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『西岡論文「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」』を反論してみる。

ラインハルト作戦MGK論文への批判の翻訳をちょっと中断。

1995年(平成7年)と言えば、阪神・淡路大震災のあった年であり、またオウム真理教によるサリン事件のあった年でもあります。この年の日本のマスメディアはこの二つの大事件で一色だったと言っても言い過ぎではないと思いますが、この年の1月17日に発売された、文芸春秋社の月刊誌『マルコポーロ』にセンセーショナルな見出しとともに掲載されたのが、今回の表題タイトルの記事でした。

日本のホロコースト否定の歴史なんて別に研究もしてませんけど、西岡論文以前にも細々とはあったようです。例えば、西岡と仲間だった木村愛二は、その前年に雑誌『噂の真相』で「『シンドラーのリスト』が訴えたホロコースト神話への大疑惑」なる記事を寄稿していたりします。木村の記事が当時話題になったのかどうか知りませんけど、『噂の真相』自体が怪しげなB級雑誌っぽい雰囲気だったのに対し、『マルコポーロ』は出版社老舗大手の文藝春秋社の雑誌でしたし、電車にデカデカと中吊り広告まで出していたようです。

詳しい経緯はWikipediaでも見てもらうとして、あまりにも大々的に目立ったせいで、また超大手出版社とも言える文藝春秋社の雑誌に、ホロコースト否定論なんか載せたものですから、サイモン・ウィーゼンタール・センターに即刻見つかって、雑誌は即刻廃刊、編集長と社長が辞任する事態にまで発展しました。私、実はその雑誌、当時見たことがあります。読んだところまでは行かなかったと思いますが、ホロコーストやその否定論自体に対する知識もほとんどなかったし大して興味もなかったので、「へー、そうなんだ。じゃぁ私生徒会行くね」レベルにしか思ってなかったような気がします。年齢をあまりばらしたくはありませんが、その頃は私も非常に若かった(笑)

さて、当時のことはともかく、西岡は、雑誌が廃刊になった翌年だと思いますが、マルコポーロ記事よりも遥かに情報量の多い、また雑誌記事の後に批判された箇所を少しだけ訂正して、『アウシュウィッツ「ガス室の真実」』を出版します。

余談ですけど「アウシュウィッツ」でググると、その大半はこの西岡本についてのサイトがヒットします。個人的には、最近ですけど、別に「アウシュウィッツ」でもいいんじゃね? と思っていたりもしますが、なぜか日本人の多くはドイツ語の発音にうるさいらしく、「W」は「ヴ」でなければならないらしいです。ところが、英語読みでは「ウ」なのです。嘘じゃありません、英単語を発音してくれるネットサービス(Google翻訳など)に「Auschwitz」を読ませてみて下さい。英語圏の人が「ウ」と発音するのに、どうして日本人が「ヴ」と読まねばならないのでしょう? でも日本人は律儀なことに「アウシュヴィッツ」か「アウシュビッツ」と表記するのがほとんどのようです。しかしながら、日本語では外国語を表記する場合可能な限り、当該の言葉の発生した現地での発音に近く表記しなければならないのなら、あのイタリアンスーパーカー、ランボルギーニ「カウンタック」なんてイタリア語発音と全く違うとしか言いようがないし、BMWも昔の人が言ったように「ベンベ」でなければ……余談が過ぎました。

さて今回は、そのマルコポーロの西岡論文記事を反論してみたいと思います。当時も反論はそこそこあったようですが、私はそれらの大半を読んでもいないので、それなら自分でやってみようかと、今回は、現在私が持っている知識でどこまで反論できるかを具体的に自分で確認してみたいと思ったのです。具体的に細かく反論するのは非常に面倒なのですが、ともかくやってみましょう。西岡論文は以下に全文載ってます。

註:これがあった日本のネオナチのサイトが2024年4月現在、plalaから消えてしまっているようなので、以下webアーカイブを参照してください。

早速適当に引用して、反論していきましょう。

戦後史最大のタブー?

一月二十七日、アウシュヴィッツ収容所は「解放」五十周年を迎える。だが、ここには戦後史最大のタブーが秘められている。
実は「ホロコースト」=ナチスによるユダヤ人虐殺説には、今、大きな疑問が投げかけられ始めているのだ。

この「タブー」という言い方が姑息ですね。タブーとはこんな意味ですが、「戦後史最大」と修飾を加えることで、なにやらホロコーストの否定を語るととんでもない目に遭う、或いは、ホロコーストには実際にはものすごい秘密が隠されている、のような印象を与えているように思われます。

確かに、こちらなどを見ると、概ね西岡論文の出た時代当時から、欧州では明示的にホロコースト否定を主張する行為に刑事罰を課す法律が制定されるようになっていきます。有名なのはフランスのゲソ法で、これが1990年7月13日に採決されたとあります。ベストセラー作家・有名歴史家だったディヴィッド・アーヴィングがホロコースト否定論者に明確に転じたのも概ねその頃です。

ところが、私の翻訳記事や、最近話題になってる武井彩佳氏による『歴史修正主義』(中公新書)を読まれてきたのならわかるかと思いますが、「今、大きな疑問が投げかけられ始め」たのではありません。西岡氏が同論文で言ってるように、ポール・ラッシニエを代表として、戦後からずっと疑問を投げかける、どころか否定してきた人は欧米にはそこそこ存在したわけです。要するに、西岡は1990年頃にアメリカはカリフォルニア州のオレンジ郡まで、仲間の木村と歴史評論研究会(IHR)まで出かけて、仲間の木村が歴史評論研究会(IHR)まで出掛けて西岡に頼まれた分を含めて「リュックサックいっぱい」に否定論本を買ってきた、つまりは西岡や木村達が盛り上がったのがちょうどその頃だった、ってだけの話なのです。

私は当時の欧米にいたわけではないので、推測するしかありませんが、タブーだったと言えるのかどうかも疑問です。ホロコースト否定論なんて当時。割と普通に語られていたのではないでしょうか? 実際には法律で規制せざるを得ないほどに事態が悪化していた、と言えると思います。それに、そもそも明示的に法律で規制することをタブーとは普通言いません。

こんな風に、論文冒頭から、西岡は事実に反することを言っているのです。ところが、「戦後史最大のタブー」と書くことによって、こうした表現に弱い読者層にとって、非常に効果的な印象操作になったと思われます。なんとなれば、当時の私のようにホロコーストや否定論には全くの無知だからです。西岡は読者を騙すつもりで事実に反する表現をしたとは思いませんので悪意があったわけではないのでしょうが、自分たちの発見を「戦後史最大のタブー」とまで表現して、ものすごい大発見であることを知って欲しいとでも考えたのだと思われます。でも実際には、欧米では普通に知られていたことであり、日本では珍しいかもしれないけど、特に大したことではなかったのです。

証拠が少ないって、あるにはあるってこと?

ユダヤ人が悲惨な死を遂げたことは、間違いない。しかし、ガス室で、計画的に殺されたという話には証拠が少ない
戦後、西側に属した収容所にはすべてガス室が存在しなかったことが証明された。あったとされるのは東側の収容所のみ。

(註:強調は私)

ガス室の証拠が少ないかどうかは、評価する人によって異なるので、少なくとも客観的な評価ではありません。例えば嫌というほど証言が存在するのは、私が翻訳したこれなどでもわかります。その存在を確実に証明できる程度には証拠はあります。しかし、ここで重要なのは西岡の表現ミスです。否定派は「証拠が少ない」のではなく、「証拠が全くない」のではないのでしょうか? 「少ない」ならば「あるにはある」ことになってしまいます。西岡は、この同じ論文中の違う場所では、証拠は全くないと述べているのです。西岡は、要するに言葉の使い方が杜撰なのです。これは、本論文どころか、著書でもネットでの私とのやり取りでも、どこででも貫かれている彼の姿勢のようですので、細かい話ですが敢えて述べました。

なお、後に修正したかどうか知りませんけど、「西側に属した収容所にはすべてガス室が存在しなかったことが証明」などされていません。

西側に無かったのは、ユダヤ人絶滅を目的としたガス室のある絶滅収容所だったのです。

驚天動地……その気持ちはわかるが。

戦後五十年近くもの間、語られてきたこの「毒ガス虐殺」が作り話だといわれて、驚かない人はいないだろう。私自身、この話を六年前に英文で読んだ時には、驚天動地の思いをしたものである。

私自身、これ系の詐欺にあったことがあります。別に金を騙し取られたわけではありませんが、怪しげなトンデモ本にまんまと引っかかった経験は忘れられません。その本を読んだときには、驚天動地とは言わないまでも確かに、「これが真実なのか」のようには驚いたものです。今にして思えばアホとしか言いようがありません。騙されていた期間はほんの数ヶ月なので、大したことはありませんが、それに騙されていた当時、何人かの人には、そのことを話してしまったので、後で大変恥ずかしい思いをしました。だから、お気持ちは理解できる部分はあります。それは誰もが知ってるであろう、二十世紀の大発見である「相対性理論」が間違っている、という本でした。

そして西岡はこう述べます。

私は一医師にすぎないが、ふとした機会に、この論争を知り、欧米での各種の文献を読み漁るようになった。そして、今では次のような確信に達している。
 「ホロコースト」は、作り話だった。アウシュヴィッツにも他のどの収容所にも処刑用ガス室などは存在しなかった。

私と西岡の違いは何なのでしょうね? 私がやったのは、改めて相対性理論を自分で勉強することでした。ホロコーストで言えば、否定論を学ぶのでなく、定説側をしっかり学ぶようなものです。西岡が、どんな文献を読み漁ったのか知りませんが、西岡がIHRで本を買い漁ったと自分で自慢げに言っていたので、否定論の本ばかり読んでいたのではないでしょうか? 

クレマトリウム1の捏造説を今でも捨てない西岡氏

現在、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所跡で公開されている「ガス室」なるものは、戦後ポーランドの共産主義政権か、または同国を支配し続けた
ソ連が捏造した物である。

プレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の操作と技術』という本は、西岡論文を遡ること6年前の1989年に出版されていますが、ホロコースト否定議論にかなりの破壊力を示した本ですから、否定論者がプレサック本を知らないのはちょっと考え難いものがあります。西岡がこの論文発表時にたとえ、プレサック本のことを知らなかったとしても、実際、2021年現在でもクレマトリウム1のガス室捏造説を捨てていないことを確認しており(もちろん、捏造説を捨てない否定論者ばかりだが)、当然現在はプレサック本も知ってらっしゃるので、おかしな話ではあります。

マットーニョレベルになると、私が確認した限りでは、クレマトリウム1のガス室にある天井のチクロン投入のための穴だけを問題にしているようであり、それならば私はまだ話はわかるのですが、西岡は煙突の捏造説まで、1995年当時の認識のままであり、この議論を西岡とした時には「いったい何を今更言ってるの?」と思うばかりでした。この件に関しては複数、記事を上げていますが、例えば以下を参考に。

兎にも角にも、事実はきちんとプレサック本に書いてあるのです。まだ翻訳技術が今よりもっとひどい時代の私の翻訳ですが、下記を参考にして下さい。

Twitter上で最も精力的にホロコースト否定論を拡散し続けるツイッタラーがいるのですが、その人もクレマトリウム1の煙突を「トマソン煙突(見せかけだけの煙突)」だとしょっちゅう言っており、長年否定派をやりながら、事実を全然知らない有様です。だーかーらー、あの煙突は、戦後の復元物であり不正確な再現物ではあるけれど、元々あの位置に煙突は立っていたんだってばさ(笑)

何度もあちこちで言ってるけど、火葬場はあったんだから、煙突がなかったらその方がおかしいでしょ。煙突が直接的にはガス室とは無関係だと言うことすら理解していないのです。

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西岡が頻繁に使う枕詞

まず、第一に私は、第二次世界大戦中にドイツが採ったユダヤ人政策を弁護するつもりは全くないということである。たとえ「ガス室による大量虐
殺」が行なわれていなかったとしても、ドイツが罪のないユダヤ人を苦しめたことは明白な歴史的事実である。私はその事実を否定する者ではないことをここで明白にしておく。

例えば、これは「私は君たちのことを憎んでいるわけでも嫌っているわけでもない。単に君たちの将来を願っているだけなのだ」と前置きして、思いっきり部下を聞くに耐えない酷い言葉で叱り飛ばすパワハラ上司、に似てないでしょうか?

