンは明らかにガソリンで動いており、知識のある整備士(フックス、バウアー)の間では、エンジンがルノー・モーターかロシア戦車モーターか、そしてその点火方法だけが意見の相違点であった。これらの技術的なことは些細なことであり、関連する出来事から20年以上も経ってからエンジンのこのような詳細を思い出すとき、すべての特定について完全に正確であると期待するべきではない[10]。しかも、公判中にフックスとバウアーはこの矛盾に直面し、二人の間でやや長い議論が交わされ、それぞれの証人が他の証人の記憶違いを非難したのである。しかし、ガソリンエンジンを使ったガス処刑の基本的な事実を否定しようとはしていない[11]。

1944年9月、ベウジェツでのエンジンについて、ルドルフ・レダーはこう述べている。

線路から一番遠い「浴場」棟に別棟があり、そこにはガソリンエンジンで動くコンプレッサーがありました。この機械にガスボンベが持ち込まれました。コンプレッサーからパイプが各部屋に入っていました。各部屋の壁には小さな網があり、そこにガスパイプが通っていました[12]。

ルドルフ・レダーことローマン・ロバク(1881年4月4日 - 1977年10月6日)は、ベウジェツ絶滅収容所のホロコースト生還者で、戦後その体験について証言した2人だけのうちの1人であった。1946年1月にクラクフで開かれたドイツ犯罪調査委員会に供述書を提出した。 ベウジェツ収容所のガス室で死亡したポーランド系ユダヤ人の数は、占領下のポーランドにあったナチの6つの死のキャンプの中で3番目に多く、男性・女性・子供合わせて50万から60万人と推定される。アウシュビッツ・ビルケナウとトレブリンカだけがより高い犠牲者数であった。 レダーの戦後の証言は特別な意味をもっていた。なぜなら、ベウジェツから生き延びたチャイム・ヒルシュマンもまた、スターリン主義ポーランドの新しい共産主義民兵に加わり、ポーランドの地下組織の壊滅、拷問、その場限りの処刑、5万人を超える政治的に好ましくない人々のシベリアへの大量送還を任務としたからであった。ヒルシュマンは1946年3月、新体制に対する反共暴動の過程でTOWの呪われた兵士によって彼の家で撃たれ、彼の収容所体験の完全な説明をすることができないままであった。(Wikipediaより)

このように、当時のレダーは殺傷装置をコンプレッサーと思い込んでいた。このことが、空気を送り出すと考えたことを意味するのかどうかは不明であり、ガスボンベがどのような役割を果たしたのかも不明である。 しかし、レダーは、この装置のベースとなったガソリンエンジンについて、次のように語っている。

1945年12月、ルドルフ・レダーはまたもや声明を出した。

私自身は、その狭い部屋に、とても複雑そうなガソリン燃料のエンジンがあるのを見ました。エンジンにフライホイールが付いていたことは覚えていますが、それ以外の具体的な構造や技術的な特徴はわかりませんでした。このエンジンは、武装キャンプのスタッフであるロシア人の技術者2人が常に操作していました。 私が知っているのは、エンジンが毎日4缶のガソリンを使っていたということだけです。なぜなら、毎日それだけのガソリンがキャンプに運ばれてきたからです。エンジンルームにガソリンが運ばれてきたとき、一瞬だけ部屋の中を見る機会がありました[13]。

ここで彼は、「フライホイール」を持つ「複雑な」エンジンをコンプレッサーとは呼ばず、ガソリンエンジンであると言い直した。

MGKは、レダーがエンジンの排気は「チャンバー(ガス室)ではなく、エンジンから直接外気に排出された」と述べていることを指摘している[14]。他のところで指摘されているように、レダーは排気がパイプから流される(ガス室から遠ざかる)のを目撃したと思われる。この点は、他のラインハルト収容所についても、ソビボル・ガスマイスターのエーリッヒ・バウアー[15] とトレブリンカ労働者アブラハム・ゴールドファーヴの証言によって同様に指摘されている[16]。前述のトレブリンカの「運転手」ニコライ・シャラエフも、ガス処刑の際に、「排気管が覆い隠され、管のバルブが開かれ、そこから排気が「浴場」に入った」と明確に証言している[17]。このように、不明瞭で自明でない部分について、独立した証言が集約されていることは、この問題についてのレダーの信頼性をよく物語っている。

いずれにせよ、レダーは、排気が屋外に排出されるのを見て、ガス室運転におけるエンジンの具体的な役割について、回顧録の中で戸惑いを示しているようである。レダーは、高圧、空気吸引、排気ガスによる殺傷に使えると考えた。エンジンの正確な役割に関するこのような誤解は、人々が死体安置所に連れてこられて殺害されたというレダーの明白な指摘を損なうものではない[18]。

ベウジェツのエンジンと密接に関わったもう一人の証人は、ポーランド人機械工カシミエシュ・ツェルニアックで、収容所の電力供給の確立に貢献した。ツェルニアックは、その仕事の中で、たまたま殺人ガス処刑に使われたエンジンを目にしたのである。

小型発電器のモーターは15HV で、これに対して大型発電器は200HVで、このモーターからは、エンジンの排気を取り除くためのパイプが地下に通じていました。これらのパイプがどこに行ったのかは知りません(...)200HVのモーターはバラックの後ろにある基地に取り付けられていました[19]。

その後、ツェルニアック氏は、このバラックをさらに詳しく調べる機会を得た。

このバラックには、木のタラップから3つのドアがあり、このタラップから狭軌の鉄道が収容所の別の場所につながっているのを見たことがあります。前述のドアは引き戸で、フックやペグでロックするタイプでした。軌道の上を車輪で移動していました。「黒子」たちは、このバラックは倉庫だと笑って教えてくれました。ガス室があった場所と理解しました。

