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特別支援学級教員が”障害”について考えた

週末になると、妻とお酒を飲むのが楽しみです。「ちょっとお酒控えようか!」と言いながら、「少しだけなら良いか!」と自分に甘い、Mr.チキンです。

はじめに

今回の記事は、タイトルや内容についてとても悩みました。
書き記し方によっては、人を傷つけてしまうことがあるからです。

一方で、私は12年間特別支援学級の教員をしていて、
「特別支援教育のプロとして、”障害”をどうとらえると良いのか」について
ずっと考えてきました。
きっとこれからも考えていくと思う、深いテーマです。
そして、これを記しておくことは、自分自身の基準点になるだろうし、
同じように考えている人のための、何かヒントになるかもしれないと思い、
書くことにしました。
今日は、現時点での通過点の思考をお話ししたいと思います。
この記事は、他者の考えを否定するものではないことを予めお伝えします。

障害は個性か

学校に関連する法的な障害の基準

特別支援学級の教員をやっていると、よく見かけるのが
学校教育法施行令第22条3項という条文です。
そこには、就学に関する障害の程度のある程度の基準が書かれています。
例えば

視覚障害
両眼の視力がおおむね 0.3 未満のもの又は視力以外の視機能障害が高度のもののうち、拡大鏡等の使用によつても通常の文字、図形等の視覚による認識が不可能又は著しく困難な程度のもの

学校教育法施行令第22条3項:視覚障害 より

このように、障害の程度としてのおさえは法律上されています。
でも、ここで言いたいのは、その基準をもって、どのように障害を捉えるか?
ということです。

障害≒個性論

例えば、障害を個性として捉えるという考え方があります。

障害は個性です。一つのアイデンティティです。

という主張をよく見ます。
これはとても分かります。
家族や、本人が自身や家族の障害について”個性”ととらえることを
私は尊重します
。例えば、

僕はつい、衝動的に行動してしまう。
そして、席に座って考えるよりも、立って歩いていた方が考えがまとまる。
僕が自然であるときは、止まっている時よりも動いている時だ。
そう。ADHDは僕の個性だ

という文脈であれば、”個性”という言葉は本人のパーソナリティを的確に表現した言葉だと思います。

個性って何だろう?

では、個性とは何でしょうか。

個々の人または個々の事物に備わっていて、他から区別させている固有の性質。パーソナリティー。個人性

コトバンク 個性

皆さんの思い描いた通りの意味でしたでしょうか?
実は、この個人性という部分がとても重要だと思います。
個人性だからこそ、プロが「障害=個性」と言い切っていいのだろうか?
私は特別支援教育の専門家として子どもたちと接する際に、
「障害≒個性」という考え方に違和感を覚えていました
以下、その違和感について3つにまとめました。
「個性」と書きましたが、それは直接的に言葉として使われるのではなく、
暗に「個性」というニュアンスが隠れていることも含めて書いています。

障害を個性としてとらえると

本人のせいになってしまうことがある

「障害≒個性」としてとらえるということが、ポジティブに捉えられているときは良いと思います。ただ、先ほど書いた通り、「個人性」という要素をもつ「個性」だと、ネガティブな現象が起きた際に、障害のある人自身が不利益を受けることがあります。例えば

ADHDの子が教室を立ち歩くせいで他の子が集中できない

などの、他者とのかかわりで、どちらかが不利益を被るような状態になった際に、本人の「個人性」という部分が攻撃されてしまうことがあります。
「こいつ、変な奴だから」で終わってしまう、アレです。

支援にたどり着かない可能性が高まる

障害を個性としてとらえると、それは「困っていないこと」となることがあります。

彼はADHD傾向がある。少し落ち着かないところがあり、友達とケンカをすることもあるが、それは彼の個性であり、クラスの中でもその個性が認められている

特別支援教育コーディネーターをやっていると、時々このように伝える通常学級の先生がいます
ここで大事なのは「クラスの中で認められている」と思われるは、困っていないのだろうか?ということです。
もしも「ケンカしないで友達になりたい」と思っているとしたら、それは個性という枠ではなく、支援につなげる必要があるのではないでしょうか。

本人の個性はもっと深いところにあるのではないか?

何よりも、本当に障害の特性が本人の個性なのでしょうか。

彼は強いこだわりがあるけれど、好きなことに関しては集中して取り組むことができる。それは彼の個性である。

という文脈で「障害≒個性」と捉えることもあります。
一見良いのですが、すべての文に「|けれど≪・・・≫」という言葉が隠れたり隠れなかったりして付きます。一度障害をネガティブなものとして捉えてから、ポジティブなものに変換する作業があります。
私たち教育者は評価をする職業です。
本当に、その子は障害を通さなくては評価できないのでしょうか?
自閉症児の保護者の会の講演を聞いた際に、このような話がありました。

ある日、子どもを空手教室に連れて行ったのです。
私は子どもの障害(自閉症)について、コーチから何か言われるのではないかとビクビクしながら迎えに行きました。
すると、コーチは「お父さん、この子とても良い回し蹴りをしますね。」と褒めてくれました。
特別支援教育にずっとお世話になってきた子どもですので、親として、障害を介さずに褒められたことがすごく嬉しかったですね。

障害≒個性と捉えてしまうと、そこから抜け出せなくなる恐ろしさがあります。

私が12年間考えてたどり着いた考え

「障害≒状態」ではないか?

12年間特別支援教育に携わってきて、障害とは、個人の特性と周りの環境等が混合した「状態」なのではないかと捉えるようになりました。それ以上でも、それ以下でも無い、当人の「状態」として捉える
そうすると、障害というものが少し、本人から離れるように思えます。
そして、障害というものが本人の周りの環境調整や、本人自身のトレーニングによって、流動的に変化するものになるのです。

あの子は目が見えないので、通常学級の教室で生活するには難しい状態である。なぜ、そのような状態になるのか。教科書に点字は無いし、教員や周りの子たちも視覚障害のある子と接した経験が無い。廊下に荷物を置く学校文化があるため、歩行する際の障害物が多い。

というように、「なぜ、そのような状態になるのか」という一つの課題を抑えることが、プロには求められているのではないかと思っています。

ICFの考え方

ここからは専門的な話になるので、読み飛ばしていただいて結構です。
私が「障害≒状態」と捉えるようになったきっかけに「ICF」の考え方があります。
ICFというのは国際生活機能分類という分類指標です。

こちらのサイトに分かりやすく載っています。一部引用すると、

しかしICIDHの考え方は、機能障害により能力障害が発生するため、社会的不利な状況に陥るという問題点がありました。例えば車椅子生活の人がスーパーで買い物が困難になってしまう要因には、店にエレベーターなどバリアフリー設備がないことや、サポートしてくれる人がいないことなど、様々なことが考えられます。しかしICIDHでは、その人が抱える障害だけが、唯一の原因として考えられてしまう危険性がありました。

そこで考え出されたのがICFです。障害というマイナス面の分類から、その人の生活機能を、周囲の環境など広い視点でプラス面からも見る視点に変換したのです。

ICF(国際生活機能分類)とは? わかりやすく解説します より

なんだか、先ほどの私の感じた3つの違和感と同じようなデメリットが書いてありますね。
ICFは2001年に採択された分類法です。
どうでしょうか。考え方は浸透していると言えるでしょうか?

まとめ

今回は特別支援学級教員12年目の若造が、生意気にも「障害とは何か」について考えてみました。
これについてはいろいろな意見があると思います。
私もまだまだ勉強中の身です。
少しずつ修正しながら、子どもたちのために何が最善か考えていければと思います。
では、またね~!

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