こうした、卑劣な自己正当化は、その行為の罪を免ずるわけではありません。パワハラはパワハラであり、それ自体が問題なのは当たり前です。しかし、西岡はこれに類する論法を使いまくります。後で出てきますが、例えばユダヤ人ですらホロコーストに疑問を呈している、のようなことを西岡は述べるわけです。しかし、問題にしているのはホロコーストに疑問を持つ(否定する)ことそれ自体なのであり、それを主張する個人の属性は関係がありません。

西岡は本当にこの枕詞(末尾であることもある)を繰り返し何度も使っています。自分を悪い人だと思って欲しくない表れなのか、あるいは自分の主張を正しいと思わせるための印象操作目的なのか、よくわかりませんが、この幼稚な自己正当化には本当に呆れます。彼は、ホロコーストを否定することそれ自体がユダヤ人差別に繋がる危険な言論行為であることを全く理解していません。

アーノ・メイヤーとデヴィッド・コール

例えば、プリンストン大学のアーノ・メーヤー教授は子供の頃ナチスの迫害を受けアメリカにわたったユダヤ人の一人で、日本でも有名なきわめて権威ある歴史家である。彼は「ガス室」の存在そのものまでは否定しない「穏健な」論者だが、それでもユダヤ人の大多数は「ガス室」で殺されたのではないという「驚くべき」主張をしている。このことは一九八九年六月十五日号のニューズウィーク日本版でも取り上げられている。
 また、同じくユダヤ系アメリカ人のもっと若い世代に属するデイヴィッド・コウルというビデオ作家がいる。彼は、ユダヤ人であるにもかかわらず、「ガス室によるユダヤ人虐殺」は作り話だと、はっきり主張しているの
である。

アーノ・メイヤーについては、こちらのヴァンペルト・レポートに詳しいです。西岡は単に、欧米の否定派の主張を輸入しただけです。西岡は、メイヤーがゴールドハーゲンに猛反論されたことは決して言いません(そもそも知らないのでしょう)。デヴィッド・コールについては、ニコニコ動画のどこかにその有名なビデオが上がっていたのですが、どこにあったのかリンクを忘れたので示せません(自分のnote記事のどっかで紹介したのですけどね)。内容については以下を参考にして下さい。

繰り返しますが、その人がユダヤ人であろうが、著名な歴史家であろうが、そんなことは関係ないのです。人間は中身が肝心なのです(笑)。

『シンドラーのリスト』を否定?

 とにかく、まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。それから、『シンドラーのリスト』も一旦忘れて頂きたい。映画は、歴史ではないのだから。

おそらくは、『シンドラーのリスト』は初めて大々的に真正面からホロコーストを映画化したもののようで、米国アカデミー賞を七部門で獲得したほどであり、今でもこの映画はホロコースト映画の代表作として一番目に上がることの多い映画です。ですから当然、否定派は『シンドラーのリスト』を毛嫌いするのです。映画はフィクションだっつってるのに、そこを無視して映画の中には間違い・嘘があるとか意味不明の難癖をつけたり。西岡も例外ではありません。

さて、この『シンドラーのリスト』について、西岡は後に、ニューヨークタイムズに載ったある記事を利用して、あたかも映画『シンドラーのリスト』それ自体が全くの出鱈目であるような印象を与えるブログ記事を書いています。

というか、元々はブログ記事ではなく、Amazonレビューでしたね。

西岡は、Amazonレビューを千投稿以上も行なっています(それが多いのかどうか知りませんが、私は百ちょっとですw)。

 この映画は、全く持って史実ではありません。その事を、私は、ニューヨーク・タイムズの2004年11月24日の記事で知りました。同紙が2004年11月24日に掲載した、エロン大学の歴史家であるデイヴィッド・M・クロウ(David M. Crowe)教授へのインタビューの内容は衝撃的な物です。クロウ教授に依ると、この映画が描く出来事が有ったとされる時期に、シンドラーは、収容所所長であったアモン・ゲートへの贈賄によって刑務所に入れられており、この映画が描く様な活動を出来た訳が無いのです。その他、多くの矛盾を同教授は指摘しており、この映画を「実話」と錯覚する事は全くの間違いなのです。(詳しくは、ニューヨーク・タイムズ2004年11月24日に掲載されたクロウ教授へのインタビューをお読み下さい。)

 この映画が、イスラエルの墓地の場面で終はる事が、イスラエル建国の美化である事は余りにも明らかです。プロパガンダは感動的である事の一例です。皆さん、もっと、冷徹に物事を見てはいかがでしょうか。この映画が、オスロ協定に基ずく中東和平交渉とそれによって起こったイスラエル・ブームの時期に公開された事は、はたして偶然だったのでしょうか?私は、スピルバーグ監督が好きですが、同監督が、フィクションを史実と錯覚させるこの作品を作った事を本当に残念に思ひます。

イスラエルというか、パレスチナ問題が話題にならなかった年ってそんなにないと思うのですが、それはさておき、1993年(日本は1994年)に公開された『シンドラーのリスト』が原作付きの、史実を元にしたフィクションであることは周知の事実ですから、残念に思う方が間違いです。史実との違いなど、日本語Wikipediaにすらいくつか載ってるくらいです。

しかし、問題は前段にあります。西岡は、あたかもオスカー・シンドラーが実際にはユダヤ人を救わなかったような印象を与えることを述べていることです。で、通常は有料でしか読めないニューヨークタイムズの過去記事を、まさか無料で簡単に読めるとは西岡も思わなかったのかもしれませんが、以下にあります。

もしかすると、サブスクにしないと読めないかもしれませんが、私の場合、Googleアカウントで無料で読むことができました。その記事の翻訳を以下に全文示します。

1,000人以上のユダヤ人をナチスから救ったドイツ人実業家オスカー・シンドラーの新しい伝記が、1993年にオスカー賞を受賞したスティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」や、そのきっかけとなったトーマス・キニーリーによる1982年の歴史小説で描かれたシンドラーの理想的な姿と激しく衝突している。ホロコーストの生存者へのインタビューや、愛人がスーツケースに保管していた手紙など、新たに発見された書類に基づいて作成されたこの最新の記述に登場するシンドラーは、映画や小説で描かれたシンドラーよりもはるかに欠陥がある。しかし、シンドラーの暗黒面が明らかになったことで、彼のモラルの向上とヒロイズムが浮き彫りになったと学者たちは言う。

そもそも、「シンドラーのリスト」はなかった。

「シンドラーはリストとはほとんど無関係だった」と語るのは、ホロコースト史家でノースカロライナ州イーロン大学教授のデビッド・M・クロウ氏である。『The Untold Account of His Life, Wartime Activities and the True Story Behind the List(オスカー・シンドラーの人生、戦時中の活動、そしてリストの背後にある真実の物語)』を今秋、Westview Press社から出版した。

映画では、リーアム・ニーソン演じるシンドラーが、1944年にポーランドのクラクフにあるエナメルウェアと武器の工場のユダヤ人経営者に、比較的安全な現在のチェコ共和国に連れて行くべきユダヤ人労働者の名前を教える場面が描かれている。しかし、クロウ氏が電話インタビューで語ったところによると、当時シンドラーは、映画の中でラルフ・ファインズが演じた残忍な親衛隊の司令官アーモン・ゲートに賄賂を贈った罪で刑務所に入っていた。また、経営者のイツァーク・シュテルン(ベン・キングズレー)は、当時シンドラーの下で働いているわけでもなかった。

クロウ氏は、9つのリストがあると言った。最初の4つは、悪徳ユダヤ人保安警察官であり、ユダヤ人輸送を担当するSS将校の補佐役であったマルセル・ゴールドバーグが中心となって作成したものである。(ゴールドバーグは後に、賄賂を受け取ったことや、贔屓をしていたことで非難された)。クロウ氏によると、シンドラーはいくつかの名前を提案したが、リストのほとんどの人を知らなかったという。他の5つのリストの作成者は不明である。

クロウ氏によると、「リスト」の伝説は、シンドラー自身が自分の英雄性を誇示するために生まれた部分もあるという。シンドラーは、戦時中の損失に対する賠償金を獲得しようとしていたし、エルサレムにあるユダヤ人のホロコースト記念組織であるヤド・ヴァシェムは、シンドラーを「正しい非ユダヤ人」(死の危険を冒してユダヤ人を救った人に与えられる栄誉)に任命することを検討していた。

シンドラーが救った人々は、「彼らは彼を慕い、彼を守った」とクロウ氏は語り、伝説をさらに深めた。

オーストリア・ハンガリー帝国に生まれたドイツ人であるシンドラーが道徳的な英雄であったことを疑う人はいないが、今回の暴露は彼の物語に深い質感を与えている。

シンドラーが1930年代後半にドイツの防諜活動のスパイであったことは以前から知られていたが、彼はその活動を否定していた。しかし、クロウ氏によれば、チェコの秘密警察の文書には、シンドラーは 「大器晩成型のスパイであり、特に危険なタイプである」と記されているという。また、クロウ氏によると、シンドラーはナチスの侵攻前にチェコスロバキアの安全を脅かし、投獄されたという。その後、チェコスロバキア政府は彼を戦争犯罪で起訴しようとしました。また、シンドラーは、ナチスのポーランド侵攻を計画した部隊の事実上の責任者でもあった。

大柄でチャーミングなシンドラーは、小説や映画でも描かれているように、酒好きで女好きであった。しかし、クロウ氏は、彼には無視していた2人の隠し子もいたという。

また、本や映画の中で少し触れられているが、シンドラーは1939年にナチスの侵攻を受けて絨毯爆撃機としてクラクフに移った後、ユダヤ人の財産を盗んだり、ユダヤ人を殴るように命じたりしたという噂があった。この容疑は立証されていないが、クロウ氏は、ヤド・ヴァシェムが懸念して、シンドラーを正義の非ユダヤ人に指定するのを遅らせたことを発見した。映画のエピローグによると、シンドラーは1958年に指名され、1974年に亡くなる16年前だった。しかし、クロウ氏は、シンドラーの未亡人であり、同じく英雄的な行動をとったエミリーが映画に参加するためにエルサレムに来ることをヤド・ヴァシェムが知った後、1993年に正式に命名されたことを発見した。二人とも名誉を受けたが、彼は死後だった。

シンドラーについては、生存者の証言やエミーリエの回想録など多くの書籍があるが、クロウ氏の著書は、新たに入手可能な記録を用いた初めての包括的な伝記である。クロウ氏は、ワシントンの米国ホロコースト記念館の教育委員会のメンバーであり、ロシアと東欧のジプシーの歴史の著者でもある。

彼は、映画や本の中で、シンドラーの伝説の一部となっているシーンを否定した。例えば、映画の中でシンドラーは愛人と一緒にクラクフのラソタの丘に乗り、1943年3月のゲットーの掃討を見ているときに、避難所を求める少女を見ている。このシーンはシンドラーの道徳的覚醒を描いたものだが、クロウ氏はこれを「全くの架空のもの」としている。丘の上からゲットーのあの部分を見ることは不可能であり、シンドラーは少女を見ていないという。クロウ氏によれば、シンドラーの変化はもっと緩やかなもので、ゲットーが撤去される前からユダヤ人に対する虐待に愕然としていたという。

クロウ氏はスピルバーグ氏について、「スティーブはとても素晴らしく、優しい人だ」と語った。「しかし、『シンドラーのリスト』は演劇であり、歴史的に正確な方法ではない。この映画はストーリーをほとんど馬鹿げたところまで単純化している。」 クロウ氏はまた、キニーリー氏の小説を賞賛しているという。

50人の生存者にインタビューし、入手可能な資料を用いて小説を執筆したキニーリー氏は、スピルバーグ氏と脚本家のスティーブン・ザイリアン氏がいくつかの出来事をドラマチックに演出することは理解できると述べている。「私はスティーブンが誠実に行動したと信じている」と彼は言った。「そして、彼はシンドラーを曖昧にしています。」

スピルバーグ氏は映画の撮影中でコメントを得られなかったが、広報担当のマービン・レヴィ氏はメールで「シンドラーは生前、非常に謎めいた人物だったので、死後も別の情報や疑惑が浮上してきても全く不思議ではない」と述べている。スピルバーグ氏が生存者の記憶を記録するために設立した「Survivors of the Shoah Visual History Foundation」の元会長であるマイケル・ベーレンバウム氏は、歴史家と芸術家の技術を区別している。