ツェルニアックは、ベウジェツの操業中に収容所でドイツ軍が使用したエンジンの整備や修理も手伝った。つまり、ツェルニアックが「200H.V.モーターは他の3台と同様にガソリンを動力源としていました」[20] と述べているのは、エンジンに関する直接的な知識と経験を十分に踏まえた上での発言なのである。ツェルニアックの重要な視点にもかかわらず、MGKは彼らの作品から彼を完全に省略し、マットーニョはエンジンに関して「重要であることが知られている」ベウジェツの証人のリストから彼を無視している[21]。

トレブリンカについては、悪名高いトレブリンカの「運転手」の一人であり(彼は、イワン「ザ・テリブル」マルチェンコとともに、通常「イワンとニコライ」あるいは「イワンとミコラ」として証言の中にしばしば登場する)、明らかに彼自身が操作するエンジンを知っていた看守ニコライ・シャライエフの証言が重要である。

ドイツ人のオペレーターの話では、このエンジンはロシア製で、ガソリンを使う普通の4気筒のエンジンでした。エンジンは木製のフレームに設置され、人々がガス室の部屋に群がるや否や始動し、そこで排気管を覆い、パイプのバルブを開け、そこから排気が「浴場」に入りました[22]。

シャライエフは、その後、ガスエンジンと同じ施設に常駐していた発電機を操作していたと付け加えた。その発電機は収容所全体に電気を供給していた[23]。

また、ガソリンエンジンについても、どの程度エンジンに近かったかわからない人たちの証言が存在する。このような証言がディーゼルエンジンだけでないことを示すために、それらを列挙する。

ウクライナ人衛兵イワン・セミョノビッチ・シェフチェンコは、1944年9月8日、第65軍のSMERSH上級調査官に非常に詳しい陳述をしている。中でも彼はこう報告している。

石造りの建物、いわゆる「dushegubka」には9つの部屋があり、その中で人々はガスで窒息死させられたのです。10番目の部屋には、ガスを部屋に送り込む高出力のエンジンがありました[24][...]建物の北東の角の右側の最後の部屋には、ガソリンまたはリグロインで動く高出力のエンジンがありました[25]。

トレブリンカ収容者のオスカー・ストラウチンスキも1944年に、他の人からこう聞いたと書いている。

ドアが密閉され、モーターが作動し始める。内部の空気は吸い出され、燃やしたガソリンの煙が押し込まれる[26]。

シャライエフ(トレブリンカ)、ヘドル(ソビボル)、フックス(ソビボル)、バウアー(ソビボル)、レダー(ベウジェツ)、ツェルニアク(ベウジェツ)の証言から、ラインハルト収容所のエンジンがガソリンだったことは明白である。

しかし、ディーゼルエンジンについては、生存者、加害者、傍観者による多くの証言が存在する。しかし、エンジンの種類を全く語らない証言ほど多くはないことに注意する必要がある。どうしてこのような証言が生まれたのか、簡単に説明できる。たとえば、これまで見てきたように、発電機(すべてディーゼルであったと思われる)をガソリンエンジンと共に保管する習慣があり、この配置から、エンジンについて直接知らない人たちの間で混乱が生じるのは必然であった。収容所の司令官も、エンジンが役目を果たせば、その種類を必ずしも知っているわけではなく、また気にもしていなかっただろう。ソビボルに関して、MGKはガソリンエンジンの明確で直接的な証拠を認める代わりに、絶滅地区の友人から手紙を受け取ったと報告し、ディーゼルエンジンに言及しているスタニスワフ・スマジネルによる伝聞報告を不正に批判することを好んでいる[27]。この手紙は、エンジンの種類を直接、しかもはるかに優れた視点で見ている3人の加害者の証言と対照的で無意味なものである。

1979年、ウクライナの元衛兵イグナート・ダニルチェンコが証言している。

実は、ここはガス室で、到着したユダヤ人が、ガス室の近くにあったディーゼル・エンジンの排気ガスによって、6つのガス室(各250人)で殺されたのです。他の看守(名前を覚えていません)から、戦車からと思われるそのようなディーゼルエンジンが2台あったと聞いたことを覚えています。私は個人的にこれらのエンジンを見ていないし、それらがガス室の領域のどこに位置していたのか正確には知りません[28]。

もし、この証人がもう少し正確でなく、自分でエンジンを見ていないことを言わなければ、もう一人の「ディーゼルの証人」ができたことになる。この証言は、ディーゼルに関する情報がうわさで広がっていたことを改めて示している。

ソビボルでヴァルトコマンドを監督していたSS隊員のフーベルト・ゴマルスキーは、1965年にこのような証拠を提出した。

ガス処理は、エンジンの排気ガスで行われました。エンジン室はガス室のすぐ隣に建てられていました。これは、固い台の上に立っているディーゼル・エンジンであった[...]モーターのそばで、2、3人のウクライナ人が働いて、整備していました。トニ・ゲッツィンガーと後のヘドルは、監督するためにそこにいました[...]私は、それがディーゼルエンジンであったということだけを覚えています。ディーゼル燃料がよく運ばれてきました。私はエンジンについてほとんど知識がありませんでした。ディーゼルだったんでしょうね[29]。

しかし、ヘドルは、ガソリンのガス処理用エンジンとディーゼル発電機について証言している。これは、目撃者の混乱を示すもう一つの例である。SS隊員アルフレート・イットナーは、ソビボルでの盗品簿記係であった。

私がIII号収容所で活動している間、ガス処理用エンジン-それは鹵獲したロシアのディーゼルエンジン-はエーリッヒ・バウアーによって整備されていました[30]。

しかし、バウアーの記録では、このエンジンはガソリンエンジンであったとされている。

もう一人のソビボルの簿記係ハンス・ハインツ・シュットも、ディーゼルエンジンを見たと証言している[31]。もちろん、上記の情報を考慮すると、シュットの技術知識のレベルについて知らないので、彼の証言を額面通りに受け取ることはできない。

最後に、1961年にクルト・ボレンダー氏が語った「ロシアのT-34戦車のエンジンがあるはずの小さな別館。私はそれを見ていないので、正確にはわからない。あくまで言われたことである」の話[32]。否定派は、T-34のエンジンがディーゼルであったことを指摘するのが常である。しかし、まず第一に、これは明らかな伝聞である。そして第二に、1941年秋にV-2ディーゼルが不足したため、限定的に行われていた古いキャブレター・エンジンM17-TをT-34戦車に搭載する方法を実施するよう命じられた[33]。

ラインハルトの目撃者の中で最も著名なのは、武装親衛隊消毒局長のクルト・ゲルシュタインで、彼は1942年晩夏にベウジェツを訪れ、ガス処刑を目撃したことは有名である。

クルト・ゲルシュタイン(1905年8月11日 - 1945年7月25日)は、ドイツのSS将校で、武装親衛隊の衛生研究所の消毒技術責任者であった。ベウジェツとトレブリンカで大量殺戮を目撃したゲルシュタインは、スウェーデンの外交官ヨーラン・フォン・オッター、スイスの外交官、ローマ教皇ピウス12世と接触のあるカトリック教会のメンバー、オランダ亡命政府に詳細な報告を行い、ホロコーストを国際社会に伝えようと努めた。降伏後の1945年には、ホロコーストの体験を綴った「ゲルシュタイン報告書」を執筆した。フランスに拘束されている間に自殺と疑われ死亡。(Wikipediaより)

彼の報告書では、ガス処理エンジンはディーゼルで動くとされている。ゲルシュタインは、「ディーゼル・エンジンの排気ガスで機能する我々のガス室のサービスを改善する」必要性についてのグロボクニクの発言(伝聞)に言及している[34]。彼の報告書では、ディーゼル・エンジンについて何度か言及されているが、特にその故障が指摘されている一方で、ゲルシュタインが実際にエンジンを見たという報告はない。むしろ、ゲルシュタインがグロボクニックまたはファネンシュティールからディーゼル・ビットを受け継いだ可能性が高い(下記参照)[35]。また、1943年2月にオランダのレジスタンスメンバーと議論した後の出版物では、ディーゼルエンジンについて特に言及されておらず、代わりに「大きなトラクター」のエンジンとして単に説明されていることも興味深い[36]。

ゲルシュタインとベウジェツに同行したのは、マールブルク/ラーン大学衛生研究所長のヴィルヘルム・ファネンシュティール教授であった。

ヴィルヘルム・ヘルマン・ファンネンシュティール(1890年2月12日 - 1982年11月1日)は、ドイツの医師、1933年からナチ党員(NSDAP 2828629)、1934年から親衛隊員(親衛隊大佐、SS番号273083)。1942年8月、ベウジェツ絶滅収容所でのユダヤ人ガス処刑をクルト・ゲルシュタインとともに目撃した。彼はまた、ダッハウ強制収容所において、主にユダヤ人捕虜を対象とした、意思のない、知識のない人間に対する犯罪的医学実験において、他のSS幹部と責任を共有することになるかもしれない。

1959年、ファネンシュティールはこう述べている。

エンジン本体は別室ではなく、土台の上に自由に置かれていた。ディーゼル燃料で運転された[37]。

MGKが作品中で無視しているホロコースト否定論者ポール・ラッシニエとの極秘インタビューの中で、ファンネンシュティールはベウジェツでのガス処刑について、彼自身が見たエンジンも含めて語っている。この講演でファンネンシュティールは、直列6気筒で200馬力と推測されるディーゼルエンジンについて述べている[38]。

ベウジェツの実行犯の一人、カール・アルフレッド・シュルッフもガス室にはディーゼルが使われていると思っていた。

ガス処理のために、エンジンが始動しました。私はエンジンを見たことがないので、その詳細な説明をすることはできません。私は確かに専門家ではありませんが、音からして、中型のディーゼルエンジンであったと言えます[39]。

シュルッフは、音だけでエンジンの種類を推測していたのが、これは他の方法と比べると、特に素人(「私は確かに専門家ではない」)には非常に弱いエンジン識別方法である。また、ガス処理時の音をかき消すためにディーゼルエンジンを作動させた可能性もあり、聴覚的証拠も弱い。現在のところ、ラインハルト作戦の収容所でこのような手順が採用されたという直接的な証拠はないが、アウシュヴィッツやマイダネクで採用されることがあったことを知っている[40]ので、この可能性は類推によって主張することができる。ディーゼルエンジンの音からガス処刑を連想するのは、いつも、あるいは頻繁に使用する必要はなく、数人の目撃者が数回使用するだけでよいのだ。

ベウジェツでの絶滅を実行したもう一人のドイツ人、ハインリッヒ・グライSS軍曹は、ガス処刑に使われたエンジンの種類を言うことができなかった。

ガス室のドアが閉じられた後、ディーゼルかオットー(ガソリン)エンジンかわからないが、大きなエンジンがヒウィ部門の整備士によって始動させられました。このエンジンの排気ガスがガス室に送り込まれ、ユダヤ人を死に至らしめたのです[41]。

ウクライナの衛兵、アレクサンドル・セミゴドフも同じように不安だった。

死の運命にある人々は、このガス室、あるいは「dushegubki」とも呼ばれるものに追い込まれ、ディーゼル・モーター(同じ建物内で発見)あるいはその他のモーターからの排気ガスで殺されました[42]。

ディーゼルが採用されているという噂がキャンプ周辺にあったことは、デュボアが「ロシアの戦車エンジン(ディーゼル)だと言われていた」と述べていることからも明らかである[43]。彼自身はエンジンを見ていないとしている[44]。

ウクライナ人看守フィリプ・バベンコは、木製のガス室の背後に高出力のディーゼル・モーターがあり、ガスをガス室に送り込んでいたと証言している[45]。しかし、彼の証言からは、彼自身がエンジンを見たことがあるのか、彼の技術的な専門知識がどの程度のものであったのかは明らかではない。