「物語がより複雑であると言っても、小説や映画、歴史に対して不公平ではありません。」と彼は言った。

ホロコーストの生存者である作家のエリー・ヴィーゼル氏は、クロウ氏が「ストーリーを変えているわけでもない」と言う。「彼は物語を複雑にしています。彼はシンドラーをより人間的に、そしてより非凡にしたのです」。

シンドラーは、工場を現在のチェコ共和国のブリュンリルに移してからは、武器の製造を停滞させ、ナチスのために作られた武器はなかった。また、労働者を救うためにナチスの将校に賄賂を渡したり、アルコールで気をそらしたりした。その英雄ぶりをキニーリー氏が描いている。クラクフでは、「彼はブラックマーケットを利用して、労働者に食料や医療を供給することができた」とクロウ氏は語っている。しかし、彼がブリュンリッツに到着したときには、ロシア軍が進攻してきており、条件はさらに厳しくなっていた。クロウ氏は、「彼は命がけで、クラクフで稼いだお金をすべて持って、ユダヤ人に食事を与え、健康を保つためにすべてを費やしたのです」と語っている。映画では描かれていないが、ゴレシャウ輸送と呼ばれるエピソードでは、2台の箱車がブリュンリッツに到着し、その中には凍死するユダヤ人囚人もいた。シンドラーとその妻は、多くの囚人を救うことができた。

混乱の中、シンドラーはユダヤ人の宗教上の掟にも配慮し、ユダヤ人を適切に埋葬するためにSS隊員を酔わせたりした。

クロウ氏は、この映画の中で唯一怒りを覚えたのは、ロシア軍の進撃を受けてシンドラーが逃げ出すエンディングだったという。ユダヤ人は敗北したように描かれているが、実際にはシンドラーは「ユダヤ人の武装ゲリラ集団 」を作っていたのだとクロウ氏は語った。

「彼らは歯の先まで武装していて、死ぬまで戦う準備ができていた」と彼は言った。シンドラーが去った数時間後、彼らはナチスのために働いていたユダヤ人を吊るした。

映画の中では、シンドラーがスピーチをして、もっと何かできなかったのかと涙を流している。しかし、クロウ氏が入手した記録によると、シンドラーは常に狡猾な実利主義者であり、戦争犯罪の告発から身を守るためか、ユダヤ人のためにどれだけのことをしたかを思い出させていたという。

戦後、シンドラーは失敗した。アメリカのユダヤ人共同配給委員会からもらったお金を浪費して、アルゼンチンに渡り、ヌートリアの繁殖を試みたのだ。その後、ドイツに戻ってコンクリート工場を購入したが、戦時中にユダヤ人を救ったことで労働者から攻撃を受けた。その工場は倒産してしまった。シンドラーは酒を飲み続け、自分が救ったユダヤ人に金銭的な援助を懇願していた。クロウ氏によると、シンドラーの死因はアルコール依存症と喫煙によるものだったという。

ヤド・ヴァシェムの「諸国民の中の正義」部門の責任者であるモルデカイ・パルディール氏は、今回の新事実は「このような特徴を持つ人でも、偉大な、聖人のような行いをすることができる」ことを示していると述べている。

「私たちは皆、自分の中に小さな天使を飼っていて、表に出て自分をさらけ出すことが許されるのを待っているようです」と彼は言った。「小さな、救いの天使です」

さて、この記事を読んで、オスカー・シンドラーはユダヤ人を救わなかった(のが史実であるとクロウ教授は述べた)と読めますか? 記事では映画がフィクションであると周知されていることを述べていないので、多少奇妙な記述になっていますが、少なくともオスカー・シンドラーが実際にはユダヤ人を救わなかった、などとは全く書いていません。

ホロコースト映画の大半はフィクションです。私が見たホロコースト映画で最も酷いフィクションは『ライフ・イズ・ビューティフル』ですが、あれほどの史実とはかけ離れたフィクション映画があったからと言って、映画の中で語られていたガス室が史実として存在しなかったことになるわけでありません。『サウルの息子』がフィクションだったからと言って、ユダヤ人犠牲者遺体を処理したゾンダーコマンドが存在しなくなるわけではないのです。

ニューヨークタイムズの記事は、きちんとシンドラーの逮捕勾留期間を書いていないのでわかりにくいですが、普通に読解すれば、単に映画の中にあったシンドラーとシュターンによるリスト作成はなかった、と言っているだけです。映画のように作成されたシンドラーのリストは実はなかった、ということです。リスト自体はあったのです。

西岡の文章は、読みようによっては嘘を書いているわけではないとも読めるだけに、悪意さえ感じさせますね。

否定論は本当に当時論破されなかったの?

あんまり細かくあれもこれも反論してると、あっという間に十万字を越えそうな勢いになってきたので、ちょっと間を飛ばします。

六年前(一九八九年)に、ふとした機会に彼らの存在と研究を知り、その後、複数の大学教授に手紙などを書いて意見を求めてみた。その結果、有名な国立大学教授を含めた日本の学者たちがそれらホロコースト・リビ ジョニストたちの主張を全く論破出来ないことを知り、日本のアカデミズムのあり方に疑問を抱かずにはいられなくなったのである。

当時の状況など全く知らないのですが、それから約10年後の2000年前後くらいに、西岡説が当時流行り始めていたインターネットで論破されまくってた事実はあります。多分、想像するに1980年代くらいまでは単にホロコースト否定論なんか相手にされなかっただけだと思います。

が、このマルコポーロに載った西岡論文が、全く相手にしないというわけにもいかなくなった状況を作った、とは言えます。木村愛二の『噂の真相』レベルならまだしも、『マルコポーロ』は日本を代表するくらいのレベルにある文藝春秋社の雑誌でもあり、全国規模で電車の中吊り広告に『戦後史最大のタブー』と銘打ったわけですから、その影響力は半端ではありません。

で、無視出来なくなったので、私が確認する限り、日本では同時期に以下の二冊(『真実』は上下巻なので計三冊)が翻訳出版されたのです。これらの本にはホロコースト否定論への反論が載ってました。

後者の、リップシュタットについても、その本の冒頭で、この本を著すことになった経緯が書いてありますが、元々はリップシュタットも否定論を相手にする気などさらさらなかったようですし、メジャーな歴史学会的に、否定論は議論に値する学術レベルには全く達していないことなど明白だったということなのでしょう。

ともかく、西岡はその「複数の大学教授」からどんな反応があったのかを具体的に書かないので、「全く論破出来ない」がどういう意味なのかよくわかりません。私は単に、手紙を送ったのは事実だろうけど、返事が全然来なかっただけのように思います。或いは、特にまともに相手にしないような返事しかなかった、とか。

実際には、西岡氏は徹底論破される災難にあって、西岡氏自身がそれを論破し返せなかったのが事実として今もネットに残っているわけです。

ラッシニエがなんだって言うのでしょうか?

 その反証として最も明らかなものは、最初の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、戦争中、フランスのレジスタンス運動に参加
して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフランス政府から勲章まで授与された人物だったという事実ではないだろうか?

アーの・メイヤー教授同様に、ここでも西岡は必死の印象操作です。こうした印象操作的な議論は、定説側もやらないわけではありません。例えばあのロイヒターは、定説側から「ロイヒターは工学の学位を持っていなかった」等、よく言われます。そうしたロイヒターへの批判を見て、「印象操作だ」と主張する否定派さんもいますが、しかしながら、定説側のロイヒターへの批判は決してそれだけに止まりません。ロイヒターの主張への批判もちゃんとなされています。

西岡は、ホロコーストを否定する人はいわゆるネオナチだと世間では思われているだろうが、のように言って、そのネオナチの印象の悪さを逆手に取って、ラッシニエはそれと反対の共産主義者であるから決してネオナチのような主義主張だけからホロコースト否定論が出てきているわけではない、のようなことを言ってますが、ラッシニエが具体的に何を言っていたのかについては一言も書いていません。

ラッシニエについては、これもまたアーノ・メイヤー同様、先日翻訳したばかりのヴァンペルトレポートに詳しいです。

ヴァンペルト教授曰く「私は、学者としてのラッシニエが、よく言えば不正確で、原則として知的に不誠実で、悪く言えば狂っていることを示す。」のだそうです。確かに、ラッシニエの狂いっぷりはなかなかすごいです。少しだけ引用しますが、詳細は上記リンクを読んでください。

約15年間の歴史的研究の結果、私は次のような結論に達した。それは、1943年に国家社会主義ドイツが、ガス室でのユダヤ人の組織的な絶滅を行ったとして、初めて告発されたことである。この最初の恐ろしい告発をしたのは、ポーランド系ユダヤ人で、イギリスに亡命し、法律家として活躍していた、ラファエル・レムキンという人物である。

ラファエル・レムキンは「ジェノサイド」と言う言葉を作った人物として有名です。そのレムキンが「ガス室でのユダヤ人の組織的な絶滅を行ったとして、初めて告発」したと言うのですから吃驚仰天の珍説です。ヴァンペルト曰く、レムキンはそんな告発はしていないそうですから、ラッシニエの妄想爆発には驚かされます。

西岡のラッシニエに関する説明には色々と間違いがあるのですが、多分、誰かの受け売り説明を西岡流にアレンジして垂れ流しているだけだと思うので、ここでは割愛します。知りたい方はヴァンペルトレポートを参照ください。私もそれ以上はあまり知りません。いずれにしても、西岡はただただ印象操作をしているだけで、内容は何もありません。

ホロコーストの「定説」って何?

読者に知って頂きたいことは、戦時中から戦争直後にかけて、アメリカやイギリスが報道操作を行なっていたという事実である。
 ところが、この「定説」は、戦争直後に連合軍が発表した話とは違うのである。
 戦争直後、ドイツを占領した連合軍は、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収容所ばかりか、ドイツ本国の収容所にも「ガス室」があったと主張していた。
 つまり、戦争直後には、今の「定説」とは違うことを主張していたわけで、「定説」の内容は、変わっているのである。

(註:強調は引用元のママ)

報道操作ってなんなのか、具体的な内容が全く書かれておらず、内容がさっぱりわかりません。私も、戦後すぐぐらいの状況などほとんど知らないので、どのような報道があったのかもよくわかってません。以前、Netflixにあった『ナチスの強制収容所』というプロパガンダ映画を見たことはありますが、知っていると言えばその程度です(註:プロパガンダだから嘘だ説は、私は取っていませんが、誤った解説は含まれていたように記憶します)

まぁ、西岡の主張とは異なり、ドイツにもガス室はあったとされているわけですが、ここではそのことより、西岡は「定説が変わっているではないか!」としょっちゅう主張するので、そのことについて考えたいと思います。私、これ何度聞いても意味不明です。西岡がよく主張するのは、この論文にもある通り、ダッハウ収容所のガス室の話です。ダッハウ収容所博物館の現在の説明は以下です。

毒ガスによる大量殺戮は、ダッハウ強制収容所では行われなかったのである。SSが稼働中のガス室をこの目的のために使わなかった理由は説明されていない。ある当時の目撃者の証言によると、1944年に何人かの囚人が毒ガスで殺されたという。

私も過去に何度かダッハウに関する記事を翻訳してきております。例えば以下。

ざっくり言えば、戦後、連合軍が占領したナチスの各収容所では、死体がゴロゴロしていた収容所が沢山あって、ダッハウも例外ではなかったわけです。連合軍も戦時中から、ナチスの収容所では大量虐殺をやっているらしいとの情報には沢山接していましたし、占領してみたら死体でいっぱいだったのですから、ダッハウには明らかに殺人ガス室としか思えない部屋もあったわけですし、そこで大量虐殺が行われていたと誤解しても無理はなかったと思います。

しかし私が知る限り、ダッハウのガス室に関する目撃者・証言者は一人しかおらず、証拠に恵まれたアウシュビッツとは違い、ほんの僅かしかありません。もしダッハウのガス室が連合国による捏造ならば、何故これほどまでに証拠が少ないのか、要するに否定派の言い分としての「証拠が捏造」されていないのか、あるいは「偽証」が極端に少ないのか、理解に苦しみます。

で、西岡は、戦後のある日突然にマルティン・ブローシャートという後にミュンヘン現代史研究所の所長になる、当時は一介の研究者に過ぎなかった人物が、「ドイツ本国の収容所における「ガス室」の存在を否定した」と言うのですが、実はこれ、新聞紙上で行われた投書による議論でのことであり、突然と言うわけではありませんでした。以下にその投稿の内容が載ってますので読んでください。

西岡は必死で、現代史研究所が「定説」発表機関であるかの如くに印象操作を行なって、「西ドイツ政府の歴史に関する見解を《代弁する団体》とみなされている」などと述べていますが、そんな話は聞いたことがありません。それはともかくとして、確か、否定派の論文のどこかに書いてあったと思うのですが、ダッハウのガス室についてはそれ以前から大量虐殺は無かったのではないかと疑われていたそうです。述べた通り、あまりに証拠が少なすぎます。

そんな話はここではどうでもよくて、「定説が変わってるではないか!」の話ですが、これは明らかに、最初からホロコーストは捏造された作り話であるとの結論が前提されているから言える台詞です。要するに「話がコロコロ二転三転するから嘘だ」と西岡は言いたいわけです。でも、その話を作ってる主体は一体誰なのでしょう? ミュンヘンの現代史研究所でないことは確かです。ブローシャートは一介の研究員に過ぎず、その時ただ新聞紙上で議論していただけでした。もちろん現代史研究所が公式声明を出したわけでもありません。

話をコロコロ変えるのは実は、否定派の方なのです。ラッシニエはラファエル・レムキンが告発の最初だったといい、フォーリソンは話を捏造したのはシオニストだといい、ある人は連合国のでっち上げだと言い、否定派は思いつく限りの陰謀者を創造するだけです。二転三転どころではなく、無茶苦茶です。サミュエル・クロウェルに至っては、噂話でホロコーストは出来上がった、のようなことまで言ってます。

しかしながら、西岡が言っている「定説」とやらは、実際には多くの研究者などが様々な資料などを元にして研究し、主張した説の、いわば大きな集合のようなものでしかありません。前述したブローシャートによる新聞上での議論のように、こうではないか、ああではないかと多くの人の試行錯誤や、徹底した調査研究、厳しい議論などを経て、漠然と「定説」のようなものを私たちは色々な媒体を通じて知るだけなのです。だからこそ、「定説」が変わることだって頻繁にあったのです。ホロコーストで代表的なものは、意図派と機能派の議論でしょう。昔はヒトラーの意図によって計画的に絶滅政策が実施されたと言われていましたが、そうではなく複雑で構造的な問題がホロコーストを引き起こしたと言う説が今では「定説」になっています。これは、ホロコースト研究がどんどん進化していったからです。アウシュヴィッツやマイダネクの犠牲者数の「定説」が激減したのも、研究成果の賜物であるだけなのです。多くの歴史説が研究の進展によって頻繁に変更されるのは常識の話です。

それらの「定説」の変化は、きちんと調べればほぼすべて公に明らかにされていることなので、陰謀による変化でないことは誰にでもわかります。ところが西岡は、何故「定説」が変わったのか?について、こうした常識的な考え方は絶対に述べません。ただただ、疑惑を積み上げて行っているだけなのです。馬鹿げた疑惑ばかりですが。何故、こんな与太話に付き合う人たちが沢山いるのか、……実際、色々な多方面で沢山いるので、与太話を信じてしまう人が生じてしまう現象自体は仕方ないですけども。

証言に本物はない?

 戦争直後には、「ブーヒェンヴァルトのガス室」を目撃したという「証言」があった。
「ダッハウのガス室」を目撃したという「証言」もあった。これらの「証言」は、ニュールンベルク裁判にも提出されていたのだが、こうした「証言」が本当であったなら、「定説」を支持する人々は、何故、ダッハウやブ
ーヒェンヴァルトに「ガス室」があったという彼らの主張を取り下げたのだろうか? 答えは、一つしかない。
 彼らが発表した「証拠」や「証言」の中に本物は一つもなかったのである。恐ろしいが、これが真実なのである。
「ダッハウのガス室」だけではない。例えば、ある作家は、アウシュヴィッツ及びブーヒェンヴァルトの強制収容所に入れられていたという体験の持ち主であるが、その著作の中で、自分がアウシュヴィッツで目撃したという情景を書いている。彼は、その中で何を見たと書いていただろうか?
 驚かないで頂きたい。その作家は、「ガスも、「ガス室があった」とされる収容所はすべて東側、つまり共産圏に存在し、ジャーナリストの自由な調査が不可能な地域であったという事実だ。
「ダッハウのガス室」だけではない。例えば、ある作家は、アウシュヴィッツ及びブーヒェンヴァルトの強制収容所に入れられていたという体験の持ち主であるが、その著作の中で、自分がアウシュヴィッツで目撃したという情景を書いている。彼は、その中で何を見たと書いていただろうか?
 驚かないで頂きたい。その作家は、「ガス室」のことなど一言も書いていないのである。

(註:強調は私)

西岡は言葉の使い方が杜撰だと前述しましたが、「本物の証言」って何なのでしょう? 意味はわかりますが、「本物の証言」などという表現は普通はしないと思われます。嘘であろうが間違っていようが、証言は証言でありそれ以上でもそれ以下でもありません。「あれは偽物の証言だ」などと普通は言わないのであって、「あの証言は偽証だ」などと表現すると思います、細かい話ですが。

ダッハウについては、推測になりますが、1960年当時にはダッハウ裁判やニュルンベルク裁判でのフランツ・ブラーハの証言など、僅かな証拠すらも知られていなかったのではないかと思われます。しかし現在では前述した通り、ダッハウ収容所博物館のサイトに記される通りです。少なくともガス殺がなかったとは言ってません。ブーヘンヴァルトについては私はガス室はなかったと言うことくらいしか知識がないので、それ以上は言及できません。過去にあったと言われていたかどうかも知りません。

しかし、西岡の述べる最後の作家が、ノーベル賞作家のエリー・ヴィーゼルであることはわかります。これも、元ネタは欧米の否定論からきていると推測できます。過去に以下の通り翻訳してるからです。

そこに書いてあるとおり、単なる否定派の卑劣な嘘です。西岡は、否定説を一切確かめもしていないことが露骨なほどわかるという話です。ヴィーゼルの本を読めば済む話なのですから。

で、その続きで西岡はこんなことを言っています。

生きたまま子供を火の中に投げ入れて殺していたという証言

 今日、アウシュヴィッツのユダヤ人が「ガス室」ではなく、「火」に投げ込まれて殺された、と主張する歴史家はいないのだが……。

逆に聞きたい気もするけど、どうして歴史家がそんな主張をしなければならないのか意味不明です。それに、西岡はいったいどうやって「主張する歴史家はいない」と知ったのでしょうか? 1995年当時ですら、ホロコースト関連書籍は世界に膨大にあったはずです。全部読んだわけはないのに、何故それを知っているのでしょう?

で、実際には、ヴィーゼルだけでなく、これに類する証言は私だっていくつか見つけてます。例えばこんなのとか。

1歳未満の子供はガスを撒かれませんでした。rollwagen(荷車)に乗せられて、生きたまま火の中に投げ込まれたのです。

(註:強調は私)

このポーランドの証言集には類例は他にも探せばいくつかあります。このポーランドの証言集自体、否定派は読むに耐えないと思いますので、全否定するとは思いますが、ホロコーストでは残虐な話は事欠かないほどあるので、別に珍しい話でも何でもありません。

でも、それって犯罪を疑われると思うのですけど?

 例えばここに靴の山があったとして、一体その靴の山だけで、どうして靴の持ち主たちが「ガス室」に入れられ、殺された、と証明できるのだろうか? 髪の毛も同じである。こんなたとえは不謹慎かもしれないが、私が、
靴や髪を沢山集めてテレビ局に赴き、「隣の人が浴室をガス室に改造して、人を殺していた」と言ったら、テレビは私の言ったことをニュースとして報道するだろうか?

靴や髪の毛が何人分もあったら流石にその異常性が問われるのではないでしょうか?

アウシュヴィッツ収容所の展示物についての難癖ですが、あれは別に「ガス室」の証拠だと主張されているわけではありません。誰もそんなことを言っていないのですから、典型的なストローマン論法です。靴や鞄、髪の毛や義足、日常生活備品を大量展示しているのは、そもそもそれらはアウシュヴィッツ・ビルケナウにあったからです。それらを見て何を想像しどう考えるかは、見た人の自由意思です。

多くの人はおそらく、犠牲者が本当にアウシュヴィッツに沢山いたのだと実感するでしょう。観察力の多少ある人は、例えば靴には子供のサイズのものが沢山あって、多くの子供の犠牲者もいたのだなと判断するでしょう。あるいは鞄を見て、あそこには一体何が入っていたのだろう?とか、書いてある名前の人にはどれだけ家族がいたのだろうとか、様々に想像する人だっているに違いありません。あるいはまた、それらの物品をどうしてナチス親衛隊は奪い取ったのかについて思考を巡らせるかもしれません。

ところが、哀れな西岡のようなホロコースト否定派は、「証拠」と言う言葉にだけ囚われて、「あんなものはなんの証拠でもない」などと貧相な見解を抱いて、意味不明の満足感を得るのです。これは私の記憶ですが、どっかの否定派があの大量の靴や鞄などを、「ソ連がアウシュヴィッツに持ち込んだものである」などと何の根拠も示さずに主張していたこともあったようです。このようにして、どんな場合でも否定派は単にホロコーストを否定したいという思考に囚われているだけであることがわかります。

確かにクレマトリウム1の「ガス室」には換気装置はなかったと仰るが。

「破壊され、なくなったガス室」がどうして実在したといえるのかといえば、またしても「証言」なのである。
(中略)
 例えば、今日アウシュヴィッツに展示されているあの有名な「ガス室」は、半地下式の「ガス室」で、すぐ隣に四つの焼却炉を持つ「焼却室」が併設されている。というよりも、そのような半地下室をポーランドの共産主義
政権が、戦後「ガス室」として展示してきたのである。この部屋が仮りに説明されている通り、殺人用ガス室だったと仮定してみよう。すると、まず、この「ガス室」には窓がないことに気付く。窓というより、窓を取付ける穴が
何処にも開けられていないのである。
 窓そのものは、処刑用ガス室にとって必要とはいえないが、窓を取付ける穴が一つもないということは、換気扇を付ける場所がない
ということである。
 処刑用ガス室においては、一回処刑が終わるたびに換気をしなければならない。換気をしなければ、次の犠牲者たちを「シャワーだ」とだまして「ガス室」に入れることは出来ないのだから、これはガス室にとって必要
欠くべからざる機能なのである。
 しかし、そのために必要な換気扇を付ける場所が、アウシュヴィッツの「ガス室」にはない。アウシュヴィッツの「ガス室」で使用されたことになっている「毒ガス」は青酸ガスだが、青酸ガスの物理的性質の一つに、壁
や天井に吸着しやすいというやっかいな性質があり、例えば倉庫などで青酸ガスによる殺虫作業を行なった場合、自然の通風では、殺虫作業後の換気に二十時間前後を要したとされている。
 とすれば、アウシュヴィッツの「あの部屋」が「ガス室」だった場合、換気扇がないのだから、出入り口または天井の小穴(そこから青酸ガスが投げ込まれたことになっている)から換気したとして、一日に一回しか「ガス室」での処刑は行なえなかった筈である(何という非効率的な「民族絶滅」だろうか?)。

確かに、クレマトリウム1のガス室に関する限り、文書証拠はなく、証拠は証言以外にはありません。ただし、クラクフ法医学研究所の分析結果はあります。しかしながら、証言は多数とは言いませんが複数存在します。

アウシュヴィッツ基幹収容所に現在も公開展示されている、クレマトリウム1のガス室自体には換気装置は、「現在」はありません。しかしながら、この件は、論文発表後に即刻反論し返されています。

例えば、「換気扇がない」とされたガス室は、もともと焼却棟内の死体置き場であったが、そのころに使われていた換気装置が、ガス室に改造された後もそのまま使用されていたことを、一九四二年夏の煙突改修工事の図面が証明している。そもそも換気装置が死体置き場にあったため、そこがガス室に改造されたのである(プレサック、ドイツ語版四二ページ)