最後に、ベウジェツの警備小隊長ヨーゼフ・オーバーハウザーは、1971年に「最初はガスでユダヤ人を殺したが、収容所が拡大された後はディーゼル排気ガスで殺した」と述べている。 しかし、「そのころには、私はすでにルブリンで勤務しており、この問題(=ガス室拡大)とはもう何の関係もなかったが」と指摘している[46]。したがって、後にディーゼルが使われるようになったという彼の発言は、おそらく戦後の発言からの推測に過ぎない。

トレブリンカについては、ポーランドでのドイツ人犯罪調査中央委員会が多数の目撃者の証言にもとづいて1946年に出したトレブリンカに関する報告書には、収容所でのガス処刑に使われたエンジンの種類についてはまったく触れられていない。同様に、ヤンキエル・ヴィエルニクの『トレブリンカでの1年』では、エンジンについてこう記述しているだけである。

ヤンキール(ヤンケル、ヤーコフ、ヤコブ)・ヴィエルニク(ヘブライ語:יעקב וירניק; 1889-1972)[1]はポーランド系ユダヤ人のホロコースト生存者で、トレブリンカ絶滅キャンプの抵抗運動に影響を与えた人物であった。1943年8月2日の蜂起で逃亡した後、ワルシャワにたどり着き、レジスタンスに参加した[2]。彼はまた、収容所の運営に関する秘密の記録『A Year in Treblinka』を書き、これはロンドンとアメリカで英語とイディッシュ語で印刷されるために複写・翻訳された。第二次世界大戦後、1947年にルートヴィヒ・フィッシャーの裁判で証言したヴィエルニクは、ポーランドを離れ、スウェーデン、そして新生イスラエルに移住した。ポーランドを離れ、スウェーデンに移住した後、新国家であるイスラエルに移住した。1961年、エルサレムで行われたアドルフ・アイヒマン裁判で証言した。1964年にポーランドに戻り、トレブリンカ記念館の開館式に出席した。1972年、イスラエルで83歳の生涯を閉じた。(Wikipediaより)

発電所には、解体されたソ連軍の戦車から取り出したモーターが置かれていた。このモーターはガスを汲み上げるのに使われ、モーターと流入パイプを接続することでガスをチャンバーに入れることができた[47]。

その後、アイヒマン裁判でも、ヴィエルニクはエンジンの種類を明記していない。デミャヌク事件に関する1980年の反対尋問で、トレブリンカの絶滅地区で働いていたオットー・ホーンもエンジンの種類を述べていない(「私は知らない。 何とかエンジンはあった」)[48]。

また、トレブリンカでの絶滅過程を視察したもう一人の証人は、アウシュヴィッツ司令官ルドルフ・ヘスであった。ヘスは、トレブリンカに関するいくつかの記述の中で、エンジンの排気ガスによる一酸化炭素についてだけ述べているが、ヘス自身がエンジンを見たのか、単にそのことを聞かされただけなのかは不明である。

ガス室の隣には、大型トラックやタンクから取り出した様々な種類のエンジンを備えた機関室が設けられていた。これらは起動され、排気ガスはパイプによってガス室に供給され、それによって内部の人々を殺した[49]。

トレブリンカの目撃者の多くがエンジンの種類を明記していない一方で、他の目撃者もいる。収容所で看守を務めたウクライナ人のパヴェル・レレコは、1945年2月に「ディーゼルエンジンを動かすことで得られるガスで人々が絶滅させられた」と述べている[50]。トレブリンカのもう一人のウクライナ人看守であるニコライ・マラゴンは、1978年に、人々はガス室で「ディーゼル・モーターを動かすことによる排気ガスを運ぶパイプ」によって殺害されたと述べている[51]。さらに別のウクライナの警備員であるプロコフィ・リャブツェフは、1965年にガス処分に使われたディーゼルエンジンについて述べているが、詳細は明記していない[52]。ウクライナの警備員アレクサンドル・スキダンは、1950年にシャラエフとマルチェンコがディーゼルガスのエンジンをオンにしていたことを記憶していた[53]。1947年末の報告書の中で、ユダヤ人収容者エリアス・ローゼンベルクは、ガス室は「ディーゼル・モーター1台のエンジン排気ガス」で供給されていたと書いている[54]。トレブリンカの生存者であるサミュエル・ウィレンベルクも、ガス処理エンジンがディーゼルで動くと聞かされた(見たことはない)ことを記述の中で二度強調している[55]。

要するに、ガス処理エンジンをディーゼルだと特定したものの、それを見たともエンジンを特定するのに十分なレベルの技術的知識を有しているとも主張せず、エンジンそのものに直接関与しておらず、そのような些細で(彼らにとって)重要でない詳細を立証する理由がほとんどなかった証人の供述は、エンジンの型を立証するために用いることはできないのである[56]。ディーゼルエンジンの話は、特にディーゼルエンジンが発電機として常用されていたため、どのエンジンもガスエンジンだと誤認して、収容所内で噂になり混乱したためだと容易に推測される。また、後の目撃者の中には、ゲルシュタインのディーゼル・ミームの宣伝に依拠した者がいた可能性もある。しかし、ガス処分に使われたディーゼル・エンジンの話は、すべて単なる間違いである。3つの収容所すべてで、エンジンについて直接知っており、十分な専門性を持っていた人々(ソビボルではフックス、バウアー、ホードル、ベルゼクではツェルニアクとレダー、トレブリンカではシャラエフ)、ガス処理エンジンの操作を手伝ったり、設置したり、すぐそばで働いていた人々は、殺人ガス処理にガソリンを使ったことについて、すべて同意している。