ティル・バスティアン著、石田勇治他編訳、『アウシュヴィッツと《アウシュヴィッツの嘘》』、白水社、1995、p.142
(※プレサックの著書は、『アウシュヴィッツの火葬場・大量殺戮の技術』、1993初版、1994ドイツ語版)

この換気装置の設置場所に関しては、私はその図面を見ていないので推測になりますが、以下のような換気口の埋められた跡が現在も見られるようです。(写真はこちらから)

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鉄筋が穴を横切っている理由については不明とされていますが、おそらく、鉄筋の切断は手間がかかるので、通気だけ出来れば事足りるため放置されたのではないかと考えられます。

確かに、西岡の言うとおり「一回処刑が終わるたびに換気をしなければならない」です。でも、ガスマスクはあるものの、換気しないことはあり得ない、だって少なくとも扉は開けるわけですからね。天井のチクロン投入用の穴だって開放したでしょう。しかし続く西岡の解説は誤りです。「次の犠牲者たちを「シャワーだ」とだまして「ガス室」に入れることは出来ない」と書いて、引用箇所最後で「一日に一回しか「ガス室」での処刑は行なえなかった筈」と書いてらっしゃいますが、その通りで、それどころか一日一回でも無理で、次のガス処理までには何日か開ける必要がありました。

これは、ほとんどの人、特に否定論者に多い勘違いです。勘違いには二つありますが、一つはクレマトリム1のガス室は絶滅用ではなかった、というものです。絶滅用に全く使用されなかったわけではないようですが、ユダヤ人絶滅はビルケナウ収容所で行われました。もう一つは、ビルケナウの火葬場でもそうですが、ガス室一つに付き、一日一回以上のガス処理はほとんど無理でした。処理人数が少なければできたかもしれませんが、遺体を火葬処理しなければならないので、その火葬に時間がかかるので、連続使用など到底不可能だったのです。だから、特にビルケナウの火葬場・ガス室での一回あたりの処理人数が2000人だったりする場合があるなど、非常に多いのです。ルドルフ・ヘスも次のように語っています

私はこの方法を理解しようとしたが、彼は修正してくれた。「いいえ、あなたはそれを正しく理解していません。殺すこと自体には一番時間がかからなかったのです。2,000人を30分で処分できますが、時間がかかったのは燃やす方でした。殺すのは簡単で、衛兵がいなくても部屋に追い込むことができました。彼らはシャワーを浴びると思って入ったのに、水の代わりに毒ガスを入れてしまったのです。全体的にあっという間に終わってしまいました。」彼はこれらのことを、静かに、無関心に、淡々とした口調で語った。

(註:強調は私)

しかしながら、ほんとにこの件、否定派はバカとしか言いようがありません。なぜなら、否定派は一方で火葬能力を極端に低く見積もっているからです。ロイヒターなどは全火葬場で一日あたり200体未満しか火葬できないと主張したくらいです。ならばなぜ、ガス室の連続稼働のようなあり得ない主張をするのでしょう? 否定派は否定することしか頭にないからだとしか思えません。

なお、西岡が言っている「殺虫作業後の換気に二十時間前後を要した」は、これはチクロンの製造元であるディケシュ社の取扱説明書にそうあるからです。

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12. 換気は少なくとも20時間は継続すること。

製造メーカーが自社の責任を問われないように、可能な限り安全側の主張をするのは当然です。アウシュヴィッツでは、極端な話が別にいつ死んでも構わない使い捨てでしかなかったユダヤ人ゾンダーコマンドが遺体処理をするのですから、そんな極端な安全策を取る必要はなかったでしょう。証言によれば、ガスマスクを使用していたそうですけどね。

なお、この続きで延々と西岡はチクロンに関する誤った知識を披露していますが、西岡はその後に若干見解を変えていることもあり、スルーします(笑)。どう間違っているかは、私の過去に翻訳してきた記事を色々とご自身で調べるとわかってくるかと思います。西岡説は、ほぼ完全にフォーリソン説の受け売りです。

追記:
マルコポーロ論文以降の、西岡によるチクロンの毒性に関する訂正は、マルコポーロ事件のWikipediaに引用されていました。何やらだらだらと述べていますが、西岡は要するに、チクロンBは青酸ガスを長時間放出し続けるので、その間、ガス室には入れず、遺体搬出作業は何時間も後でないと出来ないから、不合理だと主張しています。しかし、西岡はこの件に関して基本的に2点の重要な観点を無視しています。一つは、遺体搬送作業にあたるゾンダーコマンドはガスマスクを使用していたということです。これは私の過去のnote記事について「from:@ms2400 ガスマスク」として検索するといっぱい出てきますので、探して読んでみて下さい。もう一つは、西岡は何の計算もしていないと言う点です。問題になるのは、チクロンBの取扱説明書ではなく、青酸ガスの濃度です。青酸ガスの致死濃度はよく270ppmや、300ppmで即死すると言われていますが、個人的に調べた結果、実際にはもうちょっとややこしくて、個人差があるので、100人中50人が死亡する濃度としてLC50などの値が使用されるのが業界標準らしく、またガスの平均濃度ではなく、人体への曝露濃度が重要らしいです。国際シアン化物協会というのがあって、そこを調べた時に2000ppmで1分程度暴露すると、LC50としての致死量に達する、と記述されていたように記憶しています。ともかく、こうした数字上の確認もせずに、危ないから作業ができなかったはずだと主張するのはナンセンスです。さらに、換気を考慮すればもっとややこしくて、例えば以下のグラフのように濃度が変化するのです。以下は、クレマトリウム2のガス室で、チクロン投入後、10分後に金網投下装置を通じてチクロンをガス室内から撤去し、換気装置を作動させた場合の濃度変化の計算値です。

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ガス室の場所にもよって状況が異なりますが、たとえいわゆるブンカーやクレマ4や5のように自然換気でも、クレマトリウム2や3のガス室のようにはガス室からチクロンを金網投下装置を通じて撤去しなくとも、外気が入ることにより急激に青酸ガス濃度は低下しますし、述べた通りガスマスクを使用していることも考慮しなければなりません。これらのことを仔細に検討しない限り、西岡の理屈は意味はありません。

 ヒトラーの命令書がない説。

 連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、アメリカ軍が押収したも
のだけでも千百トンに及んでいる。
 ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書は一枚もなかったのである。実際、連合国は、ニュールンベルク裁判において、
ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。

私は個人的な意見として、ヒトラーの命令書がないのは、否定説にとってこそ実に奇妙な話だとしか思えません。だって、否定説は基本的にホロコーストは陰謀による捏造だと言う主張なのですから、ならばなぜヒトラーの命令書を捏造しないのか、話がおかしいと思いますけどね。ホロコーストの実行者であったヒムラーも死んでおり、あるいはヴァンゼー会議の議長だったハイドリヒもとっくに暗殺されているわけです。もちろん、ヒトラーも自殺してます。他にもラインハルト作戦の指揮官だったオディロ・グロボクニクも自殺していたり、主要な人物の多くが死んでるんですから、ヒトラーの命令書一枚偽造したって、バレないですよ(笑)

「定説」側は、ヒトラーの命令書がないことについて、特におかしいと主張したりはしていません。安楽死作戦(T4作戦)ではヒトラーの命令書(承諾書)が存在していますが、T4作戦はヒトラーの命令だったとバレていたので、ヒトラーはそのために非難され、作戦中止を余儀なくされたのです。「定説」側は、その失敗を繰り返さないためにユダヤ人絶滅計画の秘匿に努め、徹底的に秘密にするために、ヒトラーの命令書などのヒトラーの関与を示すものを完全に隠匿した、あるいは命令書自体を作らなかった、のではないかと見ています。他の各種作戦でも、必ずしもヒトラーの命令書のような書類があったわけではないそうですが、これについては私は調べていません。ですが、ヒトラーの命令書がない説が根拠となるならば、ヒトラーはどんな場合でも命令書を出していたことを否定派が示す必要があります。

しかし私は思うのですが、もし仮にヒトラーの命令書が存在したとしたら、否定派はきっとその捏造を主張したに違いないと思います。否定派はきっと「ユダヤ人絶滅計画の命令書が存在することなど、計画の極秘性を考えればあり得ないことなど猿でもわかる話だ」のように主張したに違いありません。実際に、絶滅計画が存在した証拠とみなされている文書は、例えばヴァンゼー議定書は否定派による偽造説が存在します(偽造説を取らない否定派もいますが、その場合は解釈によって証拠とはならないと主張します)。否定派は、証拠となるものがあったらあったで、偽造主張をするか、解釈によって証拠性を否定するなど、結局は否定するだけであり、その上で「証拠などない」とほざくのです。

 具体的には、ニュールンベルク裁判におけるハンス・レマースの証言、ハインリヒ・ヒムラーが一九四三年十月四日に行なったとされる談話の筆記録、ヴァンゼー会議という会議の記録、ゲーリングが一九四一年七月三十
一日に書いた手紙、ベッカーという軍人のサインがあるソ連発表の手紙等々であるが、これらの文書は、しばしばそれらの反論者たちによって「ユダヤ人絶滅を命令、記録したドイツ文書」として引用されるものの、よく読むと、全くそんな文書ではないのである。

ハンス・レマース(ハンス・ラマース)の件は、前述の『アウシュヴィッツと《アウシュヴィッツの嘘》』でこれも石田氏によって詳述されていますが、内容はここで紹介されているので、全文引用します。引用内では石田氏の記述は「「日本版<アウシュヴィッツの嘘>――ナチ『ガス室』はなかったか?」という論稿」にあると説明されていますが、これは『《アウシュヴィッツの嘘》』にあるものと同じです。

歴史的修正主義研究会
最終修正日:2004年2月29日

<質問3>
わが国の正史派の研究者○○氏は、ニュルンベルク裁判でのハンス・ラマース証言を、ユダヤ人問題の最終解決がユダヤ人の絶滅であることの証拠と考えているようですが、歴史的修正主義者はこの点をどのように考えていますか?

<回答>
 たしかに、○○氏は、西岡昌紀氏のマルコポーロ誌掲載論文を批判した「日本版<アウシュヴィッツの嘘>――ナチ『ガス室』はなかったか?」という論稿の中で次のように記しています[1]。

「彼[内閣官房長官ハンス・ラマース]の証言には弁明が多く、扱いには注意を要するが、『あなたは、ヒトラーが、ユダヤ人問題を最終的解決すなわちユダヤ人の絶滅によって解決すると決断したことを知っていたか』という質問に対し、『はい、そのことはよく知っていた。ユダヤ人問題の最終的解決についてはじめて知らされたのは1942年のことだった。その時、私は、総統がゲーリングを通じて親衛隊大将ハイドリッヒにユダヤ人問題解決の任務を与えたことを知った。その細かな内容には関知しない。…』と述べている。」

 ○○氏は、ラマースの回答の中で、「はい、そのことはよく知っていた」という部分から、ラマース自身が、最終解決とはユダヤ人の絶滅のことだということを知っていた、したがって、ラマース証言はユダヤ人問題の最終解決がユダヤ人の絶滅であることの証拠の一つなのだ、と考えているようです。

 だが、果たして、ラマース自身は、ユダヤ人問題の最終解決がユダヤ人の絶滅であることを知っていたと証言しているのでしょうか。

ニュルンベルク裁判記録から、この質疑を引用しておきましょう[2]。

「トーマ博士:もう一つだけ質問があります。あなたは、ヒトラーが、ユダヤ人問題を最終解決、すなわち、ユダヤ人の絶滅によって解決すると決定した事実について、何か知っていましたか。

ラマース:はい、そのことはよく知っていました。ユダヤ人問題の最終解決のことをはじめて知ったのは、1942年のことでした。その時、私は、総統がおそらくゲーリングを介して、ユダヤ人問題の解決を達成するよう、SS上級集団長ハイドリヒに命令を与えたことを知りました。私は、この命令の正確な内容について知りませんでした。当初、これが私の管轄下に入らないこともあって、否定的な態度をとりましたが、知っておかなくてはならなかったので、もちろん、ヒムラーと連絡を取らなくてはなりませんでした。私はヒムラーに、ユダヤ人問題の最終解決という考え方とは実際には何を意味するのか尋ねました。ヒムラーは、ユダヤ人問題の最終解決を実行せよとの命令を受け取ったこと、ハイドリヒと彼の後継者がその命令を受けたこと、命令のおもな点はユダヤ人をドイツから移送することであると答えてくれました。この答えで、そのときは満足し、その後の進展を待ちました。実際には管轄権を持たなかったのですが、何らかの点で関与することになると思っていましたし、ハイドリヒと彼の後継者カルテンブルンナーから何らかの情報を得ることができると思っていたからです。

 何も情報が入ってこなかったので、この件について知りたいと思い、1942年に総統に報告したところ、総統は、移住命令をヒムラーに与えたことは事実だが、戦時中にはこれ以上ユダヤ人問題を議論することを望んでいないと話してくれました。」

結論
① 内閣官房長官ハンス・ラマースは、ニュルンベルク裁判で、ユダヤ人問題の最終解決がユダヤ人絶滅であることを知っていたとは証言していません。
② むしろ、ヒトラーも、ヒムラーも、そして当然にもラマースも、最終解決とはユダヤ人の移住であると発言していたのです。
③ ですから、正史派固有の奇怪な「コード言語説」を操らなければ、ラマース証言が、ユダヤ人問題の最終解決がユダヤ人の絶滅であることの証拠とはなりえません。
④ ○○氏がラマース証言を引用するにあたって、「命令のおもな点はユダヤ人をドイツから移送することであると答えてくれました」、「総統は、移住命令をヒムラーに与えたことは事実だが、戦時中にはこれ以上ユダヤ人問題を議論することを望んでいないと話してくれました」という部分を含む証言の後半部を省略していることは、不適切な引用方法に思われます。

加藤教授は丁寧に反論されているように見えますが、石田氏が述べたのは、西岡の記述に対応してその内容を説明しただけであり、「ニュルンベルク裁判でのハンス・ラマース証言を、ユダヤ人問題の最終解決がユダヤ人の絶滅であることの証拠と考え」ているような記述は石田氏は何もしていません。つまり、端的に言えば加藤教授の捏造です。

ちなみに、ハンス・ラマースとは、ハンス・ハインリヒ・ラマース(Hans Heinrich Lammers)の事であり、マルティン・ボルマン同様にヒトラーの側近でした。ところで、ニュルンベルク裁判の議事録はイェール大学のサイトで読めるのですが、何故か、このラマースの証言がある日(1946.4.8)の議事録の部分が欠落しています。アーカイブサイトにはありますので確認はできますが、ラマースはユダヤ人問題の最終解決がユダヤ人の絶滅を意味するとは当時は誰からも説明されず、知らなかったとは述べています。しかしこれは、ニュルンベルク裁判での被告の多くが「ユダヤ人の絶滅なんて知らなかった」と弁明しているのと印象は変わりません。が、ラマースの証言にあるヒムラーやヒトラーから説明を受けたと言う『疎開』などの言葉を、加藤教授の言う「正史派固有の奇怪な「コード言語説」」を採ると、たちどころに、ユダヤ人絶滅政策があったことの証拠に変容し、ヒトラーもきっちり認識していた証拠にもなります。「コード言語説」は散々、私の翻訳記事の多数で説明していますので、奇怪でもなんでもないことはお分かりいただけるかと思います。

続いて、ヒムラーの話は「筆記録」ではありません。これは過去に翻訳し、西岡本人にぶつけていますが、呆れたことに旧来の主張をするだけでした。それについては後述します。

読めばわかるとおり、ヒムラーの肉声で録音記録が存在しているのです。今の今までこれを、ヒムラーの肉声ではなかったと証明した人はいません。ヒムラーの肉声記録は他にもあるようであり、今なら簡単に音声分析可能です。この音声記録の中で、はっきりヒムラーは「ユダヤ人の疎開とはユダヤ人の絶滅だ」と述べているのです。

ところが西岡は私との議論で、ドイツ語の「Ausrottung」と言う単語は「絶滅」とは訳さないと、上の引用リンクにもある否定派の解釈を繰り返し、上の引用リンクを示しても真面目に読まず、見解を変えませんでした。見解を変えることが出来ないのはわかっていますが、私は翻訳ではなく解釈によって肉体的絶滅とはみなさない方法もあると教示までして差し上げたのですが、彼は頑固でした(笑)。辞書に「絶滅」の意味があるのだから、翻訳そのものは絶滅に訳して問題ないのです。

余談ですが、西岡との議論で問題になったのは最初は「Ausrottung」ではなく、「Affidavit」でした。これはルドルフ・ヘスの証言をめぐる議論で、ルドルフ・ヘスの証言にはいくつか種類があるのです。逮捕された時にイギリス軍によって作られた尋問調書、ニュルンベルグ裁判にカルテンブルンナーの弁護側証人として呼ばれた時にヘスの供述として筆記された宣誓供述書(これが「Affidavit」です)、心理学者のグスタフ・ギルバートのメモの中にあるヘスの証言、そしてヘス自身による自叙伝などです。私は、西岡が「ヘスの自白調書を読んだことはあるか?」というので、宣誓供述書なら知ってるが、自白調書は見たことがないと答えたのです。ところがその後、西岡が言う自白調書とは宣誓供述書のことであることがわかりました。だから単に私は、言葉の使い方が間違っているとだけ、指摘したのです。ところが、西岡は「Affidavit」は自白調書と訳すのだと言って聞き入れようとしなかったのです。もちろん、誰に聞いても辞書で調べてもそんな訳はありません(私はたったそれだけのために図書館まで行って超分厚い&クソ重い高級辞書を何冊も調べましたし、ネットでも質問しました)。西岡は要するに、「強要されたものだから自白調書と呼ぶべきで、自発的に宣誓の上で書かれたものであるはずがないから、宣誓供述書と呼ぶべきではないのだ」と主張していたのです。アホか、と。私は単にどれのことだかわからなくなるので、言葉をきちんと使って下さいという趣旨だけだったのです。で、それなら「Ausrottung」はどうなるの? と尋ねたら、前述の通り……なぜ、修正主義者はダブルスタンダードを平気で使えるのか、未だに理解できません。本当に修正主義者は平然とダブルスタンダードを使うのです。一方では「Ausrottungは「絶滅」の意味が辞書にあろうと「絶滅」とは訳さない」と主張し、一方では「Affidavitは「自白調書」の意味など辞書にはなくとも「自白調書」と訳して良い」と主張するのですからね。

ヴァンゼー議定書は調べるのは簡単なので、単に解釈の問題というのはお分かりいただけると思います。議定書には直接的な表現はありませんでしたが、はっきり明示的には言わないのがナチスの方針でした。ゲーリングの手紙とは、「ユダヤ人問題の最終解決」をハイドリヒに全面委託すると言う趣旨が書いてある有名な文書です。もちろんこれにも直接的な絶滅記述はありませんが、ゲーリングの手紙の時期を考慮すると、この時期、ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅させる意図はまだはっきりしたものではなかった、と考えられています。ベッカーの手紙とは以下で翻訳しています。

えー、これを非常に不味い手紙だと考えない否定論者はいないと思います。だから私はその翻訳の後に、否定派は偽造とする以外に方法はないと書いたのです。西岡はちゃんと読んだのでしょうか? 「これらの文書は、しばしばそれらの反論者たちによって「ユダヤ人絶滅を命令、記録したドイツ文書」として引用されるものの、よく読むと、全くそんな文書ではない」って、大丈夫なんでしょうか? 絶対にちゃんと読んでないと思います。

なお、ヒトラーがユダヤ人を絶滅させることを具体的に命令した文書証拠は確かにありませんし、デイヴィッド・アーヴィングがヒトラーをホロコーストから切り離せたのも、そこが明確ではないからです。この問題については、今のところ私は不勉強ですので、それを示唆する証拠についてはいずれまとめたいと思っています。しかし私もいわゆる機能派の端くれですので、ヒトラーの意図はそんなに重要とは考えていません。ヒトラーの命令・指示がなかったわけはないとは思ってますけどね。誰か既にまとめていてくれてたらいいのになぁ(笑)

ユダヤ人は絶滅されず強制移送させられただけ?

 それらの文書は、ポーランドに作られたアウシュヴィッツ収容所等へのユダヤ人移送が、ドイツ政府にとっては「一時的措置」でしかなかったことを明快に述べている。そればかりか、当時のドイツ指導部が、その「一時的措置」の後には、収容したユダヤ人達を「東方地域」に移送する計画であったことをはっきりと述べてもいるのである。
 これは、アウシュヴィッツをはじめとする収容所の建設目的が、これまで言われてきたような「ユダヤ民族の絶滅」ではなく、「東方地域への移送」であったことの動かぬ証拠である。これこそが、ナチスドイツが計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」という用語の本当の意味だったのである。

だったら、その実際に移送され殺されていないユダヤ人をさっさと出してよ(笑)

「定説」側は、結局「再定住」「疎開」「東方移送」などの言葉は、否定派が定説側を揶揄するために言っている「コードワード」に過ぎないと考えており、それらの言葉が記述された文書があったからと言って、「ユダヤ人絶滅」がなかった証拠にはならない、と考えます。マダガスカル計画も、ルブリン移住計画も、東方移送計画も全部不可能となり、結局、皆殺しする以外になくなったというのが定説側の主張であり、証拠は腐るほどあります。例えば、なぜ否定派によれば通過収容所である筈のトレブリンカに耐え難い死臭がするほど死体が埋まっているのでしょうか?

「オストローの報告によると、トレブリンカのユダヤ人は十分に埋葬されておらず、そのため、耐え難い死体の臭いが空気中に充満している」

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都合の良いことは言うが、都合の悪いことは隠す、のは西岡さん、あなたでしょう?

 アウシュヴィッツに収容された一人にマリア・ファンヘルヴァーデン(Maria Vanher-waarden)という女性がいる。全く無名の人ではあるが、この人が一九八八年の三月に、カナダのトロントで述べた証言は極めて興味
深いものである。
 彼女は、一九四二年にアウシュヴィッツ及びそこに隣接するビルケナウ強制収容所に収容されたのであるが、列車で移送される途中、同乗したジプシーの女性から、アウシュヴィッツに着いたら、彼女たちは皆「ガス室」によって殺されてしまうのだという話を聞かされた。当然、彼女は、ジプシーが語ったその話に恐怖を抱いた。
 興味深いのは、その後である。彼女の証言によると、アウシュヴィッツに到着すると、彼女たちは服を脱ぐよう命令された。そして、窓のないコンクリートの部屋に入れられ、シャワーを浴びるよう言われたという。ここで、彼女たちの恐怖は頂点に達した。列車の中でジプシーの女性から「ガス室」で殺されるという話を聞かされていたからである。ところが、彼女の頭上のシャワーから出てきたものは、「ガス」ではなく、水だったのである。
 読者は、この証言をどう思うであろうか?このような証言は、他にもいろいろあるのだが、戦後半世紀もの間、何故か、こういう証言は「ガス室」が存在したと主張する人々によって徹底的に無視されてきたのである。証言は、証言でしかない。しかし、一つの事柄について対立する証言がある時、物証も検証せずに、一方の「証言」だけを取り上げ、他方を検討すらしないというやり方が、正当なものといえるであろうか?