この問題の妥当性に対する挑戦に対して、リビジョニストはその証拠に適切に対処することなく、自分たちのディーゼルの作戦の柔軟性に欠ける擁護者であることを示し、回答は人身攻撃ばかりである。トーマス・ダルトンは、ディーゼル問題を修正するという限定的な提案を、2人のラインハルトのガソリンの目撃者しか引用しておらず(実際には、4人のガソリン・ガス・バンの目撃者に加えて、4人を引用している)、他のホロコースト研究者によって提案されていないとして批判した[57]。マットーニョもこの後者の指摘を鸚鵡返しにして、ガス処理にディーゼルエンジンの代わりにガソリンを使うことを提案する者は、言及するに値する評判や品位がなく、真剣に受け止めることはできない、と示唆している[58]。グラーフは、この提案が著者の「クィアな考え方」を露呈したと主張するだけで、目撃証言を(適切な分析も研究もなく)すぐに否定している[59]。修正主義者の作家ポール・グラバッハも、エンジンがガソリンで動くのであれば、ディーゼルエンジンについて証言した生存者の信憑性を損なうことになると言って、エンジンの種類に関するこのような修正を却下している[60]。

修正主義者がこの問題でドグマに陥っているのは当然である。フリードリッヒ・ポール・ベルクが1983年の国際修正主義者会議で、大量殺戮のためのディーゼル・エンジンの非効率性を明確にして、この議論を初めて提案して以来、ディーゼル問題はラインハルト収容所に対する修正主義者の論拠の不可欠な部分であった[61]。この点は、MGKの三部作を含め、ベルクの発表以降、収容所に関するあらゆる主要な記事や著作で言及され、賞賛された[62]。ディーゼルエンジンに対して提起された技術的な議論が、ガソリンエンジンに対しては維持できないことは、ベルク自身が認識していたことである[63]。したがって、もしエンジンがガソリンで動いていたとすれば(最強の証拠が示しているように)、3つのラインハルト収容所でのガス処刑に対する修正主義者の中心的な議論の一つも、フリードリッヒ・ポール・ベルクがディーゼル問題に費やした30年近い仕事も、価値がないことが証明されたのである。

否定派は、一次資料の証拠としての重みと重要性を批判的に再検討し、適切に解釈するという、この適切な歴史の修正に明白に反対しており、彼らの偽善を露呈しているのである。ダルトンとマットーニョは、改訂版には学術的な裏付けがないとして批判しているが、この非難は明らかに間違っている。 一般的なホロコーストの学者の中には、エンジンの燃料の詳細があまりに些細であるため、あまり注意を払わない人や、単にゲルシュタインの有名な発言に頼っている人がいることは事実である[64]。しかし、専門家にとっては、ディーゼルエンジンはガソリンエンジンに取って代わられ ているのである。ピーター・ヴィッテ[65]、ジュール・シェルヴィス[66]、クリストファー・ブラウニング[67]、マーティン・ギルバート[68]はみな、直接的証拠に基づいて、ラインハルトの収容所にガソリンエンジンを置くことを望んでいることが証明されている。このように、否定派が好むディーゼルの作戦は、証拠を客観的に見ることに無関係であることが証明されたのである。