(註:強調は私)

このトロント裁判が、いわゆるツンデル裁判であるという事実はここではどうでも良いのですが、このヘルワーデンの証言は、これもまた欧米人が否定論の一部として使用するもののようです。だから、ネットにあるのですね。否定派のサイトらしいですが以下です。

前述のニューヨークタイムズ記事同様、ちょっと長いけど全文引用してみましょう。西岡が何を隠したかはすぐわかります。

マリア・ヴァン・ヘルワーデン

[マリア・ヴァン・ヘルワーデンは、王室(註:カナダでは裁判所を「王室」と表現するらしい)が召喚した9人目の証人である。彼女は1988年3月28日(月)に証言した]

マリア・ヴァン・ヘルワーデンは、1942年12月から1945年1月までアウシュビッツ・ビルケナウにいた。彼女は20歳のときに、自分と同じオーバーエスターライヒ州の農場で働いていたポーランド人男性と性交渉を持ったため、収容所に送られた。(25-6623)

彼女は農場で逮捕され、警察署に連れて行かれた。2日後、リンツに行き、ゲシュタポの尋問を受けた。妊娠していたので、6週間だけ釈放された。10月に子供が生まれ、11月にリンツに戻らなければならなかった。子供は彼女の両親が面倒を見ていた。(25-6624)

ヘルワーデンはリンツからウィーンに運ばれ、そこからアウシュビッツに向かった。ウィーンからアウシュヴィッツに向かう列車には、他に20人ほどの女性が乗っていた。彼女は、ユダヤ人がいたかどうかはわからなかった。彼女たちは列車の中で食べ物をもらっていた。ジプシーがヘルワーデンに、アウシュビッツに着いたらガスを浴びることになると言った。彼らは12月2日の午後に収容所に到着した。(25-6625, 6626, 6627)

「その夜、SSの人たちが来て、彼らをビルケナウに連れて行った。窓のない寒い部屋に連れて行かれ、冷たいシャワーを浴びるように言われました。服を渡され、頭髪も陰部もすべて剃られました。上からガスが出ると言っていましたが、水しか出ませんでした」とのことで、シャワー室に入ったときは「とても怖かった」そうである。石鹸をもらったが、水は冷たかった。シャワーが終わると、番号と囚人服を受け取り、バラックに連れて行かれたという。ヘルワーデンはアーリア人として登録されていた。(25-6628, 6629)

最初の2週間は、犯罪者も含めてみんな一緒だった。後になって、彼らは別々の場所に行くようになった。1つのバラックに1,000人、1つのベッドに5人、3つのベッドが重なっていたという。ヘルワーデンは、非社会的ブロックに入れられた。(25-6629, 6630, 6634)

1943年のビルケナウでは、ブロックの後ろにオープンなトイレがあった。また、収容所にはサウナもあった。ヘルワーデンは、その中で2回サウナ風呂に入ったことを覚えている。暑さに耐えられずに気絶する人もいた。(25-6633)

囚人たちは朝5時に起きて、2時間のアペルをしなければなりませんでした。これは、雨や寒さの中、外で黙って立っているということです。SSが彼らの数を数えてからバラックに戻り、そこで朝食を食べましたが、パン1枚と紅茶1杯でした。(25-6630)

正午頃、シチューの入った巨大な鍋が運ばれてきました。囚人たちは、収容所に入るときにもらったボウルとスプーンを使ってこれを食べました。夕食は紅茶1杯とパン1枚。(25-6630)

60人から80人、時には数百人のグループが、毎日違う仕事に行くために収容所を出て行き、夜になると戻ってきました。(25-6647)しかし、収容所で働いたことのない収容者もたくさんいた。その中には、ブロック長やバラックの掃除をする人たちも含まれていた。ヘルワーデン自身は、収容所に来てから自ら進んで働き、植林地で農作業をしていた。ビルケナウから1時間かけて行進して農園に行き、おいしい食べ物をもらい、仲良く働きました。食べ物はビルケナウよりも美味しく、十分な量がありました。(25-6634, 6635)

ヘルワーデンはビルケナウのユダヤ人囚人を見た。彼らは他の囚人と何の違いもなく扱われていた。「私たちは皆、平等でした。」 (25-6633) しかし、ユダヤ人はブロック長、オフィスでの仕事、医者などの素晴らしい仕事を持っていた。ユダヤ人はヘルワーデンのバラックにはいなかったが、行ったり来たりしていた。(25-6637. 6638)

人が煙突に向かう動きを見たかと聞かれたヘルワーデンは、「煙突が遠くで煙を出しているのは見たが、それ以外は見ていない」と証言した。彼女は、煙突が収容所内にあるかどうかは言えなかったが、5kmくらい離れていると思った。とても小さいものでした。(25-6638)

ヘルワーデンは、収容所内に友人はいなかったが、感じがよく、人々と話していた。(25-6638) 囚人はドイツ語の歌を歌うことは許されていませんでしたが、囚人たちは自分たちで歌いました。また、外部から新聞や何かを入手することも許されませんでした。年に2回手紙を書くことが許され、1943年のクリスマスには小包を受け取った。闇市の活動は絶対に禁止されていましたが、ヘルワーデンは食料や衣類でそれが行われているのを見ました。(25-6636, 6646)

彼女は、収容所で多くの囚人が病気で死んでいくのを見たし、電気柵で命を落とした人も見た。しかし、収容所内で誰かに殺された囚人を見たことはなかった。1942年3月に到着した1,000人のドイツ人のうち、12月にヘルワーデンが到着した時には3人しか残っていなかった。みんな黒熱病で死んでいた。ヘルワーデンや他の囚人たちは、病気にならないようにとても痛い注射をされていたが、この病気に対する対策は何もなかった。彼女は、SSがチフスを止めようとしたが、うまくいかなかったと思っていた。(25-6636, 6637, 6647) 死体は一輪車で運ばれましたが、どのように処分されたかは知りませんでした。(25-6638) ヘルワーデンはビルケナウの火葬場を見たことがない。大きな場所だった。(25-6645)

4分の1から半年ほど経った頃、体調が非常に悪くなり、朝の給食の時に下痢をして気を失った。目が覚めたのは、病人がいるバラックだったという。ユダヤ人の医者がいて、彼女に言った。「あなたはまだ生きていますか?」 彼らはとても驚いて、彼女に薬を持ってきてくれた。ヘルワデンさんは3日間入院し、その後、自分のブロックに戻ってさらに6週間過ごした(25-6631, 6632)

病気の後、ヘルワーデンはSSの病院に連れて行かれ、掃除や患者の世話をしました。そこには、看護師と医師が1人ずつしかいなかった。感染病棟だったので、ヘルワーデンさんは外に出ることができず、建物の中で寝なければならなかった。9人の少女が1つの部屋を共有し、夜はそこに閉じ込められていた。彼女は半年ほど働いたと思っていたが、新聞もなく、日付を確認する手段もなかったので、知ることは困難だったと証言している。(25-6633, 6639)

ヘルワーデンは次にアウシュヴィッツに連れて行かれ、女性SS棟の掃除婦になった。20人の少女がいて、料理や掃除、洗濯をしていた。アウシュビッツが爆撃されたとき、ヘルワデンはこの建物にいた。気圧ですべての窓が壊れた。(25-6639, 6640)

1944年9月、ビルケナウで大きな爆発があり、70人の囚人が逃げ出しました。2、3日のうちに全員捕まった。(25-6646)

1945年の1月2日か3日、囚人たちはSSからロシア軍が近づいていることを知らされ、出発しなければならないと言われた。彼女は600人か700人くらいのグループと一緒に上シレジアのオッペルンまで行進した。この集団は、ユダヤ人を含むあらゆる国籍の人々で構成されていた。ヘルワーデンは途中で食べるために2kgの砂糖を持って行った。彼らは夜にしか移動しなかった。日中は爆撃のため歩けなかった。(25-6641, 6642)

オッペルンでは開放された列車に乗り込み、3日後にはラーフェンスブリュックに到着した。途中で爆撃を受けた。列車には食料がなかった。ラーフェンスブリュックまでは、全部で1ヶ月かかった。ヘルワーデンは、行進では多くの人が死んだが、列車では死ななかったと証言している。(25-6641, 6642)

ラーフェンスブリュックでは、到着したときにはバンドが演奏していて、熱いシャワーと食べ物が与えられたという。ヘルワーデンは、ベルリンから45kmほど離れた小さな収容所に送られ、そこで料理人として働いていた。収容者は500人くらいで、それ以上はいなかった。全員が女性であった。(25-6642, 6643)

ヘルワーデンは、『600万人は本当に死んだのか』に引用されているティース・クリストファーセンの観察の多くを確認した。彼女が収容所にいた期間、彼女は「何百万」もの人々を見たことはないし、ユダヤ人の大量殺人や絶滅の兆候を見たこともないのである。収容所ではガス処刑が話題になっていたが、彼女自身はそのようなものを見たことはなかった。しかし、収容所内にはひどい臭いがあり、ビルケナウから植林地に向かう途中に馬蹄形の場所があったことを確認している。ヘルワーデンは、自分がアウシュヴィッツ・ビルケナウで見たことを人々に信じてもらうのは難しいということに同意した。「多くの人はそれを信じていません。」 (25-6643から6647)

反対尋問では、ヘルワーデンは、非アーリア人との性交渉は禁じられており、それがアウシュヴィッツに送られた理由であることに同意した。彼女は、ヒトラーが人種混合に反対していたことに同意した。(25-6647, 6648)

ビルケナウまで一緒に旅をしたジプシーの女性は、3週間後に黒熱病で亡くなった。(25-6648)

ヘルワーデンは、赤と黒の三角形が半分ずつ入った制服を与えられた。赤は、彼女が関係を持った男性がポーランド人だったので、政治的な意味を持っていた。黒は反社会的な意味を持っていた。彼女は、収容所には自分と同じサインを持ったドイツ人がたくさんいたことを強調した。ユダヤ人は星印を持っていた。(25-6649)

再調査で、ポーランド人もアーリア人とみなされていたのかと聞かれたヘルワーデンは、いいえ、ポーランド人はドイツ人に対して戦争を指揮していたので、ドイツ人の敵とみなされていたと答えた。(25-6651)

(註:強調は私)

そう、ヘルワーデンはドイツ人であってアーリア人であり、非アーリア人と見做されたポーランド人と性交渉したのでアウシュヴィッツに送られた囚人だったのです。西岡はそこを見事なまでに隠しました。アウシュヴィッツ収容所内でアーリア人とユダヤ人の扱いが全く違うのは当たり前のことです。しかも、ビルケナウは広大な面積を持つ収容所であり、ヘルワーデン自身の見解によれば、自分のいた場所から火葬場は5kmも離れたところにあるほど、遠くて火葬場を直接見てもいません。従って、彼女がガス室についての証言など、いわゆる不味い証言をしていなくとも不自然さは全くないのです。

シャワーですが、収容所内には普通に囚人用シャワー室はあったので、別に不思議はありません。アウシュヴィッツのシャワー室については写真は以下のものしかないようですが、ビルケナウには何箇所かシャワー室は設置されていました。以下の写真はセントラルサウナと呼ばれた場所のものですが、ビルケナウの操車場近くには輸送されてきたばかりの人を対象とした害虫駆除棟がありヘルワーデンはそこのシャワー室のことを言っているのだと思われます。

また、シャワーヘッドから毒ガスが出てくると言う噂は当時普通に流れていました。以下は、AmazonプライムビデオにあるBBC制作の『アウシュヴィッツ ナチスとホロコースト』からのスクリーンショットです。一応、わかりやすく、こうした噂が普通にあった証拠です。

スクリーンショット 2022-01-06 0.19.28

この人は、有名なカストナー列車で絶滅を免れたハンガリー系ユダヤ人の一人ですが、彼女がシャワーを浴びたのはアウシュヴィッツではなく、途中の通過収容所でした。ちなみに、ある欧米の否定者はこのシーンを用いて、ハンガリーのユダヤ人はみんな殺されると思っていた証拠にしようと考えましたが、実際にはユダヤ人の大半は殺されるとまでは思っていなかったようです。噂は知っている人もいれば知らない人もいる、ってだけの当たり前の話ですね。

ヘルワーデンがアーリア人だったと言う事実は、西岡が隠したのではなく、欧米の否定派から教えてもらわなかっただけとも考えられますが、それならそれで元々の証言を確認していないということにもなります。西岡は偉そうに「定説」側は検証もせずに証言を利用しているなどと言っていますが、何のことはない、それは西岡自身の話なのです。

それに、いわゆる本物の偽証言者については、否定派は何も検証していません。それらを検証したのは、否定派でない人たちばかりです。

特に西岡のような杜撰な日本の否定派は、欧米の否定論を丸ごと鵜呑みにしているだけであり、検証なんか一切してないと思います。歴史学者の多くは査読を受けた論文をいくつも発表していると思いますが、否定派が査読を受けた話など皆目聞いたこともありません。せいぜいが、否定派同士で喧嘩してるだけです。

ホロコーストは戦時中のプロパガンダが起源?

 このファンヘルヴァーデンという女性の証言で興味深いことは、彼女の証言に出てくるジプシーの女性が、何処で「ガス室」の噂を聞いたかという問題である。それを確かめる方法はないが、それに関連して、アメリカの歴史家マーク・ウェーバーは、戦争中、連合軍が、ラジオやビラによってドイツ占領下のヨーロッパに対してこの「ガス室」の噂を意図的に流布させていたことを『アウシュビッツ神話と真実』の中で指摘している。
 すなわち、戦争中の心理作戦としてのプロパガンダの一つに、この「ガス室」の話が織り込まれていたのである。そのようにして流布された戦争中の「ガス室」の話が、戦後検証されぬまま「歴史」に転化してしまったの
が「ホロコースト」に他ならない。

マーク・ウェーバーは確かに歴史家であるそうですが、ウェーバーは現在も歴史評論研究会(IHR)の会長であり、昔からバリバリの否定論者です。ご本人は「否定論者」と呼ぶのは悪意のレッテルだ!と仰っておられますが、IHRの会長をそう分類しないわけにもいきません。

このプロパガンダ説は、具体的な内容がまるでないので、話が全然わかりません。どんなビラが撒かれていたのか、ラジオで何を言っていたのか、いつ頃の話なのか、そうした事例は歴史的な観点からそこそこ興味深い話でもあるのに、そんなことは西岡はどうでも良いらしくて、ホロコーストがでっち上げであることだけを述べられたらそれで良いようです。

以前に翻訳した、ポーランドでの裁判での証言集を翻訳していたら、テレサ・ラソッカ・エストライヒャーという、ポーランドで当時、地下活動をしていた人物を発見しました。彼女はアウシュヴィッツの地下組織と繋がっていたそうで、そうしたところから外へ漏れ出た情報が、連合国側に伝わったのかもしれませんし、ポーランドの他の地下組織やヤン・カルスキのような著名な人物もいたわけですし、1944年中頃には例のヴルバ・ヴェッツラーの報告書なども出現するわけです。

鶏が先なのか卵が先なのか、鶏を連合国のプロパガンダだとするならば、その鶏が先だと言う証拠は何もありません。しかし否定派はそれにはめげず、卵である方の情報発信源になっている部分まで疑って、フォーリソンなどは「ユダヤ人が捏造したに違いない」などと主張しています。なんや?お前ら結局両方とも疑うんかい!ってな話に過ぎないわけです(笑)

何れに致しましても、「プロパガンダから嘘だ」説は、通用しません。否定派が大好きなカチンの森事件は、当初、ナチスの宣伝相ゲッベルスによって、連合国を分断させるべく、大々的なプロパガンダとして利用されましたが、内容はほんとでした。

囚人の健康を気遣ってたから絶滅はなかったはず?

 問題は、ドイツがそのような状況にどのように対応したかであるが、ドイツ軍当局は、ユダヤ人を戦時下の労働力として温存したかったのであり、意図的に衛生状態を悪化させたと考えさせる証拠は見つからない。
 例えば、ドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出してすらいる。例えば、一九四二年十二月二十八日の日付けで強制収容所の統括司令部がアウシュヴィッツ収容所に送った命令書には、こう書かれている。
「収容所の医師達は、これまで以上に被収容者の栄養状態を観察し、関係者と連携して改善策を収容所司令官に提出しなければならな
い」
 これは、ヒムラー自身の言葉ではないが、この命令書はヒムラーの次のような言葉を引用しているのだ。
「死亡率は、絶対に低下させなければならない」
 この命令は、言われているような「民族皆殺し」と両立する命令であろうか?

ええ、両立するようにしたのです。まず、労働力にならない無駄飯食いの子供や老人、病人、それと子持ちの女性は労働力にならないとみなされたので、「選別」にて囚人登録もされず、ガス室に送られて真っ先に殺された、と「定説」側が主張していることは周知されている筈です。これがアウシュビッツ・ビルケナウでは、ユダヤ人輸送数の内75%を占めたとされます。

さて、そのリヒャルト・グリュックス強制収容所総監の書簡には確かにそう書いてあったそうですが、こちらのサイトの解説によると。

しかし、明らかな死亡率の低下は見られなかったが、1943年頃には一部の収容所で生活環境の改善が実際に行われた。しかし、これも長くは続かず、戦争末期の収容所の状況は極めて悪く、囚人の数が増えたこともあって、死亡率も高かったのである。前述のメモは、グリュックスの容疑を晴らすものではない。仮に、議論のために、非常に厳しい労働条件を見守ったのが特にポールであり、グリュックスがこうした状況の結果、死亡率を抑えるために実際に苦労したと仮定しても、最終的にグリュックスが責任を負うべき、収容所で行われた他のさまざまな犯罪がまだある。

と書かれていました。この件で、ある否定派は80%も死亡率を下げたとまで主張するケースがありますが、調べましたが強制収容所全体ではそんな死亡率低減は見られませんでした。詳しいことも調べようとしましたが、その文書が写真コピーしかなくて、面倒すぎて諦めました。ニュルンベルク裁判資料のどこかにありましたが、文書番号は覚えてません。否定派さんなら知ってると思いますので、わかったら教えてください(笑)。ともあれ、否定派には人気の否定論の一つではあるようです。

ヒムラーは、ルドルフ・ヘスによれば無定見なんだそうです。

強制収容所に関するヒムラーの態度、抑留者の取り扱いに関する彼の見解は一度としてはっきり明らかにされたことがないばかりか、何度となく変わった。抑留者の処遇とそれに関連する諸問題に関する不動の基本線などというものは、全く存在しなかった。

抑留者の処遇に関して出された彼の命令を、全期間を通じていちじるしい矛盾がある。彼が収容所を視察した際にも、各所長は、抑留者の扱いに関して、彼からはっきりと方向を示すような指示は一度も受けたことがない。

ある時は、極めて厳格・苛酷な容赦ない取り扱いを命ずるかと思えば、別の時には宥和的な扱いを命じ、健康状態に留意し、釈放に含みをもって教育するようにせよ、という。

ルドルフ・ヘス著、片岡啓治訳『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫、p413

私は、ヒムラーはヒトラー政権内の各方面に気を配ったが故の、無定見なんだと考えますが、ある意味、これはヒムラーなりのバランス感覚の取り方なのだと思われます。労働力は確かに必要だったのです。アウシュヴィッツ収容所を建設し、そのそばにI.G.ファーベンの巨大工場を作らせたのも、アウシュビッツの囚人労働力を利用するためでした。一方で、「ユダヤ人問題の最終解決」もあるので、絶滅計画も推し進めた。上でヘスが述べている箇所は、絶滅計画以外の部分の話のようですが、ともかく、アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は強制収容所でありかつ絶滅収容所ではあったのです。

西岡は、1995年当時もホロコースト初心者とは決して言えないレベルの人である筈なのに、「定説」側がそのように理解していることを全く無視して、全くの初心者のように、「ナチスの強制収容所ではユダヤ人虐殺が行われていた(と考えられている)」みたいな大雑把な捉え方をしているだけなのは、西岡がホロコーストの正しい知識を得ようだなどとは全く思っておらず、これもまた否定論に取り憑かれてしまっただけであることがよくわかる例です。

囚人を殺すには殺人許可証が必要だった?

一例を挙げるなら、『シンドラーのリスト』の中で、ゲートという収容所の司令官が、朝、ベランダから面白半分にユダヤ人を銃で撃ち殺すショッキングな場面があるが、これは絶対にウソである。
 何故なら、当時の強制収容所では、確かにユダヤ人等の被収容者が体罰を加えられることはあったが、それには事前に書類を提出して許可を得ることが義務づけられていたからである。その書類は、ベルリンにまで送らな
ければならなかったし、もし、この手続きを無視すれば、そのドイツ兵は、軍紀違反で厳罰に処せられたのである。
_このことは、戦後西ドイツで法務官吏を勤めたヴィルヘルム・シュテークリッヒ(WilhelmSta"glich)が自著 "AUSCHWITZ:A JudeLooks at the Evidence"の中で述べているし、アメリカの歴史家セオドア・オキーフェ(Theodore O'keefe)なども述べている。中には、死刑に処せられたドイツ人すらいる。

この許可の話は、どっかで反論的なものを見た記憶がうっすらある程度で、調べていないので言及できません。しかし、アーモン・ゲートが囚人を恣意的に殺していた話は、『シンドラーのリスト』の原作である『シンドラーズ・リスト』に出てくる話で、生存者50人からの聞き取り調査によるものだと思われます。なお、そのシーンは映画上の演出でバルコニーからの狙撃に変えてあるだけで、原作では違う場所からの狙撃になっています。前述したとおり、『シンドラーのリスト』がフィクションなのは周知されています。

でも、親衛隊員による囚人への恣意的な暴力や殺人は、こちらの証言集でも読めば頻繁に出てくる話であり、全く珍しいものではありません。西岡の主張通りであったとしても、殺人は日本の刑法で禁止されているから、行われるはずはないと言っているようなものであり、無意味な主張であるとも言えます。それに、ナチス親衛隊による強制収容所などでのユダヤ人殺しが処刑に繋がった話は、実際のところ、聞いたことがありません。

で、西岡が話している「中には、死刑に処せられたドイツ人すらいる」の話は、既に山崎カヲル氏によって暴かれているこの話です。

 ついで、コッホのことです。
 コッホの処刑の典拠として挙げられているのは、ホロコースト研究者のラウル・ヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』です。幸い翻訳があります(上下二巻、柏書房、1997年)。そこにはコッホによる「ユダヤ人虐待」のことなど、ひとことも書かれていません。
 コッホの死刑はかなり有名な話です。彼はブーヒェンヴァルト収容所長として汚職にかかわり、親衛隊の贈収賄監察官によって告発され、さらにコッホに不利な証言をした親衛隊員の毒殺に関与した疑いで、死刑を宣告されたのです。ヒルバーグの記述から、中心的なところだけを抜き出します。

 「ヒムラーは、親衛隊を数百年間にわたってドイツ国民の未来を守っていく使命によって聖化された組織とみなしていたので、親衛隊員によるこうした『不正』[汚職]を許すことができなかった。それゆえに、贈収賄監察官はきわめて堅固な後盾をもっていたが、彼らは多大な権力をもっている者が恥をさらさないように注意しなければならなかった。

 ・・・国家保安本部の二人の贈収賄監察官(SS大尉モルゲン博士と刑事委員ヴィートSS大尉)が総督府に彼を連行し、一九四二年八月二十日、彼は職を解かれた。・・・コッホ自身はもはや網から逃れることはできず、死刑を宣告され執行された。」(下巻、p.179.)

 どこに「ユダヤ人虐待」のことが登場するというのでしょうか。ヒルバーグの本には、西岡さんがいっているようなことは、なにひとつ載っていません。書いていないことを書いているかのようにいうことは、私が住んでいる世界では、ごまかしとか詐欺といいます。
 西岡さんは医者だそうですが、文献のなかみを決定的にねじ曲げて紹介することは、医学の世界では常識なのでしょうか。

https://web.archive.org/web/20070903191349/http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Points2/Koch.html

元々は、リチャード・ハーウッドの『600万人は本当に死んだのか?』にあるネタだそうです。西岡は、この議論の当時、ヒルバーグ本の初版にそう書いてあった、と言い訳しましたが、結局その初版のコピーが山崎氏に渡ることはありませんでした。

なお、ヴィルヘルム・シュテークリッヒもセオドア・オキーフも否定論者であることは言うまでもありません。シュテークリヒはその「法務官吏」を、極右に関わったとして職を解かれています。

600万人説に根拠はない?

 詳しく述べることが出来なかったが、六百万人という犠牲者数にも全く根拠がない。そもそも、ドイツが最も占領地域を広げた時ですら、そこにいたユダヤ人の数は、四百万人もいなかったという指摘もある。

四百万人説は寡黙にして存じておりませんけれども、ヴァンゼー議定書に添付された表では、欧州全体で1,100万人でした。現在では確か約950万人だとされています。600万人説の根拠は、アイヒマンが語っていたと親衛隊関係者がニュルンベルク裁判で証言したことや、人口調査によって判明したものであり、近年でもこちらの書籍などでの研究発表により確かめられている数字です。西岡はヒルバーグ本の初版を持っていた筈なのに、ヒルバーグが徹底した資料調査で510万人と犠牲者数をあげているのを知らないわけがありません。「全く根拠がない」は完全なデタラメです。

で、西岡はこの論文の最後で反吐が出るようなことを述べます。

 この記事をアウシュヴィッツその他の地で露と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい。

よほど自分自身を善人だと思って欲しいようで、哀れですね。論文の出鱈目さを理解できたら、唾棄すべきセリフだとしか言いようがありません。人間のクズです。

というわけで、長くなりましたが、八割程度しか論駁できなかったと言うのが実感です。まだまだ修行が必要ですね(笑)

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