[1] フリードリッヒ・ベルク、「ディーゼル・ガス室」:これは、ベルクの原著論文「ディーゼル・ガス室ー神話の中の神話」、ジャーナル・ヒストリカル・レビュー、Vol.5 No.1 (1984), pp.15-46を更新・微修正したものである。
[2] このアプローチの原論は、セルゲイ・ロマノフのブログ記事「なぜ「ディーゼル問題」は無関係なのか、初出:2006年6月25日、Holocaust Controversies」に見ることができる。 http://holocaustcontroversies.blogspot.com/2006/06/why-diesel-issue-is-irrelevant.html日本語訳
[3] コゴン、『毒ガス』、p.114, StA Bonn AZ: 8 Js 52/60 (AZ. ZSL 203 AR-Z 69/59, Volume I, pages 138-41) を引用。
[4] コゴン、『毒ガス』、p.141、ZSL Volume 411, Part VII, p. 16ff を引用。ピラーは45年5月19日にソビエトに「ガソリン」の証言をした。
[5] 投稿者:イエジー・ハルバースタット、1995年10月11日 http://weber.ucsd.edu/~lzamosc/chelm00.htm .
[6] 本章の第一節を参照のこと。
[7] エーリッヒ・フックス、1963年4月2日、BAL162/208 AR-Z 251/59, Bd. 9, 1784.
[8] エーリッヒ・バウアー、1965年11月5日、StA Dortmund 45 Js 27/6,1 Ordner November 1965、p.557。
[9] フランツ・ヘドル、1966年3月29日、April HAP 1960 JS 27/61, p.50.
[10] MGKやその他の修正主義者が、このような些細なことで証言をしばしば否定するのは、目撃証言に対する彼らの誤ったアプローチを露呈しているに過ぎない。このような棄却は、ドイツの記録から88ミリ砲が存在しなかったことが証明されているにもかかわらず、悪名高いドイツの88ミリ砲による砲撃を回想する元連合軍兵士の陳述を割り引くのと同じレベルである。つまり、彼らは砲撃されなかったのだろうか? 彼らは戦わなかったのだろうか?
[11] StA Dortmund 45 Js 27/61, Ordner November 1965, p.557ff.
[12] Protokol doprosa, Rubin[sic!] Germanovich Reder, 22.09.1944, GARF 7021-149-99, p.17.
[13] ルドルフ・レダー、1945年12月29日、BAL 162/208 AR-Z 252/59, p.1177.
[14] マットーニョ、『ベウジェツ』、pp.38-40:トーマス・クエス、「ルドルフ・レダーの「ベウジェツ」の批評的読解、CODOH, https://web.archive.org/web/20120606163916/http://www.codoh.com/newrevoices/nrtkreder.html
[15] ロベルト・ミューレカンプ、「呆れるほど信用できないルドルフ・レダー」Holocaust Controversies blog、2010年9月5日、http://holocaustcontroversies.blogspot.com/2010/09/oh-so-unreliable-rudolf-reder.html;バウアーは証言の中でこう述べている。「チャンバーはエンジンに常時接続されていました。その仕組みは、木栓を抜くと煙が外に出るというものでした。 プラグがパイプの中に押し込まれると、煙がチャンバーに入ります」
[16] Protokol doprosa、アブラハム(アブラハム・ゴールドファーブ)、1944年9月21日、GARF 7445-2-134, pp.31R, 32;セルゲイ・ロマノフ、「もし、彼らがベストなら、他はどうなのか?」、Holocaust Controversies、2007年6月9日、 http://www.holocaustcontroversies.blogspot.com/2007/06/if-theyre-best-what-about-rest.html;ゴールドファーブは、「エンジンが人を殺すために使われた時は、ガスがパイプのシステムを通って部屋に入ったが、電気の供給が主目的の時は、ガスは直接外に排出されました」とはっきり言っている。
[17] Protokol doprosa、ニコライ・シャライエフ、1950年12月18日、フェドレンコに対するソ連の刑事事件にて、vol.15, p. 164. US v. Reimer訴訟の別紙GX-125。
[18] なお、レダーがガソリンエンジンに言及したことは、ゲルシュタインの証言とは独立したものであることを示す。しかし、クエスは前述の「ルドルフ・レダー、「ベウジェツ」の批評的読解」の中で、影響の可能性を長々と論じている。彼は、この2つの発言に関連性があるとする根拠として、1つの部屋あたりの人数、つまりゲルシュタインのいくつかの証言とレダーの証言の一つで述べられた750人という人数を挙げている。しかし、レダーが1944年の証言(22.09.1944, GARF 7021-149-99, p.17)でこの数字に言及していることから、この関連性は否定されている。「各部屋に750-770人を詰めた」 ゲルシュタインは、もちろん、1945年にのみ、1室あたり750人について公式に証言している。
[19] カジミエシュ・チェルニャックの尋問、1945年10月18日、BAL 162/208 AR-Z 252/59, pp.1171-2.
[20] 文書の余白に記録されたステートメント。
[21]マットーニョ、「Il comitato di soccorso Zimmerman(ジマーマン救済委員会)」
フェドレンコに対するソビエトの刑事事件における Protokol doprosa, [22]Protokol doprosa、ニコライ・シャライエフ、1950年12月18日、フェドレンコに対するソ連の刑事事件にて、vol.15, p. 164. US v. Reimer訴訟の別紙GX-125。
[23]ニコライ・シャラエフに対する裁判手続き、1951年12月20日、フェドレンコに対するソ連刑事事件、15巻、152頁。US v. Reimerの証拠書類GX-126。
[24]彼の証言は非常に正確であるにもかかわらず、シェフチェンコは第10の部屋の問題で混乱しているのかもしれない。アブラハム・ゴールドファーブが、ガス処刑のための10の部屋と最後の部屋の近くにエンジン用の小部屋があると述べたのは、正しい可能性が高いようである(GARF 7445-2-134, p.33) 。また、上のユロフスキーの新しいガス室建物の図面も参照。
[25] Protokol doprosa, Ivan Semyonovich Shevchenko, 08.09.1944. GARF 7445-2-134, p.19.
[26] ストロチンスキー、『トレブリンカの10ヶ月』、p.49。
[27]MGK、『ソビボル』、p.29。
[28]イグナート・テレンテヴィチ・ダニルチェンコの尋問、1979年11月21日、https://web.archive.org/web/20041126122845/http://nizkor.org/ftp.py?people/d/danilchenko.ignat.t/danilchenko.001
[29]1965年11月30日のヒューバート・ゴマースキーの供述、NIOD 804/48、136-137頁にコピーあり。
[30] BAL 162/208 AR-Z 251/59, Bd.7, p.1426.
[31] ハンス・ハインツ・シュットの尋問、1961年7月6日、BAL 162/208 AR-Z 251/59, Bd. 4, p.666.
[32] BAL 162/208 AR-Z 252/59,Bd. 11, p.193.
[33] I. シュメリョフ、「T-34 Tank T-34」、Tekhnika i vooruzhenije, no. 11-12, 1998。また、一部のT-34にはM-17という強力な航空用モーターが搭載されていたことを確認する著者もいる。E. Zubov, Dvigateli Tankov (iz istorii tankostrojenija), 1991を参照。
[34]アラド、『ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ』、101 ページ;PS-1553 を参照のこと。
[35]マットーニョは、エンジンの故障とハッケンホルトによるウクライナ人ヘルパーの鞭打ちについての記述から、ゲルシュタインはエンジンを見たのだと主張している。マットーニョ「ジマーマン救済委員会」参照。故障騒ぎの記述でも、ゲルシュタインは必ずしもエンジンを見ていないはずであり、見たという詳細な記述はない。また、エンジンを見たと明言しているファネンシュティールがきっぱりと否定していることから、故障が発生した可能性は低いと判断している。
[36]1949年9月にJ.H.ウビンクがニュルンベルク司法省の役人エリカ・アレイスに宛てた手紙には、ゲルシュタインが1943年2月にディーゼル車について議論していたことが記されている。ウビンクはゲルシュタインより後に登場したディーゼルについての言及を先取りしていた可能性が非常に高い。フロラン・ブレアード、「クルト・ゲルシュタインによる初期報告」、Bulletin du Centre de recherche francais a Jerusalem 6, 2000, pp.157-174 を参照。
[37] ヴィルヘルム・ファンネンシュティール、1959年11月9日、BAL 162/208 AR-Z 25259, Bd. 1, p.138.
[38] ポール・ラッシニエ、「ジェノサイド神話を否定する」、Newport: Noontide, 1978, Chapter 13 V. Conclusion, http://www.ihr.org/books/rassinier/debunking2-13.html(ラッシニエのフランス語論文の翻訳);ラッシニエとファネンシュティールの秘密会談は、MGKの理論にとって問題である。ファネンシュティールは理論的には、当時世界一のホロコースト否定論者を罰することなく、ガス処刑容疑を否定・反論し、代わりにベウジェツでの害虫駆除機能の「真実」を宣べ伝えることができたはずだからである。その代わりに、ファネンシュティールは、ガス処刑の歴史的真実性を擁護し続けたのである。
[39] カール・アルフレッド・シュルッフ、1961年11月11日、BAL 162/208 AR-Z 252/59, Bd. 8, p.1514.
[40] ペリー・ブロードは1945年の報告で、悲鳴をかき消すために、第一火葬場の近くをトラックが走ったことを記しており、フランクフルトのアウシュヴィッツ裁判の証人エドワード・ピース、ゲルハルト・ヘス、イグナシー・ゴリク、ヤン・シコルスキは、物音を消すためにガス化場の近くを走るさまざまな車両を描写している。参考文献として、Holocaust Cotroverses ブログ(http://holocaustcontroversies.blogspot.com/2011/10/how-reliable-and-authentic-is-broad.html)のエッセイ「ブロード報告はどれほど信頼できるのか、本物なのか」を参照。同様の手順が、マイダネクの目撃者たちによって報告されている。1945年、目撃者ヴィリー・ライナルツは、この目的のために使われたトラクター・モーターについて述べている(バーバラ・シュビント、『マイダネク強制絶滅収容所, 2005, S. 231)。1947年に尋問されたヤン・ノヴァクもそう述べている(AIPN NTN 144, p. 162)。
[41] ハインリッヒ・グレー、1961年8月5日、BAL 162/208 AR-Z 252/59、p.1291。
[42] アレクサンドル・イラリオノビッチ・セミゴドフの尋問、1973年5月24日、BAL 162/208 AR-Z 643/71, Bd 4, p. 707。ドイツ語版では、ロシア語の「dushegubki」は「ガスヴァーゲン」(ガス車)と誤訳されていることに注意。ソ連では、「dushegubki」という用語は、ガス車を示すために、より頻繁に使われていたが、あらゆるガス室の一般用語としても使われていた。
[43] カール・デュボア、1971年9月15日、NIOD 804/47, p.44のコピー。
[44] カール・デュボア、1961年9月16日、NIOD 804/47, p.74のコピー。
[45] Protokol doprosa、フィリッポ・パブロヴィチ・バベンコ、1948年12月11日。ASBU Kiev 6397-58240, pp.12-19。
[46] ヨーゼフ・オーバーハウザー, 15.11.1971, 8 Ks 1/70, vol. 3, p. 881, Hessischen Hauptstaatsarchiv Wiesbaden. US v. Reimerの別紙GX-95。
[47]ウェイニック「トレブリンカでの一年」、157-158 ページ。
[48] ジョン・デミャヌクの件でのオットー・ホーンの宣誓供述書からの抜粋(全5部中第3部)。https://web.archive.org/web/20010226205846/http://nizkor.org/hweb/people/h/horn-otto/horn-003.html
[49] ヘス、『死の商人』p. 42-45。
[50] パベル・ウラジミロヴィチ・レレコの尋問、抜粋は https://web.archive.org/web/20031129175400/http://nizkor.org/ftp.py?camps/aktion.reinhard/treblinka/leleko.001
[51] ニコライ・ペトロヴィッチ・マラゴンの尋問、抜粋はhttps://web.archive.org/web/20110718012440/http://nizkor.org/ftp.py?camps/aktion.reinhard/treblinka/malagon.001
[52]Protokol doprosa、プロコフィイ・ニコラエヴィッチ・リャブツェフ、1965年2月日。Exhibit GX-121 in US v. Reimer.
[53] 1950年5月26日、Georgij Aleksandrovich Skidanの法廷供述。Exhibit GX-141 in US v. Reimer.
[54] エリアス・ローゼンバーグ、事実報告、1947年12月24日、ウィーン、pp.4。http://www.vho.org/D/dfd/5.html でオンラインで入手可能。
[55] ウィレンバーグ、『トレブリンカの反乱』,26, 35。「今、彼らはガスで人々を毒殺する」と、私は恐ろしく単純に告げられた。「ディーゼルエンジンで作ったガスで(...)以前話していたボロボロの囚人が今度は説明してくれた...「ソ連の戦車のディーゼルエンジンが始動して、燃えるガスを作り、それを部屋にパイプで送り込むんだ」
[56] MGKや他の否定派は、エンジンがエンジンであり、その排気がガス室内で人々を殺害するのに使われたという一般的な事実以上に、なぜエンジンの種類や特殊性が特別な関連性を持つのかを説明することができない。大量処刑の目撃者は、使用された銃の詳細を知る必要があるのだろうか? そのような情報は、それらのエンジンを要求し、運転し、燃料を供給し、維持した個人にのみ関連し、価値がある。そのような証人には、ガソリンについて全員一致で同意しているのだ。要するに、このような厳密な情報は、一般人や間接的な証人には期待できない。
[57] ダルトン、『ホロコーストを議論する』、p.111。
[58] マットーニョ、「ジマーマン救済委員会」;"È chiaro che, per chi non ha una dignità, una reputazione e una coerenza da difendere, qualunque assurdità, qualunque idiozia è lecita. Ma gli storici olocaustici che hanno una dignità, una reputazione e una coerenza da difendere, la cosa non è così semplice."(守るべき尊厳も評判も一貫性もない者にとっては、どんなナンセンスも、どんなバカも許されることは明らかである。しかし、尊厳や評判、一貫性を守るべきホロコーストの歴史家にとっては、そう簡単なことではない)
[59] ユルゲン・グラーフ、「デイヴィッド・アーヴィングと「ラインハルト作戦収容所」、不都合な歴史、1/2、 https://web.archive.org/web/20120204080009/http://www.inconvenienthistory.com/archive/2009/volume_1/number_2/david_irving_and_the_aktion_reinhardt_camps.php
[60]ポール・グラバッハ、「プロヴァンスの絶滅主義、「死の収容所」トレブリンカ、デミャヌク事件」、http://www.whale.to/b/grubach.html;グラバッハは、「殺人事件では、凶器の種類と動作が重要な争点の一つである」とし、「証言にこだわるのは当然だ」と反論した。前述したように、ガス室の運営に直接関与していない目撃者が、その正確な技術的詳細を知っている理由はない。また、グラバッハは、3つのキャンプでの作戦に直接関わった目撃者がすべて、燃料はディーゼルではなくガソリンであると収斂していることに気づいていないようだ。このように、グラバッハの批判は誤りであり、彼が熱心に否定したがるこれらの証言に対する無知を露呈している。
[61] ベルク、「ディーゼル・ガス室」
[62] M&G『トレブリンカ』pp. 42-43, 121-123, 132, 308; マットーニョ、『ベウジェツ』、p.56;MGK、『ソビボル』、p.29、p.258。『トレブリンカ』では、マットーニョとグラーフが、ラインハルト収容所の歴史を「根底から揺るがす」ベルクの仕事(今は無きもの)を賞賛している。
[63] ベルク、『ディーゼル・ガス室』。例えば、ベルクは次のように書いている。「もし、ゲルシュタインが、一酸化炭素はガソリンエンジンから発生すると言っていたなら、彼の話はもっと信用できるかもしれない。ガソリンエンジンの排気はほとんど無臭なので、警告を発することもなく、簡単に人を殺すことができる。(一酸化炭素の発生源として、2種類のエンジンのうち、論理的には常にガソリン・エンジンが選択されてきたことは明らかである。火花点火式やガソリンエンジンからは、7%の一酸化炭素を簡単に得ることができるが、ディーゼルエンジンからは、液体燃料を使っても1%にもならないのである」マットーニョとグラーフもこの点を『トレブリンカ』、pp.42-43 で認めている。
[64] 例えば、エヴァンス、『第三帝国の戦争』、p.292, p.558, あるいはソール・フリーランダー、『絶滅の年。ナチス・ドイツとユダヤ人 1939-1945』 ロンドン、2007、p.431を参照。
[65] ウィッテの発言は以下で読める: http://de.wikipedia.org/wiki/Benutzer_Diskussion:Pidou_Bleu#Vernichtungslager_.28Diskussion.29_-_Benzin-_oder_Dieselmotorabgase.3F
[66]シェルヴィスはソビボルで、ガソリンエンジンについて発言している。
[67]ブラウニング、『最終的解決策実施の証拠』;「ゲルシュタインは、グロボクニクを引用して、収容所がディーゼル・モーターを使用していたと主張しているが、ベウジェツとソビボルにおいて実際にエンジンを整備した証人(レダーとフックス)は、ガソリン・エンジンのことを語っている」
[68]'Sobe', 投稿 "Response," スレッド 「ギルバート卿への手紙、ディーゼルの問題について」RODOHフォーラム、2007年9月22日。  http://rodohforum.yuku.com/reply/8533/t/Letter-to-Sir-Gilbert-re-the-diesel-issue.html#reply-8533(註:リンクは既に存在しない); 「これらをよく研究し、それに応じて文章を修正するつもりです。」

投稿者: HC ゲストブロガー , 2011年12月27日(火)

▲翻訳終了▲

ディーゼルエンジン説が未だ通説であると言うのは、例えばマルセル・リュビーの『ナチ強制・絶滅収容所』(筑摩書房、1998)なんかだとこう書いてあったりします。

(ベウジェツ)
1941年12月、クリスティアン・ヴィルトが収容所司令官に任命される。補佐官は、ヨーゼフ・オーバーハウザーである。ヴィルトは。かつて安楽死計画に関わり、無抵抗の犠牲者たちを絶滅に追い込むことにかけてはすでに心得のある人物である。ベウジェツに来てからはチクロンBをあきらめ、ディーゼルエンジンの排気ガス、すなわち一酸化炭素を採用する。(p.329)

(トレブリンカ)
ガスは、隣室に設置されていた重戦車のディーゼルエンジンから供給される。(p.378)

最近見たYoutubeに投稿されていたある動画でも、トレブリンカなどの絶滅収容所で用いられていた毒ガスようエンジンはディーゼルエンジンだとされており、参考文献にこの書籍が上がっていました。エンジンの種類が実はガソリンエンジンだった可能性が高いという通説はまだまだ修正されないでしょう。まさか日本政府や国連が公式発表することもないでしょうし、自然と広まるのを期待するしかありません。

しかしながら、エンジンの種類が、ホロコースト(ガス処刑)それ自体を全部否定する理屈になると考える修正主義者の主張は、実際のところ実に下らない主張でもあります。例えば、和歌山毒物カレー事件では、最初は青酸化合物が毒物だと言われていました。原因物質がヒ素だと判明するまでには一週間以上かかっています。たった一週間程度のことではありますが、最初が青酸化合物と誤って報じられていたからと言って、事件そのものが無かったことになるわけがありません。

余談ですが、2022年現在、 林眞須美死刑囚は再審請求中ですが、聞いている話では、その再審請求で「ヒ素ではなく青酸化合物が使われた」可能性を主張するそうです。このような主張はディーゼルエンジン説でガス室否定を行おうとする修正主義者にどこか似ている気がしますが、さすがに事件が起きたことまでは否定していませんのでまだマシでしょう。

ともかく、修正主義者の主張は悉く間違っていて、結局、修正主義者たちは歴史の真相を知ろうとする姿勢は全くないことがわかります。修正主義者はただただ、ホロコーストなどなかったとしたいだけなのです。

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